white minds 第一部 ―邂逅到達―

第七章「受容と瓦解と」5

 神魔世界で一般人が立ち寄ることを許されていない場所の一つに、ナイダの谷がある。リシヤの町と同じように消滅した町――ナイダ。その痕跡がナイダの谷だ。禁じられている理由は単純で、これもリシヤと同様に空間の歪みのせいだった。技が使えない者がうっかり足を踏み入れたら戻ってこられなくなる可能性が高いし、技使いであっても歪みの強い場所は危険だ。そうでなくとも霧深いことで有名なので、宮殿の調査も控えめになっていたらしい。
 そこに魔獣弾が現れたとの報告を受けたのは、今朝のことだった。神魔世界に再び呼び戻され内心辟易していた青葉たちの間に、瞬時に緊張が走った。スピリットの到着は明日の予定。神技隊はまだ全員揃っているわけではない。それでも今まで焦りがなかったのは、そんなに早く姿を見せることはないだろうと踏んでいたからだ。魔獣弾が現れるのはせいぜい一週間に一度くらいの頻度。先日リシヤに現れたばかりなので油断していた。
「ナイダの谷へ向かって欲しいそうよ」
 伝えに来たリューの表情も硬かった。この事態は誰も想定していなかったようだ。その証拠に、上から向かう予定のカルマラが遅れるとのことだった。別件で駆り出されている最中との話だ。ますます緊張感が高まっていく。
 それでも命令を無視するわけにもいかない。何故自分たちがこんな役目を引き受けているのかという根本的な疑問が湧き出てはくるものの、魔獣弾を放っておくのも落ち着かなかった。無人であるナイダやリシヤをうろうろしているだけならいいが、もし彼が他の町に足を踏み出したら? 想像するだけでぞっとする。
 すぐさまナイダの谷に向かった神技隊らを待ち受けていたのは、谷を覆う靄だった。離れても互いの顔が見える程度なので歩くのに支障はないが、夏とは思えぬ涼しさだ。剥き出しになった腕を軽くさすって、青葉は瞳をすがめた。
 空間の歪みのせいで、魔獣弾の気は感じ取れない。染み込むような静けさの向こうからは、生き物の気配一つなかった。リシヤほどではないがどことなく不気味だ。
「これはなかなか厳しい状態だな」
 誰もが声を発するのを躊躇っている中、先頭にいる滝が立ち止まって呻いた。滝の背後にはストロングが、その横にはフライングがいる。その後ろに青葉たちシークレットとピークスの面々が続いていた。川の側の草原は予想していたよりも広く、そのためこうして集まることができるのは幸いだ。
「滝にいはナイダにも来たことあるんじゃないっすか?」
 皆が動きを止めている中、青葉は控えめにそう問いかけてみる。以前見聞を広めるためにと、滝はあちこちを旅して回っていたことがあった。その時にナイダの谷も訪れていたはずだ。
「来たことはあるが、一度きりだ。その時期は靄なんてなかったからな。それに案内できるほど詳しくはないぞ」
 振り返った滝は肩をすくめて片眉を跳ね上げる。無論、青葉もそこまで期待しての発言ではない。たとえ滝が道を知っていたとしても、魔獣弾の居場所がわかるわけではなかった。彼らにできるのは、慎重に谷の奥を目指すだけだ。
「はぐれないように気をつけつつ進むしかないですね」
 どうにもならない結論を口にしたのは梅花だった。誰もがため息を飲み込むような顔で首を縦に振る。皆わかっていたのだろう。リシヤの森の時のような現象だけは避けたいところだが、ナイダにも空間の歪みはある。保証はできないので、とにかく気をつけるしかない。
「じゃあいくか」
 率先して歩き出した滝の後を、青葉たちは追った。カルマラもじきに合流するとの話だが、今のところ姿は見かけないし気も感じ取れない。もっとも、彼女のことだから突拍子もないところから現れる可能性は否定できなかった。そもそも案内は期待していない。
 しばらくは草を踏みしめる音と、右手から聞こえる川のせせらぎだけが続いた。リシヤの森のように草木が生い茂っているわけではないが、その分靄が邪魔だ。足下へ一瞥をくれた青葉は、目に入った靴のくたびれ具合に顔をしかめる。また泥だらけになるだろうか。万が一戦闘になれば、再起不能となる可能性もある。
 それにしても、乱雲から譲ってもらった戦闘用着衣は予想以上にぴったりだった。青葉が受け取ったのは黒いズボンのみだが、裾を調整する必要もなかった。黒という点に若干抵抗はあったが、自分がもらっておいて正解だったと思う。黒い上着はアサキがもらってくれたので、黒ずくめにはならずにすんだのも幸いだ。
