white minds 第一部 ―邂逅到達―

第六章「鍵を握る者」3

 控えめに戸を叩く音で、青葉は覚醒した。寝入りばなであり、耳が敏感に反応してしまったらしい。昔からの癖で外を見て時刻を確認しようとし、そこで周囲には白の壁しかないことを認識する。ここは宮殿の一室だ。窓などない。慌てた彼が時計型通信機で時刻を確認するのと、扉が開かれるのは同時だった。
「誰か起きてます?」
 遠慮がちに開けられた扉から梅花が顔を出す。気を抑えているのは念のためなのだろうか。青葉は薄い毛布を急いで剥ぎ取った。そのまま慌てて立ち上がったが、頭は半分眠りの中にある。思考が鈍い。まだ五時前と、早朝と呼んでも差し支えのない時間だった。青葉はちらと周囲を見回してから扉へ近づく。
「どうかしたのか? 滝にいならさっき眠ったところだけど」
「そうなの……」
 端的に答えると、梅花の顔が曇った。やはり用があるのは滝だったのか。相談事だろうか。彼女は中の様子をうかがってから、困惑気味に青葉を見上げてくる。いや、不安そうにと言った方が正しいか。
「どうも、リシヤの森の奥で、戦闘が起きているみたいなの」
「……え?」
 そう言われて、青葉は即座に気を探ろうとした。だが無理だった。宮殿にある余計な気配が邪魔をして、彼にはうまく感知できなかった。つい顔をしかめると、梅花は「ああ」と声を漏らす。
「ここからじゃあわからないわ」
「じゃあ梅花はどこに行ってたんだよ」
「宮殿の大門のところよ。――ちょっとした偵察」
 少しだけ視線を逸らしたのは、その発言が怒られる材料になるとわかっていたからだろう。自覚があるなら止めて欲しいものだと、青葉は瞳をすがめる。しかし今その点を指摘しても仕方がない。優先順位を間違ってはいけなかった。
「で、戦闘が起こってるって?」
「そう。明らかに誰かが戦っている感じだったわ。そういう気の膨らみ方や動きだった。しかも複数」
 梅花はわずかに目を伏せ、きつく唇を引き結んだ。彼女の気に表れているのは懸念と疑念だ。森にいるのが誰なのか、具体的な人物がその脳裏にあるのだろう。青葉は彼女の頭にぽんと手を乗せた。嫌がられる素振りがなかったのは、それどころではないせいか。
「レーナたちなのか?」
「……リシヤの森の方だから、そこまでは。それに、妙な気があるの」
 明言はしなかったが、梅花はその可能性も考えているに違いない。言い淀んで考え込む様子から、青葉はそう判断する。一体誰が戦っているのか、様子を見に行きたいのは山々だ。しかし彼らは今日の夜まで待機命令を受けている。勝手に出て行くのはまずい。
「やっぱり、上が動いているみたいなの」
 ぽつりと呟かれた言葉が、静かな空気に染み入る。梅花が何かを恐れているのが感じ取れた。そして何が起こっているのか確かめたいと思っていることも。けれどもここで動いていいものなのかどうか。
 判断できず戸惑った青葉が視線を外すと、いつの間にか目覚めていたシンと目が合った。シンも複雑そうな顔をしている。皆、思いは一緒というところか。
「宮殿を出るなって話は、今日の夜までだったよな」
 確認する青葉に、梅花は頷いた。つまり上は夜までに何かを成し遂げるつもりなのだろう。それがこの戦闘なのか? だとしたら何故? 神技隊には踏み込まれたくないのか? 疑問は膨らむばかりだ。今までは散々利用しておいて急に手のひらを返すとは、実に身勝手だった。
 青葉が小さく唸ると、室内で幾つかもそもそと毛布の固まりが動く。それをよい機会とばかりに、やおらシンが立ち上がった。首を捻った彼は右手で髪を整えつつ、眉尻を下げる。室内へ目を向ける横顔には疲れが滲んでいた。
「どうにかできたらいいんだが、こっちもこの状況だしなぁ」
 シンのぼやきに、青葉は相槌を打つ。まだ早朝ということもあり、みんな寝入っている。怪我の影響もあるため、疲労している者が大半だ。ここでさらに戦闘に巻き込まれて負傷者が増えるような事態になると……本当に身動きが取れなくなってしまう。本来の目的が何であったのか忘れてしまいそうだった。
「そうですね」
