誰がために春は来る 第一章
第十話 消えた町
乱雲が宮殿へと足を踏み入れてから一年以上経った。涼しい夏の後は穏やかな秋を過ごし、厳しい冬を乗り越え、春を迎えた。そしてさらに時は流れ、夏ももう終わる頃となった。
その間も宮殿は比較的平和だった。それまでと変わりなくただ平凡な仕事を機械的に、各々がひたすら繰り返していく。それは乱雲もありかも同様で、二人の距離は少しずつ縮まりつつも表だった変化はあまり見られなかった。意図せずとも、秘密の関係は続いていた。
しかしそんな最中に事件は突然起こる。
それは新暦二九八四年、初秋のことだった。
慌ただしく走り回る人々を、ありかは不思議に思って目で追った。皆が足早に廊下を抜けていくのはいつものことだが、それとは何か違う。足音一つ取っても焦りが表れていて、時折躓きそうになる人さえいた。そんな状況は彼女が物心ついた時から一度もなかった。皆が皆、動揺しているなんて。
「何かあったのかしら?」
昼食を取り終えて図書庫へ戻りながら、ありかは首を傾げた。昨日までは何事もなかった。どちらかと言えば下っ端に位置する彼女だから、何も聞かされなかっただけというのも考えられるが、しかしそうならば、今日になってバタバタするというのも腑に落ちない。誰も噂さえしていなかった。
「あ、お母様」
しばらく歩いたところで、最近はずっとベッドに伏せってばかりいるシイカの姿が目に入った。皆と同じように顔を強ばらせて――否、青ざめさせて歩く姿に、思わず鼓動が跳ねる。
やはり何かがあったのだ。ありかは急いでシイカの後を追った。どれだけ急いでいても今のシイカの足ではそれほど速く歩けない。案の定すぐに追いつくことができ、ありかは急いでその腕を掴んだ。シイカは咳がついたまま今朝まで寝込んでいた。こんな風に出歩ける体力はなかったはずだ。
「ありか?」
振り返ったシイカの声はかすれていた。怪訝そうなその瞳が驚きを含んでいるところを見ると、辺りの気を感じ取ることさえしていなかったらしい。それも珍しいことだ。何事かと目で問いかけると、シイカは額に皺を寄せて唇を一度強く噛む。
「ありか、用なら後にしなさい」
「でもお母様、そんな顔色で」
「私は大丈夫よ。それより今は急いでいるの、手を離しなさい」
「何かあったんですか?」
単刀直入に尋ねると、シイカの顔がやや曇った。言うべきか否か迷っているのだろう。視線が一度宙を彷徨い、それから白い廊下へと向けられる。
「どうせすぐに広まることよね」
「お母様?」
「つい一時間程前よ、リシヤの空間の歪みが増大して――」
「え? リシヤ?」
「消滅したのよ、森だけを残してね」
一瞬意味がわからず、ありかは瞳を瞬かせた。森だけを残してリシヤが消滅した。その意味を飲み込むのに時間を要した。しかし理解すると今度は全身から冷たい汗が噴き出してくる。昨日まで確かに存在していたものが全て、一瞬のうちに消えてしまった。その中にいる人々ごと全て。
「ほ、本当ですか……?」
「嘘を言っても仕方がないでしょう? リシヤがここ数年不安定だったのは知っているわよね。それが今日、限界に達したみたいなの。もちろんリシヤの民は一人も残っていないわ、今までと同じく」
狼狽えるありかを見て、シイカはゆっくり首を縦に振った。ありかは口元を手で押さえて、漏れそうになる嗚咽を飲み込む。
記録にある限りでもここ数千年、あちこちで空間の歪みによる被害が出ていた。そして歪みに耐えきれなくなった空間が突如大きな口を開け、一帯を飲み込むという現象もそれなりに起きていた。
誰も住んでいない山間ならば消えていても気づかないこともある。だが数百年に一度は、どこかの町が被害に遭っていた。一番最近起こった町の消滅はナイダのものだ。それはありかも勉強していたからよく知っている。
「リシヤが、消滅」
「そうよ、それで今皆が焦っているの。リシヤはここからもそれほど遠いわけではないでしょう? だから影響があるのではと心配してるのよ」
静かに答えたシイカはため息を吐いた。そしてありかの腕をそっと除けると、また急いで歩き出す。そのか細い後ろ姿をありかは目で追った。嗚咽を押し殺すのに必死だった。リシヤにはつい昨日、乱雲が赴いたばかりだった。もし消滅したのが昨日だったらと思うと目眩がする。
「乱雲が帰ってきたら教えなくちゃ」
壁際に寄ると彼女は胸に手を当てた。今乱雲は外回りの仕事でザンの町へ出向いている。帰ってくるのは夕方頃になるだろう。
「あれ?」
だが何か他にも重大なことを忘れている気がして、彼女は首を傾げた。ものすごく重大で決定的なことが、頭の隅に追いやられているように思える。
「あっ!」
幸いにも、それはすぐに浮かび上がってきた。瞳を細めたシイカの顔が脳裏をよぎり、その事実を呼び起こしてくれる。
リシヤの消滅はシイカが予言したことだ。予言したことでリシヤの民から反感を買い、結果的には追い出される形となった。
「どうして?」
では何故シイカにはそれがわかったのか。シイカがここへやってきてから二十年は経っている。そんな未来のことが何故シイカにはわかったのか。優秀な母親にはそんな力まであるのか。
「お母様……」
シイカの去った方向を、ありかはもう一度見つめた。だがもう既にその後ろ姿はなく、慌ただしく行き来する人々がいるだけだった。
