ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-8

 大量にできたクッキーを、彼女はゼジッテリカと一緒に配り歩いていた。護衛が次々殺されている中にと顔をしかめる者もいたが、幼いゼジッテリカが喜んでいるとなると微笑んでくれる者も多かった。
 材料も施設もあるとなれば、クッキー作りはさほど難しくはなかった。苦戦するどころか出来栄えに満足したゼジッテリカが、食べきれない量を次々と焼いてしまったくらいだった。初めてなのに上手だと、褒めすぎたせいもあるだろう。
 何にせよそのおかげでこうして配り歩けるわけだが、真っ先に手渡さなければならない者にはまだ会っていなかった。ゼジッテリカが誰よりも先に礼を言いたい相手は、仕事の真っ最中なのだ。そこへは割り込めない。
「テキア叔父様どこだろうねー」
 袋に詰めたクッキーは、もうあらかた配り終えていた。人気のない廊下を歩きながら、ゼジッテリカは不満そうに俯く。残り少ないクッキーを持ちながら、彼女はそんなゼジッテリカの後ろ姿を見ていた。本当は彼がどこにいるのか、その気からわかるのだ。ただ今はクッキーを渡せる状況ではないと知っているから、訪ねられないだけで。
「そうですねー」
 適当に返事しながら、彼女はもう一度気を探った。彼の気はまだ部屋の方にある。だがしばらく様子をうかがっていると、その傍からギャロッドが離れていくのが感じられた。午前中の報告が終わったのだろう。護衛殺しが続くとなると話が長引くのが常だが、今日はこれで終わりのようだ。
「じゃあもう一回テキア様の部屋に行ってみます?」
 だから彼女はそう提案した。幸いこの道を歩いていけば、テキアの部屋へと続く廊下にも出ることができる。逆へと向かっているわけではない。そのことがわかっているのか、ゼジッテリカは頭をもたげると瞳を輝かせた。窓から差し込む日光を反射して、青い瞳が鮮やかさを増す。
「うん!」
 答えてゼジッテリカは意気揚々と歩を速めた。癖のある金髪が揺れる様は軽やかで、落ち着いた紅色のドレスによく映えている。布を何枚も重ねたスカートは、やはり生地が薄いのか飛んで跳ねても支障はなさそうだった。ゼジッテリカがくるりと回ると、それは空気を含んでふわりと広がる。
「リカ様、はしゃぎすぎないでくださいね」
「はーい。ってあ、叔父様の声が聞こえる!」
 苦笑混じりの注意も、今のゼジッテリカには効果がないようだった。廊下を反響して聞こえてきた会話の断片に、ゼジッテリカはすぐさま反応を見せる。慌てて手を伸ばすも、その行動は素早かった。走り出した小さな体を捕らえ損ねて、彼女は思い切りため息をつく。時々ゼジッテリカはこういうことをするから困るのだ。
「もう、リカ様ったら」
 ぼやきながら彼女は後を追った。ゼジッテリカたちが近づいていることは、気から彼もわかっているだろう。そういう安堵もあった。となると心配なのは、あのバンがどんな反応をするかだけだ。強い技使いの典型とも言えるバンの行動は、いつだって読み切ることができない。
 幸か不幸か、テキアたちもちょうどこちらへと向かっているようだった。このままの速度で行けば角で鉢合わせになるだろう。そんなことを考えながら、彼女はゼジッテリカの背中を見下ろした。飛び跳ねるように走る小さな姿は、年相応なものだ。そのこと自体はとても嬉しいが、落ち着きのない動きは危ないことこの上ない。
「テキア叔父様!」
 ゼジッテリカの高い声が響いた。と同時に廊下の角で立ち止まった彼の、端正な横顔が見えた。その黒い双眸が一瞬彼女へと向けられ、数度瞬く。
「叔父様っ」
 ゼジッテリカは彼を繰り返し呼ぶと、その腰にしがみついた。突進したと、そう表現してもいい勢いだった。それはさすがに彼も予想外だったのだろう。よろめいたものの何とか踏みとどまり、目を丸くしてゼジッテリカを見下ろしていた。滅多に見られない表情だ。
「捜したんだよ、叔父様!」
「私なら先ほどまで部屋にいたんだが……」
「でもその前はいなかったでしょう? さっきは大事なお話だったみたいだし」
