誰がために春は来る 第二章

第十二話 春の紡ぎ

 辿り着いた場所は、異世界と呼ぶには十分すぎるほど不思議な場所だった。
「ここが無世界か」
 呆然と呟いたヒルードに向かって、ありかは頷く。言葉も学んでいるし知識も一応頭に叩き込んである。しかし実際目にするのとは話が違った。
 まず降り立った地の土の感触が思っていたよりずっと硬かった。雨でも降った後なのか所々ぬかるんでいるが、それでも足を跳ね返す感触に優しさがない。またそれは空にも言えた。見慣れていた青よりもずっとくすんだ薄青の空には、うっすらと灰色の雲がかかっている。気持ちまで重苦しくさせる空で、どことなく薄汚れた印象があった。
「それにしてもなんて建物の数だ」
 しかし何より彼女たちを驚かせたのは、無機質な建物の多さだった。ゲートがある場所は公園の中らしく、周囲は木々に囲まれている。だがその先に見えるのは空へと高くそびえ立つ灰色の建物だった。それがビルと呼ばれる物だと習ってはいるが、実際見ると違和感にうまく言葉が出てこない。何度見ても異質な存在としか感じられなかった。
「宮殿の部屋みたいな感じね」
 だから思わず彼女はそう言った。人を寄せ付けない印象の建物は、どこか宮殿内を彷彿とさせる。土や空にも通じることだが温かみが感じられない。ヤマトで見た家々や梅と比べて、それらは拒絶感を醸し出している。
「とりあえず第一隊を探そう」
 するとヒルードはそう言って歩き出した。今年二十八歳になるという彼は、第二隊クラッチーズの中でもひときわ頼りになる男だ。元々は外回りの仕事をこなしていたようで、技使いとしての能力も高いらしい。もっとも外から逃げ込んできてまだ五年と日が浅く、そのため神技隊に選ばれてしまったようだが。選ばれたということは家族はもちろん恋人もいないのだろう。
「そうですね」
「でもこの広い中を?」
「何かあてはあるんですか?」
 しかし同意するありかとは違って、他の仲間たちは狼狽え気味だった。もとから慎重派なのかそれとも異世界に怖じけているのか。片眉を跳ね上げるヒルードに、ありかは微苦笑してみせた。
「気で探せばおおよその方角はわかりますから、とりあえずやってみましょう」
 ここは宮殿とは違う。宮殿内は人々の気や結界が複雑に絡み合うため、気で人を探すのは労力のいることだった。彼女やシイカのように気の探知に優れた者ならいいが、苦手な者にとっては役に立たないも同然だ。だから人々は大概、自然と気を探ることをやめている。外回りの時は別なのかもしれないが。
「そうだな、この世界にいる技使いは神技隊と違法者だけだからな」
「はい、そんなに離れていなければすぐに見つかるかと思います」
 立ち止まったヒルードは振り返って頷いた。すると風が通りすぎ、彼の茶色い髪や木々の葉をさやさやと揺らしていく。やや冷たい風だ。彼女は乱れた髪を押さえながらビルの方へと視線を向けた。きっと人のいる方に乱雲たちは潜り込んでいるだろう。彼の名を小さく呟いて、彼女は精神を集中させた。
 乱雲に会いたい。きっとこの近くにいるはず。そう念じながら彼の気を探した。違法者が出入りするゲートの場所を考えてもそうそう遠くへは行かないはずだ。ならばすぐに見つけだすことができるだろう。彼の気ならば即座にわかる。
「あ、れ?」
 けれども彼女は、それより先に重大なものを発見してしまった。声を詰まらせて瞬きをし、もう一度間違いではないことを確認する。
「どうかしたのか?」
「気が、あります」
「もう発見したのか!?」
「いえ、違う気です。一カ所に十人以上が集まってます」
 驚くヒルードに彼女はそう告げた。その集団の中に乱雲の気はない。しかし彼らが通常の人間ではなく技使いであることは確かだった。技使いか否かで気の強さは異なるから、間違うことは普通ない。
「……違法者か」
