white minds 第一部 ―邂逅到達―

第三章「望みの居場所」1

 ここが夢の中であると自覚できる時がある。いつもではないが、たまにそういう日が訪れる。今がそうであると確信した梅花は、草原の中でぼんやり空を見上げていた。自分であるのに自分でないかのような、常に薄い膜を隔てて世界を見ているようなこの感覚。思うように動かせない体にもどかしさを覚えながらも、彼女は仕方がないと諦めていた。
 これは夢だ。視界に入った小さな手のひらが、過去を模した夢であることを訴えている。きっとまだ片手で数えられる年齢だろう。祖母が準備していたらしい服を着ていられる年なのだから。
 空へと腕を伸ばせば、薄黄色の袖がふわりと揺れる。梅花が自分で色鮮やかな衣服を選んだことはなかったが、祖母はそういう物を着せたがっていたようだった。
「お母様」
 小さな唇から勝手に言葉が漏れていく。自分の見ているものが空間の歪みであるとも理解できていないのに、どうしてその向こうに母親がいるとわかったのだろう。自分のことながら、梅花は不思議だった。一種の勘だったのだろうか。幼い彼女の中に、疑いはなかった。
 加護という意味はわかっていなかったが、身近にいた人々が少しずついなくなっていく現状に対する不安はあった。その感覚を、幼い彼女は寒さとして感じ取っていた。それが精神的なものなのか、それとも『不安定な気』から影響された温度だったのかは、いまだに定かではない。彼女は小さな指先が震えているのを、人ごとのように見つめた。
「梅花ちゃん!」
 いつまでそうしていたのだろう。背後から名を呼ぶ声が聞こえて、梅花は振り返った。血相を変えて草原の中を駆け寄ってきたのは、まだ少女と呼ぶべき年齢のリューだ。長いスカートを振り乱して走っている。よく一人でいなくなる梅花を、リューはいつも駆け回って探していた。そして見つける度に泣きそうな顔で怒った。
「こんな所に勝手に来たら駄目でしょっ」
 夢の中でも、リューは瞳を潤ませながらまなじりをつり上げている。走ったせいでずり落ちそうになった眼鏡を片手で支え、息を切らしていた。小さな梅花は首を傾げた。
「どうして駄目なの?」
「そっちは駄目なの。どうしても」
 何故リューが躊躇ったのか、今の梅花にはわかる。異世界のことを口にする必要があるからだ。小さな子どもにうまく説明できるだけの知識が、当時のリューにはなかった。多世界戦局専門長官の補佐という形だけの立場を与えられた彼女の、最初の仕事は梅花のお守りだ。多世界戦局専門長官であるリューの父親の、苦悩を象徴する存在。神技隊選抜の際に生まれた歪み。それを娘に任せた心境は、梅花にはわからない。
「……そっか」
 小さな梅花は手を伸ばすのを止める。寒さを覚えて、ますます体が震えた。皆が遠巻きに自分を眺めることにも、何かを言いづらそうにしていることにも、当時から気づいていた。祖母が亡くなってから、それは決定的になった。表情は繕っていても、気は嘘を吐かない。微妙な感情さえも梅花は感じ取ることができた。技使いではないリューには、どうして梅花が一人になりたがるのか理解できなかったことだろう。そういう気に囲まれるのが耐えられなかったからなのだが。
「わかった」
 けれども一人でいると、リューが心配する。リューを悲しませるのは嫌いだ。俯いた梅花は、小さな手をリューへと伸ばした。怖々と触れてくるリューの指先も冷たかった。体が芯から凍えそうになる。寒くて寒くて仕方ない。