ただ乱雲に会いたい。それだけを思い続けたのに、しばらくはそれすらも叶わなかった。リシヤの消滅は上にとっても衝撃的なできごとだったらしく、乱雲は四六時中調査に駆り出され、ありかはありかで図書庫にあるリシヤに関する書類を片っ端から探し出す命を受けた。
「乱雲、戻ってきたのかしら」
日付が変わるという頃、ようやく仕事に一区切りがついたありかはふらふらと図書庫を出た。乱雲の気がそれほど遠くにはないことがわかっている。ということは、宮殿に帰ってきたのかもしれない。もっとも疲れ切ってすぐに寝てしまっているかもしれないが。
「お母様は上に呼び出されたままで、今晩は戻らないし」
やはり予言のことが噂として漏れたらしい。上の方からも注目を集め、シイカは日々あちこちへと出向いていた。体調が優れないのにと不安なのだが、当人はきびきびとした様子で出かけている。
「みんな忙しいわよねえ」
冷たい空気に思わず腕を抱きながら、ありかはため息を吐いた。白さをたたえた廊下がいつにも増してよそよそしい。月明かりの差し込む様も、幻想的と言うよりは物寂しかった。乾いた足音がそんな中響き渡る。
「あーあ」
俯いたまま歩くと不安が胸を満たしていった。何故かとはわからないのだが、ここしばらくずっと落ち着かなかった。リシヤ消滅の知らせから二週間近く経つというのに、常にそわそわして仕方がない。
「ありか!」
けれども待ち望んだ声が、沈みかけた彼女の心を浮き上がらせた。はっとして顔を上げると、廊下を駆けてくる乱雲の姿が目に入る。
「乱雲!」
「ありか、よかった。もう寝たのかと心配していたんだけれど」
「ううん、今仕事が終わったところ」
彼の腕に強く抱きしめられて、彼女は心底ほっとした。彼が今ここにいるという事実がすごく嬉しかった。自然と頬が緩み、笑みがこぼれる。先ほどまでの不安が嘘のようだった。自分でも現金だなとは思うのだが、こればかりはどうしようもない。
「ありかもやっぱり忙しいんだな」
「うん、でも乱雲の方が大変でしょう?」
「まあ他の町の人たちの方が混乱してるからな。相手するのは骨が折れるけど」
そう言いながら腕を緩めた彼は、ありかの顔を覗き込んできた。彼女は小首を傾げて彼を見上げる。するとその長い指先が頬へと触れてきた。
「だけどそれよりもありかに会えない方が辛かった」
「え?」
彼女は言葉に詰まった。こんな時にそんなことを言われると心臓が飛び跳ねてしまう。しかも誰もいない廊下は静まりかえっていて、何だかいけないことをしているような気分になる。もう教育係のことなど皆は忘れているだろうに、それでも胸の奥底に不思議な背徳感情が残っているらしい。
「ね、ねえ乱雲、異世界のこと知ってる?」
だからその妙な感情を振り払うようにと、彼女は慌てて話を変えた。突然飛び出した異世界という単語に、彼は首を傾げる。彼女は微笑みながら彼を再度見上げた。
「異世界? 異空間じゃなくて異世界?」
「そう、異世界。こことは違う世界。乱雲は知ってる?」
もう一度尋ねると彼は首を横に振った。蒼い月明かりに照らされた彼の横顔はどこか幻想的だ。彼女は瞳を細めて窓の外を見る。そこにはかすかにだが風に揺れる草原が顔を覗かせていた。
「最近噂が流れてるのよ、リシヤが飲み込まれたのは異世界に、じゃないかって」
「そんな世界があるのか?」
「あるのよ。ほら、おとぎ話によく出てくるでしょう?」
「でもあれは子どもの話で――」
彼は笑ったが、彼女は大きく首を横に振った。今度は窓に背を向けてほんの少し悪戯っぽく笑う。そして『おとぎ話』を思い出しながら天井を見上げた。それは宮殿の外も中も同じだろう。どこにでも伝わっている話のはずだ。未知なる世界を描いた素敵なおとぎ話。
「違うのよ」
異世界の話はおとぎ話だと、誰もが大人になれば気づいていく。けれども全てがそうではないのだと彼女は知っていた。図書庫にある無数とも思える書物がその存在を告げていたから。
異世界は確実に存在し、上の一部はそこへと出入りしている。
「ちゃんと実在するのよ、昔からちゃんと。そういう書物も残っているの」
彼女は彼へと振り返り微笑みかけた。異世界は存在するのだと、図書庫に勤めれば勤める程信じられるようになった。もっとも、リシヤの民がそこへ行ったのだという確証はないが。
「じゃあリシヤの人たちは無事なんだな」
「きっとね、きっと」
それは甘い言葉。残された者たちが縋り付こうとする空想。きっとリシヤに知り合いがいる者たちも多かっただろうし、ひょっとしたらそこから飛び出してきた人たちもいるのかもしれない。親しい者が、顔見知りの者が突然死んでしまったとは誰も思いたくないだろう。それならば異世界へ行ったのだと思い込んだ方が少しは救われる。気持ちが軽くなる。
「じゃあ、ええっと、あの遊園地とかも見られたり?」
「うん、そう! すごい機械に囲まれた生活してるのかもね。もしかしたら」
「羨ましいなあ、リシヤの人たち」
「そうよね、羨ましいわよね」
二人は顔を見合わせて笑い合った。虚ろな微笑みだと自覚はしていたが、それでも今はいいのだと言い聞かせていた。俯いてばかりいられないのだから、顔を上げるための力が欲しい。
「じゃあそろそろ寝ようか」
「ええ、そうね。明日も仕事だろうし」
「ああ、オレ次はイダーだよ」
二人は横に並んで歩き始めた。暗い何かを振り払うように、たわいない話だけが繰り返された。