誰がために春は来る 第二章
第三話 異世界への扉
昼下がりの廊下は行き来する人であふれかえっていた。人々の足は慌ただしく、その間を擦り抜けようとする子どもがぶつかっては何度も謝っている。
「これ、いつまで続くのかしら」
自身も急ぎながら、ありかは小首を傾げた。
リシヤ消滅の次は巨大結界のほころび。今までにない事態に、宮殿の中は前代未聞の忙しさとなっていた。『上』が機能していないためだ。普段なら口やかましく色々と指図してくるのに、それが全くない。
喜ばしいことのはずなのだが、それに慣れきってしまった人々は戸惑いを隠しきれていなかった。いや、それだけではない。上からの情報によって動く構造であるがために、統制がとれなかった。だから皆、翻弄されながらも慌ただしくしている。
「上は何でそんなに焦ってるの?」
思わず呟いた疑問は、人々の足音にかき消された。リシヤの時も大層混乱していたが、今回のはそれに輪をかけてひどい。巨大結界の説明を聞いて以来、ミケルダの姿さえ見かけていなかった。よく息抜きをする彼としては珍しいことだ。だからだろう、放られてしまった子どもたちは行き場がなく、頻繁に廊下をうろうろとしている。
「あっ……」
すると隅に佇んでいる子どもの一人に、彼女は見知った姿を見つけた。なかなかここでは見かけない見事な蜂蜜色の髪、光を纏った緋色の瞳。医務室長の娘、シャープだ。しばらく姿を見かけていなかったが、ずいぶん背も伸びたようだ。彼女のいつにもなく不安そうな様子に、ありかは思わず近づいていく。
「シャープ?」
「え?」
呼びかけると、驚いた様子でシャープは顔を上げた。人の邪魔にならないよう隅の方で、彼女は冷たい壁に背を預けていた。その所在なげな肩を軽くありかは叩く。
「こんなところでどうかしたの?」
「ありかさん……いえ、ちょっと、何でもないです」
シャープにしては歯切れの悪い言葉に、ありかは怪訝に思って首を傾げた。シャープがふるふると頭を振ると、一本にまとめられた髪が揺れる。その様子が小動物を連想させて、妙な気分になった。
こんなに弱い子ではなかったはずだ。そんな意識が違和感を生み出していた。何かあったのだろう。だがその何かがわからなくては尋ねるしかない。彼女はそっとシャープの頭を撫でた。
「無理にとは言わないけど、溜め込むとよくないわよ?」
「大人は信じてくれないよ、きっと」
「どうして?」
「信じたくないから。お父様に言っても、お母様に言っても顔を引き攣らせながら笑ってたもの」
シャープは大仰にため息を吐いた。前に会った時と比べて少し捻くれたなあと思いながら、ありかは頬に指先を当てる。放られた子どもたちは拗ねているのだろうか? しかしそれだけではない気がして、ありかはどう答えるべきか迷った。シャープをここに置き去りにするのは気が引ける。だがこうしていても話してはくれないだろう。時間はあまりないのに。
「私はあなたのお父様たちよりも、ずっとあなたの方に年が近いけれど、どう?」
「え、そうだっけ?」
「あなた幾つ?」
「……十四になったけど」
「私まだ二十歳よ。ほら、ずっと近いでしょう?」
手をひらひらとさせると、シャープの瞳が光った気がした。無理やりな論理だがその心には届いたようだ。辺りをきょろきょろ確認してから、シャープは口を開き始める。その小さな唇がおもむろに動いた。
「実はね、友だちが一人いなくなって」
「いなくなった?」
「でもね、その友だちだけじゃないの。家族もみんな一緒に。それで私たちは、もしかして異世界に逃げて行ったんじゃないかって疑ってて」
ありかは息を呑んだ。シャープが口にしたのは、予想外にも重い事実だった。彼女の両親が顔を引き攣らせたのもわかる。ここを無断で抜け出すことは禁忌にも近かった。しかもその先が異世界だなんて、夢物語と笑われても仕方ないだろう。
かといって子どもの戯言と片づけられもしなかった。もうシャープも十四歳だ。子どもだからと甘やかされる年齢ではないし、ここの規則は身に凍みてわかっているはずだ。何かが、ある。
「ど、どうして異世界に行ったって疑ってるの?」
同じように繕って笑うわけにもいかず、ありかは単刀直入にそう尋ねた。ここでシャープの機嫌を損ねるのはよくない。シャープはもう一度周囲を確認すると、瞳を細めて自分の服の裾を掴んだ。
「前に何度か言ってたんだ、その子。異世界へ行って幸せになるんだって。――その子の親、なかなか上の方の仕事もらえなくてね。苦労してたみたいだから」
そこで続けて放たれた言葉に、ありかは何と言っていいのかわからなくなった。実力が認められなければ、ここではいい仕事がもらえない。一般人ならなおさらだし、技使いであっても結局は力が認められるか否かで大きく違った。最低限の生活をしている者も多い。
食べる物には困らない。だがこのぎすぎすとした場所で多くの者に頭を下げながら、必死に働き続けるのは骨が折れることだった。逃げ出せることなら逃げ出したいと考えている者もいるはずだ。他の町からここへ逃げ込んでくるように、他の町へ飛び込んでみたいと。
「それで、みんなで捜してるの?」
「うん。でも捜すのもう疲れちゃった。ぶつかったら怒られるし、それにどこ捜してもいないんだもん」
