ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-9

 いつになく疲れていたのか、その日ゼジッテリカは普段より早く寝ついていた。ベッドで何度も寝返りを打つ様を横目に、彼女は小さく息を吐く。
 日が沈んでから降り始めた雨は、今も静かに世界を包み込んでいた。かすかに聞こえる雨音は、時折強くなっては弱くなってを繰り返している。外にいる護衛達は大変だろうなと、彼女は瞼を伏せた。
 ファラールの外では、今まさに魔族たちが動き出そうとしていた。常に彼らの行動を気で追っていた彼女は、それが『護衛狩り』の前触れであることを知っている。今日もまた一人、誰にも気づかれずに葬る気なのだろう。しかし今回ばかりは、彼らの好きにさせる気はなかった。
 誰を襲うのか、どう襲うのか。それはしばらく様子をうかがっていたから予想がつく。彼らが特に相手をしたくないと避けているのはアースだ。だからアースがすぐに駆けつけられない場所や時間帯を、彼らは狙っていた。
「転移があれば、それも可能だからな」
 つぶやいた言葉は静かな部屋に吸い込まれた。もっとも魔族が護衛の背後に突然現れ、殺すのならば彼女にも防ぎようがない。いや、その気になれば不可能ではないのだが、それを実行すれば魔族にも神にも彼女の存在が知られてしまうだろう。“彼”が感づくのは許容範囲内だが、魔族にはまだ気取られたくない。
 しかし幸いにも、魔族は護衛の後ろへと転移で回り込むことはなかった。恐怖をあおってから殺すためなのか、必ずそこには時間の経過がある。これならば気づかれずに、魔族の狙いを阻むことができるはずだった。人間たちが言う瞬間移動、すなわち転移の技があれば可能だ。
「来た」
 彼女はかすれ気味の声で囁くと、もう一度ゼジッテリカを一瞥した。寝苦しそうにしているが目覚める気配はない。すぐに戻ってくれば、いなくなったことには気づかれないだろう。彼女は軽く瞼を閉じて、精神を集中させた。
 体を包む感覚が、一瞬曖昧になった。重力も温度も感じない世界に、一時だけその存在が溶け込んだようになる。だがそれも瞬く間のことで、目を開けた時広がっていたのは薄暗い闇だった。否、その中に白い獣の姿がある。月明かりのない夜の中、その巨大な姿はぼんやりと浮き立って見えた。
 魔族だ。確認しなくてもわかる。空中に浮かんだまま、彼は目の前にいる青年にだけ意識を向けているようだった。今日の標的はその青年ということか。
 これだから詰めが甘いのだと、彼女は口の端をつり上げた。気に頼り切っている者は、自分に感知できない存在がいるということが念頭から消えやすい。自分の背後にも危険な存在がいることに気づいてないのだ。彼女が完全に気を隠しているから。
 泥の跳ねる音に、青年の名らしき物を叫ぶ声が混じった。立ち止まった青年に向かって、護衛の一人が走り寄っていく足音がする。だがこの距離では間に合いそうにない。魔族の手は、既に青年に狙いを定めて振り上げられていた。その巨大な手の中には赤い光球が生み出されている。
「サミオン!」
 光球が、青年の背に向かって放たれた。振り返った青年には、結界を生み出す余裕もなさそうだった。できればもっと粘って欲しいのだがと思いながら、彼女は前方へ右手を突き出す。
「結界」
「うわぁ」
 彼女の囁きは、青年の小さな悲鳴に重なった。青年の前に突如生み出された結界が、赤い光球を弾いて跡形もなく霧散させた。尻餅をついた青年と白い魔族は、何が起こったのか全く理解していないようだ。いや、それは駆けつけてきた護衛も同じか。皆どうして光球が消えたのかわからずに、ひどく狼狽えていた。
「サミオンっ」
 護衛たちが慌てる中、魔族は結界の主を探して辺りを見回した。その双眸が、じきに彼女を捉えた。青い瞳が怪訝な光を宿しながら、闇に潜む彼女を睨みつけてくる。それに無言のまま微笑み返して、彼女は右手に黒い刃を生み出した。躊躇いはなかった。
 振るった刃は、避けようとした白い巨体をいとも簡単に切り裂いた。伸び縮み自在なそれは、扱いさえ慣れていればその場を動く必要すらない。ただ腕を振るうだけでよかった。
「うぎゃーっ!?」
 体を裂かれて、魔族は血しぶきを上げながら絶叫した。空中に浮かび続けることができず地に落ちると、彼はその場で苦しみのたうち回り始める。
 泥混じりの水たまりに、赤い血が広がっていった。刃を消した彼女は、それを横目にすぐさま姿を消した。来た時と同様に転移の技を使えば、瞬く間にゼジッテリカの部屋へと戻ってくる。さすがに他の護衛に見つかるわけにはいかない。長居をする利点はなかった。
「成功ってところか」
 魔族の気は、秒数を数える間もなく既に消え去っていた。彼女は安堵の息を漏らすと、ベッドで眠るゼジッテリカへと顔を向ける。少し表情は落ち着いていたが、あれから寝返りを打った形跡もなかった。目を覚ましてはいないだろう。
 よかったと、彼女は胸を撫で下ろした。そして窓に近づくと、そこから静かに外を眺めた。まだ煙るような雨は降り続いている。辺りを照らすはずの青い月も、今は雲の向こうだった。襲われていた護衛たちはどう思っただろうか。外にいる魔族たちは気がついただろうか。彼は、気づいただろうか。
「気づいたよな、お前なら」
 彼女はそのまま瞑目すると、胸に手を当てた。窓越しに感じる冷気が、不思議と今は心地よかった。



