誰がために春は来る 第一章

第十一話 もう少し

 リシヤ消滅から一ヶ月が過ぎ、ようやく宮殿内も落ち着きを取り戻しつつあった。日夜働き続けた乱雲にもやっと休暇が与えられるようになり、またありかも通常の仕事の量が増えつつある。
 しかしそれでもありかには不安要素があった。シイカのことだ。上の呼び出しこそ減ったものの、相変わらずシイカは忙しく、また夜はほとんど眠れない程の咳を繰り返していた。それなのに、医者に診せてもただの風邪だとしか言われなかった。良くなるどころか悪化する一方のシイカを見ていると、乱雲と会っていても心が晴れない。いつも頭の片隅にはシイカのことがあった。
「お母様」
 だからありかは決心した。ベッドに入ったばかりのシイカへ、抑揚のない声で彼女はそう呼びかける。シイカは首だけ軽く上げると目で問いかけてきた。彼女は小さな椅子に腰掛けて、シイカを見つめる。
「お母様、お医者様のところへ行きましょう」
「もうそれなら何度も行ったじゃないの」
「いえ、宮殿内のではなくて外の、です」
 真顔で告げるとシイカは片眉を跳ね上げた。通常宮殿に住む者は宮殿内で医者にかかる。無論外にはさらに数多くの医者がいるのだが、そこへは行かないというのが暗黙の了解だった。外の医者にかかれば誰もが十中八九働きすぎだと言われるからだ。今すぐ休養しなさいと言われる者も多いだろう。しかし宮殿内にいる限りそれは無理な話で。
「何言ってるの、ありか」
「ただの風邪でこんなに咳が長引くなんておかしいです。ちゃんと診てもらいましょう? 肺の病に詳しいお医者様のところで」
「馬鹿ね、仕事を休めるわけないでしょう。しかも外の医者に行くためにだなんて」
 だからシイカは苦笑していた。柔らかい明かりに照らされた彼女の顔は明らかに疲れ切っている。それでも凛とした微笑みを浮かべ、彼女は口を開いた。
「いい、ありか。私のことを心配してくれるのは嬉しいけれど、ここにいる限り無理なことというのもあるのよ。あなたならわかっているでしょう?」
「でも――」
「あのね、私のこの咳はね、病気じゃないの。私が体を酷使してきたせいなの。技の使いすぎなのよ。それが体力が衰えてきたところで顕著になっただけ。だから医者に診てもらっても無理なの」
 なお詰め寄ろうとするありかに向かって、シイカは首を横に振った。ありかは息を呑む。技の使いすぎで体を壊す話など、彼女は今まで聞いたことがなかった。誰もが当たり前のように使っているから、害のないものだとばかり思い込んでいた。が、違うらしい。ありかを見つめるシイカの瞳が、不思議な色をたたえながらほんの少し揺れた。
「だからあなたは無理をしては駄目よ。あなたは強い気を引き寄せやすい体質だからちゃんと気をつけなくちゃ。気をつけなくては私のように体を壊すわよ」
「え?」
 続けて放たれたシイカの言葉は、ありかには理解できなかった。何のことを言っているのかよくわからない。ただ漠然とした不安が湧き起こり、鼓動が少しずつ速まった。今目の前にいるシイカが別人のように感じられる。
「だからほら、馬鹿なことを考えていないであなたも早く寝なさい。大丈夫。もう少しすれば私にも休みが取れるようになるわ。そうなればこの咳だって少しは良くなる」
 しかしそれを告げる暇もなく、シイカは微笑すると再びベッドの中へと深く潜り込んだ。背を向けられてはその表情はありかには見えない。結局説得は諦めて、彼女は大きく嘆息した。
 シイカはいつもこうだった。肝心なところをはぐらかすのに、それでいて意味深なことを口にする。振り回される身にもなって欲しいと何度思ったことか。だがいつも敵わない彼女は閉口するばかりだ。
「本当に何もなければいいんだけど」
 聞こえないよう小さな声で呟いて、ありかはそっと目を伏せた。傍で繰り返される咳が、胸の不安を刺激し続けていた。



