white minds 第一部 ―邂逅到達―

第六章「鍵を握る者」4

 白い殺風景な部屋は、少しだけ騒がしさを取り戻していた。お腹をすかして目を覚ます者たちが増えてきたので、第一弾の朝食確保の動きが生じたからだ。まだ眠っている者たちもいるが、女性が増えた分だけ賑やかさが増す。加えて空腹が満たされたとなれば、ともすれば沈みがちな空気も少しだけ軽くなった。
 静寂が苦手な青葉としては助かった。誰もが黙り込んでいる重々しい空気が続くと、無性に動きたくなってしまう。それを我慢するのは骨が折れることだった。
 これは昔から変わらない。滝もシンも必要な時以外はあまり口を開かないので、気づくと青葉があれこれ喋っていることが多かった。気力がある時はそれでもかまわないのだが、疲れていると余計なことまで話してしまうのが難点だ。そういった際の失言から痛い目を見たことも、一度ではない。
 今はそこかしこで話し声がするので息苦しくもなく、青葉は黙っていた。座り込んだ彼の隣では、浮かない顔をした梅花がいる。逆隣ではシンが立ったまま壁にもたれかかっていた。シンの向こう側で胡座をかいている滝も、何か思案している顔つきだ。食事中はまだ軽い会話があったのだが、それが終わるとやはり現状に思考が戻るらしい。きっとレンカのことでも案じているのだろう。
「ただいまー」
 そこへ片付け当番だったリンたちが戻ってくる。これでますます沈黙を心配する必要はなくなった。リンは室内にいる仲間たちの様子を見回してから、颯爽とこちらへ近づいてくる。シンがいるからだろう。青葉はちらとシンの方を見上げた。壁に背を預けてあくびをかみ殺していたシンは、軽く手を振りながら「おかえり」と口にする。
「みんな疲れた目をしてるわねー」
 腰に手を当てたリンは、青葉の前で立ち止まる。「元気そうにしている方がおかしい」という言葉を、青葉は咄嗟に飲み込んだ。リンの顔に疲労が滲んでいないのがとにかく不思議だ。回復が早いのだろうか。それとも空元気なのか?
「そりゃそうだろ。この状況だ」
「まあねー。何だか隣の棟も騒々しい感じだったわ」
「そんなところまで覗いてきたのか?」
「よつきたちと一緒に、ちょっとだけ。やっぱりこの雰囲気は怪しいわ。どうにかここを抜け出す方法はないかしら。お咎めを受けずにすむ方法」
 軽く頬を膨らませたリンは天井を睨み付けた。その様を見て、呆れ顔のシンはため息を吐く。青葉はここで何を発言するのが適当なのか迷い、隣にいる梅花を横目に見た。梅花が複雑そうなのはリンと同じ心境だからなのか。偵察ならば自分も行きたかったという思いもあるのかもしれない。
「そりゃあ無理だろう。上の命令でもない限り何か言われるだろ。こっそり抜け出せたとしても、こっそり戻ってくるのはまず不可能だ」
「そうよねー」
 シンが口にした正論に、リンは肩を落とす。この棟は人気がないし、神技隊の顔も知れ渡ってはいない。大人数でまとまって移動さえしなければ、誰にも止められずに宮殿を出ることはできるだろう。しかしリシヤの森で誰かに会ったら? 何かが起きたら? 上に気取られずにまた宮殿へ戻ってくることなど到底無理だ。
「でも、何か方法はあるはずよ。……最悪の場合は、お咎めがあっても仕方ないわね」
「おいおい」
 一人で何か決意しているリンの肩を、シンはやや慌てた様子で掴む。彼女の言葉を冗談とは受け取らなかったのか。するとそれまで黙って聞いていた滝が、噴き出すように苦笑した。ここに来てからは眉間に皺を寄せてばかりいたので、青葉は密かにほっとする。
「ちょっと滝さん、笑い事じゃあないんですよ。こうなったらリンは何をやらかすか……」
「いやいや、何も言わずに勝手に実行しないだけいいじゃないか」
 眉尻を下げたシンを横目に、滝はまだ苦笑している。何も言わずにとは一体誰のことを指しているのか。青葉はちらと梅花を見たが、彼女は黙したままだった。するとリンは滝の方へ向き直り、こほんと一つ咳払いをする。
