誰がために春は来る 第二章
第四話 選ぶ者、選ばれる者
気怠い体を無理やり起こして、ありかは細く息を吐き出した。静まりかえった部屋の中で、その音は妙に強く耳へと残る。彼女はゆっくり辺りを見回した。
「もう朝よね」
窓から差し込む日差しは強く、寝起きの瞳には直視しづらいものだった。それでもシイカの姿がないことを確認して、彼女はもう一度嘆息する。つまりまた昨日の晩も帰ってこなかったということだ。シイカは時々、何も言わずにそんなことをする。後で理由を聞いたとしても適当な答えが返ってくるばかりなので、仕事だろうと思うしかなかった。
「まだ本調子じゃないのに」
そう呟いてから自分も本調子ではないことに気づき、彼女は顔をしかめた。いつもよりも体が重い。それに胸の辺りがもやもやしていて何となく気分が悪かった。風邪だろうかと訝しげに思いつつ、彼女はおもむろに足をベッドから下ろす。これくらいのことで仕事を休むわけにはいかない。『上』が混乱している今ならなおさらに。
「きっと、そう、お腹が空いてるのよね。早く支度して朝食を取りに行かないと」
だから彼女は自らにそう言い聞かせて口の端を上げた。暗示も時には必要だ。特に内にある『精神』が重要な技使いにとっては、ほんの少しでも気持ちを上向きにすることが大切だった。
身支度を整えたありかは、小さな鞄だけを手にしてすぐに部屋を出た。無機質な印象の廊下を無言で歩き、真っ直ぐ食堂を目指す。途中でシイカの気を探ってみたが、感じ取ることはできなかった。隠しているのだろうか。こんな朝早くからと怪訝に思いながらも、彼女の歩調が緩むことはない。
食堂は普段通り人で溢れていて、空いている席を探すのが一苦労だった。並んだテーブルの先に見える人の列も、それほど進んでいるようには見えない。ありかは人の合間を縫うように進みながら、どこかに見知った姿がないかと目を凝らした。
「あっ」
すると端の方の小さなテーブルに、シャープが座っているのが見えた。目映い蜂蜜色の髪は遠目でもよくわかる。しかもその向かいの席は丁度空いているようだった。ありかはにっこり微笑んで近づいていく。
「あれ、ありかさん」
「おはよう、シャープ。この席いいかしら?」
「どうぞどうぞー。いいよね? リュー」
「え? あ、うん」
目的のテーブルへと辿り着き尋ねると、シャープは笑顔で隣にいる少女へと話しかけた。どうやら友だちがいたようだ。シャープに比べて少し小柄な少女は、丁度遠目からはその陰に隠れて見えなかった。やや困惑気味な様子の少女――リューへと、ありかは穏やかに微笑みを向ける。
「ありがとう。えーっと、リュー?」
問いかけるように頭を傾けると、リューはこくりと首を縦に振った。耳の横で結んだ赤茶色の髪が軽く揺れる。よく見ると彼女は眼鏡をかけていて、ありかはほんの少し驚いた。
もうずいぶん前になくなったものだと思っていた。簡単な補助系の技で視力回復が可能となった現在では、眼鏡をかけている者はほとんどいない。もっとも、お洒落として幾つも持っているお金持ちがいる、という噂も耳にはしていたが。
「あ、この眼鏡? この子光に弱いのよ。ほんのちょっとだけなんだけどねー」
「シャ、シャープ!?」
「え、言っちゃ駄目だった? どうせそのうち聞かれることでしょう? 今さら気にしたって仕方ないじゃない」
シャープの気楽な言葉に、リューは眉根を寄せたまま唇を結んだ。その右手はフォークを掴んだまま、皿の上を往復している。こんな時どう反応すべきか悩みながらも、ありかはいつも通り微笑を浮かべ続けていた。
「もう、いつもこうなのよね。だからリョーダさんが私に任せてったんだ。もう子どもじゃあないのに」
しかしありかが言葉を探すより早く、シャープの愚痴がリューの不満を押し込めてしまった。痛いところを突かれたのか顔を俯かせ、リューはぎゅっと背中を縮めている。ありかは椅子に浅く腰掛けると、不満げなシャープの瞳を覗き込んだ。
