white minds 第一部 ―邂逅到達―

第八章「薄黒い病」6

「ミリカの町に!?」
 喫驚するケイルの声が白い回廊で反響した。腕組みしたアルティードの肩を、眼を見開いたケイルが強く掴んでくる。頷いたアルティードがその手を引き剥がすと、ケイルは姿勢を正しながら鼻眼鏡を指で押さえた。取り乱す気持ちは理解できるが、縋られても困る。アルティードはどうにかため息を飲み込んで首の後ろを掻いた。
「ああ、そうだ」
「バインでもイダーでもなく?」
「ミリカだ。現れたのは、魔神弾だ」
 念入りに警戒していたバインでもイダーでもなく、騒ぎが起きたのはミリカだった。だがその理由はじきに理解できた。動いたのは魔獣弾ではなく魔神弾だ。魔神弾と相見えたカルマラの報告では、まともな状態ではないらしい。同じ半魔族である魔獣弾の声も届いていないようだった。つまり、魔神弾は何かを企んでミリカに現れたのではないのだろう。そう考えるしかない。
「魔神弾? ああ、失敗作という奴か」
 ケイルの目にも理解の色が灯る。ミリカはバインやイダーからは遠く離れた――大河を挟んで西にある地域の一つだ。西側の中では最も北寄りに位置している。どちらかというとのどかで、技使いも少ない場所だった。
「海を渡ってきたのか?」
「その可能性もあるが、わからない。逃げ込んだのは亜空間のはずだったからな。おそらくミリカだったのは偶然なのだろう」
「そうか。それでアルティード、被害の方は?」
「民家が幾つか。一般人にも怪我人が出ているそうだ。何せ、宮殿の技使いが奇病にやられているからな。人手不足だ」
 アルティードは奥歯を噛んだ。町の中心に突如として現れた魔神弾は、どうやら無差別に周囲を攻撃しているらしい。いや、ひょっとすると攻撃しているというつもりもないのかもしれない。しかし彼が技を放てば民家は破壊されるし、人々は怪我をする。それはどうしようもないことだった。幸いなのは、今のところ死人が出ていない点だけか。
「仕方がないので先ほどカルマラが向かった」
「カルマラで大丈夫なのか?」
「彼女しかすぐに動ける者がいなくてな。これからラウジングも向かう」
 本当は、ラウジングを出したくはなかった。だがリシヤやナイダとは違い、今回はごくごく一般の人間が暮らしている街中での戦闘だ。ここで手を抜くことは許されない。それは後々にも影響が出る。人々の間に不信感が膨らむような事態は避けたい。
「神技隊は?」
「ラウジングを通じて向かわせてはいる。気は進まないが今回ばかりは仕方ないな」
 魔神弾のことはよくわかっていない。その実力も推し量れない。しかし概して理性のない者の行動というのは読めないものだ。少しでも被害を食い止めるためには、とにかく人手がいる。
「ケイル、一般人の避難について頼めるか?」
「そうだな、そちらは私の部下にやらせよう」
 魔神弾が現れたのは偶然だと思うが、ここに魔獣弾が絡んでくる可能性は否定できなかった。意思疎通が図れなくとも利用してくる可能性はある。魔獣弾にとっては好都合に違いなかった。
 だから魔獣弾が決断するより早く動かなければ。そのために、やむを得ずカルマラもラウジングも行かせた。神技隊まで向かわせればレーナたちが動くだろうという目論見もある。――卑怯な手かもしれないが、手段は選んでいられない。魔族という存在は、普通の人々には知られていない。この件が彼らの目にどう映るのか、想像するだに恐ろしかった。
「ジーリュの部下たちは動かないだろうか……いや、どのみち今からでは間に合わないか。ケイル」
「念のため伝えておこう。ああ、そうだアルティード。ラウジングにだが」
 踵を返そうとしたケイルは、途中で思いとどまった。茶色いマントが翻りバサリと乾いた音を立てる。何か嫌な予感を覚え、アルティードは固唾を呑んだ。
「先日、またエメラルド鉱石の剣を渡してある」
 放たれたのは端的な一言。その重さと宣言された意味を受け止めて、アルティードは歯噛みする。その武器は、確かに必要だ。万が一ミスカーテが現れたとしたら、武器無しには対抗できないだろう。ラウジングは破壊系を使えないし、精神系もさほど得意ではない。それはカルマラも同様だった。
「……そうか」
「他の武器もいずれ調整せねばならないな」
