white minds 第一部 ―邂逅到達―

第二章「迷える技使い」9

 梅花を守っている限り、レーナは前にも出られない。しかしだからといって今の梅花に自分で結界を張れと言うのは酷なことだった。意識を保っているだけでも奇跡的な状況かもしれない。リンはそう判断し、無理やり立ち上がろうとする。治癒の技が使えるくらいだから結界も生み出せるはずだ。リンが梅花の傍まで辿り着けたら、レーナは自由に動ける。
 迫り上がってくる吐き気を堪え、左手を膝に押しつけて支えにした。視界が一瞬白んだが、深呼吸することでどうにか耐える。挫漸弾は先ほどから次々と黒い光を生み出してきている。目を閉じているにもかかわらず、それは確実にレーナたちを狙っていた。きっと気で狙いを定めているに違いない。レーナの気は鮮烈だからわかりやすい。
 誰か助けに来てくれないだろうか。今まで考えたことのなかった願いを抱きながら、リンは一歩前へと踏み出した。脇腹から全身へと広がる鈍痛のせいで、まるで体全体が脈打つ心臓にでもなった気分だ。嫌な汗が背中を伝う。
 結界を張るレーナの右手が、かすかに震えるのが見えた。瞠目したリンはついで歯を食いしばり、走り出すための心積もりをする。レーナの結界が消え去ったら、あの黒い光は次々とリンたちを襲うことだろう。だが彼女が動くより早く、背後から鋭い声が響いた。
「レーナ!」
 慌てて振り返る必要はなかった。声の主は瞬く間にリンを追い抜かすと、結界を張るレーナの横に並ぶ。黒い影のように見えたのは、リンの目がまともに働かなくなったせいではない。ほぼ黒ずくめの青年が、ふらついたレーナの肩を掴んだ。ちらりと見えた横顔は青葉とよく似ている。――アースだ。
 救世主と呼ぶのは憚られるが、最悪の状況だけは避けられたように思う。挫漸弾たちの異様な気を感じてやってきたのだろうか? いや、単純な影響力を考えたら、レーナの気を辿ってきた可能性の方が高いか。仲間の気であれば判別もつきやすいはずだ。
「梅花っ」
 続けて同じような声が響く。この切羽詰まった響きは、おそらく青葉のものに違いない。リンがかろうじて肩越しに振り返ると、駆けてくる青葉の姿が目に入った。しかも彼一人ではない。複数人がその後を追いかけてきている。その中にシンの姿を認めて、彼女は安堵の息を漏らした。どうやらこれで無理をする必要はなくなりそうだ。ほっとしたせいか、急に血の気が引いていく感覚に陥る。
 青葉は一瞬だけリンへと視線を寄越すと、そのまま梅花のもとへ走っていった。妥当な判断だろう。挫漸弾の攻撃は止んでいないし、梅花の傍にはレーナとアースしかいない。状況がどう転ぶかはわからなかった。必死な青葉の後ろ姿を見送っていると、突然肩を強く引き寄せられた。思わず呻いたリンの視界に、よく見知った顔が現れる。シンだ。
「おいリン、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫じゃないけど大丈夫だから急に動かさないで。脇をやられたのよね」
 できる限り冷静に告げようとしたが、語尾は涙声になった。シンの声が頭の中でこだましている。倒れ込みそうになった拍子に、余計に体を捻ってしまったのかもしれない。せっかく塞ぎかけていた傷が開いたのか。ずきずきと突き刺さるような痛みが体を走り抜けていた。そのままシンに支えられる形で、彼女はずるずるとその場に座り込む。
「それは全然大丈夫じゃないだろうっ」
「いや、平気。変な動きしなきゃ大丈夫。だから大きな声出さないで」