「そんなこと言わないものよ、シャープ。親はね、どんなに年取っても子どものこと心配するものなんだから」
「えーっそうなの?」
「そうよー、私のお母様だって、いまだにお小言うるさいし」
ありかがそう言って悪戯っぽく笑うと、シャープは眼を見開いた。またリューの緊張も少しは解けたようだった。それまで警戒の色を呈していた瞳に、わずかに柔らかい光が宿っている。
しかし食事の続きが再開されるわけではなく、リューのフォークは宙をぶらぶらとしたままだった。シャープの方はもう食べ終わったらしく、綺麗になった皿がテーブルの上に乱雑に置かれている。
「嫌だなあ。私、大人になれば解放されるんだって思ってたのに」
「甘いわねえ」
「なーんだ、残念。あのね、でもリョーダさん……あっ、リューのお父様は本当に心配性なんだ。最近また急に忙しくなって部屋に戻れないからって、面倒見てねだなんて私に頼むんだもの。一つしか違わないのにだよー? こっちはお父様もお母様も私のことなんて全然気にしないのに」
それでもありかの言葉だけでは、シャープの不満は完全には払拭されないようだった。テーブルに頬杖をついた彼女は、蜂蜜色の髪を揺らしながらぶつぶつと文句を言い続けている。すると「行儀悪いよ」とリューが小さな声で注意した。シャープの肘のすぐ横にある白い皿が、水の入ったコップとに挟まれて行き場をなくしている。
「絶対リューが引っ込み思案なせいだよ」
「そ、そんなことないよ」
「絶対そう。リョーダさんいつも気にしてたし」
しかし、リューの注意もシャープは全く意に介しなかった。抑えきれない不満からかずけずけと物を言うシャープに、リューは顔を赤くして必死に抵抗を試みている。だが口数でも勢いでもシャープの方が上だ。どちらの肩を持っても喧嘩は長引くなと困り果てて、ありかは笑みを固くする。
「でも仕方ないわ。ほら、いなくなった人もかなりいるんだし。それに今は宮殿内も混乱していて、何であろうと上手く動かないんだから」
ありかはそう言いながら、朝食を受け取る人の列を確認した。それは先ほどよりもさらに長くなっている。このまま二人の話に付き合えばなおのこと長くなるだろうと予想できたが、彼女はすぐにはその場を動けなかった。現状のまま二人を放置していくのは問題だ。険悪な空気がまだその間を流れている。
「……そうだよねえ、あの子たちもやっぱり異世界に行っちゃってたみたいだし。しかもなんとか隊ってのが派遣されるんでしょう?」
「神技隊」
「あ、そうそうそれ。神技隊。リョーダさんが選んでるんだもんね」
けれども幸いにも、ありかの言葉で話は別の方へと逸れていった。突然肩を落としたシャープはリューを一瞥して苦笑している。リューが頷くのを見て、ありかは小首を傾げた。
「リューのお父様が神技隊を?」
「そう、上から適当な人材を任命するようにって頼まれたんだって。だから最近忙しくて。夜もほとんど寝てないみたいだし」
「そうだったの」
沈んだリューの顔を見ながら、ありかは相槌を打った。親が娘を心配するように、また娘も親を心配している。その気持ちがよくわかるからこそ、ありかはそっとリューの頭を撫でた。驚いたリューは目だけで見上げてくる。髪と同じ赤茶色のその瞳は、怯えと期待に揺れていた。眼鏡越しでもよくわかる。
「大丈夫よ、ここにいる人間はそう簡単に倒れたりしないわ。それに選んでしまえば仕事は終わるんだから、心配ないわ」
そして神技隊が選ばれれば、おそらくこの混乱も少しずつ収まっていく。今さえ乗り切れば何とかなる。心の中でそう付け足し、ありかは微笑んだ。
巨大結界のほころびを見つけて異世界へと逃げ出した者たち。すなわち違法者。上はそんな者たちを取り締まるべく、異世界へ神技隊を派遣することを決定した。
