white minds 第一部 ―邂逅到達―
第七章「受容と瓦解と」4
久しぶりに訪れる宮殿の空気は、相変わらず寒々しかった。白い廊下に反響する靴音も冷めた響きに思えるのは気のせいだろうか。それでも人々の目がなくなったことで、幾分か梅花の気持ちは楽になっていた。何か面白がるような好奇心の滲んだ、それでいて奇異なものへ向ける嫌悪感を含んだあの眼差しは心地よくない。
そういった視線を感じるようになったのは神技隊として無世界に派遣されてからだ。原因は幾つか思い当たるが、たぶん今日の場合、一番問題だったのはこの服装だろう。買ったけど似合わなかったという理由でリンから無理やり押しつけられたワンピースは、普段青葉が選ぶ物よりもスカートが短い。夏らしく涼しげな青なのはいいとしても、体のラインが強調されるようなデザインは苦手だった。注目されやすくなる。そうでなくとも、好んで身につけないようなものを着ているだけで見られるのに。
「……断らない私も私だけど」
小さくぼやいた声は、誰もいない廊下に吸い込まれた。だが好みではないにしても、いただいた物は使わなければ申し訳ないし、何よりもったいない。貰った物を売るわけにもいかない。そんな理由で着ることにしたわけだが、そういう時に限って呼び出されたのは運が悪かった。
彼女はため息を吐きたいのをどうにか堪える。リューも何か言いづらそうな顔をしていた。「どういう心境の変化?」とでも尋ねたかったのだろう。そういう気を放っていた。ああいう時のリューの何とも言い難い期待のこもった眼差しが、梅花には辛い。
全ては優先順位の問題だ。無世界では金銭という要素が関心事の中心の方に置かれているだけだ。元々服装にはこだわりがない。だから神魔世界では目立たないことを第一にしていた。無世界では生活費の確保が第一なので、接客のためだとか節約のためだと言われたら目につきやすくなるのは諦める。それ以上の意味はない。
そこまで考えたところで、彼女は思わず歩調を緩めた。行動の次に理解が追いつくような、反射的なものだった。右手から近づいてくる気がある。ミケルダだ。真っ直ぐこちらに向かってきている。聞きたいことがあったので幸運だったと捉えるべきか、それとも今じゃなくてもよかったと思うべきか。梅花はかすかに顔をしかめ、胸に手を当てた。この服について何か言われるのはまず間違いない。
「あ、梅花ちゃん。いたいた!」
予想通りのタイミングで、前方の曲がり角からひょっこりとミケルダが顔を出す。ひらひらと片手を振る彼に微苦笑を向けると、その眼がわかりやすく見開かれた。
「わ、梅花ちゃんどうしたのその服? シイカちゃんみたい」
ぱたぱたと軽い足音をさせてミケルダが近づいてくる。妙に目を輝かせているのは、懐かしさを覚えたからなのか。梅花は頭を傾けつつ、立ち止まった彼を見上げた。
「おばあさまは……こういう格好もしてたんですね」
「うん、シイカちゃんは色々着てたよ。よーく似合ってたよ」
狐色の髪をわしゃわしゃと掻いたミケルダは、何故か照れ顔だ。祖母――シイカについて、この宮殿で一番知っているのは彼かもしれない。現在では、実力があるだけでなく、人当たりもよく面倒見のよい人格者だったという噂だけが一人歩きしているが。半分は梅花への当てつけだと予想している。
「はぁ、そうですか。これはリン先輩からの貰い物です」
溌剌とした祖母になら似合っていたのだろうと、想像することはできる。それにしてもその孫を目の前にして「シイカちゃん」呼びを貫くミケルダの精神は理解しがたい。こういった発言を聞く度に、彼が上の者であることをしみじみと感じた。きっと彼にとっては祖母と過ごした時間は「ついこの間」という感覚なのだろう。
「そうなんだ。でもよく似合ってるよ、梅花ちゃん。可愛いよ」
「……お世辞はいいですから」
「お世辞じゃないって。ほら、オレの気をよく感じて。梅花ちゃんならわかるでしょう?」
ミケルダはわざとらしく頬を膨らませる。無論、嘘を吐いているわけではないことは梅花もわかっていた。それでも普通の人の目にどう映るのかという点に関しては、やはり疑問が残る。幼少期のことも知っている彼は、どうしても彼女には甘いのだ。
「あー何で梅花ちゃんはそんなに自信がないかなぁ。ああ、ありかちゃんもそうだったか。もうちょっとこう、自分は可愛いって思っててもいいのに。損だよ?」
