誰がために春は来る 第二章

第十一話 想いを込めて

 不意に聞こえた鳥の鳴き声に、ありかは書類整理をしていた手を止めた。窓の外からは布越しに日の光が差し込んできている。いつの間にかもう朝だ。結局一睡もしなかったことに喫驚しながら、彼女は後ろの小さなベッドを振り返る。
「ちょっと梅花」
 そしてさらに驚いた。寝ているのを確認しようと目を向けたはずなのに、愛娘の梅花は既にベッドの上に座って遊んでいた。シーツの裾を小さな手で引っ張っては、妙に楽しそうにしている。
「もう梅花、起きているならそれらしい気配させてよね」
 立ち上がったありかは小さなベッドの側へ行くと、柵を収納して苦笑した。八ヶ月を過ぎた梅花は手のかからない親孝行者だ。ベッドに寝かせておけばいつの間にか眠っているし、目覚めたとしても泣かずに一人で勝手に遊んでいる。また気配を殺すのが得意なところは、シイカにそっくりだった。それをシイカに言えばあなたとは正反対ね、とからかわれる始末だ。
「あなたは本当変わってるわよねえ」
 梅花を抱き上げて、ありかはそう囁いた。当の梅花は澄まし顔で扉を見ており、母親の言葉など意に介していない様子だ。「本当に不思議な赤ん坊」と呟いてありかは口元を緩める。
「でもその方がいいのかもね」
 こんな風に梅花と一緒にいられるのも、あと数日のことだった。ならば親にかまわず遊べるくらいの方がいいのかもしれない。その方が面倒を見ることになるシイカも楽だろうし、ありかも安心できた。
「本当親孝行よね」
 頭を撫でると、不思議そうに梅花は見上げてきた。何も知らない無垢な顔は見ていると涙がこみ上げそうになる。すると小さなその手が上着の裾をぎゅっと掴んできた。言葉が理解できているとは思えないが、そうなのではと疑いたくなる仕草だ。ありかは涙を堪えて微笑む。
「ええ、大丈夫よ」
 後悔はしていない。けれども置いていかなければならない子どものことを思えば、胸が苦しくなった。やはり共にいるべきではないかと、責める声がどこからか聞こえてくる。こんな小さな赤ん坊を一人にするのかと、それでいいのかと、何度も迷いそうになった。
「ごめんね梅花」
 しかし決意を変えることはできなかった。もう乱雲に悲しそうな顔をさせたくない。彼が痛みを堪えて儚げに微笑んでいる姿を想像するだけで、心が張り裂けそうになる。それに彼をもう一人にしないと誓ったのだ。誰にでもなく自分に。
「こんな親でごめんなさいね、梅花」
 そう何度も謝っても、梅花は首を傾げて見上げてくるだけだった。けれども言葉を途切れさせることができずに、ありかは微苦笑する。
 おそらく梅花は両親のことなど覚えていないだろう。ありかたちが宮殿へいつ戻ってこられるのか不明だが、そう早い時期ではないはずだ。ならば帰ってきたとしても親とは認識してくれないかもしれない。それを責めることは、ありかたちにはできないことだった。
「ねえ梅花、恨むなら恨んでちょうだい。愛して欲しいだなんて、許して欲しいだなんて私は言えないわ。でもね、決して死なないでね。生きていてね」
 だからありかにはそう告げることしかできなかった。その命を大事にして欲しいと、祈ることしかできなかった。するとそれまできょとりとしていた梅花は、何を思ったかキャッキャと声を出して笑い出す。ありかは面食らって目を丸くした。
「梅花?」
 無論名前を呼んでみても理由を説明してくれるはずがない。だがそんなことで悩むなと言われているようで、ありかは肩の力を抜いた。どこまでも不思議な赤ん坊だ。
「そうね、あなたは親孝行者ですものね」
 ありかはそっと梅花をベッドに移すと、名残惜しげに立ち上がった。そして柵を引っ張り上げてロックをかける。書類整理を終わらせてしまわなければ、神技隊派遣に間に合わない。あともう一頑張りだからと自らを励まし、ありかは机に向かった。
「あなたを一人にはしないわ、乱雲」
 囁きは、揺らぎそうになる決意を確かなものにする合い言葉だった。静かに遊ぶ梅花を一瞥してから、彼女は再び書類へと手を伸ばした。