 離れそうにないゼジッテリカに、彼は困惑していた。その隣ではバンがさもおかしそうに笑っているが、ゼジッテリカは意に介していないらしい。それよりもクッキーを渡せる喜びに浸っているのだろう。そのクッキーはゼジッテリカではなく、まだ彼女の手の中にあるのだが。
「もう駄目ですよ、リカ様、テキア様が困っていらっしゃいますから」
 彼女はゼジッテリカの傍に寄ると、その顔を覗き込んだ。そしてクッキーを入れた小袋を揺らすと、もう一方の手で小さな肩を叩く。助かると判断したのか、彼からは安堵にも似た気配が伝わってきた。これまた珍しいことだ。
「はーい」
「ほら、離れてくださいね」
 彼女がそう言えば、ゼジッテリカは素直に聞いた。渋ることなく離れたゼジッテリカを見下ろして、彼はおもむろに服を正し始める。濃紺の上着には飾り気こそないが、見ただけでいい生地を使っていると判断できる艶があった。ここに飛び込んでいけるゼジッテリカはさすがファミィール家の者だ。
「あのね叔父様、クッキーを焼いたの!」
 襟を整えながら首を捻る彼に、ゼジッテリカは満面の笑みを向けた。もちろんそれだけで事態が把握できるとは思えない。気には聡い彼も、人間の心の中が読めるわけではないのだ。困惑気味に視線で訪ねられて、彼女は手にしていた小袋を一つ彼の前に差し出した。
「これ、リカ様と一緒に焼いたんです。昨日のお礼にテキア様にも、と思いまして。それで捜していたんですよ」
 クッキーを入れた袋からは、ほんのり甘い香りが漂っていた。それでも甘い物が苦手な人でも大丈夫なように、ちゃんと甘さは控えめになっている。そのおかげかマラーヤやアースにも好評のようだった。
 ちらりと下を見れば、ゼジッテリカの瞳は期待に満ち溢れていた。彼に食べてもらうために作ったといっても過言ではないのだ。日頃我が侭を聞いてもらっている、そのお礼ということだ。神が食事をする必要がないことは知っているが、ここは是非とも受け取って欲しいところ。彼女は返答に窮する彼へと、頭を傾けて問いかけた。
「甘い物はお嫌いですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが」
「では受け取ってください。ほんの気持ちくらいしかないですけれど。あ、リカ様にはお菓子作りの才能もありますね」
 できる限りの笑顔を、彼女は彼へと向けた。自分の微笑みがどういった影響を及ぼすのか、彼女は長年の経験でわかっているつもりだ。もちろん、その効果が二分されていることも知っていた。それでも彼女が人間ではないと知っている神が、これをどう解釈するかまでは判断できない。
 だから思いを込めるしかなかった。ゼジッテリカの気持ちが伝わるように、彼女自身に何も意図はないのだと信じてもらえるように。ただ微笑んで小袋を差し出すことだけが、彼女にできることだった。すると彼の瞳が細められて、わずかに口角が上がる。
「そうですか。ではいただきますね」
 彼は小袋を手にすると、それを少し掲げて眺めた。香りくらいでしかクッキーだと判断する材料はないだろう。袋はこの屋敷にあった生成色のものを少し分けてもらったのだ。見た目はそれほど凝っているように見えないが、おそらくそれなりに値が張るはずだった。この屋敷にある物は、大概そうだと考えた方がいい。
「シィラ殿、わたくしにはいただけないのですか? 昨日見張りをしていたのはテキア殿だけではないですぞ」
 すると横から不意に、バンが口を挟んできた。からかうような口調と眼差しに、足下にいたゼジッテリカが一歩後退する。そのまま自分の後ろに隠れる姿を見て、彼女はわずかに眉をひそめた。本当にバンが苦手なようだ。
「もちろんバンさんの分もありますよ。昨日はご迷惑をおかけしましたから」
 彼女はまたバンの方を振り返ると、手にしていた袋をもう一つ差し出した。中身は同じくクッキーだが、量だけが少し違う。テキアのは多めにするのだとゼジッテリカが言い張ったからだ。見た目ではそれもわからないようにしてあるが、この男にばれるとまた色々と言われるだろう。