「――梅花」
 温かい何かに触れたい。このままでは全てが凍り付いてしまう。
「梅花!」
 と、不意に強い声が頭上から被さってきた。びくりと首をすくめた梅花は、きつく目を閉じた。だがついで肩を軽く揺さぶられたため、恐る恐る瞼を持ち上げる。
「……青葉?」
 ぼんやりとした視界の中で、青葉が顔をしかめていた。顔を覗き込まれていることを認識した彼女は、何度か瞳を瞬かせる。
「大丈夫か? ってか、何でこんなところで寝てるんだ?」
 そう問いかけられ、梅花は辺りへ視線を彷徨わせた。彼女がいたのは特別車のすぐ前だった。青葉の向こう側にある白いテーブルの上には布巾が乗せられている。彼女はテーブルの前に置かれた椅子に座り、眠っていたようだった。朝焼けの中で輝く雲が、まだ早朝であることを告げている。
「準備中、だった気がするわ」
「それでいつの間にか寝てたのか? だからまだ無理するなって言っただろう。あれだけの怪我しておいて」
「でも、もう十分時間は経ったわ。二週間よ」
「まだ二週間だ! しかもそのうち一週間は寝込んでただろうっ」
 ずいと顔を寄せてきた青葉は、これでもかとまなじりをつり上げた。夢の中のリューと同じような表情だが、リューのような危うさはない。大概の人間は気圧されるのではないかと思う迫力を伴っている。
 梅花は視線を逸らしながらも軽く肩をすくめた。ここまで距離を詰めてくるのは彼くらいだ。大抵の人は何かを恐れるように、彼女に近寄ることを躊躇うことが多い。青葉も最初はそうだったように記憶しているが、今は全く遠慮がなかった。いつからなのかは曖昧だ。従姉妹だということを話してからだろうか?
 困った梅花は自分の腕を抱き込もうとして、そこでもう寒くはないことに気がついた。ワンピースの上に薄手の上着を羽織っただけの軽装だが、全く問題はない。微風が心地よく感じられるくらいだ。あれは夢だったからなのか。
「……寒くない」
 思わず口にも出してしまう。すると少しだけ顔を離した青葉は怪訝そうに眉根を寄せた。唐突な一言だったからだろう。彼は上着の襟元でバタバタと仰ぎながら首を傾げる。
「そりゃそうだろう。むしろオレは暑いくらいだ。……まさか、熱でもあるのか?」
 そしてはっとして今度は手を伸ばしてくる。椅子に座ったままの梅花には逃げ場所がない。逡巡なく額に触れられて、彼女は体を強ばらせた。
「熱はなさそうだな」
「ないわよ。大丈夫。ちょっと、夢の中で寒かっただけだから」
 梅花としてはさっさとこの場を離れて一人になりたかったが、青葉の手がそれを許してはくれなかった。背後には特別車があるから、そちらにも逃げられない。確認が終わったのなら解放して欲しいと目で訴えても、唇を引き結んだ彼が手を退ける様子はない。困った彼女は仕方がなく、両手で彼の手を引き剥がすことにした。
「だから大丈夫だって言ってるでしょう」
「……お前の大丈夫ほど当てにならないものはないからな」
 渋々といった様子で手を離した彼は、大きなため息を吐いた。それは何度か耳にしている言葉だ。宮殿基準で動いている彼女は、どうやら『外』で暮らしていた彼の常識からはずれているらしい。その不和を何とかしたいとは思うのだが、ではどれだけの無理が「心配」の範囲に入るのか、いまだ掴めていなかった。そもそも、今まで彼女の言葉を信頼していた人間などいただろうか?
