white minds 第一部 ―邂逅到達―

第八章「薄黒い病」5

「アルティード殿!」
 背後から呼び止める声が響き、アルティードは振り返った。考え事はしていたが、気が近づいてきているのには気づいていた。ただ、用があるのが自分だとは思っていなかった。
「ラウジングか」
 白い廊下の向こう側から駆け寄ってくるのはラウジングだ。その顔に焦りがあることは、確認するまでもなく明らかだった。上ずったこの声の調子は最近よく耳にしている。小走りで近寄ってくるラウジングを、アルティードは足を止めて待ち受けた。
「お忙しいところすみません。先ほど下から連絡があったのですが。……もう耳にしましたか?」
「いや、今までケイルと話し合っていたからな。何かあったのか?」
「例の騒動が、広まっているようなのです」
 立ち止まったラウジングは、乱れた髪を整えながらそう告げた。例の騒動というだけでアルティードも察する。『下』で現在問題になっていることといえば、バインでの奇病騒ぎだ。そこにどうやら魔族が関わっているのではないかとの見方が濃厚になっている。
「広まっているというのは、どの辺りまでなんだ?」
「どうやらバインの南西に位置するイダーでも、発症者が確認されたようです」
 答えながら、ラウジングは視線を下げた。相槌を打っていたアルティードは、眉根を寄せて腕組みをする。『下』のおおよその位置関係なら彼も把握している。バイン、イダーの流れで広まっていると考えると、一つ予測できることがあった。
「この流れを見ると、潜伏地としてはナイダの谷か山が怪しいな」
 イダー、バインの直線上に位置しているのはそこだ。ナイダは空間の歪みがあるため気を辿りにくい場所でもある。以前に魔獣弾が出没していたことを考えると、その可能性がにわかに高まってきた。あそこに人間が足を踏み入れることはないし、神とて気軽には立ち寄らない。
「私もそう思います。……踏み込みますか?」
 問うてくるラウジングに、アルティードは首を横に振った。焦る気持ちは理解できるが、迂闊に動くには危険だった。神技隊からの報告に間違いないのであれば、魔獣弾の背後にいるのはミスカーテという魔族だ。それは以前、シリウスが報告していた例の魔族の科学者の名前と同じだった。
「いや、今は危険だ。できたらシリウスが戻ってきてからの方が望ましいな。まさかレーナたちをあてにするわけにもいかないしな」
「……彼女は、来ると思いますが」
 言いにくそうに口ごもるラウジングから、アルティードはあえて視線をはずした。確かに、あのレーナならば来るだろう。今までの行動から推測するに、まず確実に。しかしそれでも相手がミスカーテとなると敵うかどうか。
「ああ。だが相手はミスカーテと名乗る、プレイン直属の者だ」
 プレインと聞いて、震え上がらない者などいない。ラウジングはまだ直接的にはその恐ろしさを実感したことがないのだろう。だからそんな意見を口にすることができるのだ。
 かの大戦にて魔族を率いていた五人のうち一人。橡色の軍師などと呼んだのは誰だったのか。そんな異称では到底表しきれないのが、プレインという男の恐ろしさだ。彼は味方でも平気で切り捨てる。必要とあらばどんな手段も講じる。それはアルティードたちの予想をいつも裏切った。
 そんなプレインの直属が務まる魔族が多くないことくらい、容易く予想できる。実際、プレイン直属の者は少なかったらしいし、いても大戦の最中で大半が死んでいった。自分の身よりも魔族の存続を最優先とするのがプレイン派の主義だ。それを考えれば納得の結果だったが……そこを乗り越えてなお生きている直属となると、実力は推して知るべしだろう。
「迂闊に動けば、誰かが死ぬと?」
「――いや、誰かですめばいい。全滅の可能性もある」
 思わず本音がこぼれ落ちた。青ざめたラウジングはその場で硬直する。さすがにそこまでとは想像していなかったのだろう。やはり彼は五腹心の、その直属の強さというのを知らない。深々と嘆息したアルティードは、ついでわずかに口角を上げた。
「今は転生神もいないのだ。五腹心やその直属の相手ができるのは、シリウスくらいと考えていい」
 それは実戦経験を含めてのことだった。アルティードでさえ、五腹心やその直属級を相手取ったことはない。一度だけ、準直属級の魔族と対峙したくらいだ。――あの時は死を覚悟した。
 顔を強ばらせたままのラウジングは、曖昧に首を縦に振っている。怯えさせたいわけではないが、危険性は理解してもらわなければ。そうでなければ、命を落とす者が増えるばかりだ。戸惑うラウジングの肩を叩き、アルティードは破顔した。どれくらい危険なのか認識した上でなお動かなければならないというのは過酷だ。だが今それを彼らは引き受けなければならない。
「そう、ですか……」
「だが無論、臆しているばかりでも駄目だな。幸か不幸か、彼らは今すぐ動くつもりはないらしい」
 アルティードにとってはそこが怪訝に思うところでもあった。直属級の魔族ともあろう者が、巨大結界の内側に入り込んでなおおとなしくしているというのが解せない。それだけ地球の神を警戒しているのか? いや、気に掛けているのはレーナたちか?