「もう、滝先輩ったらいつまで笑ってるんですか。こうやって話をするのは大事なことなんですよ? だって頭の中だけで考えていると、同じところをぐるぐる回るだけになりがちなんです。口にするか、それができないから書き出すか。その方が論点がまとまりやすいんです。それに、聞いてる人が思わぬ意見をくれることもありますし」
 つまり、あれこれ喋りながら考えるのがリンの手法ということか。ただ沈黙が苦手なだけではないらしい。それが予想外の発言だったのか、滝は瞳に好奇心の色を浮かべ相槌を打った。彼はいつも一人で考えて結論を出す人間だから、彼女の発想そのものが興味深いのかもしれない。
「なるほど。さすがリンだな」
「私の場合は大体ジュリが近くにいたので。癖みたいなものかもしれないですけどね」
 付言したリンは照れ笑いを浮かべながら髪を耳にかける。話題に上ったジュリはというと、片付けから戻ってきたよつきを迎えて何か話し込んでいる様子だった。二人の視線が向けられている先から想像するに、ピークスの仲間についての話か。いつでもどこでも周りを気遣う姿勢、立ち振る舞いは大人だ。青葉よりも年下なはずだが。
「いつも助けてもらってます。ジュリは視野が広いし冷静ですからね」
「リンがそう言うってことはかなりだな」
 滝の感心する言葉に、シンが顔をしかめたのが目に入った。シンがそのような反応をすることは滅多にない。けれどもどこか既視感があって青葉は首を捻った。何が引っかかっているのだろう。だが彼がその答えを手繰り寄せるより早く、突然乱暴に戸を叩く音がした。
 一瞬で、室内に静寂が満ちた。それまでたわいない会話を続けていた者たちも黙り込み、動きも止まる。皆が恐る恐る扉の方を見つめている。その先にある気が知り合いのものではないと感じ取ったのだ。そんな中、誰よりも先に反応したのは梅花だった。弾かれたように立ち上がった彼女は、そのまま扉へと走り寄る。
「ミケルダさん!」
 戸を開けるなり梅花は声を上げる。彼女はこの気を知っていたのか。その名なら青葉もどこかで耳にしたような気がしたが、顔を見たのは初めてだった。狐色の髪にたれ目が特徴的な、中肉中背の男だ。薄水色の上衣に灰色のズボンと、服装は特段目立つようなものではない。ミケルダと呼ばれた青年は、梅花を認めるなり小さく安堵の息を吐いた。
「よかった梅花ちゃん、起きてたんだ」
「何かあったんですか?」
 ミケルダの眼差しからは切迫感が見て取れた。その気にも滲み出ている。彼は梅花の肩を焦ったように掴み、口を何度か開閉させる。「落ち着いてください」と梅花が繰り返すのを見て、青葉は慌てて立ち上がりそちらへ近寄った。
「ミケルダさん、何かあったんですか?」
 梅花は肩の手を振り払うことなく、もう一度問う。ミケルダは大きく息を吸い込んでから部屋の中へ視線を巡らせた。一瞬、青葉とも目が合った。何かを見定めようとしている双眸だ。その中にちろと剣呑な光が見えた気がして、青葉は思わず喉を鳴らす。焦っているせいと考えても、穏やかではない。それでも青葉が何か口にする前に、ミケルダは梅花へ向き直った。
「海側が大変なことになっているんだ」
 ゆっくり息を吐き出した後、ミケルダは簡潔にそう告げた。実に曖昧な内容で青葉は眉をひそめる。ここで海というと、宮殿やリシヤの北側に広がっているあの海を指すのが普通だ。しかしそこは立ち入り禁止区域となっている。青葉が首を捻っていると、滝がおもむろに近づいてくるのが視界の端に映った。
「海側というと、リシヤの森の裏ですか? もしかしてレーナたち?」
 だが梅花の言葉によって、青葉もおおよその状況を理解した。早朝、彼女が口にしていた「リシヤの森の奥」というのは、森を突き抜けた海側のことを言っていたのか。あんな場所に出入りできる人間などまずいない。隣で立ち止まった滝と、青葉は目と目を見交わした。
