white minds 第一部 ―邂逅到達―

第二章「迷える技使い」10

「そうだろうな。たぶん皆こっちへ向かってきてる」
「お、噂をすれば誰か来たみたいだぞ」
 シンの言葉を受けて、滝が振り返ったようだった。座り込んだままのリンからでは、シンの体が壁になって何も見えない。しかし耳を澄ませば、誰かが駆け寄ってくる足音がかすかに聞こえる。ついで「滝先輩ー」と呼ぶ声が響いた。間違いなく神技隊だ。この聞き覚えのある声は北斗のものだろうか?
「スピリットか」
 滝の声に安堵が滲む。シンが首を捻って確認しようとするのが、リンにもわかった。問われる前に意思表示しようと、彼女はあいている方の手をひらりと振る。
「そうです北斗です。ってリン、何かあったのか!?」
「リンさん大丈夫ですか!? 怪我ですか!?」
 走り寄ってきた北斗を退けるようにして、血相を変えたローラインが詰め寄ってくる。一緒だったのか。いつも飄々としている印象のローラインが慌てている姿は珍しい。傷口は見えないはずだがと訝しんだが、すぐに血の臭いのせいだと思い当たった。彼女の鼻はもう慣れてしまったようだが。
「大丈夫、今ちょうど治してるところ。ローラインたちは平気?」
「アースさんにやられましたが、怪我はないです。その後よくわからない黒い生き物に襲われていたんですが、急に消えましたし」
 すぐ傍に両膝をついたローラインは、ほっと息を吐いて微笑んだ。ここに駆けつけるまでの間に、アースは既に神技隊と交戦していたということか。だがそれよりも気になるのは獣のことだ。ローラインたちも襲われていたのか?
「ローラインも? 私も一匹倒したわ。その獣の親玉みたいなのは、さっきレーナたちが倒したの」
 黒い生き物が突然消えたのは、先ほどアースがとどめを刺したからなのか? ますます不可解だ。何にせよこの亜空間に長居はしたくなかった。レーナたちはもう去ってしまったし、留まる理由もないだろう。傷を塞いで立ち上がれるようになったら、すぐさま帰りたい。
「では帰りましょう。すぐに! この亜空間は危険です。美しくない」
「でもよーローライン。帰るっていってもどうやって?」
 勢いよく立ち上がったローラインに、水を差したのは北斗だった。ここに連れてきた張本人であるラウジングがいないので、どうすれば無世界に戻れるのかわからない。空間を斬ろうとした梅花も失敗していたようだし、一筋縄ではいかないだろう。一瞬で、辺りに沈黙が広がった。神技隊全員が無事に集まったとして、それからどうしたらいいのだろう。ひたすら待つしかないのか?
 皆が皆、顔を見合わせていた。リンもそうしたかったが、この体勢では難しいので治癒に専念することにする。まずは歩けるようにならないことにあ、亜空間を脱出しても話が進まない。もっとも、その脱出するまでの方法が、絶望的なくらいに見あたらないのだが。
「――あいつらは去ったようだな」
 その時、待ち望んだ声が頭上から響いた。何の感情も滲み出ていない、淡々とした声だった。先ほどレーナの言っていた「最高で最悪のタイミング」というのを、リンも実感する。周囲で次々と「ラウジング!」と名を呼ぶ声が響いた。深緑の髪をなびかせ地上へ降りてきたのは、姿を消していたラウジングだ。
「ラウジングさん、一体どこに行ってたんですか」
 皆を代表して、最も尋ねたかったことを滝が口にする。戦闘が終わった後に姿を見せるなど実に都合がよい。どこかで全てを見ていたのではないかと疑いたくなっても仕方ないだろう。この場にサツバがいたらきっと掴み掛かっていったはずだ。
 リンは治癒の技を終わらせると、一度軽く脇腹を叩いた。少し響く気もするが、激痛は走らない。傷は塞がったようだ。彼女はシンの手を引きはがしてから、その場でゆっくり立ち上がった。まだ心配そうな彼に目配せだけして、向き合っているラウジングと滝を見やる。
「すまなかったな。この空間のねじれについて調べていたんだ」
「……そうですか。それで、何かわかったんですか?」
 口では謝っているが、ラウジングに悪びれた様子はない。滝は何か言いたげであったが、それをあえて飲み込んだようだった。こんな状況でも落ち着いていられるのはさすがだ。リンが元気だったら、ラウジングに思い切り詰め寄っていたところだ。文句の一つも言わなければ気が済まない。怪我人まで出たのだ。
 ちらりと横目で梅花たちの様子をうかがう。ちょうどジュリの手のひらへと、薄黄色の光が収束したところだった。もう傷は塞がったらしい。それでも出血のせいか、ぐったりとした梅花の顔は青白かった。あの様子ではまともに歩けないだろう。
 ラウジングは辺りを見回すと、神妙に一度首を縦に振った。何かを警戒した素振りだったが、辺りにいるのは神技隊だけだ。つられてリンも周囲へ視線を巡らせていると、ラウジングの淡々とした声が鼓膜を振るわせた。
「この亜空間の一部は外に繋がっている」
「――外?」
「神魔世界の外だ。速やかに報告して、空間そのものを潰さなければならない。ということで戻るぞ」
「いや、神魔世界の外ってどこですか。オレたちは何がどうなってるんだか――」
「詳しい説明は後だ。どうやら神技隊も集まってきたようだしな。急ぐぞ」
 ラウジングの早急な決断に、リンは絶句した。ここまできてまだ何も話さずにことを進める気なのか? 顔をしかめた滝に対しても、ラウジングは全く説明するつもりがなさそうだ。これが上の特徴だったなと、リンは思い返す。いつでも説明は後回しにされ、結局は有耶無耶になることも多い。これは神技隊全員で詰問しても無理だろうなと、彼女は諦念の面持ちで嘆息した。問いただす労力の方が今は惜しい。
「……わかりました」
 頷いた滝の声にも、苦々しい物が混じっている。リンは赤く染まった手のひらを見下ろして、唇を引き結んだ。何か大きな流れの中に引きずり込まれているという予感が、じわじわと腑の底から這い上がってきた。



