white minds 第一部 ―邂逅到達―

第九章「再会」3

「アスファルト」
 それが彼の名だろうか。呼びかけたのはミスカーテだ。銀狼だった男をじっと見据えるミスカーテの気は、複雑な色を帯びている。歓喜が含まれているのは確かだが、それとは別に焦燥感とも闘争心とも取れる得体の知れない感情を孕んでいた。この二人の間に一体どんな関係があるのか、またこの状況をどう捉えてよいのか、リンには判断がつかない。ただはっきりしているのは、味方が増えたわけではないということだ。
「やあ、久しぶりだね。プレイン様たちが封印された時以来じゃない?」
「そうだな。できるならお前の顔など見たくもなかったが。……お前は私の申し子たちをどうするつもりだったんだ」
 顔見知りではあるようだが、決して仲がよいとは思えぬ会話だ。首の後ろを掻きつつそう吐き捨てたアスファルトは、ゆくりなく歩き出す。その足の動きにあわせて白い長衣が揺れた。ミスカーテへ近づくのかと思えば、そうではなかった。振り返ったアスファルトが向かう先にはレーナがいた。それでようやく、リンからも彼の顔が見えるようになった。何となく誰かを思い出すような、端整な顔立ちだ。
 砂塵の下に石畳があるらしく、静かな靴音が響く。しかしレーナは微動だにしない。いや、できないのか? 状況を確認するため、リンもゆっくり前に進み出た。この位置では彼らの会話がかろうじて聞こえる程度だ。
「その言い方はひどいなぁ、あなたの作品を見せてもらいたかっただけなのに」
「そうやってお前は何でも壊すのが得意だったな」
「君の作品って繊細だから」
「そもそも加減するもりがないのだろう」
 視線の交わらない二人の会話が続く。ミスカーテは楽しそうな顔でアスファルトの背中を凝視していたが、アスファルトはちらとも振り返らなかった。そのまま歩を進めたアスファルトは、レーナの目の前で足を止めた。そしてかろうじて一歩後ずさろうとした彼女の左腕を即座に捕まえる。
「もうずいぶん傷だらけじゃないか。扱いがずさんだな」
 やはり力が入らないらしく、レーナはそれを振り払おうとはしなかった。声も発しなかった。それでもかまわず、アスファルトは喋り続けている。リンからレーナの表情をうかがうことはできないし予想もできないが、微笑んでいないことだけは何故か確信できた。レーナの気には余裕がない。もっとも、それ以上の情報が得られないほど、彼女の気はひたすら澄んで凪いだままだ。
「でも僕の誘いに最初に乗ってきてくれたのがあなたとは。これも巡り合わせかな。嬉しいね」
 そこでミスカーテはくつくつと笑い出した。彼の肩の揺れにあわせて、縮れた朱色の髪が細かく震える。対照的な色彩の二人が生み出す、この得も言われぬ圧迫感。この状況は一体何なのだろうと、リンは内心で訝しんだ。あのレーナも、アースも動き出せない現状をどう捉えたらいいのか。ミスカーテとアスファルトが知り合いだというのはわかるが、彼らが口にする『研究』や『作品』が何を意味しているのか定かではない。レーナたちのことを指しているようにも聞こえるが、だとするとそれはどういうことなのか。 
「あんなにわかりにくい誘いに気づく奴、他に誰がいる?」
 不意に、アスファルトはレーナの手を引いた。彼女のかすかな抵抗は意味をなさず、その体はあっさり引き寄せられる。
「無視しようかとも思ったんだがな」
 こうして二人が並ぶと、彼の身長はかなり高いことがわかる。頭一個分以上の差があるせいで、まるで子どもと大人の関係のように見えた。彼女が華奢なせいもあり、その体はすっぽり白衣の中に収まってしまいそうだ。
「ああ、ごめん。どうも馬鹿の基準がわからなくて。それに、神に気づかれても厄介だしね」
 そこでようやくミスカーテが動き出した。世間話でもするかのように歩き出すその様を見ていると、リンはどう対応してよいのかわからなくなる。笑顔のミスカーテは悠然とアスファルトの方に近づいていく。実に気安い口調でさえこの男の場合は油断ならないように感じられるが、肩越しに振り返ったアスファルトは呆れた吐息をこぼしただけだった。それは自信の表れなのか。
 だがアースはそうではなかった。ミスカーテの言動に素早く反応した。いや、もしかしたら違う意図だったのかもしれないが、音もなく地を蹴った彼は真っ直ぐレーナたちの方へと駆け出す。ほとんど低く飛んでいる様な動きだった。
「アースっ」
