誰がために春は来る 第二章

第十話 ヤマトの花に

 検診を終えて部屋へと戻ったありかは、大きく息を吐いた。窓からは暖かな日差しが降り注ぎ、壁を明るく照らしている。もう春だ。雪解けが進んだ外もまだ肌寒いものの、確実に季節は移り変わろうとしていた。そっと窓際に寄った彼女はお腹へと手を当てる。
「もうすぐ」
 無意識に唇から漏れるのはそんな言葉だった。検診してもらったところ赤ん坊は順調に大きくなっているそうだ。生まれるのは七月頃だというから、後三ヶ月。それは長いようで短かった。離れたいような離れたくないような不思議な気分で、彼女はじっと外を見つめる。
「ありか」
 すると背後の扉が開き、シイカの声がした。ゆっくりと振り返ったありかは、小首を傾げてやんわりと微笑む。まだ午前なのだからシイカがこんなところにいるのはおかしいが、おそらく心配してきたのだろう。一方ありかの方は検診の都合もあって一日特別に休みをもらっていた。それも、仕事仲間たちが妊婦に気を遣ってくれたおかげだ。彼らが後に仕事を手伝ってくれるというから、上も許してくれたのだろう。
「お母様、どうかしたんですか?」
「そろそろ検診が終わる頃かなと思って。どうだった?」
「順調だそうですよ。でも仕事は無理しないようにって言われましたけど」
 ありかは肩をすくめた。この宮殿で無理をしないというのは、それこそかなり無理な話だった。だがありかは幸いだ。図書庫の仕事は動き回ることが少ないし、仲間たちも頻繁に気にかけてくれる。休暇まで与えてくれるのだから妊婦の中では最上級の扱いと言っても過言ではなかった。もっともそれでもシイカは心配なようだが。
「そうよ、今日くらいゆっくり休みなさいね」
「お母様は仕事どうしたんですか?」
「ちょっと抜けてきただけよ、早めに片づけてね」
 さすがはシイカだとほんの少し苦笑して、ありかは窓枠へと手を置いた。シイカは数歩近づいてくると、彼女の隣へと並ぶ。あることを切り出したいありかは、そんなシイカの横顔へと一瞥をくれた。
「まだ神技隊の派遣は決まってないようね」
「はい、リョーダさんからはそう聞いてます」
「あなた、それで本当に良かったの? まるで運試しみたいなこと」
「私が決めたからいいんですよ。もう、何度聞けば気が済むんですか? お母様」
 先に話題を変えたのはシイカだった。神技隊のことを口にされて、ありかはお腹をさすりながら微苦笑を浮かべる。ありかの決意。それは異世界へ行くかどうかを神技隊の派遣の有無にゆだねることだった。
 まだ次の神技隊が派遣されると決まったわけではない。それは乱雲たちの報告をもとに、これから上が決定することだった。だからありかはそれに賭けたのだ。次の神技隊がいらないのならばいつかは乱雲も帰ってくる。しかしさらに派遣されるようならば帰ってこられる確率は低い。ならば彼女が行くしかない。だから、全ては次の神技隊を派遣するかどうかにゆだねると。
「ねえ、お母様」
 そんな決断しかできない自分を情けなく思いながら、ありかはシイカへと向き直った。外を見ていたシイカは視線に気づいたのか、頭を傾けながら「何?」と問いかけてくる。普段以上に優しい声音だ。
「私、実は今日ヤマトに行こうと思ってるんです」
「ヤマト?」
「乱雲の生まれたところを一度見ておきたくて。もうこんな機会あるかどうかわからないですから」
 いつまでも隠していては時間がなくなると、そこでありかは本題を切り出した。本当は安静にしていた方がいいとわかってはいる。が、これだけは譲れなかった。すると一瞬目を丸くしたシイカは、呆れ混じりのため息を吐く。そしてくるりと窓に背を向けて目を細めた。
「ゆっくり休みなさいと言ったばかりなのにね」
「……ごめんなさい」
「でもそんな顔されたら駄目だとは言えないわ。行きなさい。ただし、ちゃんとワープゲート使うのよ。あと長時間は歩かないでね」
「はい」
 しかし予想外にも了承はあっさりと得られた。「仕方のない子ね」とでも言わんばかりの仕草をするシイカへ、ありかは微笑を向ける。
 子どものためを思えば外へなど出かけない方がいい。働きすぎたため早く子どもが下りてきてしまった例も、ありかは何度か耳にしていた。だが、それでもヤマトへ行ってみたかった。今後どうなるかわからないからこそ、今ちゃんと目にしておきたい。動けずに後悔するのだけは、もう嫌だった。
「大丈夫です、仕事してるよりはずっと楽ですよ」
「そう、ね」
「お土産、何かいりますか?」
「それならヤマトの花を買ってきてちょうだい。そろそろあちらは花が咲き始める頃でしょう?」
扉へと向かって歩き出したシイカを、ありかは目で追った。これ以上長居をする気はないらしく、その足取りは年齢を感じさせない軽いものだ。その後ろ姿を頼もしく思いながら、ありかは首を縦に振った。けれどもその心は、既にヤマトへと飛んでいた。