「滝、右に変な気配があるわ」
 沈黙が続いたのはどれくらいだっただろうか。誰もが精神を集中させることに疲れてきた頃、不意にそんな声が前方から聞こえた。これはレンカのものだ。皆の視線が一斉に右方へ向けられる。靄の向こうに木々が見えるだけで、取り立てて何かがあるわけではない。川の流れも、先ほどと変わらず緩やかなものだった。
「変な気配?」
「気が……というか空間が、妙なのよ」
 首を捻る滝に対して、レンカの返答には確信の響きが含まれている。青葉はもう一度辺りの気配を探ってみたが、やはりその違いは感じられなかった。
「レンカが言うならそうなんだろう。見てみるか」
 それでも滝はそう判断したようだ。リシヤの森で長らく生活していたレンカは、空間の歪みにも慣れている。その感覚を信じたのだろう。滝の判断なら青葉も異論はなかった。
 と、歩き出そうとしてから慌てたように滝が振り返る。その横顔には「勝手に決めてしまった」という後悔が滲んでいた。異を唱えようとする者などいないのだが。よく考えてみると、何も誰も言わないうちに滝に決定権が委ねられているのも面白い。
「気になる場所があるなら確認しておいた方がよいと思います」
 最後の一押しとばかりに、隣にいた梅花がそう告げた。滝は皆の表情を確認して小さく頷き、右手を目指して足を進め始める。道らしい道があるわけではないが、木はまばらなので困ることはない。草を踏みしめる音だけが耳に染みる。張り詰めた空気の中、青葉は密かに固唾を呑んだ。
 不意に、奇妙な声が聞こえた。思わず足を止めそうになりながら、青葉は慌てて辺りへ視線を巡らせる。いや、これは声ではない。狭い場所を吹き抜けていく時のような、強い風の唸りだ。だがおかしい。周囲をいくら確認してみても、そんな甲高い音を生み出しそうな狭い場所が見当たらなかった。
「上です!」
 唐突に、梅花が声を上げた。急速に大きくなる風の悲鳴が痛いほど鼓膜を叩く。はっとして青葉が顔を上げるのとほぼ同時に、そこに結界が生み出された。梅花のだろうか。傘のように広がる透明な膜に向かって、上空から黒い風が迫ってくる。
 ごうっと耳障りな音がした。霧散する黒い光の向こうで、何か動くものが見えた。魔獣弾だろうか? 目を凝らしたくなるが、悠長に考えている暇はない。結界が消えるのを見計らったように滝の声が響き渡った。
「このままじゃ的だ、散るぞ!」
 木々が乏しいということは、上空からも丸見えということだ。つまり、狙いやすい。滝たちが川に向かって走り出すのを横目に、青葉は大きく左へ飛んだ。視界の端では、サイゾウがようの腕を引っ張っている。そしておろおろするアサキの前で、梅花が再び天を仰いでいた。
「梅花!」
「また来るわ!」
 梅花が両手を掲げると同時に、また奇妙な風の唸りが聞こえた。このままでは梅花が置き去りになる。かといって誰かが結界を張らないと危険なことも予想できた。あの黒い風の効果が以前の黒い針と同じなら、かするのすらまずい。
 逡巡する青葉よりも先に、動き出す者がいた。レンカだった。振り返ったレンカの手が空へと向かって伸びる。その指先から見えない何かが生み出されたのが、気の流れで感じ取れた。梅花の張った結界が厚みを増す。
 先ほどよりも広範囲の風だった。それでも黒い流れは、透明な結界によって阻まれた。強い技と技がぶつかった際の不快な高音が鼓膜を揺らす。瞬きながら消えていく黒い光は、ぞっとする美しさをはらんでいた。
「空からでは駄目ですか」
 ついで聞こえたのは男の声だった。空から降りてくる素振りも、そんな気配も何もない。黒の風が霧散したと思ったら、その主は地上に現れていた。ほとんど黒ずくめに等しい、人にあらざる者――魔獣弾。彼はちょうどピークス、フライングの目の前に降り立った。ざっと後ずさった者たちを、魔獣弾は楽しそうに見つめる。
「手間掛けさせますね」
 魔獣弾の双眸が怪しく光る。やんちゃな子どもを見下ろす大人の目にも似ているが、それ以上の何かも滲ませていた。それにしても一体、何故急に接触してきたのか? それが疑問だ。今までは姿を見せては消えるということを繰り返していたという。まさか青葉たちが来るのを待っていたのか?