「はぁ」
梅花の反応が不満だったのか、ミケルダは心底不思議そうだ。しかしそう言われても曖昧に相槌を打つしかない。自分の容姿が整っているか整っていないかといえば整っているというくらいは自覚している。「顔は可愛いのに」と何度言われたかわからない。だがそこに人間味があるのかというと、それは別の問題だ。可愛く思われたいという感情もぴんと来ない。
欲しいのは平穏だった。どろどろとした、トゲトゲとした負の感情をぶつけられずにすむ平穏が欲しかった。たとえこの服が本当に似合っているのだとしても、注目を浴びるのなら気持ちとしては落ち着かない。
「あーまたわかってない顔してる。だから梅花ちゃんはあんな穴があきそうなくらいに見つめられてるのに気づかないんだよ。オレは心配してるの。わかる?」
「……それはわかります」
おずおず頷くと、ミケルダは困ったような笑みを浮かべた。彼の気が「仕方がないな」と言っている。心配をかけているのは理解できるが、しかしどうしようもないのだ。継ぐべき言葉に困っていると、ゆっくり頭を撫でられた。子どもの頃から変わらないミケルダの仕草。これがいつまで続くのだろうかと若干不安に思う。
「……ところでミケルダさん、何か話したいことがあったんじゃないですか?」
このままでは肝心の話に入れないと、梅花は話題を切り替えることにした。近づいてくる時のミケルダの気は、確かにそんな気配を纏っていた。たまたま彼女の気を感じ取ったからやってきたという印象ではない。
彼は頭から手を退けると、少し言いづらそうに視線を逸らした。それだけで悪い話だというのは察せられる。こういう時の彼はわかりやすい。否、単に隠すつもりがないだけか。
「いや、大したことじゃなかったんだけど」
「それでもかまいませんよ」
「――梅花ちゃん、何か話そっちに行ってる?」
ミケルダは子どものようにカクンと首を傾げた。問いに問いで返された梅花は、その意味を探るべく彼の双眸を見つめる。こうやって確認してくる時は、彼の中に懸念がある証拠だ。
「今のところ来てませんが。ミケルダさんがそう言うってことは、何か起きてるんですね」
笑って頭を掻いたミケルダは、否定しなかった。自分の口からは言えないが注意しておいて欲しいというところか。相変わらずの心配性だ。梅花は「気をつけておきます」とだけ答え、目を伏せる。どうやら束の間の休息も終わりらしい。また頻繁に宮殿に呼び戻される日々が戻ってくるかもしれない。
「オレはまだ自由に動けそうにないから」
「そうですか、忙しいんですね。……ラウジングさんの調子はどうですか?」
ミケルダが動けないというのは、余計な仕事でも任されているのだろうか。つまり、ラウジングは体調を崩したままなのか。喉の奥に何かが詰まったような違和感を覚えながら、視線を上げた梅花は率直に尋ねてみた。ミケルダはまた取り繕うような笑みを浮かべ、髪をわしゃわしゃと掻く。
「ラウジングなら、まあまあ元気だよ。――梅花ちゃんも思っていたより元気そうでよかった」
「……そうですか?」
「シイカちゃんの命日が近づくと、いつも調子を崩すじゃない」
「ああ、そうですね」
なんてことない調子でミケルダは笑う。まさかそのことに気づかれていたとは思わず、梅花はつと視線をはずした。彼の言う通りだ。シイカの命日の前後、彼女は体調を崩すことが多い。その理由もわかっていた。中央会議室に近づく機会が増えるせいだ。
ジナルの者が墓を持たないのは土地が不足しているからなのかは知らない。他の町では墓参りという風習があるようだが、ここにはなかった。そのため、命日に故人の写真を拝むのが一般的となっていた。年ごとに行う律儀な者は少ないが、梅花は一つの区切りとして毎年行っていた。その写真が納められている部屋が、中央会議室の横にある。あの部屋が、正確に言うとあの部屋の周りに張り巡らされた不思議な結界が、梅花の調子を狂わせるらしいと気づいたのはいつだったか。
「……ミケルダさん、一つ聞いていいですか?」
体調が悪くなる理由について深入りされるのは避けたいと、梅花はまた話題を変えた。「ん?」と不思議そうに首を傾げたミケルダは、ふんわり顔をほころばせる。
「ミケルダさんは、父にも会ったことがあるんですよね?」
