誰がために春は来る 終章

 殺風景な部屋の中で、梅花は古い手紙を折り畳んだ。苦笑を漏らすと長く黒い髪が揺れ、白い壁の影も揺れる。
「おばあさまはどこまで気づいてたのかしらねえ」
 そう呟いて彼女は窓際へと寄った。そろそろ日が沈む時間で、雲に隠れた太陽から茜色の光がうっすらと漏れている。手紙の表面を撫でながら、彼女はぼんやりとそれを眺めた。ここから外を見るのは久しぶりだ。いや、宮殿へ訪れるのも久しぶりかもしれない。
「梅花」
 不意に、背後の扉が開く音がした。振り返ると部屋へと入ってきた青葉が、不思議そうな顔で首を傾げている。いつもなら心配そうな顔か満面の笑みかのほぼ二択なことを考えると、その反応は珍しかった。彼女も同じように頭を傾ける。
「どうかしたの? 青葉。そんな顔して」
「いや、お前の背中が何かやたら華奢に見えたから。あーもとから華奢だけどな」
「ちょっと何よそれ」
 傍に寄ってきた彼に、彼女は肩をすくめてみせた。華奢だの小柄だの言われ続けているから慣れてはいる。が、強調されると微妙な気分になる。周りが大きすぎるだけだ。この宮殿にだって、もっと背の低い者たちはいる。
「いや、折れそうなくらい細いだろ。戦闘中とかいつも心配になるし。なのに何であんな力が出るかなあ」
「精神量に体の大きさは関係ないでしょう?」
「って話がずれた。そのな、つまり、お前の背中が辛そうに見えたんだよ、何となく」
 すると彼の手が伸びてきて頭に載せられた。慰めるかのように往復する手のひらからは、気遣わしげな温かみが感じられる。すぐ見抜かれるのだと思うと、くすぐったい気分になった。彼女はそっと手紙を胸元へと持ち上げて、目だけで彼を見上げる。
「ちょっとね、リューさんから手紙をもらって」
「手紙?」
「私が全てを知った時に渡すように、っておばあさまから言われてたみたい。まあ、リューさんもそれがいつなのかわからず困ってたみたいだけど。最近私が落ち着いてたから、ね」
 全てを知る。その言葉に、青葉の体が固くなったのがわかった。息を呑む彼へと微笑みかけて、彼女は自らの頭に手をやる。そしてそこに載せられている彼の手に触れると、そっと引き離した。
「おばあさま、色々感づいてたみたい」
「まさか」
「どこまでかは定かじゃないけどね。でも気づいてたのは本当らしいわ。手紙に書いてある」
 離した彼の手をそっと握り、彼女はそう告げた。気づいていた者がいたなど信じられないと、彼の双眸は語っている。確かに信じがたいことだった。彼女の祖母が生きていた頃と言えば、まだ彼女が物心つく前だ。神童はおろか、まだ技使いとしても認知されていなかった頃のことだ。
「その手紙の中身、知ってたのか? リュー長官は」
「たぶん今も知らないんじゃないかしら。知ってたら私を見る目がさらに変わってただろうし」
「おいおい」
「だってそうでしょう? それに読んでいれば、自分を責めずにすんでたかもしれないしね。結局全ては私が原因ってことになるんだから」
 梅花は薄く笑って瞳を伏せた。それはずっと感じていることだった。自分の生い立ちはある意味では自分という存在が引き起こしたものだ。それが自分ではどうにもならなかったこととはいえ、否定しようのない事実。必然に偶然が重なった結果起きた、複雑な事実だ。
「梅花……」
 すると手が握り返されて彼女は頭をもたげた。心配そうな眼差しを向けられて、またやってしまったと彼女は少し後悔する。
「大丈夫よ青葉」
「だけど、無理するなよ。お前の責任じゃないんだから」
「でも私のこの容姿がアユリを引き寄せたとも考えられるのよ」
「だったらオレにだって責任がある」
 真剣な表情で顔をのぞき込まれて、彼女は数度瞬きをした。間近で見る彼の黒い瞳は、こういう時その胸中を悟らせない。故に彼がこれから何を口にするのかさっぱりわからず、彼女は閉口した。彼の吐息が肌をくすぐり肩に力が入る。
「アユリはシレンを追いかけてきたんだろう? だったらオレにも責任がある」
「あ……」
「オレたちってみんなどこかで繋がってるんだから、たぶん誰か一人のせいってことにはならない。もし責任があるなら、みんなだ。だからもし中身を知っていたとしても、リュー長官はきっとまた別の何かを感じるんじゃないかな。でもそれはお前のせいじゃない」
 紡がれた彼の言葉は、ゆっくりと彼女の体に染み渡っていった。熱のこもった思いは、こうも簡単に胸の奥へと溶けていく。彼女は微笑して頷いた。彼には、いや、皆にはいつも助けられている。これが幸せということなのだろうと、彼女は確信した。辛い現状の中にあっても見失ってはいけないもの、それを感じ取ることができる今に感謝したくなった。
「ありがとう、青葉」
「いや、オレはずっと梅花に助けられてばかりだし」
「そう?」
「気づいてないのかよ、ってそうなの。オレばっかり救われてるのってなんか癪に障るじゃん。たまには助けさせろよな」
 そう言われて彼女はくつくつと笑い声を漏らした。体の震えにあわせて長い髪が揺れ、それが頬にかかる。すると彼の指がそれをそっと耳にかけた。彼女は目だけで彼を見上げる。
「そこで笑うなよなー」
「ごめんなさい。でも、そろそろ戻らないとね。ほら、仕事持って帰らないとみんな飢え死にしちゃうし」
 彼女はもう一度窓の外を見た。先ほどよりも色濃くなった茜色の空は、雲までも同じ色に染め上げている。その力強さに目を細めて彼女は手紙にそっと顔を近づけた。図書庫の本を彷彿とさせる匂いに口元が緩む。
「大丈夫ですよ、おばあさま。私は誰も恨んでいませんから。……お母様もお父様もおばあさまも。もちろん、自分も」
 その囁きが青葉の耳に入ったかどうかは、彼女にはわからなかった。ただ笑顔で歩き出した彼を見上げて、彼女はかすかに口角を上げる。聞こえていてもいなくても、気持ちが伝わったには違いない。彼女は一度深呼吸して小走りで彼の横に並んだ。手紙からかすかに返事が、聞こえたような気がした。