 ケイルは真顔のままそう言い放ち、アルティードを置いて足早に去っていった。その後ろ姿を肩越しに見送り、アルティードは瞳をすがめる。あの剣をラウジングは使うことができるのだろうか? カルマラに武器を持たせるのは危険極まりないのでラウジングに託すしかないのだが、それでも不安は拭い去れない。
 後悔の念を抱えたまま、不安定な気持ちのまま、戦場に出るのは危険だ。それは彼らの足を引っ張る。
「無事でいてくれ」
 願う言葉が、白い回廊へと染み込んでいく。銀の髪を掻きむしりたい衝動を堪え、アルティードも歩き出した。



 ミリカの町は惨憺たる有様だった。破壊された家屋の残骸がそこら中に散乱し、所々に血の跡が見受けられる。あちこちから呻くような声、泣き叫ぶ声が反響し、つい数刻前まで平穏な時間が流れていたとは到底想像もできない。
「いた!」
 そんな場所へ自分たちが派遣される意味について、考えないわけではない。しかし奇病の記憶が色濃く蘇った今、シンの中に躊躇いはなかった。前触れもなく、理不尽に命が奪われるのを黙って見過ごすことなどできるわけがない。ただ事態を泣きそうな顔で傍観していた子どもの頃とは違う。『宮殿の命』という理由に、神技隊という肩書き、そして実際に動くことができる力を持っている。たとえ何かが起きたとしてもできる限りのことをしたのだという思いに到らなければ、後悔が深まりそうな気がしていた。
 それは誰もが同じだったのだろう。ミリカに向かう途中も、辿り着いてからも、文句を口にする者はいなかった。バインの時とは明確に違う、危機が押し迫っているという感覚故だ。張り詰めた空気の中、皆は懸命に走る。
「フライング先輩は右手の避難を! ピークスは後方で援護。オレたちとシークレットは突撃だ」
「滝先輩、私たちは!?」
「スピリットは臨機応変に頼む。任せるからなっ」
 先頭を行く滝から思わぬ指示が入った。先陣を切るのがストロング、シークレットというのはわかる。ストロングでは滝とミツバが上からの武器を借り受けているし、シークレットには青葉と梅花がいる。武器のない、回復したばかりの者たちが多いフライングに避難を一任するのも理解できる。ピークスが援護なのも想像の範疇だった。
 しかしシンたちが臨機応変にというのはどういうことなのか。それはつまり、広く見ていろということなのか?
 大通の前方に、魔神弾の姿がある。そこに向かって真っ直ぐ滝たちは突っ込んでいく。今までであれば様子を見てから動き出すところだが、一般人がいるとなると躊躇いすら見られない。ある種の危うさを孕んだ行動だった。もっとも、シークレットに限ればいつものことかもしれないが。
「シンっ」
 そこで斜め後ろからリンの声がする。走りながらでは思い切り振り返ることもできないが、その声の響きからシンは異変の臭いを察知した。彼女がこんな風に彼の名を呼ぶ時は何かがある。少しだけ速度を落とすと、リンは左手へと腕を伸ばした。
「左側に妙な気配があるわ」
 そう言われて気を探ってみたが、シンにはよくわからなかった。前方の魔神弾の放つ技の気配が濃厚すぎて、それに掻き消されている。だがリンが何かを感じたのなら警戒する必要がある。頷いたシンはちらと後方を見遣った。
「ローライン、結界の準備を。オレたちはあの辺で一旦待機だ」
 瓦礫だらけの道へと踏み込んでしまっては駄目だ。臨機応変にというなら、まだ開けた場所で全体を見渡す必要がある。魔神弾のことは滝たちに任せておけばどうにかなるだろうと、シンは開き直ることにした。そもそも人数が多すぎてもうまく動けない。
「美しくないですね」
 立ち止まったローラインが顔をしかめる様が視界に入る。シンも足を止め、辺りへと気を配った。隣にいるリンはじっと左手を睨み付けている。先日のジュリといい、この手の違和感を捉えるのはリンの方が得意だ。シンは腰から引き抜いた長剣を構え、息を整えた。
「これは……魔獣弾の気配」
 絞り出すようなリンの声に、シンは固唾を呑むことで答えた。魔神弾がいるなら魔獣弾がいてもおかしくはないと思っていたが、この騒ぎに乗じて何か企んでいるのだろうか。あの薄暗い笑みを思い浮かべ、シンは眉根を寄せた。魔獣弾は見つからないように隠れているのか? それならば何故?
 不意に、魔神弾の咆哮と思しきものが鼓膜を揺さぶった。空気を伝ってくる強い技の気配に、つい気を取られそうになる。滝たちは大丈夫だろうか?