先日また再会した父――乱雲。何気ない会話を交わしたことで、少しだけ梅花の中に疑問が生まれていた。噂に聞く父という存在はただ実力のある技使いというだけで、その人となりが知れなかった。青葉と顔が似ているとの話から何となく似通った性格を想像していたが、どうも違うようだ。かといって、青葉の父であり乱雲の兄である積雲とも違う印象を受ける。ヤマトの長から送られてくる文書の中の積雲は、とにかく厳格で頑固な人間だった。
「そりゃあね。オレは当時から実力試験の監督だったし。技使い絡みの面倒な仕事はよく放り投げられてたから、乱雲さんと一緒に仕事したこともあるよ」
「ミケルダさんから見て、父はどんな人でしたか?」
単刀直入な質問に、ミケルダは瞠目した。気にも驚愕が満ち溢れていた。こんなに驚く姿というのはなかなか見られるものではない。それだけ意外だったのだろうか。梅花が首を捻ると、彼は気恥ずかしげに瞳を細め、その後へにゃりと微笑んだ。
「乱雲さんかぁ。そうだなあー、実力はあるのに遠慮深くて、何でも自分で我慢して解決しちゃうような人だった気がする。そこは梅花ちゃんと似てるね」
思わぬ指摘を受け、梅花は息を呑んだ。まさか似ているなんて言われるとは想定外だった。ついで彼女の内から苦い感情が湧き上がってくる。ミケルダからは、自分はそう見えていたのか。我慢しているつもりなどなかったが、彼はそう受け取っていたらしい。
「そうですか」
「まあ、優しい人ってことだよ。ちょっと不器用かもしれないけど」
「……なるほど」
「梅花ちゃん、何かあったの?」
背を屈めたミケルダは、遠慮なく梅花の顔をのぞき込んできた。彼女は曖昧に微笑んで首を横に振る。たぶん、ミケルダが期待しているようなものではない。そんな大事ではない。――どうして皆、家族のことになるとこんな目をするのだろう。
「いいえ。ただ、ちょっと父に会っただけですよ」
「そっか」
素っ気ない返事になったが、それでもミケルダは満足そうに相槌を打った。彼も、家族と仲良くすることを望んでいるのだろうか? そんなに家族とはいいものだろうか? わからない。しかし、そもそも彼が家族の良さについて知っているのかどうかも判然としなかった。妹がいることはわかっているが。
「じゃあ梅花ちゃん、他の神技隊の人にもよろしく言っておいて。それでもって気をつけてね」
ミケルダは何かに気づいたように一瞬天井を睨み上げ、それから片手を振った。『上』で何か動きがあったのだろうか。気を探ってみてもはっきり感じ取れるものはないが、若干騒がしい印象は受ける。
「わかりました」
手をひらひらさせながら去っていくミケルダの背中を、梅花は頷いて見送った。小走りで遠ざかっていく靴音は、いつもより忙しなく廊下に響いた。
真珠色の柱の向こうで、陽光を照り返した床が輝いている。瞳をすがめたラウジングはやおら足を止めた。唐突な動きになってしまったせいで、緑の髪が視界の端で揺れる。足音が途絶えると、全身を冷たい静寂が包み込んだ。久しぶりに歩く回廊からは、どこかよそよそしい空気が感じられる。気のせいだとは思うが、拒まれていると錯覚してしまう。
全て焦りのせいだ。周囲へ視線を巡らして、彼は微苦笑を浮かべた。一体どれだけ眠っていたのだろう。どれくらいあの小部屋に閉じこめられていたのだろう。何もない真っ白な部屋の中にいると時の流れがわからなくなる。そうでなくとも、変化の乏しい『上』にいると思っていたよりも時間が流れていることがある。
あれからどうなっているのか。何が起こっているのか。どうなっているのか。断片的に漏れ聞こえてくる話だけでは全体像が掴めない。焦燥感が高まるばかりだ。魔獣弾が姿を見せているという噂は本当なのだろうか? 被害は出ていないのだろうか? 気持ちばかりが急く。
だから一人での外出が許可される、この時をずっと待っていた。しかしいざ待ちわびた時が訪れるとあれこれ考えてしまい、心が決まらなかった。まずはどこに行って何から始めたらいいだろう。彼は低く唸りながら顎に手を当てる。
と、そこで見知った気が近づいてくるのを感じ取った。この気配は間違いない、カルマラだ。それがよいことなのかどうかはかりかねて、彼は眉根を寄せる。大雑把に事態を把握するのには役立つが、話がややこしくなる気がする。だがまさか逃げるわけにもいかない。慌ただしい足音が聞こえたところで、彼はおもむろに振り返った。