 目尻に滲んだ涙のせいで、視界が悪い。それでも耳は周囲の声を拾おうとしていたし、気の動きが追えるくらいの集中力はあった。シンの後ろにはジュリたちがいるようだ。無論、ラビュエダの気も、挫漸弾の気も消えてはいない。結界が何かを弾く気配もある。青葉の切羽詰まった声が響く中、レーナとアースが言葉を交わすのが聞こえてきた。
「最高で最悪のタイミングだな」
「どういう意味だ」
「そのままだ。すまないがアース、ここに倒れている魔族に剣でとどめを頼む。われはあそこに座り込んでいる青年を殺すから」
 苛立ち露わなアースに対して、レーナの声は複雑な色を帯びている。リンは瞬きをして視界を確保すると、シンの腕を掴みながら上体を起こした。アースの手を、レーナが右手で除けるのが見えた。
「おい、お前――」
「話は後だ。文句も後で聞く。頼むな」
 それまで攻撃を防いでいた結界が消え去ると同時に、レーナが動いた。嘆息したアースは、手足を振るわせているラビュエダへと双眸を向ける。リンは固唾を呑んだ。不機嫌顔のアースは躊躇うことなく、ラビュエダ目掛けて長剣を突き刺した。胸板を貫かれて、ラビュエダの口からひときわ大きな悲鳴が漏れる。耳を塞ぎたくなるような声だった。
 アースが剣を引き抜くと、ラビュエダの体は光の粒子となって消えた。あの黒い獣が消えた時と同様だ。つい先ほどまでそこに倒れていたというのが嘘のように、何も残らない。
 死んだのか? リンが唖然としていると、アースの向こうで白い光が瞬くのが見えた。口元を右腕で拭ったレーナが白い刃を生み出し、幹にもたれかかったままの挫漸弾へと向かっている。手を掲げたまま固まっている挫漸弾は、何故かそれ以上動かなかった。先ほどのような黒い光を生み出すこともない。まるで糸が切れた人形のようだ。
 レーナの放つ気が強くなる。目映い白い刃は、身じろぎ一つしない挫漸弾の体を易々と切り裂いた。呻き声一つ漏れなかった。固く目を瞑ったままだらりと腕を下げた挫漸弾は、そのまま光となって空気へ溶ける。ラビュエダと同じだ。瞬く間の出来事だった。
「なんだよ、あれ……」
 頭上でシンが呟いた。かすかに震えている彼の腕を掴みながら、リンは唇を強く引き結ぶ。ラビュエダと挫漸弾の気はもうどこにも感じられない。まるで今まで存在していたものが幻であったかのように、消え去ってしまった。
「倒した……のか?」
 シンのさらに後ろから声が聞こえた。首を捻って振り仰ぐと、ストロングの滝が眉根を寄せながらたたずんでいるのが見える。その向こうにはレンカとジュリがいる。シンと一緒に来たのは彼らだったのか。リンは何か口にしようとしたが、うまく喉から声となって出てこなかった。代わりに酸味のある液体がこみ上げてきて、慌てて唾を飲み込む。
「終わったな」
 圧倒的だったレーナの気が、弱まった。リンは再び前方へと視線を戻す。ちょうど白い刃を消して、レーナが振り返ったところだった。その口元に血の跡があることに気がつき、リンは眉をひそめる。先ほど右腕で拭ったのは血だったのか? 左腕はいまだに重力に沿って垂れ下がったままだ。何てこと無いような素振りだったが、そうではないらしい。
 ひとまず戦闘が終わったことは理解できたが、誰もがそれ以上動けず立ち尽くしていた。青葉は梅花を抱き起こしたまま動揺しているし、シンたちも何が何だかわからないといった様子で混乱しているようだ。何がどうなっているのか、最初から見ていたリンでも理解ができないのだから仕方ないだろう。ここはリンが少しでも説明しなければと思うのだが、安堵のせいか今度は目眩がしてきた。情けない。
「終わったな、ではない!」
 その中で、いち早く現実的な動きを取ったのはアースだった。剣を携えたまま怒声を上げ、微笑むレーナへと躊躇なく駆け寄る。右手で左腕をさすっていた彼女は、かすかに顔を引き攣らせて半身を引いた。だが彼はそれ以上後退るのを許さず、彼女の左手を取った。ぐいと勢いよく引かれた小柄な体が傾ぐ。
