誰がために春は来る 第二章
第二話 重なり合う時
町を失っても、依然としてリシヤは広かった。どこまでも続くような森を歩くのはかなり骨が折れ、ありかたちの調査も思ったよりは進まなかった。それ故に彼女が宮殿へと帰ることができたのは九月に入ってからのことだった。宮殿よりもやや北に位置するリシヤでは、既に秋の気配が漂っている。
「ようやく帰ってきたのね」
そんなリシヤを後にして、ありかは生まれ育った場所へと戻ってきた。閉鎖的なその建物をいつもなら毛嫌いしているところだが、しかし人気がほとんどない森から帰ってきたばかりとなれば、慌ただしい空気さえも嬉しい。
調査の報告の方は統率をしていた男性――彼女が以前倒れた時に助けてくれた男らしかったが――がしてくれるようなので、彼女は真っ直ぐ自室へと向かった。シイカの調子を確認するためだ。大丈夫だとは思うのだが、それでもやはり心配だった。また体調を崩してなければいいと願いながら、彼女はひたすら歩を進める。
だが部屋が近づくにつれ、彼女の心は沈んでいった。それまでは漠然としか感じ取れなかったシイカの気が、確実に部屋の中にあることがわかった。昼間から部屋にいるということは、仕事ができない体調だということを意味している。
「お母様?」
部屋の扉を開けて、彼女はすぐに声をかけた。そのまま中へ入ると、ベッドの上がもぞもぞと動いてゆっくりシイカが顔を出す。咳は出ていないようだが、額に濡れた布を当てていた。熱があるようだ。
「ありか、帰ってきたのね」
「はい、ただいま。お母様、大丈夫ですか?」
「咳はないから、辛くはないのよ。ただ少し風邪をひいてしまったみたいでね」
眉根を寄せて近づくと、シイカはそう言って苦笑した。見た目よりは元気なようだ。ややほっとしたありかはベッドの側に膝をついた。そして目線をシイカにあわせて顔を覗き込む。
「大丈夫よ、そんな顔をしないで。たぶんもう数日もすれば元気になるから」
「本当ですか?」
「これはただの風邪なのよ、だから平気。それよりあなたにはもっと気にするべき人がいるでしょう?」
シイカはそう言って悪戯っぽく笑った。それが誰を指すのか気づいたありかは、やや視線を下げて頬を染める。
他の誰も乱雲とのことを口にしない中、シイカだけが時折こうやってからかってきた。おそらく奥手な娘を心配してのことだろう。だが、ありかにとっては恥ずかしいだけだった。親にとやかく言われるというのはどうにもむずがゆい。
「乱雲さん、寂しがってたわよ。きっと首を長くして待ってるわ」
「ええっと、でも今は仕事中のはずですが」
「あら、そう? じゃあ会うのは夜かしらねえ。また遅くなっても私は構わないわよ? ずっと寝てるだけだから」
さらに言葉を続けるシイカから、ありかは顔を背けた。そしてこれ以上は聞いていられないと、すぐさま扉へと向かう。背後から聞こえるシイカの笑い声が疎ましかった。明らかに楽しんでいる声音だ。
「そ、それじゃあお母様、私は図書庫へ向かいますので」
「そう? 頑張ってね」
「はい。お母様はゆっくりしていてください」
答えながらありかは急いで部屋を出た。この様子ならばシイカが元気になるのも時間の問題だろう。そうすれば乱雲との約束を果たすこともできる。
「そうよね、もうすぐ……だもんね」
閉じたばかりの扉を背に、彼女は胸を押さえた。乱雲と一緒になれば今までと生活は一変する。こうやって日常的にシイカにからかわれることもなくなる。
「もう少し」
頬を緩ませながら彼女は廊下を歩き出した。温かくなった心は、秋のもの悲しさをも寄せ付けなかった。
その話を耳にしたのは、宮殿へと帰ってきて二日経った時のことだった。
「巨大結界?」
図書庫で耳にした聞き慣れない単語に、ありかは首を傾げる。
「そう、巨大結界。知らない? ありかちゃん」
「いいえ、私は全然」
目の前にいるのは珍しくもミケルダだった。いつもなら小さな技使いの修行を見ている時間だ。だが何故か彼は彼女の仕事場に来て、古びた本を片手に頭を傾けている。彼は狐色の髪を余った手でわしゃわしゃ掻きながら、さらに首を捻った。
「あーうわぁ、そっか。下の人には内緒だったのかなあ。ひょっとして」
「そんな単語……口にしても大丈夫なんですか? またミケルダさん叱られるんじゃ」
「またって何。おいおーい、オレそんなにいつもいつも叱られてないって。もーありかちゃんひどいなあ」
ミケルダはいつも通り陽気な口調だった。だが、いつもと違う所もあった。瞳だ。茶色の瞳はいつもなら爛々と輝いているのに、今日は不思議と苦悩の色を呈している。
そんな彼があーうーと唸りながら本を見下ろし、そしてため息を吐くのだから、彼女は正直不安で仕方がない。軽い言葉を交わしつつも心中穏やかではなかった。何かあったのだろうかと考えながら、彼女は書類の上で指を滑らせる。
「それにね、こんなことになれば皆に知らせなきゃいけないから別にいいんだ」
