ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-7

 風呂を出てからもずっと、ゼジッテリカの機嫌は微笑ましい程に良かった。鼻歌交じりに体を拭くゼジッテリカを横目に、“シィラ”は髪を拭く手を止める。
 ゼジッテリカが嬉しいと彼女も嬉しい。逆にゼジッテリカが悲しそうにしていると、彼女も悲しかった。いや、それはゼジッテリカだけに限らない。より多くの者が幸せであればある程に、彼女もまた幸せだった。
 そんなことを口にすれば、人によっては偽善だと罵るかもしれない。良い人の振りをしているのだと、蔑んでくるかもしれない。しかし彼女のような者にとって、それは紛れもない事実だった。彼女のように、気に聡い者にとっては。
 気から多くの情報を読みとる者は、そこから感情をも読みとってしまう。いや、むしろ感情の方がより鮮烈に感じ取ることができた。嫌悪の言葉よりもなお負の感情は胸に突き刺さり、涙よりもなお悲しみの気は激しく心を揺さぶるのだ。
 たとえ人がそれを笑顔の裏に隠したとしても、感じ取ってしまうのもその辛いところだ。またそれに引きずられそうになるのも、厄介なところだった。
 それ故に、気に聡い者は大抵他人の不幸も苦手としていた。そこから放たれる負の感情に、抗っていても溺れそうになる。底の見えない深みに、引きずり落とされそうになってしまう。
 だから周囲の幸福を願うのは、ある意味では自分自身のためでもあった。自らの身を守るためなのだ。それは普通の人間はもちろん、普通の技使いにもまず理解してもらえない感覚だった。彼女は自嘲気味な笑みを浮かべると、ゼジッテリカが落としたタオルを拾い上げる。
「あ、シィラありがとう」
「いいえ、リカ様」
「シィラはもう着替えたの? 早いねー」
「そうですか? 護衛としては普通ですよ、これくらいは」
 幾つも並んだボタンを、ゼジッテリカはゆっくりと留めていた。その点シンプルな作りであるシィラの服は、着替えるのにさほど時間はかからない。慌てているゼジッテリカに微笑を向けて、彼女は長い髪の先をタオルで包んだ。水分を含んだそれからは、じっとりとした重みが感じられる。
 ゼジッテリカとは違い、彼女は焦りもしていなかった。本来ならいつ魔族が来るかわからないのだから、のんびりとはしていられない。しかし外に“彼”がいるとわかっているから、彼女は一抹の不安も抱いてはいなかった。
 彼とバンが廊下にいることは、気から明らかだった。またそこに程なくアースたちが加わったことも、すぐにわかった。彼らがそこにいるのは全て、ゼジッテリカに万が一のことが起きないようにという配慮だろう。しかし彼がどんな気持ちでゼジッテリカの我が侭を許したのかは、彼女にも定かではなかった。
 もっとも予想はつく。単純に、ゼジッテリカに喜んで欲しかったからだろう。上位の神である彼もおそらくは、気に聡い者の一人だ。ゼジッテリカが落ち込んだままなのは、見ていて辛いに違いない。
 とはいえ、それだけでもないことはわかっていた。ずっと見ていれば自ずと理解できる。彼は、純粋に人間を好いていた。ゼジッテリカを見守る眼差しにも、護衛たちに向ける態度にもよくそれは表れている。
「あ、リカ様、ちゃんと髪を乾かさないと駄目ですよ?」
 そこで服を着終えたゼジッテリカが、おもむろに脱衣所を出ようと歩き始めた。その襟足からしたたる水滴に気づき、彼女は慌てて声をかける。ゼジッテリカの髪は短いが、だからといって濡れたままにしておいては風邪をひきかねない。けれども振り返ったゼジッテリカは、嫌そうに唇をとがらせると首を横に振った。
「えー、乾かすの面倒。だって時間かかるんだもの」