シャープは再度ため息を吐いた。なるほど、これで子どもたちが走り回っている理由がわかった。彼らは意味もなくうろついているわけではなかった。知り合いを捜していたのだ。しかし、その指し示す事実は重い。
「異世界へだなんて、そう簡単に行けるわけないのにね」
「そ、そうだよね! みんなそう思ってるよ。えーっと、結界の穴? だっけ。すぐ見つかるものなら上が直してるよね、普通」
「そのはずよね」
「うん、そうだよきっと。だから異世界じゃなくて他の場所に行ったんだよ。えーと、リシヤの森とか、人があんまりいないところに」
ありかがそう呟くと、シャープははっと我に返ったように言葉を続けた。まるで自らに言い聞かせているかのようだった。ありかは苦笑しながらその頭を撫でる。その間もシャープは無意味に拳を握り、相槌を打っていた。
もしその友だちが見つかればどうなるか。それくらいはシャープにだって予想できているだろう。この宮殿を抜け出そうとしたならば、重い処罰が待っている。いなくなったのが親しい友人ならば、見つからないで欲しいと願いたくもなる。会いたいがいて欲しくはないという、矛盾した感情だ。
「ありか!」
すると背後から名前を呼ばれて、ありかは振り返った。この声は乱雲のものだ。目を凝らせば人の合間でも、二人の方へと歩いてくる彼の姿が見える。動きやすい服装から推測すると、仕事帰りといったところか。彼はすぐ側までやってくると壁際に寄った。そして微笑を浮かべる。
「こんにちは、乱雲さん」
「あーシャープか。久しぶりだな、こんにちは」
すぐにシャープは切り替えたようだった。それまでの重い影をあっと言う間に消し去り、笑顔で勢いよく頭を下げる。その姿は前に見たものと変わらない。乱雲は微笑みながら彼女の肩を軽く叩いた。
「珍しいな。シャープがこんな所にいるのも、ありかがこんな所にいるのも」
「ミケルダさんがいないから最近暇なの」
「私は総事務局から呼び出しがあって、たまたま」
乱雲の疑問に答えると同時に、ありかははっとした。そう、呼び出しがあって急いでいたのだ。それなのに話し込んでしまった。遅れたらまた何を言われるかわからない。最近忙しいためだろう、やけに局員の機嫌は悪いことが多かった。
「それじゃあ、こんなところで喋ってたらまずいんじゃないか?」
「そ、そうだったわ。久しぶりに会ったものだからついお喋りしちゃって」
「それじゃあオレがお喋りの続きしてるから」
「あ、うん、お願いね!」
ありかは軽く頭を下げると急いで廊下を歩きだした。長いスカートが足にまとわりつくが、今は気にしている場合ではない。一刻も早く向かうべきだろう、なりふり構わずに。
「二人はうまくいってるんだね」
だからシャープの発したそんな言葉を、彼女が聞くことはなかった。彼女はそのまま慌ただしい人の波へと飲み込まれていった。
目的の部屋の前に来ると、ミケルダは一度大きく深呼吸をした。ここに来る時はいつもほんの少しだけ緊張する。いいところを見せたいと思うせいだろう。彼は苦笑してから意を決して扉を開けた。ふわりと嗅ぎ慣れたいい香りが中から漂ってくる。
「ミケルダ、戻りました」
扉を後ろ手に閉めると、彼は軽く頭を下げた。真珠を思わせる白い壁に、彼の狐色の髪が映り込んでいる。すると柔らかな声が頭上から降りかかった。
「無理を言ってすまないな、ミケルダ」
彼が顔を上げると、目の前にいた男性が微苦笑を浮かべた。銀色の髪に瑠璃色の瞳の、穏やかな印象の青年だ。ミケルダのよく知る、そして尊敬して止まない男性。
「いや、仕方ないです。こんなことになったんですから」
「予想外だったよ、私も。ケイルがまさかあんなことを言い出すなんてな」
「それも仕方ないですよ。
ミケルダはふるふると首を横に振った。静かに微笑んでいても、目の前にいる彼が本当はひどく苦悩していることを知っていた。また下の者たちに迷惑をかけると、思い悩んでいることを。
「そう、だな」
「その方が皆に迷惑がかかります。一部の者たちを犠牲にするようですが……それは仕方ないです」
ミケルダはそっと視線を外した。メンバー選考はまだこれからだが、おそらく彼の見知った者が選ばれるだろうという確信があった。あの人かもしれない、この人かもしれない、あの子かもしれない。そう考えると胸の奥にずしりと冷たい石が乗せられた気分になる。
仕方がない。そう言い聞かせないと潰れるのはミケルダ自身の方だ。そして目の前の彼も、そんなミケルダの思いに気づいているのだろう。だからこうして直々に会ってくれたに違いない。忙しい彼がわざわざ報告のためだけに、自室へと呼び出すことは稀だった。
「それに、下の者たちが引き起こしたことでもありますから。その一端を担っているのはオレたちですけど」
「ああ」
「何を優先するのか、オレたちは間違っちゃいけないんです。そうでしょう?」
「そうだな」
真珠のような床を、ミケルダはじっと見つめた。
異世界へ派遣される者たち、
彼らによって連れ戻された者たちにも、やはり辛い道が待っているだろう。ならば本当は派遣などしたくはない。だがそれは無理だった。この危うい状態を放っておくわけにはいかない。
「ミケルダ」
「はい」
「無理を言ってすまないが、その五人をよろしく頼む」
「はい、それがオレの仕事ですから」
ミケルダは笑った。逃れられない時の流れを恨めしく思いながらも、それでも凛として笑った。
そして、神技隊は選ばれる。