彼は手にしていた本をぱたりと閉じ、瞳を細めた。その神妙な顔つきに、さらにありかの体が固くなる。知りたいが聞きたくなかった。知ってしまえば戻れない気がして、胸の内を不安が埋め尽くしていく。
「ありかちゃんなら、異世界の話とか知ってるだろう?」
「え? ええっと、あるということくらいは」
「それで十分。でね、実はこの世界と異世界の間には巨大な結界が張ってあるんだ。それが巨大結界。生み出されたのはずーっと、それこそ気の遠くなるような昔の話」
「異世界との間に?」
「そう。異世界へ行けないようにするためにね。あ、そのせいで宇宙へも行けないようになっているんだけど」
本を仕舞うミケルダの後ろ姿を、彼女は目で追った。背中越しでは表情はわからない。しかし彼が普段とは違い真剣な顔をしているだろうということは予想できた。口調は軽いのに、伝わってくる彼の気が尖っている。今までそんな彼など見たことがなかった。
「その巨大結界に、今朝ほころびが生じた」
「……え?」
「まだ小さいらしいけど、今ぐんぐんと大きくなってきてる。どこまで広がるかはわからないけど、これはかなりまずい事態だ」
彼は背を向けたままそう告げた。彼女は言葉を失い、ただ彼を凝視する。一瞬言っている意味がわからなかった。否、わかりたくなかった。しかしその重みは徐々に胸と広がって、そして全身へと染み込んでいく。
「そ、そんな」
「突然のことだからオレたちもびっくりしてるよ。それで上がごたついてるんだよね、今。オレにこんな所調べさせるくらいだから相当だよ。アユリの秘密なんてこんな場所にあるはずないのに」
どうやらミケルダには不満が溜まっているようだった。いや、それだけではないだろう。不安と不満が入り混じって、それが複雑な感情を作り出している。癖のある狐色の髪を何度も掻きむしっては、彼はまた嘆息する。そして振り返った。
「ま、こんなことありかちゃんに言っても仕方ないんだけどねえ」
「あの、ええっと……」
「こんな巨大結界の修復ってたぶん相当大変だろうなあ。ひょっとしたらありかちゃんたちにも仕事が下りるかも。覚悟しておいて」
彼はそう言うとまた盛大なため息を吐いた。それから意味のわからない呻きを発すると、突然両手を大きく広げて叫ぶ。
「あー嫌だ嫌だ! こんな辛気くさい空気! ごめんねありかちゃん。今度会った時は何か甘い物でもご馳走するから、だから許して。それじゃあね。今日は諦める」
けれどもころっと表情を変えると、彼は彼女の頭を勢いよく撫でた。強すぎるその動作に多少の痛みを感じつつ、彼女はどう言葉を紡げばいいかと悩む。しかし答えは出ぬまま、すぐにミケルダは部屋を出ていった。一人取り残された彼女は呆然と扉を見つめる。いつも通りの静寂のはずなのに、それが妙に肌に痛かった。
「どうして、こんな風に色々重なるのかしら」
脱力して机に突っ伏したいのを堪えて、彼女は顔を歪めた。リシヤの消失からまだ数年で、ようやく宮殿内は落ち着いてきているところだというのに。それなのに今度は巨大結界だなんて、不運だとしか思えない。
「また忙しくなるのかしら? じゃあまた……おあずけになるの?」
自らの腕を抱き、彼女は深々と頭を垂れた。
シイカの風邪もかなりよくなってきているので、数日後にでも書類を提出しようと考えていた。だがもしミケルダの話が本当ならば、総事務局はかなり忙しくなる。そうなればそんな書類は後にしなさいとでも言われて突き返されるだろう。受け取ってもらえたとしても、認定される前に紛失する可能性すらある。
「もう、何で……」
泣きたいのを堪えて彼女はその場にしゃがみ込んだ。どうしてこんなに全てが邪魔をするのかと、誰かを問いつめたい気分になる。
巨大結界のほころび。その結界は異世界への行き来を防ぐもの。
だからできる限り意識を別のことへ持っていこうと、彼女はミケルダの話を頭の中で繰り返した。そしてある事実に気がつき、小首を傾げた。それは理論的にはあり得ても実感の湧かない、少なくとも自分には関わりのなさそうなことだった。
「じゃあ、その隙間を通り抜ければ異世界へ行けるの?」
どこにあるかもわからない結界のほころび。それを見つけることができれば異世界へと行けるはずだ。理論上は。
「まあ、でも無理よね。だって巨大結界、なんですもの」
しかし彼女は首を横に振った。宇宙へ行くことさえ遮っているのだから、おそらくとてつもない規模なのだろう。想像できないくらいに。そんな結界のほころびを見つけることができるのは、きっと上の上の上の者たちだけに違いない。
「きっと私たちが見つける前に上が修復しちゃうものね」
彼女は口角を上げると勢いよく立ち上がった。馬鹿なことを考えていても仕方ないと、仕事の続きに取りかかろうとする。ミケルダが来たため中断していたが、早く終わらせて乱雲に会おう。彼女はもう一度扉を見つめた。
「早く騒ぎが静まるといいなあ」
祈るように呟いた言葉は、静かな部屋へと瞬く間に吸い込まれていった。