「おそらく、そうです」
 この世界にいる技使いは神技隊か違法者。前者でないなら後者だ。ならば彼らのなすべきことは一つ。
「仕方ない、先に第一隊と合流したかったがやむを得ないだろう。まず先に違法者の取り締まりを行う」
 力強く宣言するヒルードに、異論を唱える者はいなかった。



 違法者の捕縛は、拍子抜けするほど簡単だった。そこにいたのは、年端の行かない子どもと老人ばかりだった。どうやら率いていた大人たちがどこかへ行ってしまったらしく、困惑した彼らは公園の隅で震えていた。
「この子たちを上に引き渡すのは辛いわね」
 ぽつりと独りごちつつ、ありかは嘆息した。連れ戻された彼らがどんな待遇を受けるのか、考えるだけでも背筋が凍る。悪意に満ちた者ならば同情もしないが、異世界へ飛び出しただけで何もできない者たちは見るだけで心が痛んだ。
「だが決まりは決まりだ。それが私たちの仕事だ」
「はい、わかってます」
 それでもヒルードはそう言う。違法者の腕を一般人に見えないよう工夫して縛り上げる仲間へと、彼女は目を移した。子どもが泣き出さないのはもう諦めているのかそれとも疲れ切ってしまったのか。
「ヒルードさん、終わりました」
 するとそれまで黙っていた仲間の一人が声を上げた。まだ二十歳にもなっていない彼はヤエルトという。子どもっぽい顔立ちのわりに体つきのしっかりした青年だ。口数が少なく話しにくいのがやや難点だが。
「わかった。しかし困ったなあ、他にも違法者はいるはずなのに気が感じられないとは」
「見つけた先から捕まえればいいんじゃないですか?」
 しかし今日ばかりはヤエルトの口数も多かった。そう提案する彼はほんの少し興奮気味らしい。異世界という場所がそうさせるのかはわからないが、落ち着きがなかった。怖じけていたと思ったら、違法者めがけて走り出したりと。
 でも何かが変だ。それだけではない違和感に、ありかは顔をしかめた。ヤエルトだけではない、何かが変なのだ。この違法者たちを見つけた時から感じている、妙な感覚がある。
「あっ」
 そこでその原因に思い当たって彼女は声を発した。探していたとき感じた気と今目の前にいる者たちの気、その強さが違う。あの時はもう少しわかりやすく強い気が存在していた。
「どうかしたのか? ありか」
 振り返ったヒルードに、彼女はすぐさまこの事実を告げようとした。だが目に入った光景に、鼓動を跳ね上がらせて瞳を見開く。いつの間にか彼の後ろに二人、男が立っていた。その二人はナイフを手にしていた。
 違法者。脳裏をその単語が勢いよく通り過ぎていった。今も二人の男からは微々たる気しか感じられない。つまり気を隠している。シイカのようにとまではいかなくとも、そういう芸当ができる者はいた。からからになった喉を叱咤激励して、彼女は口を開く。
「ヒルードさん!」
 叫ぶ声が公園に響き渡った。切りかかってきた男のナイフが、ヒルードの脇腹をかすめる。奇襲に気づいたヒルードは間一髪危機を乗り越え、さらに切りつけてくる男に回し蹴りを食らわせた。外回りで鍛えたその能力が発揮されたようだ。
「まだっ!」
 しかし襲いかかってきたのは一人ではない。もう一人の男はナイフ片手に技を放ってきた。透明な矢が幾つも生み出され、それが彼女たちへと向かってくる。
「させるかっ」
 するとヤエルトが飛び出した。彼は器用にも矢の間をくぐり抜けて男へと迫っていく。その背中を見つめて彼女は息を呑んだ。
 この世界で不用意に技を使ってはいけない。それは上から神技隊にきつく言い渡されていたことだった。特に目立つような広範囲の技は駄目だ。つまり技使い相手に生身で戦うようなものだった。結界の中に違法者ごと入ってしまえば話は別だが。
「ヤエルト!」