 疑問ばかりが湧き上がったが、のんびり考えている余裕はない。この距離であの黒い技を使われるとまずい。一歩ずつ踏みしめるよう近づいてくる魔獣弾の足音に、圧迫感を覚えた。青葉は奥歯を噛む。魔獣弾は首から下げた瓶のような物を愛おしむように撫でた。 
「でもまあ、ここまで来たら狩りに出ないと。待っているだけでは叱られてしまいますね」
 魔獣弾の口元に浮かんだのは愉悦の笑みだ。できる限り楽観的な予測を立ててみたとしても、戦闘は免れそうにない。カルマラの到着を期待したところで意味はないだろう。鼓動がどんどん速まっていくのを青葉は意識した。判断を間違えてはいけない。
「おとなしくしていてくださいね」
 魔獣弾の右手が振り上げられた。と同時に、先頭にいたラフトが動いた。
「ラフト先輩!」
 声を上げたのは誰だったのか。飛び出したラフトは大きく跳躍し、がむしゃらに拳を繰り出す。それは案の定、あっさり魔獣弾にいなされた。すれ違いざまにラフトの背中に叩き込まれたのは小さな黒い球だ。続く悲鳴、倒れ込む音。その様を、青葉は黙って見ていることしかできなかった。
「たわいない」
 弾かれたようにゲイニも走り出す。しかしその拳が届くことはない。魔獣弾の手の一振りで、易々と黒い針の餌食となった。圧倒的な力の前に皆の動きが止まってしまった。逃げ場などないし、逃げてもどうしようもない。結界を張り続けるのも無理。対抗する手段がない。
「そうそう、その調子です」
 魔獣弾が口の端をつり上げ、右手を振り上げる。青葉が今から走り出しても間に合わない。それでも焦って一歩を踏み出した時、ジュリが前方へ飛び出すのが見えた。立ち尽くしていた仲間を押し倒したのだと気づいたのは、動揺する甲高い声が聞こえたからだ。魔獣弾の手から放たれた黒い球が、二人の頭上をかすめていく。
「ジュリ! コスミ!」
 叫んだのは誰だったのだろう。状況が把握できない。かろうじてわかったのは、そのまま突き進もうとした黒い光球を誰かの結界が霧散させたことだ。この気はレンカのだろうか?
「とにかく離れろ!」
 繰り返す滝の声がどれだけの人に届いたのかどうか。魔獣弾の攻撃を避けるには、フライングやピークスは近すぎた。結界を張るしか方法がないとなると、それが間に合わない距離まで接近されると終わる。いや、そもそも結界は万能ではない。ではどうすればいいのか?
「危ない!」
 次に飛び出したのは誰だったのか、青葉の位置からではよく見えなかった。視界に捉えられたのは、魔獣弾が透明な瓶を手に掲げて姿だけだった。薄青に輝く瓶の光が眩しい。妙な気の流れも感じる。ついで、くぐもった悲鳴に叫声が重なった。青葉の背を冷たい汗が伝っていく。
 どうすればいい? どう動けばいい? この靄では、不用意な技は仲間を巻き込みかねない。特に青葉の場合はそうだ。だが何もしなければ前方にいる者たちから餌食になっていく。一人ずつ倒れていくのみだ。
『死ぬとか、殺されるとか、そういう実感はなかったんだけど。次に神魔世界に呼び出される時は、その可能性もちゃんと考えなければいけないのよね』
 いつか聞いた梅花の言葉が脳裏をよぎる。――死ぬかもしれない。その重みがずしりと全身にのしかかってきた。自分か、自分でなくても誰かが、死ぬかもしれない。次々と命が失われるかもしれない。考えるだけで喉の奥がひりつく。そんな経験は二度とごめんだった。
「ミンヤっ」
 次に叫んだのは、おそらくフライングのカエリだ。名を呼ぶ声には悲痛の響きがある。空気が震えた。恐怖の色濃く滲んだ気が、辺りを覆い尽くしていた。そこには、かすかに諦めも混じっているかもしれない。誰もが動き出せず、ただ呆然と立ち尽くしている。
 不意に、隣にいたはずの梅花が視界から消えた。はっとして青葉は顔を上げる。上だ。軽く地を蹴り一旦頭上に飛び上がると、彼女はたたずんでいる者たちの間を縫うように走り出す。