 レーナは何か言いたげに声を上げたが、アスファルトは一瞥をくれただけで特段何かをするわけでもなかった。駆け寄ったアースは、掴まれたままだったレーナの腕を無理やり引き離す。そしてそのまま彼女を背に庇うようにして後退した。アースの気に滲んでいるのは明らかな警戒心だ。一方、空っぽになった手を見下ろしたアスファルトは訝しげな顔をしている。
「ああ、そうか」
 アスファルトの気のない声が空気を揺らした。静かに歩みを進めていたリンは、息を吐いて立ち止まった。蹴り上げてしまった小石が乾いた地面の上を転がっていく。それは瓦礫の山にぶつかり、軽い音を立てて止まった。
「覚えていないという噂は本当だったのか」
 感情のこもらないアスファルトの淡々とした呟きに、何故だかリンは胸の奥を鷲掴みされたような心地になった。レーナの気がそうさせたのかもしれない。波一つ見せないアスファルトの気とは違い、レーナの気には明らかに痛みを押し殺そうとする気配が滲んでいる。
「噂もたまには当たるのだな」
 不意に違和感を覚えてリンは眉をひそめた。「覚えていない」とはどういうことなのか? 誰が何を覚えていないのか? 疑問を差し挟めるような空気ではないが、今まで断片的に受け取った欠片が胸をざわつかせて仕方がない。それはアースも同じなのか、彼の気にかすかな困惑の色が混じった。しかし彼が何か口にするよりも先に、近づいてくるミスカーテの声が響く。
「それで、アスファルトはどうする気? まさか僕とお喋りするためだけに来たわけではないでしょう?」
 どこか小馬鹿にするような口調に、アスファルトは気怠げに首を捻った。緩やかな風が吹いて、彼の白衣が煽られる。黒衣を翻しながら進み出てくるミスカーテとは、やはり対照的だ。
「お前はどうでもいい。私は私の申し子を連れ戻すだけだ」
 申し子。それは何度か耳にしたことのある単語だった。一体何の申し子なのかはなはだ不思議だったのだが、この男が関係していたのか。そもそもそういった使い方をする言葉なのかと訝しく思っていたのだが、曰く付きなのか? リンにわかることは少ないが、そこに複雑な意味を込めていることは推し量れる。
 つまりこのアスファルトという男は、レーナたちを連れ戻しに来たのか? 今ここで? 考えるだけで心臓の裏側から冷え切るような心境になった。この戦況でそんなことになれば、神技隊はまず間違いなく死ぬことになるだろう。
「そう。それだけなら僕は別に邪魔立てはしないよ。その代わり、人間の技使いの方をもらうから。それならいいでしょう? 君の後ろにいるその子とか、あとは魔神弾が相手にしている申し子そっくりのお嬢さんたちとか」
 朱色の髪を指に巻き付け、ミスカーテは立ち止まった。妖艶に弧を描いた口元から、わずかに赤い舌がのぞく。リンはぐっと奥歯を噛んだ。ここに来たのが正解だったのかますます怪しくなってきた。いや、この場にリンがいなければミスカーテはすぐさま別の神技隊を狙うだけだろう。それならば、何も知らぬ仲間たちに手が伸びる前にここでどうにか食い止めたいところだ。――無謀としか思えない試みだが、やるしかない。
「オリジナルには手を出すな」
 そこでレーナが前に進み出た。アースの手を払いのけるようにして、ミスカーテへと双眸を向ける。その低く抑えた声には得体の知れない感情が滲んでいた。怒気とは言えぬ、不安とも違う、強いて言えばそれは決意に近いのか。
「ほぅ」
 楽しげに笑ったミスカーテは、考え込むように腕組みをする。しかし彼よりも先に声を発したのは、アスファルトの方だった。
「オリジナル……そうか、ちょうど彼らがいる時か」
 全てが腑に落ちたと言わんばかりに、彼は大きく相槌を打った。その動きにあわせて深い緑の髪が揺れる。顎に手を当てて何とはなしに空を見上げる姿は、この場に不釣り合いなほど落ち着いていた。
「その時が来たということか。ならばますます連れ戻さないといけないな」
 そんなアスファルトへと、ミスカーテは興味深そうに一瞥をくれた。その気には面白そうだという単純な関心よりも、何のことを言っているのか知りたいという好奇心が含まれていた。『オリジナル』についてはミスカーテもよく知らないらしい。
「なあレーナ」
 奇妙な均衡から生まれるこの緊迫感に、リンは息を詰めながらも思考を巡らせた。レーナがアスファルトを相手取る状況になれば、アースはそちらに向かうだろう。つまり、このままでは彼女はたった一人でミスカーテの相手をすることになる。どう楽観視したところで生き残れる気はしない。じりっと喉の奥が焼け付くような痛みを覚えた。
「帰るなら一人で帰ってくれ」