 同じように考えたのか、梅花は静かに首肯した。手を離した青葉は、そんな彼女の顔をのぞき込む。憂慮の色を宿した瞳からは何かを押し込めた気配が漂っていて、衝動的に抱きしめたくなった。それでもぴくりと指先が動いただけですんだのは、シンのため息が聞こえたからだ。青葉は屈めた背を伸ばし、口をつぐむ。
「ところで、女性部屋は誰も起きてないのか?」
 青葉が押し黙っていると、声を潜めたシンが気怠げに壁にもたれかかった。彼がちらと見下ろした先には、気難しい顔のまま眠る滝がいる。腕組みして胡座をかいたままの体勢は窮屈そうに見えるが、起きる気配はない。すると梅花は曖昧に頭を傾け、躊躇いながらも口を開いた。
「はい、たぶん。ただこっそり抜け出すつもりが、もしかしたらリン先輩には気づかれたかもしれません。近くにいたので」
 まだ眠っている人の方が多い時刻だ。疲労は溜まっているはずだが、この状況だから眠りの浅い者がいてもおかしくはないだろう。シンは考え込むように相槌を打ってから、耳の後ろを掻いた。
「そうか。なら少人数で勝手に動くわけにもいかないし、もうしばらくは様子見だな」
 シンの言葉は正論だった。今ここで青葉たちが宮殿を飛び出し、そして戦闘に巻き込まれたら。怪我人が増えるばかりでなく、何が起こっているのか他の仲間に知らせることも不可能になる。迷惑をかけ、不安を増大させる一方となってしまう。迂闊な行動は慎むべきだった。
「――そうですよね」
 しかし頭ではわかっていても心の底から納得できないのはどうしようもなく。再び目を伏せた梅花の憂いに満ちた声が、青葉の気分をも沈ませた。どうにかしてやれるのならどうにかしたい。だが良案は浮かばなかった。
「とりあえず、何かあればすぐに動けるようにはしておこう」
 静かに微笑んだシンは、そう言ってもう一度辺りを見回した。梅花の気持ちはわかっていると、このまま翻弄されたままでいるつもりはないと、宣言するような声音だった。つられるよう彼女が破顔する。予想もしない変化に、青葉は内心で動揺した。
「わかりました」
「おい梅花、また勝手に外に出るなよ?」
 小さく頭を下げた梅花に、青葉は咄嗟に釘を刺す。狼狽えたせいでつい口癖のような忠告が飛び出してきた。顔を上げた彼女はわずかに体を硬直させ、「わかってる」と言葉少なに答える。彼の意図はどうであれ、警告しておいたのは正解だったようだ。どうにか嘆息するのを堪えると、彼女は一度シンの方へ向き直る。
「お休みのところ失礼しました」
 軽く一礼した彼女は、踵を返しそそくさと歩き出した。これ以上小言を浴びるのはごめんとでも思ったのか。揺れる長い髪の軌跡を、青葉は目で追う。
「妙なことになってなきゃいいんだけどな」
 小さな後ろ姿が扉の向こうへ消えていくと、シンの呟きが部屋の空気を揺らした。苦々しい響きがずしりと青葉の肩にものしかかる。そう願いたいところだが、希望的観測のような気がしてならない。同意の言葉を口にするのも躊躇われ、青葉は力なく頭を掻いた。



 草木の焼けていく音が聞こえるようだった。息をするのも苦しくなるような熱気に、拭っても拭っても汗が止まらない。手足も重い。血と汗を吸って重くなった額の布さえ煩わしかった。
「ひどいな」
 それが何に対する発言なのか、アース自身にも定かではない。彼は長剣を携えたまま、周囲へ視線を走らせた。辺りに人影はない。先ほど剣の柄で叩き伏せた男が、足下で呻くばかりだ。あとはただひたすら燃え盛る炎、焦げ臭い煙を上げる下生えが広がっていた。踊るように天へ昇ろうとする火の粉を横目に、彼は草を強く踏みつける。
「見失ったな」
 ブーツの踵で土を抉るように蹴り上げ、アースは舌打ちした。「ブルー」を解除したのはやはり間違いだったかもしれないと、今さらながら後悔する。敵も、仲間も、居場所が掴めない。先ほどまではかろうじて方角はわかっていたのに、それすら感じ取れなくなっていた。
「全員離れ離れじゃないだろうな?」
 アースが一人なのはかまわない。ネオンはどうにか一人でも切り抜けるだろうが、カイキやイレイは肝心なところでしくじるので心配だ。レーナの実力は疑っていないが、単独行動させると無茶をするのでその点が不安になる。