 彼女の名を呼ぼうとしたが、声にはならなかった。だが、自然と体は動き出していた。まずい。こういう時の彼女に躊躇いはない。彼女は自分自身を失うことを恐れていないから、仲間の安否が最優先されてしまう。そういう判断になる。だから一人で行かせてはいけない。
「なかなかよい具合ですね」
 魔獣弾の笑みが深くなるのが見えた。だが次に彼が生み出した黒い針は、倒れ込んだ神技隊らに注ぐことはなかった。それは梅花の生み出した結界によって弾かれた。瓶を片手で揺らしていた魔獣弾の双眸が、つと彼女へ向けられる。青葉は息を呑んだ。どんなに速度を上げたって、彼女の方が先に魔獣弾と対峙することになる。
「ああ、あの小娘の」
 意地悪く瞳をすがめた魔獣弾。その足下にフライングの何人かが転がっているのが見えた。ピークスのたくも混じっているか? 走りながらだとよくわからない。コスミとジュリの横に立ったよつきが、ちらとこちらへ視線を寄越したのに気づく。
「伏せてください!」
 梅花が声を張り上げた。その言葉はおそらく、仲間たちに向けたものだったのだろう。強く地を蹴った彼女の手のひらから、薄青い風が生み出される。精神系だ。魔獣弾の舌打ちが青葉の耳にも届いた。後退しながら手を掲げた魔獣弾は、体を覆うように結界を生み出す。
「あなたも精神系を使うんでしたね」
 薄青の風は広範囲ではあったが、威力には乏しい。すぐさまそれは空気の中へ溶けていった。よつきたちの前に飛び出した梅花は、いつでも結界を生み出せるようにと構える。そこにようやく青葉も追いついた。必至に息を整えつつ、急く気持ちを抑え込んでまず状況把握に努める。
 魔獣弾との距離はすこし開いた。青葉たちと魔獣弾、そのちょうど中間辺りに倒れ伏している仲間たちがいる。出血している様子はないし呼吸に合わせて胸が上下していたが、それ以上の動きはなかった。青葉のすぐ後ろにいるのはよつきとカエリだけだ。
「忘れてました」
 肩をすくめた魔獣弾の仕草には余裕が感じられる。これが実力の差なのか。青葉は息を詰めた。精神系の技でどうにかすることを考えても、無論限度がある。攻撃に専念してもらうとなると守りをどうするかが問題だ。しかし青葉は自由自在に結界が張れるわけではない。よつきとカエリが補助系を得意としていたかどうかも記憶にはなかった。
「では邪魔者から排除しないといけませんね。ゆっくり狩りができない」
「――それは遠慮してもらいたいな」
 その時、聞き慣れた声がした。空気を一変させる、自信に満ち溢れた声だった。ふわりと何かが動くような気配を感じ取った次の瞬間、魔獣弾がさらに飛び退る。緩やかに風が吹いた。草地を踏みしめる音と共に、白い何かが降りてきた。青白い光の描く軌跡が、青葉の目に焼き付く。それは先ほどまで魔獣弾がいた空間を横薙ぎにしていた。
「現れましたね」
 憎悪のこもった眼差しで魔獣弾が吐き捨てる。彼の気に暗く苦い色が滲んだ。目映い光が消えた時、倒れたラフトたちの前に白い影がたたずんでいた。華奢な白い背で尾のような黒髪が踊る。ぞっとするほどに鮮烈で純粋な気の波動を感じ取り、青葉の喉がひとりでに鳴った。
「レー……ナ?」
 青葉がその名を口にするより早く、立ち尽くした梅花が呟いた。その声に導かれたように振り返ったのは、間違いなくレーナだった。梅花そっくりな顔に浮かぶ不敵な微笑。特徴的な白い上着に、薄紫のスカート。しなやかな脚を覆う白いブーツ。そして何よりもこの忘れようのない気。数ヶ月前から全く姿を見せていなかったレーナと、何一つ変わらなかった。
「久しぶりだな、オリジナル」
 ふうわり笑ったレーナは左手を魔獣弾の方へ伸ばす。特に何かするわけでもなく、その手から技が放たれることもなかったが、警戒した魔獣弾は一歩だけ後退した。いや、そうしようとして思いとどまり、今度は弾かれたように左手へ飛ぶ。
 たんと地を踏む、軽い音がした。先ほどまで魔獣弾がいた場所に、黒い影が舞い降りていた。振り下ろされた剣の一閃、風に舞うよう揺れる赤い布が妙に目を惹く。
「アース」