 構えたレーナは即座に突っぱねた。神技隊を守るというのが彼女の目的なら、この状況は決してありがたくないのだろう。彼女は明らかにアスファルトとミスカーテ、両者を警戒している。
「そしてお前はこの性悪男と戦うのか? ここで? 本当にお前たちは私を困らせるのが得意だな」
 するとため息をついたアスファルトは頭を振り――ついで、何かに気づいたようだった。リンは瞳を瞬かせる。アスファルトの視線を追いかければ、そこにはネオンの姿があった。先ほどミスカーテに刺された場所で、ぐったり地に倒れ伏している。リンの位置からでは気を失っているのかどうかも確認できないが、まともに動けないのは間違いないだろう。
「本当、扱いが荒いな」
 押し黙る皆を無視して、アスファルトはおもむろに歩き出す。向かった先は、もちろんネオンの方だ。アースが焦るのが目に入ったが、レーナが何もしないためその場を動くべきか逡巡した様子だった。無論、リンに何かをするという選択肢はない。
 皆が動向を見守っているうちにネオンの傍まで辿り着いたアスファルトは、その場に素早く片膝をついた。そしてネオンの顔をのぞき込む。その後の行動は、リンが予想したものとは違った。それはミスカーテも同様のようだった。「へぇ」と呟いて笑うミスカーテをねめつけてから、アスファルトは右手をネオンの上へかざす。ふわりと彼の手のひらから暖かな光がこぼれ落ちた。それが治癒の技であることは、リンにもすぐにわかった。
「治しちゃうんだ。起きたらアスファルトの邪魔するかもしれないよ? 今は僕の毒が効いているけど」
「あれこれ言っても無駄だぞ。私は私の判断でしか動かない」
 からかうようなミスカーテの言葉を、アスファルトはあっさり切り捨てた。この二人の関係は先ほどからこれだ。一方的な興味を示すミスカーテを、アスファルトは全力で面倒くさがっている。
「はいはい、わかってるよ。だからイースト様も困ってるんでしょう?」
 大袈裟に肩をすくめたミスカーテの眼差しが、ちらとリンに向けられた。そこにあるのは獲物をなぶるような色だった。肌が粟立ち、背筋を冷たい汗が伝う。こくりとリンは喉を鳴らした。力の差は圧倒的だ。いくらラウジングの短剣があるとはいえ、この男に敵う気がしない。
「じゃああなたの分も、僕が働いておくね」
 いつまで続くのかと思われた均衡を、打ち破ったのはミスカーテだった。軽やかに地を蹴った彼の右手が、空へと向けられる。その手のひらから生み出されたのは黄色い光だった。それが雷系の技であることを読み取り、慌ててリンは結界を張る。あんなものが直撃したら身動きが取れなくなる。
「こっち来ないでよっ」
 叫ぶと同時に、レーナの気が膨らむのも感じ取れた。しかし彼女が何か技を放つ前に、阻むものがあることも予測できた。案の定、白い刃を生み出したレーナへとアスファルトの気が近づくのがわかる。いや、それくらいしかわからないといった方が正しいか。降り注ぐ雷の矢を結界で防ぐだけで精一杯で、周りを確認する余裕がない。薄い膜越しに輝く鮮やかな火花が眩しかった。少しでも気を抜けば貫かれてしまいそうな重さが、一つ一つの矢に宿っている。
「っく!」
 リンは歯を食いしばり、瞳をすがめる。結界に集中していなければ今すぐにでも破られてしまいそうで、辺りの気を探る余裕もない。それはつまり、ミスカーテの動きすら追えないということで……。
「リン!」
 危険を知らせるレーナの声に導かれるよう、勘に任せて後ろへ飛んだ。すると先ほどまでリンが立っていた地に、黒い光球が着弾する。空間ごと揺さぶるような歪な音を立てながら、それは弾け飛んで消えた。
「もうっ」
 泣きたいのを堪えて、リンは短剣を構えた。もはや何に祈ってよいのかもわからなかった。



「一体何が起きてるの?」
 呻くラウジングの肩をさすりながら、レンカは独りごちた。先ほどから続けざまに『空』から降りてきた気。その正体には全く心当たりがなかった。治癒そのものは終了し、後はラウジングの回復を待つばかり。本当なら誰かにこの場を任せてレンカも飛び出したいところだった。しかし任せるような者は見当たらず、かといってこの場に彼を一人置き去りにするわけにもいかない。結果、ひたすら周囲の気を探る状況が続いていた。
 魔獣弾と戦っているのは滝だ。その傍にカイキとイレイがいるのも把握している。一時、カイキとイレイの気に危うい揺れが感じられたが、滝が積極的に動き出すことで安定してきた。おそらく精神消費量が減ったためだろう。
「滝が無理しなきゃいいんだけど」