「信用なんて、あった試しがないわ」
 そう答えると、何故だか青葉は傷ついたような顔をした。どうして彼が痛みを覚えるのかも不思議だ。信頼に値しないのは彼女の言動の問題であり、彼には責任がない。仲間であるから、リーダーであるから、従兄弟であるからといって、彼が引き受ける必要などない。
「梅花、どうしてお前はそう――」
「いいのよ、気にしないで。本当のことだから」
 こんなことなら伝えなければよかったと後悔しても遅い。肩を掴もうとする彼の手を擦り抜け、彼女はどうにか椅子から立ち上がった。無理な体勢をしたせいで、揺れた椅子が軋んだ音を立てる。彼が顔を歪めたのが、視界の隅に映った。
「どうして青葉がそんな顔をするのよ」
「あのな、そんな風に言われたらこっちも気分よくないだろ」
「傷つけたとでも思うの? それならごめんなさい。別に、青葉を責めたいわけではないのよ」
「それはわかってる」
 わずかに目を伏せると、そっと頭に手を乗せられた。当たり前のように触れてくるこの距離感には戸惑うが、親戚とはそんなものなのだろうかと考えて諦める。梅花にとって、青葉はまともに言葉を交わす初めての親類だった。十六年間全く交流のなかった、赤の他人に等しい従兄弟だ。他の仲間に対する感覚と、そう変わりはない。
 元々ヤマトに住んでいた梅花の父親が宮殿へやってきたのは、今から二十年ほど前のことになる。青葉は当時既に生まれていたはずだが、幼すぎてさすがに記憶には残っていないらしい。そもそも、梅花が生まれたことを知っている人間はヤマトにはいない。青葉はもちろんのこと、青葉の父親も知らないだろう。一度宮殿に入ってしまうと、そこであらゆる情報が断絶されるに等しかった。
 だから単なる仲間の一人として扱って欲しいのだが、青葉は彼女のことをいつも必要以上に気に掛けてくる。これが厄介だ。
「ただ、オレはお前に、もう少し自分のことを大事にして欲しいだけなんだ」
 躊躇いがちに頭を撫でられ、ますます彼女は困惑した。以前にも言われたことがあるが、それではどうすればいいのか見当がつかない。『外』の普通はもちろんのこと、宮殿の普通も、彼女にとっては難しかった。突き刺さる負の感情をやり過ごすことだけが全てだった。
「そう言われても、世間知らずだから、どうすればいいのかわからないわ。具体的に言ってもらえないと」
 だが正直な気持ちを口にすると、彼はさらに顔を歪めるのだ。彼女の疑問自体を痛みとして感じているように、いつもきつく眉根を寄せる。よほど自分という存在は彼の目には痛々しく映るのだろうと、判断せざるを得なかった。そんなこと望んでいないのだが。
「困らせること言ったわね。ごめんなさい」
「おい、梅花」
「そろそろアサキあたりが起きてくる時間ね。仕事の打ち合わせしましょう? そろそろ上から連絡が来る頃じゃないかと思うのよ」
 だから梅花は話を変えた。青葉の手をそっと退けると、テーブルの上の布巾を手に取る。何か言いたげに彼の口が動くのがわかったが、あえて気にしない素振りを見せた。平行線を辿る問いかけを繰り返しても時間の無駄だ。これはどうしようもない問題なのだと思う。過去は今さらどうにもできないし、その間に染みついた考えを取り払うことも、失ってしまったものを取り戻すことも、簡単にはうまくいかない。
「レーナたちをおびき寄せることには成功したんだから、そろそろ上が動き出してもおかしくないと思うの」
 青葉がため息を吐いても、梅花はひたすら無視をした。磨かれた白いテーブルに映った自分の顔が悲しげであることも、見ない振りをした。



 買い物へ向かう途中のことだった。久しぶりの爽やかな晴天によつきの気分も上々だったのだが、妙な気配があると突然ジュリが言い出した。前を行くコブシが怪訝顔だったところを見ても、違和感を覚えているのはジュリだけだろう。しかし彼女の方が気に聡いことは知っていたので、よつきたちは念のため確認することにした。
 ジュリの感覚に従って向かった先は、狭い路地だった。ビルとビルの間から見える青空も、先ほどよりもずっと薄く思える。空気がよどんでいるせいか、やや蒸し暑い。シャツの襟で仰ぎながら、よつきは周囲を見回した。放置してある自転車が目立つくらいで、人影はない。いや、むしろ誰もいないことをここは訝しむべきなのだろうか? 無世界の普通が、まだよつきにはよくわかっていない。
「誰もいませんね」
 確認するようにジュリが囁く。足下を擦り抜けていった猫を見送りながら、よつきは頷いた。動物がいるということは、結界を張られているわけでもないということだ。それではジュリが感じ取った気配というのは何なのか?