「ほう」
 小袋を受け取ったバンは、しげしげとそれを見つめた。何かを探るような眼差しには、さすがの彼女も何となく居心地が悪くなる。視線を逸らせども、緑の瞳が光をたたえる様が視界の端に映っていた。心臓に良くない状況だ。
「ありがとうございます。ほほう、こうやって男を落としているわけですな、シィラ殿は」
「もう、ひどいですねバンさん。私はそんなつもりはないですよ」
「しかし名前入りは嬉しいでしょう。しかもあなたのような美しい方にいただけるなんて、喜ばない男はいませんよ」
 バンの口の端が得意げに上がった。そこまで一目で見抜かれたのかと、彼女は思わず息を呑んだ。自分たちだけがわかるようにと袋の隅に書いたのだが、そこまで気づくとはやはりとんでもない男だ。
 しかし幸運なことに、量の方にまで気は回っていないらしい。そのことに内心でほっとしつつ、彼女は眉を下げながらゼジッテリカを一瞥した。警戒しているのか、いっこうにゼジッテリカが離れてくれる様子はない。バンがもう少し距離を取ってくれなければ、ずっとこのままだろう。
「そんなことありませんから」
「照れなくてもよいではないですか。ほら、テキア殿もまんざらではなさそうですよ」
 バンはさらに、からかう相手を増やした。礼をもらったのだからすぐ引っ込む、という選択肢は彼にはないらしかった。その横で名前を出された“テキア”は、困ったように肩をすくめている。こんな風に言われたら誰だって反応に困るだろう。ゼジッテリカの手前素直に喜んで欲しい彼女としては、ありがたくない話の流れだった。
「バン殿」
「おや、失礼」
 調子に乗るなと言わんばかりに、彼はバンの名を呼んだ。バンは抵抗することなく引き下がったものの、今後慎んでくれるような顔はしていない。この場だけ、といった様子だ。それを見てしまったのか、ゼジッテリカの手が彼女の服を強く掴んだ。裾を引っ張られる感触に、彼女は内心でため息をつく。
「得意なんです。愛情のばら売り」
 だから彼女はあえてそう口にした。突然の言葉に、彼とバンの目線が不思議そうに彼女へと注がれる。けれども一瞬の沈黙の後、彼は納得したように口元を緩めた。以前『愛情の押し売り』が得意だと告げていたからだろう。そのどちらにも、嘘は含まれていなかった。相手が受け取るにしろ受け取らないにしろ、好の感情を向けることには抵抗がない。
 一方その発言を知らないバンは、なお首を傾げていた。先ほどの怪しい表情とは打って変わって、警戒心を抱かせない仕草だ。ずり落ちそうになった眼鏡の位置を正せば、その長い袖がゆらりと揺れた。
「ですよね? リカ様」
「うん! シィラってばみんなに配ってるの。まあ、えっと、私が調子に乗っていっぱい焼いちゃったんだけどね。上手だってシィラが言ってくれるから」
 これならゼジッテリカの怯えもなくなるだろう。そう思って目線を向ければ、それまで縮こまっていたのが嘘のように威勢良く首が縦に振られた。彼女が頭を撫でれば、裾を掴んでいた手も離れてさらに目尻が下がる。もうこれで安心だ。彼女はそんなゼジッテリカを横目に、相槌を打つ彼へと再度微笑みかけた。
「それではまだ残りがありますから、それも配ってきますね。あ、クッキーの感想はちゃんとリカ様に言ってくださいね」
「絶対美味しいよ!」
 彼女が頭を下げると、力強くゼジッテリカはそう続けた。これで目的は達成された。彼もきっと、後で美味しかったと伝えてくれるだろう。それでゼジッテリカの心も軽くなる。
 すると時間が惜しいとばかりに、ゼジッテリカは元来た道を走り始めた。彼女は慌ててその後を追うと、また振り返って会釈をする。緩く結んだ髪が背中の上で揺れた。
 これでゼジッテリカの心が少しでも晴れてくれればいい。罪悪感が薄らいでくれればいい。幸せを感じる時間が、長くなればいい。
 いつの日か暴かれる真実を思いながら、彼女は自嘲気味に瞳をすがめた。

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