 実際にミスカーテが何を考えているのかはわからないが、すぐに動き出していないというのはアルティードには幸いだった。もうじきシリウスが来る。それまで持ちこたえれば勝機はある。
「我々が気を配らなければならないのは、隙を見せないことだ」
 できる限りの備えと、できる限りの策を。今までと変わりはない。が、決して疎かにしてはいけないところだ。アルティードの言葉に応えるよう、ラウジングはかろうじて笑みとわかる程度に頬を緩ませた。アルティードは大きく頷き、そっと瞳をすがめた。



 日が傾き始めると、裏庭での訓練が終わる。そうなると次は夕食の準備だ。今日の夕食当番はピークスであった。そのため先にシャワーをすませたジュリたちは調理場へとやってきていた。限られた材料と限られた調理器具で用意できる食事などたかが知れているが、逆に考える余地などなく。大量の芋と早く食べなければ傷んでしまいそうな肉があった時点で、半強制的にシチューに決まった。ジナルの者たち用のパンはいつも余るらしく、それが夕方には支給されてくるので、その点も考慮した。
 いつからあるのかわからない大鍋の中をかき混ぜつつ、ジュリはため息を飲み込む。訓練の後の皮剥きで疲れ切った仲間たちはぼんやり顔だった。だから仕上げは任せろとばかりに、先ほど無理やり部屋に帰した。幸いにもパンを運ぶという役目があるので、それを理由にして。できあがる頃には誰かが様子を見に来てくれるだろう。この大鍋たちを運ぶのは、ジュリ一人では無理だ。
「ほとんど具のないシチューって、シチューと呼んでいいのでしょうか」
 どうでもよいことを独りごちるのは、考えたくない出来事から離れたいからに違いない。かき混ぜる動きにあわせて揺れる袖をぼんやりと見つめながら、ジュリは苦笑を押し殺す。バインを訪れてからというもの、どうも思考が過去に戻りやすくなった。ウィンに置いてきた妹のことも、今さらながら気に掛かる。
 突如奇病が大流行したのは、妹が生まれる前のことだった。ジュリもまだ子どもだったし、リンはさらに子どもだった。もっと小さな技使いたちの面倒を見ながら日々楽しく暮らしていた。あの平穏がずっと続くものだと思いこんでいた。
「――ジュリ」
 そこで忽然と呼びかけられ、はたとジュリは我に返る。振り向くのと同時に、ずいぶんぼんやりしていたことを自覚した。気を察知するどころか足音にすら気づいていなかった。ここが宮殿でなければ自己嫌悪していたところだ。振り返った先にいるよつきへと、ジュリは取り繕うよう微笑みかける。
「ああ、よつきさん」
「そろそろですか?」
「ええ、そうですね。もうちょっとです」
 パンを届け終わって様子を見に来てくれたのだろう。コブシやたく、コスミはいないようだった。隊長隊長と慕われているのだからこういう時くらい使ってもいいだろうに、よつきは決してそうはしない。命令どころか何かを頼むことさえ苦手としているように見える。場を仕切ることも、本当はやりたくないに違いない。
「そうですか。ああ、いい匂いですね。野菜はあれしかなかったのに」
「ええ、余り物を見つけて。ちょっと工夫してみたんです」
 感傷に浸っていたのをごまかせただろうか。何気ない調子で鍋へ視線を戻そうとすると、その横によつきが立った。だが鍋をのぞき込むわけでもなく話しかけてくるわけでもなく。そこはかとなくジュリは居心地の悪さを覚える。ちらと視線を転じれば、何か言いたげな双眸が向けられていた。長身のよつきが相手だと、女性としては十分背の高いジュリでも見上げるような姿勢を取らざるを得ない。後ろで括った髪が、ワンピースの背を撫でた。
「よつきさん、どうかしましたか?」
「いえ、この頃元気なさそうなので」
 遠慮がちな指摘に、ジュリは思わず閉口する。リンとは違って元から元気いっぱいという性格ではないため、気づかれてはいないと思っていたが。駄目だったようだ。それもそうかとジュリは内心で納得する。ピークスに選ばれ、宮殿での『事前学習』が始まってからもう一年弱だ。無世界に派遣されてからを考えても、そろそろ半年が近づいてきている。これだけ傍にいるのだから仕方がないのか。
「あー、ちょっと……」
「奇病のことですか?」
 それでもいきなり核心に踏み込まれるとは思ってもみなかった。思わずかき混ぜる手を止めて、ジュリは唇を引き結ぶ。気遣わしげなよつきの眼差しが妙に痛かった。誰かにこういう顔をさせるのは昔から苦手だ。
「――ええ、まあ」
「ウィンの被害が一番ひどかったんですよね」
 目を伏せたジュリは、もう一度鍋を見つめる。シチューの白さが何だか眩しく思えて、息を詰めそうになった。よつきの言う通り、あの奇病で最も大きな被害を出したのはウィンだ。その次が周囲にあるヤマト、イダー、アールだろう。よつきはアール出身だしジュリよりも年上だから、当時のことはよく記憶しているに違いない。
「そうですね」
「ジュリは、あの時のことを覚えているんですか?」