「レーナ、お前、本気になるなと言っただろう」
「いや、このくらいは本気には……」
 力の入らない左手を掴み上げられて、レーナは言葉を濁した。先ほどまであんなに頼もしく見えたのが嘘のように、今はたじろいでいる。見た目相応の少女のようだ。すると突然視界がぼやけて、リンは瞳をすがめた。鈍痛がぶり返してきている。思い返すと、傷が開いたままかもしれないのだった。脇腹を押さえても世界が時折ふわふわと揺れて見えるので、彼女は仕方なく耳を澄ませる。
「大体、今のは何だ。魔物じゃないのか?」
「ああ、魔族だ。結界のゆるみと亜空間が繋がっていたのかもしれない。危なかったな」
「危なかったなで済ませる話か! だからこんな罠に乗るなと――」
「いや、我々がいなかったら取り返しのつかない事になっていた。だからそれはいいんだ」
 レーナがちらりと周囲へ一瞥をくれたのはわかった。梅花の無事を確認したのだろうとリンは推測する。神技隊を狙っている割に、『オリジナル』に何かあるとまずいようだ。彼女たちは何者なのか、何がしたいのか、ますますわからなくなってくる。
「わかった、もういい。行くぞレーナ。さっさと戻ってその傷を治せ」
 アースの手が動いた。レーナが視線を逸らしているのをいいことに、彼は難なく彼女の体を抱き上げた。「ちょっと、アース」と慌てる声は無視だ。リンは思わずその光景を凝視する。レーナは梅花同様に華奢だから軽そうだなとは思うが、抵抗を物ともせずあっさり横抱きしているのを見ると唖然としてしまう。慣れているように思えるのは気のせいか。
 アースは醒めた視線を周囲へ巡らしてから、最後に足下にいる青葉たちへと目をやった。青葉は片膝をついて梅花の体を支えながら、アースたちを睨み上げている。互いが目と目を交わしたことは明らかだ。しかしそこに言葉はなかった。二人とも何か言いたげではあったが、無言を貫いている。
 抗うのを諦めたレーナが、首をすくめつつ破顔したのが合図となった。アースはリンたちに背を向けると、強く地を蹴る。そしてそのまま体に風を纏わせ、一気に空へ飛び上がった。無論、追いかけるような気力など誰にもなかった。瞬く間に小さくなっていく姿を目で追うことしかできない。
 しばらくは、皆声を発することがなかった。不自然な静寂が辺りを包み込み、思い出したような葉擦れの音だけが鼓膜を揺らす。最初に我に返ったのは青葉だ。梅花が身じろぎしたからだろう。はっとした彼が名を呼ぶことで、ようやく時間が流れ出す。リンは意を決すると「ジュリ」と呼びかけた。シンの腕を借りてもう少しだけ上体を起こし、近づいてきたジュリを見上げる。
「梅花をお願い。よくわからない奴らによくわからない技で二回はやられてるから慎重にね」
「はいっ」
 どうにか笑顔を作って頼み込むと、ジュリは意をくんでくれたようだった。今の梅花に自分で自分を癒す余裕はないだろう。他人の怪我を治すことにかけては、ジュリの右に出る者はいない。リンはそう思っている。頷いたジュリが梅花たちの方へ駆け寄っていくのを見届け、リンは胸を撫で下ろした。
「……リンの怪我はいいのか?」
 再びシンに顔を覗き込まれて、リンは頷いた。ここまで不安そうな表情は初めて見たように思う。そんなに自分はひどい顔色をしているのだろうか。それとも手にこびりついた血のせいか? よく見ると右手は真っ赤だ。意識しなければよかったと、リンは苦笑いする。
「あーいいの。私は自分で治すからいいの。梅花の方は時間かかりそうだし。でもこれはちょっと予想以上だったわね。この服もう駄目かも」