 レンカは静かに息を吐く。責任感で動いてしまうし動けてしまうのが、滝のよいところでも悪いところでもある。しかし彼の精神量、体力も無尽蔵ではない。いくら上からの武器があるとはいえ、それを頼みの綱とするのも危険だ。だが、かといって彼が何かしなければあの局面を打開できそうにないことはわかっている。リンがその場を離れたことで、それは決定的となった。
 そのリンはというと、これまた困難な状況のまっただ中にいるようだった。断定できないのは、気のみでは状況がさっぱり読めないからだ。強烈な気がリンのすぐ傍に降り立ったところまでは把握できたが、以降の流れが不明瞭だった。あまりに圧倒的な存在が続けざまに現れたため、布越しに何かを探るような不確かさがある。
「みんな、無事でいて」
 レンカはそっと目を伏せた。不自然な痙攣が止んだラウジングの指先は、今は土を引っ掻こうとしたところで静止している。誰もが満身創痍だ。だからこそレンカは一刻も早く動きたかった。彼女はまだ負傷していない。持久力があるわけではないが、精神容量はある方だと自負していた。だからまだ精神系の技も使える。
「動いて、しまおうかしら」
 もう一度ラウジングの顔を見下ろし、レンカは口をつぐんだ。青い顔で固く目を瞑ったまま、腕を投げ出しているラウジング。美しい緑の髪も衣服も、今は土にまみれて無残な姿になっていた。どうにかしてあげたいという気持ちはあるが、得体の知れない技による負傷を癒すことは不可能だ。傷を塞ぎ精神を安定させるまでが彼女にできる全てだった。後で上の者に何を言われるかわかったものではないが、しかしそれは今を乗り越えなければやってこない未来の話である。
 誰かが死んだら。皆がいなくなったら。町がなくなったら。当たり前にあるものが失われる恐怖を、皆は知っている。だから誰も彼もが必死になっている。しかしレンカはそれを知らなかった。彼女は生まれながらにそういったものを失っていたから、何かが当たり前にあるという経験を持っていない。あるとすれば、それはあのリシヤの森だけか。
「そうね」
 あの森が失われる光景を思い描くと、胃の底が冷えた。生まれ育ったあの場所が、滝と出会ったあの場所が、消えてなくなる日を想像するだけで心が凍る。これ以上奪われたくはない。それは、きっと仲間たちも同じなのだろう。
「わかったわ」
 決意した彼女が立ち上がった、その時だった。巻き上がる砂塵の向こう、右手から近づいてくる小さな気配を感じ取った。はっとしたレンカはすぐさま振り返り、土煙へと目を凝らす。
「たく! コスミ!」
 走り寄って来たのはピークスのたくとコスミだ。近くに来るまで気を隠していたのだろうか? 走り方はぎこちないし、土まみれなところを見ると元気とは言い難いが、それでも覇気を失った顔をしていなかった。血の臭いもしない。
「レンカ先輩!」
 二人の声が綺麗に重なった。頷いたレンカのもとに、二人は駆け寄ってきた。ぜいぜいと荒い息を吐く二人の肩をさするようにして、レンカはおもむろに問いかける。
「何かあったの?」
「ち、違うんです」
「隊長から、ラウジングさんを運んでくるようにって言われまして」
「それで来ましたっ」
 息を整えつつ口々に説明する二人を、レンカはまじまじと見つめた。まさかこのタイミングで来てくれるとは想像しなかった。まるで自分の思いが届いたかのようだ。
「……そうだったのね」
 ピークスにも余裕はなかったはずだが、魔神弾の動きが変化したからだろうか。縦横無尽にミリカの町を荒らしていた魔神弾の鞭が、先刻から止まっていた。魔神弾の傍にいる梅花たちが何かしたのかもしれない。
「じゃあラウジングさんは任せるわ」
 二人は大丈夫なのか。体力や精神は残っているのか。確認したいことはある。仲間たちの安否についても問いかけたい。けれども今はもっと優先しなければならないことがあった。――仲間は誰一人欠けて欲しくない。ここに駆けつけてきてくれたこの二人の思いも、きっと同じに違いない。
「私は戦場に戻るから」
 まずは滝のところだ。あの強烈な気の持ち主たちを追い返すよりも、魔獣弾に退却してもらう方が現実的だった。精神系の技は効果があるから、勝機は必ずあるはずだ。いくら魔獣弾でも体力は無限ではないと思いたい。
「はいっ」
「頑張ってください!」
 朗らかに響く二人の声援に、レンカは首を縦に振った。祈るように見上げた先の空は、やはり灰色だった。

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