 しかしいつまでもブルーでいるわけにもいかなかった。大人数の敵を相手に燃え盛る森の中で立ち回るのは、骨が折れることだ。どうしてもレーナの技に頼らざるを得なくなる。だが彼女に精神を消費させたくはない。それを防ぐためには、敵を分散させるしかなかった。
 ブルーを解除することに反対したのは、彼女だけだった。この森を甘く見すぎていたと言わざるを得ない。今なら彼女が何を懸念していたのかよくわかる。ただでさえ気の把握が難しいこの場所で、視界も利かなくなるのがこれほど厄介とは。
「言っても仕方がないな」
 ぼやいている余裕はない。頬へ滑り落ちてきた滴を手の甲で拭い、アースは走り出した。体に薄い結界を纏わせ、ある程度の熱気を遮断する。目指す先は適当だ。目印がないので勘で選ぶ。一カ所に留まっていない方が良いことだけは確かだった。
 視界の端でちらちらと火の粉が舞う。折れかけた幹のみしみしという音が、背後から聞こえてきた。このままでは森が焼け尽くされてしまう。敵は一体何を考えているのか。
 突然、ここまでの襲撃を計画するとは意外だった。何が白頭巾たちにこのような決意をさせたのか? アースには腑に落ちない。自分たちの存在がそこまで厄介だと認識されているとは思えなかった。いや、レーナならあり得るか。
 不意に、彼女と出会った時のことが脳裏をよぎる。光のない強固な牢の中、ひっそりと横たわっていた姿を思い出す。死を覚悟していた彼らがその存在に気づいたのは、暗闇に目が慣れてからのことだった。身じろぎ一つしなかったから、初めは死体かと思った。身を焼くような強烈な毒に侵されているにもかかわらず、彼女は呻き声一つ漏らしていなかった。苦痛を堪えるのには慣れていたのだと、今ならわかる。
 あの星が『闇商人の実験場』と知らず依頼を引き受けたのが、そもそもの間違いだった。あれは技使いを罠に掛ける魔物の策略だ。彼女がいなければ、アースたちは死んでいた。偶然によって救われた命だった。だがその代償として、彼女の力が失われた。
「感傷的になっているな」
 苦い笑みが浮かぶ。こういう時は判断を誤るから要注意だ。まずはどうにか仲間たちと合流しなければ。勢いを増す炎を飛び越え、アースは駆けた。そのままくすぶる草原を突っ切るように進んでいくと、前方にどす黒い煙が充満しているのが見える。燃え盛る炎すら隠してしまう厚い壁のようだ。
 注意深く気を探ると、その向こう側に何者かの気配があった。正確な数はわからないが、複数なのは間違いない。
 と、悲鳴が鼓膜を震わせた。彼は背を屈めながら剣を構え、一気に黒煙の中へ突っ込む。朽ちた木を踏みつけて横一線、剣を振るった。その切っ先が何かを捉えた瞬間を狙い、跳躍する。
 案の定、足下を何かが通り抜けていく気配があった。勘に任せて着地すると、踏みつけたらしい何者かの悲鳴が上がる。聞き覚えのない声なのでおそらく白頭巾の一人だろう。そのまま無視して左手を突き出し、アースは精神を集中させた。
 生み出したのは光球だ。炎の固まりでも雷の固まりでもない、本当にただ光を放つだけの球。けれども、今ここで一番必要なものだった。煙に覆われていることには変わりないが、その濃度のむらが目でも捉えられるようになる。
「アース!」
 すると前方で耳馴染んだ声が響いた。ネオンだ。アースは素早く辺りを見回しながら、剣を構えそちらへ近づいていく。光のおかげであちらからは彼の姿が把握できるようになったのだろう。つまり敵にも居場所がばれたということだ。
 だが、その方が彼にとっては好都合だった。右方から迫る気配を察知して、再び剣を振るう。接近戦には自信がある。飛びかかろうとしていた男が一人、長剣の餌食となった。近づいてくれば目でも気でも捉えられるようになる。さすがにこれだけの煙があれば、白頭巾たちもむやみやたらに技を放ったりしまい。
 切り伏せた男を踏みつけ、アースは跳んだ。わずかに煙が薄くなったところで、ネオンは膝をついていた。左足に血が滲んでいるのを認め、アースは顔をしかめる。大した出血量ではないようだが、走るのには支障がありそうだ。
「やられたのか」
「わりぃ、囲まれて対処しきれなかった。でも大体倒したはず」
「なら今ので最後か?」
「たぶん」