「こんな時まで服の心配かよ」
「こんな時だからよ。ま、手でこすっちゃっただけで出血量は多くなさそうだから。平気平気」
 治癒の技が使える技使いにとって、一番気をつけなければならないのは血を失うことだ。技を使えば傷を塞ぐことができる。痛みで精神が集中できない状況にさえならなければ、最悪の状況には到らない。しかし失われた血が戻るわけではなかった。多量に出血すると技を上手く使えなくなるらしいと教えられてもいたし、経験的にも知っていた。だから出血には気を遣う。
「こすっただけでそうなるかよ」
 呆れたシンの声が降り注いだ。リンはから笑いしながら脇腹に手を添え、深呼吸を繰り返す。焦りがなくなったせいか精神の集中も問題なさそうだった。これならばすぐに傷も塞がるだろう。
「……一体、何があったんだ?」
 それはシンにも伝わったようで、尋ねる声に少しだけ落ち着きが戻ってきた。
「私にもわからないわよ。ただ、魔族だとか言われてた変な男たちがいて。急に襲ってきたのよ。それをレーナが助けてくれたって形になるのかしら」
 傷を癒しながらリンはそう説明する。二人の会話を聞いていたらしく、近くにいた滝たちが唸る声も聞こえた。神技隊を狙っていたはずのレーナたちが、何故味方してくれたのかは不明だ。梅花を守りたかったのだろうというのはわかるが。
「梅花に手を出して欲しくなかったみたいね。オリジナルとか言ってたし」
 会いたかったとレーナは口にした。偶然同じ顔という可能性はないと思っていたが、やはりシークレットと繋がりがあるのだろう。それがどういった関連かはわからないが、収穫はあったと考えるべきか。
 リンは瞳を細め、梅花たちの方へと視線を転じた。青葉は梅花の体を支えたまま青い顔をしている。梅花は青葉に頭を預けた状態で軽く目を瞑っているようだった。痛みを堪えているのか苦しそうな表情だが、呼吸は比較的穏やかだ。梅花の横に座ったジュリは、細い足へと両手をかざしている。手のひらから温かな光がこぼれ落ちている様は、リンもよく見慣れていた。ジュリの腕は信頼している。しかし出血は多そうだったから、しばらくは休養が必要だろう。
「まったく、何が起こってるんだか」
 シンのため息は皆の気持ちを代弁していた。一体何のためにおびき寄せなどという作戦を立てたのかわからなくなってきた。元はといえば、ラウジングがいきなり姿を消したのが悪い。あの不親切な上の者は、今はどこで何をしているのか?
「――そうだ、シンたちはどうやってここがわかったの?」
 ふと、そこで疑問が生じた。この亜空間では皆が気を隠していたし、どうも空間が歪んでいるらしかった。リンが梅花と合流できたのも偶然だった。走ってきたところをみても、たまたま辿り着いたわけではないだろう。アースを追ってきたのか? レーナのあの強い気を誰かが感じ取ったのか?
「そんなの、変な気を感じたからに決まってるだろう。それまでは全く気を感じなかったのに。しかもそこにレーナの気まで加わって……」
 シンにしては珍しく不機嫌な声音だった。リンは眉間に皺を寄せる。何か怒らせることでも言っただろうか? 心当たりはないが、問いかけても明確な答えが返ってくる可能性は低いので、黙っておく。シンはたまにこういうことがある。
「……ということは、他のみんなも気づいていずれここに来るわよね」
 リンははっとした。ラビュエダたちの気配が目印になるのなら、他の者たちとも合流できるかもしれない。ひどい目には遭ったが悪いことばかりでもないようだ。頭上でシンも頷く。

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