「救世主、か」
 一人“テキアの部屋”へとこもった彼は、苦笑気味につぶやいて椅子に腰掛けた。救世主が現れたと、沈んでいた屋敷の中は次第に活気を取り戻しつつある。困惑しながらも嬉しさを隠せないギャロッドの顔を思い出して、彼は深く椅子に背をあずけた。
 彼女が動き出したことは、無論彼は気づいていた。やはり自分が動かなければならないのかと、悩んでいたところだった。そうなだけに、先に痺れを切らしたのが彼女で心底安堵していた。
 バンの目をかいくぐって外へ出るのは、想像するだけでも骨が折れる。直接護衛だから仕方がないものの、何かあればすぐバンは彼のもとへと駆けつけてくるのだ。今だって部屋の外、それほど離れていない所にバンは控えているはずだ。寝るという名目がある夜中だけが、彼にとって自由になる時間だった。神に睡眠は必要ない。
「人間とは難儀な生き物だな」
 彼は瞼を閉じて、周囲の気へと意識を向けた。屋敷外、内の護衛たちの一部が、今も眠い目をこすりながら見張りを続けているのだろう。見回りのため歩き回る技使いの気配を追いながら、彼は黒い髪を掻き上げた。
 こうしている今も、ファラールの外では魔族たちが計画を進めようとしている。そしてそれをおそらく、彼女は阻止しようとしているのだろう。一度魔族の動きを阻んでからというものの、彼女は仕損じることなく護衛たちを救っていた。つまり彼女も眠っていないのだ。
「人間じゃないな」
 わかっていたことだが、それを改めて彼は実感する。昼間顔を合わせている時は、そうであることをすっかり忘れそうになるのだ。終始笑顔を向けてくる彼女は、人間の中にいても違和感のない様子でゼジッテリカの面倒を見ている。
 彼女は人間ではない。だが、人間に慣れている。
 それが指し示す意味を考えながら、彼はゆっくり瞼を押し上げた。落ち着きすぎてやや殺風景な室内の様子が、ぼんやりと視界に入ってくる。
 神や魔族は普段人間と接することはない。魔族は計画の中で人間を利用しようとはするが、慣れているのとは違う。彼らは違和感を抱かれる前に、いつもひっそりと姿をくらませていた。人間という生き物は、彼らとはかけ離れた常識を持っているからだ。そこに潜り込むのは実は大変なことだ。
 彼にそれが可能なのは、長年人間たちの間を動き回っているからだった。星々を回り魔族の計画を一つずつ潰していくうちに、結果的に人間たちと接触する機会が多くなったいた。だから人間特有の思考も感覚も、抱く欲も、それなりに理解はしている。
「人間ではないが、人間と近しい者。神と魔族に事情を知る者」
 放たれた声は、静かな室内でかすかに反響した。口にすればする程、とんでもない人物だと思う。そんな存在がいるはずなどない。聞いたことがない。だが現実にそういった者が、彼の前に現れていた。
「何者なのだろうな」
 考えれば考えるだけ興味が湧いてくる。知りたい。彼女のことが知りたい。何故人間を守ろうとするのかどうして正体を隠すのか、その力をどこで得たのか知りたかった。これだけ好奇心を刺激される存在というものに、初めて出会った。
 彼は再び目を閉じた。敏感になった感覚が、屋敷の動きを事細かに捉える。外にいる護衛たちの動きに変化があった。半分は勘でしかないが、もうすぐ魔族がやってくるのだろう。
「懲りない奴らだな」
 現れたところですぐに彼女がやってくるのに。そして一瞬のうちに的確に、その命を奪ってしまうというのに。
 彼女はいつも破壊系の技を使っていた。破壊系の技は大概、黒い色を帯びている。夜に紛れるのならばそれは好都合だし、何より魔族には効果的な技の一つだった。神や魔族は、人間レベルが使う炎や風、水の技では殺すことができない。傷つけることはできても、その威力は心許なかった。
 魔族を確実にしとめるためには、精神系か破壊系の技を使う以外には武器を使うしかない。精神を込めることができる武器があれば、魔族にも対抗できた。
「魔族に詳しい女」
 つぶやいて、彼はおもむろに天井を見上げた。彼女が動く気配を感じた。気を隠しているらしくその足取りを掴むのは容易ではないが、転移の技を使ったということは感じ取れる。
 今日もまた一人、護衛の命は救われるのだろう。そして明日にはまた、救世主の噂があちこちで囁かれる。その様子を脳裏に描いて彼は口角を上げた。
 バンが駆けつけてくるだろう時間まであと少し。このわずかな暇を楽しむように、彼は外の気配へと意識を向けていた。

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