 梅花へ

 この手紙を読む頃は、きっととんでもないことになっているでしょう。あなたが生きる時代は混沌に満ちていて、きっと辛い思いをしているでしょう。
 親と離ればなれになって、それなのにそんな道を歩ませることになって、私は心を痛めています。それがわかっているのに何もできないことを悔しく思っています。
 ごめんなさいね。でもありかを恨まないであげてね。あの子を責めないであげて。
 二つある大切なものから一つを選ぶことは、ありかにはきっと辛いことだったでしょう。だけどそうし向けたのは私です。あなたをこの世界から出すわけにはいかなかったから、決断するよう迫ったのは私です。
 あの時あなたを結界に近づけることは危険だったから、連れていけないと私は言いました。結果あなたは両親と引き離されることになりました。
 ごめんなさいね、梅花。恨むなら私を恨んでちょうだいね。でも、決してあなたを不幸にしたかったわけじゃあないの。
 それなのに、私の寿命ももう尽きようとしている。幼いあなたを残していくことを、本当に私は後悔しています。まだ何も知らないあなたを一人、リューたちに託していくのは本当に心残りです。でもこれは逃れられない運命なのでしょう。もう字を書くこともままならないのですから。
 だから願わくば、あなたが大切な人たちと巡り会うようにと。ただそれだけを今願っています。
 本当にごめんなさいね。
 ただ短い時間だったけれど、ありかは精一杯あなたを愛してました。それだけはどうか、どうか心にしまっておいて。あなたが愛されていたことを、決して忘れないで。

     シイカ

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