「気のせいだったのでは……」
 気弱な顔でコブシがぼやいている。そうであれば幸いだ。しかしこの春からの異変続きを考えると、楽観視もしていられなかった。よつきは頭を傾ける。
「本当に気のせいであればいいんですけどねえ。どんな気配だったんですか? ジュリ」
「うーん、結界が生み出された時の感覚に近いと思いました。今はないですね」
 問いかけると、ジュリは頬に左手を当てつつ空を睨みつけた。そこまでわかるとはさすが彼女だと、よつきは感服する。気をどこまで感じられるかというのは、技使いの中でもかなり個人差が出るところだ。よつきは今まで自分よりも気に聡い人間に会ったことがなかった。しかし神技隊に選ばれてからは、次々とそういった人物と顔を会わせている。つくづく世界の広さを感じさせられる。――いや、神技隊に実力者が集いすぎだと言った方が正しいか。
「リンさんならもっとちゃんとわかるかもしれないんですけどね」
 視線を足下へと戻したジュリは、ため息を吐いた。今でも十分だと言ってやりたいが、何の慰めにもならないのでよつきは唇を引き結ぶ。耳の後ろを掻いていると、コブシが落ち着かなさそうに視線を彷徨わせているのが目に入った。
「どうかしましたか? コブシ」
「隊長、そろそろ戻りましょうよ。遅くなったらまた奥様に心配されます」
 コブシが気にしているのはそのことらしい。確かに、先日の買い物が長引いたときは何故だかひどく心配された。怒られるのならばともかく、案じられるというのが不思議だった。迷子になるとでも思っているのだろうか。無世界の一般的な常識はいまいちよくわかっていないが、どうもあの家族は普通ではなさそうだと最近感じているところだ。
「まあ何もなさそうですしね。いいですか? ジュリ」
「はい、よつきさ……隊長」
 頷いたジュリは、コブシへと一瞥をくれて言い直した。コブシたちが『隊長』という呼び名にこだわっているためだ。住み込みしている山田家の人間の目がある時は名前で呼んでくれているが、こういう場では頑なに隊長呼びをすることを強要している。よつきにとっては迷惑なことだった。そう呼ばれるようなことは何一つしていないし、そんな実力があるわけでもないのでむずがゆい。単にリーダーという肩書きがあるだけだ。
「それじゃあ行きますか」
 しかし何度も隊長と呼ばないよう注意しても、効果はなかった。もうよつきは諦めかけていた。説得するための労力が惜しいともいう。彼らのこだわりは不安の表れでもあるのだろうと、自分に言い聞かせるよりほかなかった。
 仕方なく踵を返したよつきは、しかし突如として感じた異変に眼を見開いた。頭上に妙な気がある。
「よつきさん!」
 ジュリの切羽詰まった叫びが響く。咄嗟によつきは前方へと身を投げ出した。受け身をとって転がると、体に弾かれたペットボトルが転がる音がする。と同時に、背後で何者かが着地する気配があった。軽く地面を叩く靴音に続いて、コブシの慌てる声が響く。
「な、何者ですか!?」
「青い、髪……?」
 すぐさま立ち上がったよつきは、慌てて振り返った。そして目を疑った。彼とジュリたちとの間に立っていたのは、青い髪の男だった。青空よりも濃い、何かの花の色を思わせる鮮やかな青だ。瞳も青いし、服も髪ほどではないが青に近い色合いで纏められている。まさに青を体現したような青年だ。
「誰ですか!?」
 問いかけながらも、味方ではないと直感で感じ取る。無世界の人間であるわけもない。男からは強い気が感じられていた。技使いだ。そして、戦うつもりだ。彼を中心にぶわりと気が膨らんでいる。

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