日頃締め付けられた生活をしていたせいか、違法者の数が増加していたためだ。このままでは混乱は収まらないと上も焦り始めたということか。だが、それも神技隊が選ばれれば落ち着いていくはず。これ以上違法者が増え続けることもないだろう。
「そうだよね」
「ええ、きっと大丈夫よ。今だけのことよ。あ、そろそろ列も短くなったことだし、朝食を取ってくるわね。鞄見ておいてね」
ありかは立ち上がると、鞄からカードだけを取り出してにこりと微笑んだ。早く宮殿が落ち着いていけばいいと、皆が安心できればいいと、何処かにいるかもしれない神に祈りながら。
殺風景な狭い会議室の中には、乱雲ともう一人の男しかいなかった。宮殿を象徴するような無機質な白い壁に、簡素な机と椅子。窓から差し込む光さえ煙っているようで、中に居続けるのは乱雲にとって息苦しかった。だが、今彼を苦しめているのはそれだけではなかった。目の前の男が告げた内容が、彼の頭の中を何度も回り続けている。
「他に何か聞きたいことは?」
「……いいえ」
そう聞かれて答えながらも、乱雲はただひたすら別の言葉を胸中で繰り返していた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
けれどもそんな単語を唱えたところで、つい先ほど耳にした事実は変わらない。目眩を覚えつつも、乱雲は目の前にいる大柄な男性を見上げた。
赤茶色の髪を整えやや固い材質の服を着込んだ男は、瞳を細めたまま口を閉ざしている。待っているのだ、乱雲の言葉を。引き受けます、と彼が返事するのを。傍にある椅子の背を軽く掴んで、乱雲はゆっくり呼吸を繰り返した。
『君を神技隊に任命する』
呼び出された乱雲の胸に突き刺さったのは、そんな短い言葉だった。聞き間違えではない、はっきりと聞いた。神技隊という名は何度か耳にしていたから、すんなりと彼の耳はそれを拾ってしまった。
嘘だと、彼は胸の内でもう一度繰り返す。そんな大役を任されるわけがないと、宮殿に来てそれほど経っていない者にそんな重役が回ってくるはずないと、そう心中で甘い言葉を呟き続けた。
神技隊に選ばれるということは、この世界を離れるということ。ありかと離れるということ。もう二度と会えないということだ。少なくとも彼女も同じように選ばれていなければ、決定的なことだった。
しかし幸か不幸か、同じく選ばれた仲間の中に彼女の名前はなかった。それも仕方がない。目の前の男――リョーダと名乗ったが――はこう言ったのだ。この宮殿で生まれた者は入っていない、この宮殿に深く根付いてしまった者は選ばれていないと。内情を知りすぎている者を外へ出すのは危険だから。
「大丈夫かね?」
尋ねてくるリョーダの声は低く落ち着いていた。乱雲の動揺など何とも思っていないのか、それとも考え続けた末の結論だからもう迷うことはないのか。彼の内心は乱雲にはわからなかった。ただ冷たいとだけ感じた。
「はい」
それでも乱雲は小さく首を縦に振った。技使いとしての力がそれ相応で、戦闘能力があり、かつ宮殿に長く滞在していない若者。そして宮殿内に家族の、恋人のいない者。それが神技隊を選ぶ際にリョーダが考慮した内容だったそうだ。聞いた途端、乱雲は後一歩のところで笑い出しそうになった。いや、笑ってしまえば楽だったのかもしれないと、今でも心底思っていた。
ありかとの関係は、少なくともリョーダの耳には入っていなかったようだ。今さらながら、もっと派手にしていればよかったとどうにもならないことを考えてしまう。
「はい、大丈夫です」
けれども乱雲はそう答えて口の端を上げた。この数年で彼の中にも、この宮殿の規則はある程度染みついていた。ここで断ることが何を意味するのか、今後にどう影響するのか考えるぐらいには。
「では引き受けてくれるのか?」
「はい、もちろんです」
上の命令は絶対。乱雲は口の中だけでそう付け加えて、リョーダを真正面から見つめた。触れた椅子のかすかな震えだけが、この場で彼の心情を表す唯一のものだった。