 また、梅花が声を漏らした。確かに、魔獣弾に斬りかかろうとしたのはアースだった。長剣を翻して舌打ちしたアースは、一度周囲を探るよう視線を巡らせる。一瞬だけ青葉とも目が合ったような気がしたが、相変わらず不機嫌そうな眼差しを向けられただけだった。ひたすら無言だ。アースが再び剣を構えるのと同時に、またレーナは青白い刃を生み出す。
「今は調子がいいから手加減できそうだが、どうする?」
 レーナの視線の先には、拳を震わせる魔獣弾がいる。挑発と余裕とそれ以外の何かを含んだ鮮烈な気を纏い、優々と刃を向ける彼女の横顔は、前に見た時よりもずいぶん強気だった。魔獣弾の方はわかりやすく狼狽えている。顔を歪ませ、レーナとアースを交互にねめつけていた。
「申し子が小賢しいことをっ」
「こっちは尋ねてるんだが。できればその危ない瓶を渡して欲しいんだけどなぁ」
 笑っているというのに、声にも気にも威圧感があった。青葉はレーナの言う「瓶」へ目を向ける。ぼんやりと薄青の光を帯びた、小さな瓶だ。魔獣弾が一歩下がると、首から提げられたそれが揺れる。
「それはできませんっ」
 だっと、魔獣弾は身を翻した。その判断は早かった。大きく跳躍したと思った次の瞬間には、そのまま空へ飛び上がっている。唸るような風の音と共に、彼の姿は瞬く間に靄の向こうへ溶け込んでいった。
「あっ」
 青葉は呆然とそれを見送った。まさかここであっさり撤退するとは思わなかった。それだけ不利な状況と判断したのか。一方、視界の端に映ったレーナは、魔獣弾を追いかける素振りもなく気楽な様子だ。そもそも追い払うだけのつもりだったのか。
 魔獣弾が去った。その事実を噛みしめ青葉は大きく息を吐いた。最悪の事態を覚悟した後なだけに、どっと肩の力が抜けた心地になる。もう本当に駄目だと思った。それは梅花も同じだったのか、頬を緩め胸を撫で下ろしていた。後ろでよつきたちの声もする。皆の気には安堵が溢れていた。
 だが、本当に安心していいのか? はたと気づいた青葉は、レーナの横顔を凝視した。突然戻ってきた彼女たちの目的はやはり知れない。偶然助けてくれた形となっただけかもしれない。
「レーナ、追わなくてよかったのか?」
 青葉たちが何も言えずにいると、剣を携えたアースが静かに近づいてきた。魔獣弾がいなくなったというのに、いまだその表情は険しい。露骨な威圧感を纏っているアースへ、振り返ったレーナは頷きつつ破顔した。その表情の柔らかさにどこか違和感を覚え、青葉は首を捻る。何かが引っかかる。
「うん、いいんだ。大した収穫はなかっただろうし、どうせまた出てくる。それに、ここを放っておくわけにもいかないしな」
 レーナはそう告げてから、今度は倒れ伏しているラフトたちの方へと向かった。逡巡のない足取りに慌てたのはカエリとよつきだ。仲間たちに何をされるのかと焦ったのだろう。だがよつきたちが近づいていっても、レーナに動じる素振りはない。倒れた者たちの傍に片膝をつき、「うーん」と可愛らしく首を捻っている。その背後で立ち止まったよつきが顔をしかめた。
「レーナさん、一体何を――」
「治療」
 レーナは倒れた者たちに向かって手を伸ばす。まるでよつきたちが自分に害をなさないと信じこんでいる様子だった。いや、攻撃を仕掛けられても対処できる自信があるのか? もっとも、先ほどの動き、気を見せつけられた後では、青葉たちには不用意なことなどできないが。
 皆が黙り込んでいると、レーナの手のひらから柔らかな光がこぼれ落ちた。治癒の技かと思ったがどうも違う様子だ。波立つように伝わってくる気の流れは、慣れ親しんだものとは若干違う。彼女は一体何をやっているのだろう? 特殊な治癒の技なのか?
「――レーナ」
 つと、梅花が一歩を踏み出した。草を踏みしめる足音が、奇妙な静けさの中に染み入る。よつきの困惑気味の眼差しが、梅花と青葉の間を往復した。助けを求められるような視線を向けられても、青葉にはどうしようもないのだが。

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