 春を間近に控えた風は、それでもまだ肌を突き刺すようだった。最低限の物資を詰め込んだ鞄を手にして、ありかはちらりと空を仰ぎ見る。昨日まであった重たい雲はどこかへ消え失せたようで、のどかな空気が漂っていた。今は薄青の空にうっすら白い雲がかかるだけだ。風さえなければ、もう少し心地よい天気になることだろう。
「そろそろいいかな?」
 けれどもそう告げるリョーダの声で、ありかの心は地へと戻された。視線を下げると自然とシイカの姿が目に入ってくる。向かいにいるリョーダのそのさらに後ろに、梅花を抱いたままシイカは立っていた。梅花は先ほどまではありかが抱いていたのだが、もう時間だからと名残惜しくもあずけたところだ。怪訝そうに見上げられたのが、胸に痛かった。
「はい」
「大丈夫です」
 仲間たちが次々と返事をしていくのに倣って、ありかは小さく頷いた。声は震えそうなので返事まではできない。しかしそれでもリョーダは気にせず、大仰に首を縦に振った。その赤毛が風に揺れる。
「君たちにはさらに迷惑をかけることになるだろう、すまない。派遣がこれだけ遅れたことも謝らなければならないな。準備に手間取ってしまった」
「いえ、やはり第一隊の援助やこれからのことを考えれば慎重になりますからね。違法者は増えるばかりですし」
 リョーダと第二隊リーダーであるヒルードの会話は、簡単にありかの頭の中をすり抜けていった。第一隊とは乱雲たちのことだ。ありかたちは第二隊にあたり、主な仕事は第一隊の支援や異世界の状況を上へ伝えることとなっている。特に前者よりも後者の方が難題だった。取り締まった違法者をどうするのか、新たな違法者の情報をどうやって受け取るのか問題は山積みだ。
「そうだな。ゲートの方はありか君に任せてある」
 そこで自分の名前が飛び出し、ありかはリョーダの方を見た。気遣わしげな眼差しを向けられて、ありかは微笑する。
 ゲートの開閉は大きな問題だった。異世界を繋ぐゲートは彼らの移動手段であるが、違法者に軽々と利用されては意味がない。普段は人が通れないほど小さな穴だが、それを一時的に無理やり大きくして使っていた。だがこれは力加減を間違えれば穴を広げる結果となってしまう。実際第一隊の派遣時にほんの少し大きくなってしまったことが、後に明らかとなった。だからゲートの調整ができる者は限られていた。その限られた者に、ありかも含まれていた。彼女の気がゲートを安定させる傾向があることがわかったため、事態は好転した。そういった者は、上を含めて宮殿内でも珍しい。
「はい、任せてください」
「ああ、頼む」
 ありかは相槌を打った。リョーダの言葉にはおそらく幾つもの気持ちが込められているのだろう。以前見た時よりも幾分年取った印象がある。神技隊関連での心労のせいだろうかと思うと、胸が痛んだ。きっとそこに彼女たちのことも含まれているはずだ。優しい彼が気にかけないわけがない。
 ならばありかにできることは、凛とした態度で異世界へと旅立つことだけだった。彼の苦しみが少しでも減るように、大丈夫なのだと言外に告げることだ。
「梅花」
 誰にも聞こえないよう小さく娘の名を呼び、ありかは躊躇いを封じ込めた。ここで別れを惜しむことはリョーダたちに悪影響を及ぼす。だからシイカや梅花を目に焼き付けようとすることはできなかった。ただ小さく名前を呼び、そこにありったけの想いを込める。どうか幸せにと。
「ではリョーダさん、そろそろ行きます」
「ああ、そうだな。健闘を祈る」
 リョーダたちの言葉を耳にし、ありかは一歩前へ踏み出した。ゲートのある空間へと手を掲げて精神を集中させると、見えない気の流れが手のひらへと伝わってくる。彼女はその流れの途切れた部分を見つけだし、そこへと慎重に自らの気を注ぎ込んだ。ゆっくり穴が広がっていく。
「ゲート開きます」
 告げると同時にゲートは開いた。白い光が溢れて裂け目が生じ、その先に黒い空間が顔を覗かせる。いや、黒だと思ったのは一瞬のことで、すぐにうっすらと林が見えてきた。木々に遮られて日が届かないのか、薄暗い中を水を含んだ土が広がっている。直接肌で感じられるわけではないのに湿度まで伝わってくるようだった。
「開きました」
 これが無世界。乱雲たちが違法者を取り締まっている未知なる世界。見た目はあまりこちらと変わらないが、確かに別の世界だった。ありかは息を呑んで裂け目の向こうを見つめる。乱雲を見送った時とはまた違う感情が湧き出してきた。
「では第二隊クラッチーズに違法者取り締まりを命ずる」
 すると思いを抑え込んだリョーダの声が、辺りに響いた。ありかはゲート脇へと避け、四人の仲間へ入るよう促す。シイカの視線を感じながらも、彼女はひたすら自分の番が来るのを待った。慎重に足を運ぶ仲間たちがほんの少し恨めしくなるが、文句を言っても仕方ない。誰だって未知なる世界に本能的な恐怖を感じる。小さくなる仲間の姿を彼女は目で追った。
「ありか」
 そして最後は自分の番だと意気込んだ途端、背後からシイカの声がかかった。ゆっくり振り返った彼女は躊躇いつつもリョーダを見た後、シイカへ視線を移す。梅花をしっかり抱きかかえたシイカは、毅然と立って微笑んでいた。
「そんな顔しないで、安心して行きなさい」
「お母様……」
「あなたは乱雲さんを救いなさい。人はね、そう何人も救えるわけじゃあないのよ、普通。だから自分を責めないこと」
 動けないありかへと、シイカは柔らかに告げてきた。途端に堪えていた涙が溢れそうになり、ありかはぐっと奥歯に力を込める。シイカの姿は頼もしく、心の奥から解かされていくような感覚があった。また抱かれた梅花も何故だか元気だと主張しているように見えて、自然と口角が上がる。自分は幸せ者だと、感じる瞬間だった。
「はい」
「だから笑って行きなさい、ね。しゃんとして行ってらっしゃい」
「……はい!」
 ありかは大きく首を縦に振り、もう一度ゲートの先を見つめた。
 自分は完璧でもないし強くもないけれど、それでもできることを力一杯やり遂げたい。大切な人全てを守ることも幸せにすることもできないけれど、それでも精一杯やってみたい。
 今度は迷うことなく、彼女はゲートの先へと足を踏み出した。一瞬体を包み込む浮遊感に驚きながらも、振り返ることなくもう一歩を踏み出す。
「私は負けないわ、乱雲。お母様、梅花、行ってきます」
 澄んだ声は、どちらの世界に溶け込んでいったのかわからなかった。それでもきっと皆に届いただろうと、彼女は確信した。

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