 ネオンはがりがりと首の後ろを掻きつつ、周囲を見回している。熱気にやられているのか目が虚ろだ。その首筋に浮かんだ汗の玉が、重さに耐えきれなくなったように落ちていく。ネオンは不快そうに眉根を寄せると、自らの膝を叩いた。
「水で消火しようとしても、ちっとも追いつかないんだもんな。……イレイはあっちにいる」
 ぼやいたネオンは左手を指さした。そちらへと振り返ったアースは、目を懲らしつつ気を探る。確かに、かすかにだがイレイの気が感じ取れた。普段よりも弱いと思うのはこの森の影響なのか。
「あいつも怪我してたと思う。行ってやってくれないか?」
「ネオンは平気なのか?」
「まあ、何とかなるって。今のうちに治しておく」
 ネオンの笑い声には苦いものが混じっていた。半分ほどは強がりと思ってもいいだろう。だが、だからといってこの場に留まっているわけにもいかない。それに、本当にまずい時はきちんと助けを求められるのがネオンの長所だ。頷いたアースは、かすかな気を目指して走り出す。
 少しずつ煙は薄くなっていったが、代わりにごうごうと燃える火が見えてきた。誰かが炎球を放ったばかりなのだろう。所々抉れた地面が顔を覗かせている。
 火のついた草を踏みつけさらに速度を上げようとしたところで、右手から近づく気配を察知した。アースは躊躇わずに剣を横薙ぎにした。拳大の炎が切り裂かれて、舞い散る火の粉の中へと弾け飛んでいく。
 炎球を追うように迫ってきたのは、白い服の男だった。頭巾が落ちてしまったようで、はためく金の髪が煙の中でも目立つ。男の手に再び光弾が生み出されようとしているのを見て、アースは口角を上げた。
 実に単調な攻撃だ。技の精度はそれなりだが、実戦経験が乏しいに違いない。今まで襲ってきたどの男たちもそうだった。集団であれば厄介だが、一対一であれば打ち倒すのは造作もない。
 男の光弾が放たれるより早く、方向を急転換したアースはその懐へ踏み込んだ。喫驚する気配を感じながら、その腹部を剣の柄で強打する。耳障りな悲鳴が上がった。ろくな受け身も取らず転がった男を、アースはとどめとばかりに踏みつけた。手を震わせた男の口からさらなる叫声が上がる。骨がどこか折れたのかもしれないが、人間ではない存在にどれだけ意味のある負傷かわからない。
 足を退けたアースは、イレイがいるだろう方向へ視線を転じた。気がますます弱くなっているのが気がかりだった。イレイの傍に他の気配は感じられないが、白頭巾がどこに潜んでいるのか知れないので油断はできない。
「まったく、数の暴力だな。しかも揃いに揃って真っ白な恰好とは趣味が悪い」
 思わず吐き捨てると、足下の男が呻いた。その指先が焦げついた草を握るのが見える。男の纏う怒りの気を読み取り、アースは眉根を寄せた。
「ジーリュ様の、ご厚意を、そのように侮辱するとは、許せぬ……!」
 男の金糸が細かく震える。聞き覚えのない名だが、彼らの上に立つ者だろうか? アースはもう一度その「ご厚意」とやらを見下ろした。鈍い艶のある真っ白な服は上下同じ生地でできているらしく、ゆったりとした作りだが伸縮性もありそうだ。頭巾も同じ布で作られているのだろう。もっとも、今はどれも土まみれになっているが。
「許すも許さないも関係ない。殺しにきておいてこの程度ですんでいるのだからありがたく思った方がいいぞ。何の覚悟もなく来ると、後悔することになる」
 言い捨ててから、自らの言葉に嫌気が差してアースは舌打ちした。一体、いつから自分は覚悟を捨てていたのか。常に神経を張りつめていたあの頃が嘘のようだ。
 いや、覚悟していなかったわけではない。全てを諦めた時に一度手放してしまったから、だからもう張りつめさせる必要がないだけだ。彼らの命の代わりに失われてしまった彼女の強さを、少しでも埋められたらいいと。それくらいにしか思っていない。
「……覚悟か」
 アースは踵を返した。この胸騒ぎは一体何なのだろう。何を感じ取っているのだろう。わからないが決してよい心地ではない。
 背後で呻き声が続くもそれを無視して、アースは走り出した。目指すべきイレイの気が揺らいでいるような気がして、ますます胸中は落ち着かなかった。

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