「さすが梅花ちゃん、そこまで感じ取ってたんだ。そう、ケイル様……なのかジーリュ様なのか――が動き出したらしい。まあ、それだけならまだよかったんだけど」
 ミケルダの口から飛び出した名は聞き覚えのないものだった。「そうなんですか」と答える梅花の声にも困惑が入り交じっている。宮殿の人間なら誰もが知っているような人物ではないようだ。呼び方から推測するに、ミケルダよりも上に立つ者なのか。――そもそも、このミケルダが何者なのかもわかっていないが。
「ところがなんと、アルティード様に詳細を話していないらしい。つまり強行突破だよ。くそっ」
 悔しげなミケルダの舌打ちが響いた。青葉には何の話をしているのかさっぱり理解できなかった。知らない名ばかりが次々と飛び出してくる。それでも梅花は朧気に何かを感じ取ったようで、不安げに眉をひそめた。
「強行突破って……」
「アルティード様が他のことを気に掛けているうちに、しれっと討伐計画通しちゃったんだ」
「それって、相当まずい状況なんじゃないですか?」
「まずいまずい。かなりまずい。あっち、過激だから。あの人数を連れていったってことは、周りもお構いなしなんじゃないかと思う。結界さえ無事ならって……。ただでさえあの辺りは空間の歪みは不安定なのに」
 説明するミケルダの気には、苦いものが色濃く含まれている。何か経験でもあるのか。青葉には詳細はわからないが、穏やかではない事態が生じているのは察せられた。しかし、それでは何故ここに駆け込んできたのか。今、神技隊には待機命令が出されている。
「一番まずいのは、ラウジングが巻き込まれてるってところだ」
 再度ミケルダは舌打ちする。ミケルダはラウジングとも知り合いだったのか。ということはやはり上の者なのか。不意に、深刻なラウジングの横顔が青葉の脳裏に浮かび上がった。森でのラウジングは激昂したり動揺したりとせわしないが、その根底にただならぬ感情が眠っているのは予想できた。ミケルダはラウジングのことを案じているのか。
「でも、ラウジングさんはあちら側ではないんじゃ」
「ないんだけど、駆り出されちゃったんだよ。しょうがないと言えばしょうがないかな。レーナちゃんたち殺そうと思ったら、オレら引っ張り出さないと無理だから。オレがそんな話に乗らないのはわかってたから、真面目なラウジングが選ばれちゃったんだろうね」
 低く唸るミケルダを、梅花は何とも言い難い眼差しでもって見つめた。それがどの言葉に反応してなのかは青葉にもわからない。「殺す」という不穏な一言にも心臓を突かれたような境地になるが、しかしその直前に発せられた「レーナちゃん」という呼び方もそれなりに衝撃的だ。情報が入れば入るほど頭が混乱してくる。
 凍り付いた室内の空気は、次第に困惑の気配を色濃く纏い始めていた。簡単に口を挟める雰囲気ではないが、しかしミケルダが何を言っているのか理解もできない。ミケルダがそこまで気の回らない者なのか、それとも動転しているせいなのかは不明だ。
「えっと、あの、ミケルダさん」
 意を決したように梅花が声を絞り出した。ミケルダはそこでようやく彼女の肩を解放し、垂れ気味の瞳をわずかに細める。彼の気に滲んだ感情が何なのか、青葉には判断がつかなかった。複雑な色を呈している。それでも彼女にはわかったのか、遠慮がちに言葉を紡ぎ出した。
「レーナを……殺す、んですか?」
 静寂の中に染みた、端的な問いかけ。部屋に満ちる空気の重さが増したような錯覚に陥り、青葉は右の拳を握った。妙に現実感のない響きに違和感を覚える。
「うん、そのつもりだと思うよ。エメラルド鉱石の剣を引っ張り出してくるなんて尋常じゃあない。本当は生け捕りにしたいのかもしれないけど、それが可能な相手とは思わないしね」
 梅花の心中を知ってか知らでか、ミケルダは抑揚の乏しい声で答えた。青葉はその実感の湧かない単語を胸中で繰り返す。殺す。つまり、死ぬ。消える。――ラウジングが、レーナを殺す?