 しかしシンたちの役目は加勢ではない。滝に言われた通り、彼らはとにかく臨機応変にだ。想像だにしない何かが生じるのに備えて動かなければならない。守りはローラインに任せているから、今は攻撃の気配に敏感になるべきだ。
「あそこ!」
 と、そこでリンが声を張り上げた。彼女の指さした方、家屋の向こうで青い光が明滅するのが見えた。同時に肌に感じられるこの圧迫感。それが青い風が生じる際のものだと察した時には、ローラインが結界を生み出していた。
 吹き荒れてきた青い風は、建物のせいで威力を削がれていた。そのおかげで、ローラインの結界でも難なく弾くことができた。しかし油断はできない。その後に魔獣弾本人、もしくは黒い針が迫ってくるのがいつもの流れだ。
「シンっ」
 案の定、前方から迫り来る技の気配が感じられる。それが無数の黒い針であることを察知し、シンは剣を構えた。その横でリンの右手が動くのが見える。振り上げられた手のひらから生み出されたのは突風だった。それは一筋の鞭のように自由自在にうねり――黒い針の軌道を変える。
「おう!」
 リンの意図はすぐに読み取れた。大半の黒い針は進むべき方向を違えて、石畳や家屋に突き刺さる。しかし全てとまではいかない。一歩を踏み出したシンは、その残りの針目掛けて剣を振るった。使い慣れていない大剣だが、それでもここしばらくの訓練である程度は使いこなせるようになった。うっすらと青い光を纏った刃は、迫り来る黒い針を次々と叩き落とす。
 上や梅花の言う通りだ。この武器ならば技をも防ぐことができる。それが確かめられて一安心だった。
 体勢を立て直しつつ、シンは剣を構え直す。次はきっと魔獣弾自身がやってくるはずだ。空からか? それともまた技を放ちながらか? 石畳と靴の擦れる音がやけに耳障りに響く。脈打つ心臓の音が強く意識された。
「上っ!」
 リンの声が鼓膜を叩いた。やはり空からか。降り注ぐ黒い針の気配に、シンは奥歯を噛んだ。この量を剣のみで防ぐことはできない。しかしシンでは結界も間に合わない。
「ローラインっ」
「わかりました!」
 それでもリンは冷静だった。ローラインへのかけ声と同時に、自身は両手を空へと掲げる。彼女の手のひらから再び風が巻き起こった。空からの攻撃となると、ただ弾くだけでは周囲にも影響が出る。それでもリンは躊躇わなかった。渦を巻くようにして広がっていく風の動きが、その軌跡が気として感じられる。それはまるで大判の布でいなすように、黒い針を絡め取った。
 勢いが失われれば、数が減れば、ローラインの結界でも防ぎきることができる。そうなると次は――。
「来たな」
 やはり、魔獣弾本人の登場だ。黒い針を追いかけるように急降下してきた魔獣弾へと、シンはおもむろに剣を向けた。接近戦となると彼がどうにかするしかないが、今は援護のことは考えなくともいいだろう。シンが何かを判断するよりも、きっとリンたちの方が早い。そこは任せるべきだ。
 動く場所を確保するため、シンは前へと飛び出す。石畳を強く蹴り出すと、リンの生み出した風の残渣が彼の髪をかすめた。そのさらに前方に、魔獣弾が降り立つのが見えた。険しい双眸がひたとシンを見据えているのがわかる。その手が動き出すよりも早く、攻撃に転じなければ。シンは身に風を纏わせながら剣を振り上げた。
 腹から絞り出した声に乗せるように、まずは一閃。大振りの一撃を、魔獣弾はすんでのところでかわす。その気からは怪訝な色が見え隠れしていた。この武器の存在に対してだろうか。
「まさかっ」
 さらに斬り上げるよう剣を振るうと、魔獣弾の苦々しい声が響いた。シンにとってはただ重いだけの剣としか思えないが、魔獣弾は何か感じ取ったのかもしれない。それともシンの行動から予測したのか。
 切っ先が触れそうというところで、魔獣弾は結界を生み出した。透明な膜の上を滑るように剣の軌道が逸れる。耳障りな高音が辺りの空気を震わせた。
「小賢しいことを」
 呪詛のような魔獣弾の悪態が、シンを勇気づけた。これなら行ける。一方的にやられたりはしない。
 どこかでまた家の崩れる音が、地響きとして伝わって来た。ミリカの町から、確実に平穏は失われていた。

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