 彼女は叫んだ。案の定、技を使えないヤエルトはあっけなく敗北した。技を避けたところを腹部に肘鉄を食らい、彼はその場にうずくまる。目立ちすぎるのは嫌なのか違法者も小技が主だが、それでも使うか使わないかは大きな差だ。男の握るナイフが陽光を反射する。
 今から違法者を結界に入れるのは無理。だが技も使えない。子どもたちを背にして彼女は戦慄した。もっと早く気づいていれば、彼らの奇襲に対処できたかもしれない。すぐさま結界を張ることができたかもしれない。うかつだった。おそらく彼らは神技隊の存在に気がついて、囮を置いていった。そして様子をうかがい好機を見計らっていた。それに全く気がつかなかった。
「そんな……」
 どうすればいいのかわからず、彼女は立ちつくした。頭が真っ白になりどうしようもなくて、涙がこぼれそうになる。うずくまったヤエルトは呻くだけで動かなかった。それを確認した男は、ゆっくり彼女たちへと近づいてくる。
「ありか!」
 しかし背後からかかった声が、別の理由で彼女を固まらせた。それは聞き覚えのある、否、聞き慣れた声だった。優しさの中に張りつめた何かを隠し持つ、切なさを含んだ声。
「らん、うん?」
 振り返ることができずに、彼女はその名を呼んだ。ずっと聞きたくて聞きたくて仕方のなかった声に、全身が震える。会いたかった。もう一度会って話したかった。この状況でそんなことを思ってはいけないとわかっているのに、今すぐ全てを放り投げて駆け寄りたくなる。彼女は衝動を堪えるように唇を噛んだ。
「ぐわっ!?」
 すると向かってきていた違法者の体が、瞬時に空に浮いた。いや、突き飛ばされた。横から突然現れた青年に体当たりされて違法者は地面を転がる。そこへ別の方から女性が走り寄り、違法者へと飛び乗った。彼女が男の頭に手をかざすとそこから白い光が溢れ出す。
「よし、これで大丈夫だな」
 一歩一歩、背後から近づく足音がした。白い光を浴びて眠った違法者を見て、ヒルードの相手をしていた男も観念したのかおとなしくなる。戦闘は終わりだ。
「乱雲、こいつらこの間逃げられた奴らだ」
「そうか。ずいぶんと手こずらされたけど、最後は呆気なかったなあ」
「やったー! ついに捕まえたのね」
 第一隊の間で交わされる言葉。それを耳にしながらありかは深呼吸した。乱雲の顔を見て、何と言えばいいのだろう。まず何を言えばいいだろう。どんな顔をすればいいのだろう。心の準備ができていなかっただけに混乱しそうになる。だが意を決して彼女は拳に力を込めた。伝えたいことは一つだと思い出したから。
「ありか」
 近づいてきた乱雲はすぐ背後で立ち止まった。ありかはゆっくりと振り返って、おずおずと彼を見上げる。
「乱雲」
 喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないと告げるように、切なさと温かさを含んだ眼差しが向けられた。別れた時と変わらないその瞳は、今は困惑気味に揺れている。ありかは柔らかに微笑んだ。
「よかった、また会えて」
 本当は、言わなければならないことは山のようにある。罪を犯した、最低な親だとも思う。けれども決めた。この今にも消えそうな笑顔を守るのは自分だと。悲しい顔をさせたくないと。だから今すぐ伝えたいことはただ一つ、会いたかったという想いだけだった。それを隠すことなく彼女は口にする。
「ありか……」
「会えてよかった。ずっと、会いたかったの」
 微笑む彼女につられて彼も薄く笑った。最初はぎこちなく、けれども次第にはっきりとした笑みの形に変化する口元が、彼女の拳をゆっくり解かせる。彼の指先が恐る恐る伸びてきて、彼女の頬へと触れた。
「オレも、会いたかった」
 春の風が二人の間をすり抜けていった。ここからまた何かが始まるのだと告げるように、それは心地よく暖かだった。

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