「カールか」
髪を振り乱しながら駆け寄ってきたのは、案の定カルマラだ。ラウジングがいつもと違う場所にいたことを感じ取ったのだろうか。いや、ここに来る直前、アルティードの部屋を訪れていたことに気づいたのかもしれない。今にも抱きつかん勢いで近寄ってきた彼女の肩を、彼はぽんと叩いた。
「元気そうだな」
「私はいつも通りよ! それよりもラウ、もう大丈夫なの?」
「ああ、私は平気だ。アルティード様にも見てもらったしな。心配するな」
乱れた髪を手で整えてやると、カルマラは不服そうな様子で頬を膨らませた。彼女の気が「ごまかされた」と言っている。そんなつもりはないのだが。
「……私が心配してるのは、そっちじゃないんだけど」
「そっちじゃない?」
「――自分でわかってないなら、いいわ」
大仰にため息を吐いたカルマラは、ラウジングの手を引きはがした。彼女が何を案じているのか彼にはぴんと来ない。わかりやすく首を捻ってみたが、説明してくれる様子はなかった。ならば別のことを確認するまでだ。
「ところで、魔獣弾が動き出しているらしいな」
そう口にすると、知っていたんだとばかりにカルマラは目を丸くした。別にラウジングは誰もいない部屋に閉じこめられていたわけではない。体が回復してからは、少しずつ使用する技の強度を上げて慣らしをしていただけだった。それ故に、噂も時折耳に飛び込んでくる。
「それくらいは聞いている」
「……うん、そうなの。あいつ、ちょこちょこと動き回ってるんだけど、目的が掴めないのよね。でも段々姿を見せる頻度が増えてるのよ。明日には、神技隊を呼び戻すことが決まったわ」
カルマラは側にある柱に寄りかかった。足をぶらぶらとさせる様を横目に、ラウジングはひっそりと息を呑む。神技隊という響きが彼の心にさざ波を立てた。あんな現場を見せてしまった人間たち、と考えるだけで足下がぐらつくような心地になる。彼らはまた魔族との戦いに巻き込まれるのか。
「あ、でも下に降りるのは私だから、ラウジングはこっちにいてね」
すると何か感じ取ったように、慌ててカルマラはそう付け加えた。ぱたぱたと両手を振る彼女を、ラウジングはちらと横目で見る。彼女に気を遣わせるというのはどうにも落ち着かない。「本当に大丈夫か」と咄嗟に聞き返しそうになったが、彼はすぐに口をつぐんだ。そんなことを言えば怒られるのは目に見えている。
大丈夫ではないのは、自分の方だ。神技隊という一言だけでこれだけ動揺しているのだ。ここは彼女に任せるべきところだろう。ひとたび戦闘が起これば、ちょっとした逡巡が命取りになる。相手が魔族であればなおさらだった。
「わかった。私も色々情報を仕入れておかないといけないしな」
「そうそう。あ、ミケが暇になったら捕まえておくといいかも? たぶん私よりも色々知ってるって。寝起きからいきなりこき使われてたからねー」
カルマラはけらけらと笑いながら、短い髪を耳にかけた。どこまでも陽気に響く笑い声は時に耳障りだが、慣れ親しんだせいかこういう時にはむしろ落ち着く。ラウジングはふっと肩の力を抜いた。彼女の助言通り、まずはミケルダに当たるべきだろう。彼はいつも耳聡い。もっとも、どんな顔をして会えばいいのか考えると悩ましいが。
「最近はますます忙しそうだから、もし駄目だったらリーダに聞くのが早いかもね」
「そうだな」
ラウジングは頷いた。ここから気を探れる範囲に、ミケルダの気配はなかった。もしかすると、また『下』に降りているのかもしれない。それともケイルたちの方に呼び出されているのか。どちにらにせよ、ミケルダの妹であるカシュリーダに会った方が確実そうだ。産の神である彼女は、ミケルダとは違いいつも同じ場所で仕事をしている。
「リーダに会ったら伝えておいて。今度遊びに行くって」
「そんな暇あるのか? まあいい、伝えておく」
苦笑したラウジングは、カルマラに背を向けた。これ以上話を続けると、弱音を吐き出してしまいそうな気がしてならなかった。これだから『幼馴染み』というのは危険だ。
「あの頃と何も変わらないんだな」
歩き出すと同時に、自嘲気味な呟きがこぼれ落ちた。滲み出す後悔を押し隠すように、彼は徐々に歩調を速めた。