 窓一つない白い部屋の中には、明かりが一つ、中央に灯されていた。穏やかな黄色い光が艶やかな白い壁、天井、床に反射して、室内ををぼうっと照らす。部屋の奥には大きな椅子が一つあるだけだ。白い椅子には亜麻色の布がそっと掛けられており、その主が長時間不在であったことを物語っている。
 部屋の入り口傍で、ラウジングは一人待っていた。扉が閉まってしまうと時間の流れがわからなくなる。ここには静謐な気が満ちているような気がして、深呼吸するのも憚られる。じっと黙して待っているのも苦痛だった。それでもこの部屋に通される意味を理解しているから、逃げ出したいとは思わない。
 どれくらい待っていただろうか。左奥にひっそりとある扉が、やおら開いた。その奥から顔を覗かせた男が、柔らかな笑みを浮かべる。ラウジングは片膝をついた。軽く頭を下げると髪が頬へ掛かる。
「待たせたな、ラウジング」
「いえ、とんでもないですアルティード殿」
 ラウジングが顔を上げると、部屋に入ってきたアルティードは椅子の背に手を置いた。柔らかい銀の髪が明かりに照らされて煌めいている。穏やかな瑠璃色の双眸を向けられて、ラウジングは破顔した。
「お忙しいところ、わざわざありがとうございます」
「探ってきて欲しいと頼んだのは私だからな。もちろんのことだ」
 アルティードの部屋と認識されているこの場所から、話が漏れることはない。その代わり、ここへ通されるということは『特別な者』であることを意味している。他者からはそのように意識される。風当たりも強くなるし、全ての行動にアルティードの関与を疑われることになる。それでも名誉なことだった。それだけの信頼を勝ち得ているという自負が、あらゆる苦境を乗り越える原動力となる。
「残念ながらと言うべきか幸いなことにと言うべきか、アルティード殿の推察通りでした」
 今のラウジングは、アルティードの手であり耳であり目だ。感じたこと、見たこと、考えたこと全てを伝えなければならない。ラウジングは記憶を整理しながら、ゆっくり口を開いた。どうしても唇が震えそうになるのだけは止められない。
「彼女は自由自在に空間を移動できます。空間の歪みの中でも気を把握することができます。加えてあの実力。そして魔族、半魔族のことまで知っていました」
「そうか、彼女が――レーナが情報提供者か」
 アルティードの重たい声が、部屋の中に染み入った。ラウジングは軽々と頷くことができなかった。レーナが情報提供者であると断言することの意味を理解していればこそ、口が重くなる。視線を落とすと、明かりに照らされて輝く床が目に入る。その上で、ラウジングたちの影が揺らめいていた。
 ひとときの間、室内に静寂が満ちた。体にのしかかる重み。心が潰されそうになる沈黙。ラウジングは思わず顔を歪めそうになった。
「仕方がないな」
 張り詰めた空気を切り裂いたのは、苦笑混じりのアルティードの声だった。面を上げたラウジングは、頭を傾ける。アルティードは微笑んでいた。いつも落ち着き払っている瑠璃色の双眸が、少しだけ細められている。
「いずれ何かが起こることはわかっていた。それがまさか人間絡みとは思わなかったが」
「では――」
「神技隊のことをよろしく頼む。おそらく今後も、彼女はまた接触してくることだろう。意図を知りたい。我々に警告してくるくらいだから、一筋縄ではいかないと思うがな」
 ひどく大雑把な、そうなだけに重たい任を課せられ、ラウジングは固唾を呑んだ。それだけ信用されているという喜びと、応えられるのかという不安が押し寄せてくる。細かい判断はラウジングに委ねられるということだ。『ここ』からは、無世界の内情までは見えない。神魔世界のことであればある程度は把握できるが、その外は難しい。
「わかりました」
「亜空間がリシヤの結界と繋がっていたということは、本当に彼女の警告通りらしいな。そちらも調査が必要だとなると、人手不足だが仕方ない。ラウジングには無世界側の方を頼む。何かあれば逐一報告して欲しい」
 無世界側という表現に、ラウジングは反応した。それはつまり、神魔世界側は他の誰かに任せるということなのか? 現在独断で動けるような者は限られている。心当たりは数人しかいない。すると視線から疑問が伝わったらしく、アルティードは相槌を打った。
「カルマラを呼び寄せようと思っている。いつ彼女たちがこの星に侵入したのかはわからないが、まずは宇宙で情報を集めてきてもらおう。それからはリシヤの方だ」
「……カルマラですか」
「ああ、彼を呼び戻すの最終手段だからな。しかしそれも視野に入れておかなければならないだろう」
 アルティードは瞳を伏せた。「彼」というのが誰を指すのか理解したラウジングは眼を見開く。そこまでの大事だと考えているのか? 背筋を冷たい汗が伝っていった。それだけの事態がラウジングにも任されている。
「アルティード殿」
「不安か? 心配するな。とにかく情報を伝えてくれればいい。よろしく頼む」
 微笑んだアルティードに、ラウジングはかろうじて笑顔を返した。部下の心境までおもんばかってくれるアルティードには、敬服するしかない。それでも心に立ったさざ波はすぐには落ち着きそうになかった。揺らめく光を反射した瑠璃色の瞳に、ラウジングは深く頭を下げた。

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