 誰かが誰かを殺そうとしている状況など想像もしたくなかった。それが知った顔であればなおさらだ。しかも、両者ともに助けられた過去がある。
「ケイル様たちは手段を選ぶつもりがないんだ。今ここで、何もわからないまま終わらせたら、それこそ取り返しのつかないことになるかもしれないのに」
 歯噛みしたミケルダを、梅花は戸惑った様子で見つめていた。ミケルダの話を彼女がどこまで理解しているのかは不明だが、周りが何も把握できていないまま話が進むのは危険だと思われる。だが一体どこからどう切り込めばいいのか。青葉は眉根を寄せた。わからないことが多すぎて困る。
「取り返しのつかないこと、というのは?」
 そこで滝が口を挟んだ。ミケルダの視線がつと彼の方に向けられる。静かに尋ねた滝の纏う気から、明らかな感情は読み取れない。青葉の目には、いつもの滝のように映った。それが少しだけ胸の内に広がる波紋を静める。
「その内容まで予測できるのなら、アルティード様やケイル様のところに駆け込んでる」
 苦々しい声でミケルダは言い放った。唖然とする物言いではあるが、しかしそれもそうかと青葉は思い直す。具体的な不安材料があるなら、もっとうまく立ち回れるということか。だからといってここに飛び込んで来られても困るのだが。
「はぁ……」
「まあ、オレが心配している取り返しのつかないことの一つは、ラウジングが立ち直れなくなることかな。あいつ、まだ、誰も手に掛けたことがないんだ」
 ぽつりと、ミケルダは呟いた。目を伏せたその横顔には、確かな憂いがあった。彼が一番何を懸念しているのか、それだけは青葉にもわかる。すると梅花ははっと眼を見開き、顔を上げた。
「ミケルダさん、もしかして」
「さすがにオレが派手に動くわけにもいかないしね。梅花ちゃんも、知らないところでそんなことになってたら嫌でしょう?」
「もちろんですよ」
 梅花は何かを読み取ったようだ。ミケルダが苦笑するその顔を見つめ、泣き笑いしそうな声を出す。説明を求め青葉が視線を送っても、気づいてはくれそうになかった。青葉は滝とまた顔を見合わせる。
「だよね。そう言うと思ってた」
「ミケルダさんは、もう。本当に仕方がないですね」
 ため息を吐いた梅花は軽く額を押さえた。呆れの滲んだ苦笑が、吐息となってこぼれているようだ。そんな彼女の様子を見るのは初めてのことで、青葉はますます怪訝に思う。
「私が動く理由を、わざわざ持ってきてくれたんですか? 後で怒られるのはミケルダさんなんですよ?」
「そんな、いい人みたいに言わないで。これはオレの単なる私情。梅花ちゃんはオレのこと買いかぶりすぎ」
「じゃあいいです、利害が一致したってことで」
 二人は周りを置いてけぼりにして、何らかの結論に達したらしい。相槌を打つ梅花を見ていると腑の底が重くなった。青葉が歯噛みしながら声を掛けるタイミングをうかがっていると、その前に腕組みした滝が口を開く。
「どういうことですか?」
「上の一人であるミケルダさんが、友人の安否を心配するあまり独断で情報を流した。それを耳にして心配になった私が、独断で行動する。表向きはこういう理由でいこうってことです」
 淡い微笑を浮かべ、梅花は滝へ視線を送った。どこかレーナを彷彿とさせる眼差しだった。滝はそれでもいまいち納得のいかない顔で首を捻っている。青葉も同様の心境だ。
「それは、つまり……」
「上の仲違いだとか、レーナたちをどうするのかとか、その辺の微妙な判断はとりあえずおいておこうってことです。それは後でもっと偉い方たちに任せましょうと。そういうわけですので、滝先輩、私は行きます」
 さらりと宣言する梅花に、滝は何とも言い難い表情を向ける。だが途中で何かを諦めたように首の後ろを掻き、苦笑を漏らした。
「なるほど、そうなるとオレたちは飛び出した梅花を追いかけて森へ行くわけだな」
「それは強制してませんよ」
「そうなるだろ。青葉がじっとしてるわけがない」
 滝の意味ありげな視線が青葉へ向けられる。即座に否定も肯定もできず、青葉は口をつぐんだ。この状況でそんな発言をする滝は、余裕があるのかないのか。無論、梅花一人を行かせるつもりがないのは間違っていない。何人かの仲間に留守番として残ってもらえたら、何かあった際に行き違いになったり情報が途切れることもないだろう。
 青葉は室内を見回した。神妙に話の成り行きを見守っていた仲間たちは、思い思いの表情を浮かべていた。だが反論はない。誰もが、何も知らぬまま宮殿に閉じ込められることには飽き飽きしていたのだろう。皆が必要としていたのは理由ときっかけ、そして「言い訳」だ。
「森に行くなら空から行った方がいい。どうやら燃やしてるみたいだ。ラウジングは炎のある場所のどこかにきっといる」
「ミケルダさんは?」
「オレはアルティード様にこっそり報告してから行く。梅花ちゃんたちが心配になったって理由でね」
 リンが口にしていた「お咎めを受けずにここを出る方法」が、まさか舞い込んでくるとは。何が起こるかわからないものだ。もっとも、他の者が代わりに引き受けてくれるだけのことだが。
「わかりました」
 首肯する梅花を横目に、青葉は再び拳を握りしめた。座り込んでいた仲間たちが次々と立ち上がる気配が、波紋のごとく広がった。

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