 春といえども、やや北に位置するヤマトの風は冷たかった。それでも解け残りの雪すらなく、道端の木々は小さな花をつけている。山が近いためなのか人通りはほとんどないが、所々に大きな家が建っていた。だが、そんな光景は他の町でも何度か目にしているはずだ。それなのに何故だか興味深く感じられて彼女は不思議だった。ここは宮殿とは違うのだと、まるで宣言されているような気分になる。
「ここが、ヤマト」
 もう何度目かになる言葉を口にして、ありかは辺りを見回した。肩に羽織った上着の端を引き寄せても、まだなお風は肌に突き刺さってくる。しかし、日差しは暖かさを含み、確実に季節が巡ったことを告げていた。乱雲と離れてからそれなりに経つということだ。
「ここから町までは結構ありそうよねえ」
 そんな寂しさを振り払うように、ありかは遠くへと視線をやった。辿り着いたのはヤマトでも端の方だったようだ。シイカへお土産を買うなら町中に行かなければと思うが、ここからだと距離がある。技を使って飛ばないとなると時間がかかりそうだった。そう長居はしていられないのだがと、彼女は思案する。
「花、花」
 歩きながらあちこちへと視線を巡らせど、目に付くのは木に咲いた薄紅色の花だけだった。立ち止まった彼女はその花をもう一度見つめる。最近匂いは苦手なはずなのに、その花から漂う香りは心地よかった。しかもよくよく観察してみると見慣れない形のものだ。いや、宮殿にはこんな風に花をつける木はほとんどなかったから、もしかしたら『外』では一般的なものかもしれない。
「何の花なのかしら」
 お腹を撫でながら彼女は首を傾げた。気にし出すとどうにも確かめずにはいられなくなってくる。だが図書庫なら載っている本の一つや二つはあるだろうがここは道端だ。仕方なく諦めようとした彼女は、背後から聞こえてきた足音にぱっと顔を輝かせた。この辺りに住んでいる人ならば知っているかもしれない。
「あの――」
 けれども振り返った彼女の視界に入ったのは、六つか七つくらいの男の子だった。黒い髪を風に揺らしながら駆けてきた彼は、声をかけられたことに驚いたのかやや離れたところで立ち止まる。勢いを殺しきれなかった鞄だけが彼の横で揺れていた。
「あ、ごめんね。急いでたのよね」
「ううん、弟迎えに行くだけ」
「弟がいるの?」
「うん、まだちっちゃいんだ」
「そうなの。あ、このお腹にもね、もっとちっちゃい子がいるのよ」
 話しかけてしまった手前無言を突き通すわけにいかず、ありかはお腹をさすりながら照れた笑いを浮かべた。本当は花の名を聞きたかったのだが、このくらいの男の子ならば知らないかもしれない。すると話すことで見知らぬ人への警戒が解けたのか、彼はゆっくり近づいてきた。弟の時の記憶があるのだろうか。彼は恐る恐る確かめるように、そっと指先だけでお腹へと触れてくる。
「本当だ、なんか動いてる感じがする」
「わかるの?」
「気があるんだ、ぶわっと」
「え、そんなことまでわかるの?」
 ありかは目を丸くした。赤ん坊の気が尋常ではないのだと、シイカはことあるごとに言っていた。最近ではありかもそれを感じ取ることができるが、それにしたってこんな小さな男の子にまでわかるとは驚きだ。すると褒められたのが嬉しかったのか、彼はにっこり笑って胸を張った。乱雲を思わせる黒く柔らかな髪が、吹きつける風に何度も揺れる。
「だってオレ技使いだもん。ちゃんと勉強もしてるし」
「本当? じゃあこの花の名前もわかる?」
 何だか嬉しくなったありかは、便乗するようにそう笑顔で尋ねてみた。指さした先には風にも負けず咲き誇る花。彼はその花を仰ぎ見ると、満面の笑みで大きく頷いた。
「もちろん! これは梅の花だよ」
「梅? これが梅なの?」
「見たことないの? この辺にはいっぱいあるよ。今年は咲くのちょっと早いんだけど」
「そう、なの」
 ありかは彼へ微笑みかけると、もう一度木に咲いた花を見上げた。梅の花ならば図書庫の本で何度か見たことがあるはずだ。しかし実際目にするのとは全く違った。凛とした姿は美しく、風に運ばれる香りも心地よい。そして梅が象徴する言葉は――。
「綺麗ね、梅」
「うん! あ、じゃあこれいる? さっき飛んでたらぶつかって折っちゃったんだけど、まだ花は咲いてるから。あげるよ」
 すると肩からぶら下げていた鞄に手を入れ、彼は華奢な枝を差し出してきた。そこには小さな梅の花が幾つか咲いている。ありかは少しかがんでそれを受け取った。小さいながらに香りは豊かだ。
「ありがとう」
「うん! あ、そろそろ行かないと陸が泣くや。それじゃあね、お姉さん!」
 すると彼女が枝を手にしたのを見届けて、彼は再び走り出した。元気のよいその姿を見送りつつ、彼女はふふっと笑い声を漏らす。彼は一度も振り返らなかった。
「お土産、二つももらっちゃったわ」
 その小さな後ろ姿はすぐに草原の中へと溶け込んでいった。彼の名前は聞きそびれてしまったが、それでも感謝の言葉だけは何度も口の中で唱えておく。
「ありがとう、娘の名前は決まったわ」
 高潔な美しさ、孤高の中咲き誇る姿は彼女の願いそのもの。一人取り残すかもしれない娘へのささやかな祈りは、ここヤマトで見た花がよく表してくれていた。
「ねえ、あなたの名前は梅花うめかよ。いい名前でしょう?」
 あらゆるものを縛り付ける宮殿の中でも、どんな困難が待ち受けていようとも強くあるように。同じ過ちは繰り返さないように。お腹の中の小さな存在へと、彼女はそんな願いをもって囁きかけた。


 そして五月、正式に新たな神技隊の派遣が決定された。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