 昼食を取り終えたありかは図書庫へと向かって歩いていた。昨晩シイカから聞いた話が頭を離れず、午前の仕事は散々なものだった。午後からは気合いを入れなければならない。
 そんなことを思いながら歩いていたから、乱雲に声をかけられるまでその存在に気づかなかった。肩を叩かれ慌てて振り返ると、柔らかい笑顔を浮かべた彼がすぐ傍に立っている。
「あ、乱雲」
「さっきから呼んでたんだけど、聞こえなかった?」
「え、あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて」
 二人は並んで歩き始めた。仕事が始まる時間まではもう少しある。人の邪魔にならないよう端をゆっくり進みながら、彼女は彼を見上げた。
「乱雲、仕事は?」
「あ、今日は休み。昨日の夜イダーから帰ってきたばかりだからな。実は昼近くまで寝てた」
「そうだったの」
「ありかは?」
「私はいつも通りよ」
 彼女は肩をすくめて微苦笑を浮かべた。外回りの仕事とは違って、宮殿内の仕事に休みはない。それほど辛くはないが、同じことの繰り返しは体ではなく神経に悪かった。図書庫での仕事を続けられるのも、彼女が本好き故のことだ。昔のことを含め、色々知ることができる場所はそうそうない。
「それじゃあ、まだ午後の始まりまでは時間あるんじゃないのか?」
「あ、そうね。でも少し早めに始めようかと思って。午前の分が残ってるのよね」
 そう告げて彼女は重たい息をこぼした。彼女だって乱雲と一緒にはいたいが、午後の仕事が長引くのは困る。シイカが一人でいる時間を少しでも短くしたかった。もし何かあったらと思うと不安になる。倒れるようなことはないと信じているが、万が一ということもある。
「そうなのか……」
 だから彼が沈んだ声を出しても何と答えればいいのかわからなかった。彼女は困ったように眉をひそめて、視線を落とす。
「なあ、ありか。……もう一年以上経つんだから」
「え?」
「そろそろ一緒には、住めないのか?」
 しかし彼が突然そう口にしたことで、彼女の思考は一瞬で停止した。足まで止まってしまい、数歩先を進んだ彼に首を傾げられる。
「ありか? 何もそこまで驚かなくても」
「ご、ごめんなさい」
「いや、急に言いだしたオレが悪いから別にいいんだ」
 踵を返した彼を、彼女は見上げた。苦笑いを含んだその瞳を見ると、本当に申し訳ない気分になる。彼女だってそのうちにと思ってはいるのだ。だが今は無理だ。シイカをあの広い部屋一人にはしていたくない。
「その、あのね、気持ちは嬉しいんだけど」
「ん?」
「ごめんなさい、今はまだ。その、母の調子がかなり悪くて」
 彼女は視線を泳がせながらも何とかそう口にした。彼がどんな顔をしているのか怖くて確認できなかった。ただ耳だけはその反応を読みとろうと、懸命に音を拾っている。すると彼の大きな手のひらが彼女の肩を軽く叩いた。驚いて顔を上げると、彼は微苦笑を浮かべている。
「本当悪い、だから怯えないでくれ」
「え、お、怯えてなんか」
「怯えてるだろう? 別にそういうつもりじゃないんだ。まあまだ一年とも言えるし、ちょっと言ってみたかっただけだったから」
 彼はそう言うと少しおどけたように微笑んだ。つられて彼女もほんの少し口角を上げ、瞳を細める。
 一緒に住むというということ。それはつまりパートナー認定を受けることと同義で、この宮殿では関係を公認されることを意味する。そのためにはそれなりの書類を提出せねばならず、認定を受けてからでないと新しい部屋は与えられない。
 外ならば誰がどこに住もうが引っ越ししようが自由で制限がない。無論それなりの書類が必要だが、宮殿のものと比べればかなり大雑把だった。断られることもない。
「シイカさん、そんなに体調悪いのか?」
 彼は手を離すとそう問いかけてきた。彼女は曖昧な微笑を浮かべながら小首を傾げる。肩程ある髪が頬を撫で、ややくすぐったくなった。
「昼間はそんな素振り見せないんだけどね、でも夜になると咳がひどいの。呼吸も苦しそうで」
「医者には?」
「何度も診てもらった。でも風邪としか言われなくてね。本当に困ってるのよ。だから、あんまり一人にはできなくて」
「そうだったのか……」
 説明すると、彼は不安そうに顔をしかめた。彼女は重くなった空気を振り払おうと、ゆっくりと歩き始める。乾いた足音が周囲のそれに混じり合った。
「でもね、仕事が減ればたぶん大丈夫だって。疲れてるのよ、きっと」
「ああ、リシヤのことで忙しそうだもんな」
「そうなの。もう少しすれば落ち着くでしょうし、そしたら、ね。その時に」
 ついてくる彼を一瞥して、彼女は口の端を上げた。もう数ヶ月もすればおそらくシイカの体調も安定してくるはずだ。楽観的かもしれないが、そうであって欲しいと願うしかない。宮殿の医者は頼りにならないのだから。
「じゃあその時を楽しみに待ってるよ」
「うん、もう少し待っててね」
「ああ」
 二人は顔を見合わせて微笑みあった。今はまだ。でもいつかはきっと一緒になれる、と。互いの瞳でそれを確認するかのようだった。悪いことばかりではないはずだ。そう信じたい。
「あ、じゃあそろそろ仕事に戻るわね。乱雲はゆっくりしててね」
「ああ、無理はするなよ」
 手を振るとありかは歩調を速めた。長いスカートがいつものようにはためいて足に纏わり付く。それでも彼女は歩を緩めなかった。早く仕事を終わらせようと、それだけを考えていた。遙か先に待ち受けるものなどつゆ知らずに。


 もう少し。それが後に悲劇の引き金となる。

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