 単刀直入な問いかけに、ジュリは静かに頷く。忘れるわけがない。だがしかし、どこまではっきり覚えているのかと聞かれたら首を傾げるかもしれない。ジュリはその時まだ十歳にもなっていなかった。それでも全てを一変させた事件は記憶にこびりついている。
「爪痕が大きすぎて、覚えているって表現でいいのかもわかりませんが。あれを境に世界が変わりましたからね」
 ゆっくりと手の動きを再開しながら、ジュリは言葉を選ぶ。あの奇病でやられたのは、何故か大人たちだった。それも技使いが大半だった。ジュリの両親はかろうじて命を取り留めたが、しかしあれが原因で体を壊したのは確かで。母は妹を産んですぐに亡くなった。過労がたたった父も、その後を追うように亡くなった。あっと言う間に妹と二人取り残されてしまった。
 けれどもそれを嘆くこともできなかった。周りにはそのような子ども達が大勢いた。自分ばかりが悲しみのただ中に置かれたわけではない。もっともっと幼い子が一人きりになっていた。手を差し伸べる大人の数も足りなかった。だからジュリは、大人の代わりをするしかなかった。
「もっと自分に力があったらって思ったのは、あの時が初めてなんです」
 この手で妹を守らなければならない。周りを支えなければならない。消え去ってしまった平穏を取り戻さなければならない。しかしジュリには力が足りなかった。自分の悲しみを外に出さないようにするだけで精一杯だった。もしもあの時リンがいなければどうなっていたのか、考えたくもない。
「力がって……まだジュリは小さかったですよね?」
「そうですね。でもそれを言ったら、リンさんの方がさらに年下ですから」
 実力がある技使いの少女。それだけだったはずのリンが変わったのはあの時だ。リン自身も頼りにしていた父が倒れ、辛かったはずだった。それでも彼女は世界を取り戻すことを諦めなかったし、立ち上がって傷つくことも恐れなかった。大人の技使いたちがいなくなって途方に暮れていた長の力にもなった。彼女はまさしくあの時、たった七歳で、ウィンの救世主になった。
「リンさんが強いなって思ったのもあの時なんです。支えなきゃと思ったのも。たぶん、リンさんを旋風にしたのはあの奇病です」
 だがあの時は支えきれなかった。ジュリの力は不足していた。だから今度は、今度こそはしっかりしなくてはいけないのに。こんなことで動揺してはいけないのに。
 それなのにバインで見たミスカーテの瞳を思い出すだけで胃が縮む思いがする。あのねっとり絡みつくような眼差しともう一度対峙することを考えると、指先が震えそうになる。バインの奇病はイダーにまで広がっているという。もしもそれがあの魔族の企みなら、これで終わるはずがない。必ず相見える時が来る。わかっているのに、考えるだけで気が重くなるのだから困りものだ。
「ジュリ」
 肩に置かれた手が、ジュリの動きを止める。よつきの顔を見上げるのが何故だか怖くて、それでも無視するわけにもいかなくて、ジュリは逡巡した。恐る恐るそちらへ目を向けると、唇を結んだよつきが何か言いたげにしている。見慣れない表情だった。穏やかながらも時折悪戯っぽい光を宿した双眸が、今はどこにもない。
「わたくしたちも同じですから」
「……え?」
「自分にはどうしようもないと思い知らされたのは、あの時が初めてです。今また同じように無力感を感じているのも、バインで同様のことが起きたらどうしようと思っているのも、ジュリだけじゃありませんから。だから、一人で考え込まないでください」
 とても単純でわかりやすく、真摯な言葉だった。目を丸くしたジュリは反射的に首を縦に振る。すとんと胸の内に落ちてくるこの感覚が、妙に懐かしい。
「わたくしでは頼りないかもしれませんが、でもここにいるのはリン先輩だけじゃあないんですよ。だから一人で頑張らないでください」
 照れ笑いしたよつきの手が、そっと離れていく。もう一度頷いたジュリは、肩の力を抜いて破顔した。そうだ、今このいかんともし難い状況に翻弄されているのは自分一人ではない。どうにかしなければと足掻いているのも一人ではない。リンを支える手だって一つではない。つい、昔とばかり比べてしまっていた。精神の平穏を保つことも技使いとしては重要なのに、それを忘れかけていた。大事なことを思い出させてくれた彼へ、ジュリは微笑みかける。
「ありがとうございます、隊長」
「……えっ?」
 そう答えれば、よつきは思い切り上ずった声を上げた。若干その頬が引き攣ったのは、見間違いではないだろう。悪戯っぽく笑ったジュリは、シチューをかき混ぜつつ頭を傾けた。
「今のはまさに隊長でしたね。だから、頼りないなんて言わないでくださいね」
 やられたと言わんばかりのよつきの笑い声に、ジュリは小さく首をすくめてみせた。いつもの調子が戻りつつあることが、今は何より嬉しかった。

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