「そんなこと言っても駄目ですよ。ほら、じゃあ私がすぐに乾かしますから」
 彼女は苦笑しながら、ゼジッテリカへと手を伸ばした。だがゼジッテリカは、その手をすり抜けて駆け出してしまった。小さな肩に掛けてあったタオルが、その勢いで軽い音を立てて床へと落ちる。
「リカ様っ」
 やや強くその名を呼んでも、ゼジッテリカの足は止まらなかった。濡れた金髪を跳ねさせながら、踊るように走り去って扉へと手を掛ける。その後ろ姿は悪戯をしでかした動物のようでもあった。彼女は落ちたタオルを拾うと、眉根を寄せる。
「リカ様! ちゃんと髪を乾かさないと駄目ですよ」
「やだーっ!」
 そう繰り返しても、振り返ったゼジッテリカはどこか楽しそうに頬を膨らませるだけだった。いや、それどころかそのまま扉を開けて、脱衣所を飛び出してしまった。廊下に誰がいるか知っている彼女は、困りながらも仕方なく後を追い始める。
「あれ、テキア叔父様?」
 廊下へと出れば、ゼジッテリカは不思議そうに首を傾げていた。大きめのタオルを持った彼女は、そんな小さな背中を苦笑混じりに見つめる。そこには彼とバンはもちろん、シェルダとアースもいるのだ。ゼジッテリカには予想外の光景だったのだろう。するとゆっくりと近づいてきたテキアが、ゼジッテリカの頭に軽く手を載せた。
「ゼジッテリカ」
「ど、どうしたの叔父様? それにみんなも……」
 ゼジッテリカはわけがわからないといった様子だった。そんな姪を、彼は何とも言えない表情で見下ろしていた。はしゃぐゼジッテリカを微笑ましく思う一方で、事の重大さを理解していない様子に半分呆れているのだろう。子どもに理解させるには難しい事態ではあるのだが。
「いや、ちょっとした立ち話だよ」
 案の定、それを説明することなく彼はごまかした。落ち込ませないためには妥当な判断だろう。浮き上がった気持ちを底へと静めるのは、どうにも気が進まないことだ。
 彼女は薄く笑みを浮かべると、音を立てずに二人へと近づいた。そしてゼジッテリカの背後に回り込むと、その肩を掴んで片膝をついた。また逃げられてはかなわないとばかりに、彼女はそのまま小さな体を抱き寄せる。
「わっ、シ、シィラ?」
「はい、捕まえましたからね」
 慌てるゼジッテリカに微笑みかけると、視界の端でバンが寄ってくるのが見えた。その緑の瞳は、悪戯をする子どものように輝いている。嫌な兆候だ。すぐに彼が何を口にするつもりなのか察した彼女は、困ったように口の端を上げた。
「あなた方が出てくるのを待っていたのですよ、テキア殿は」
 わざわざテキアが濁した言葉を、バンははっきりと口にした。何が起こるのかわかっていながら、バンはあえてそう告げた。
 ゼジッテリカから驚きの声が漏れて、俯くと同時に濡れた髪が重たげに揺れる。すぐに自分を責めてしまうこの少女には、バンの言葉は鋭く突き刺さったことだろう。しかしゼジッテリカが口を開くより早く、彼女は謝罪の言葉を放っていた。
「すみません、テキア様」
 それは“彼”に対する言葉だった。決して告げてきたバンへのものではない。謝るのも礼を言うのも、全てを決断した彼に対してのみなのだ。視線を戻してきた彼の瞳に、彼女の黒い瞳が映し出される。
 ゼジッテリカを守るという役割を、一時的にでも放り出したのは彼女だった。そしてそれを許したのは彼だ。だからそこにゼジッテリカの非はないのだと言うように、彼女はゼジッテリカの肩をもう少しだけ引き寄せた。
 そもそもこの偽りの舞台を作り上げているのは彼で、彼女で。ゼジッテリカはそこで踊らされているだけだった。いや、何も知らないという点では他の護衛も同様だろう。それはさながら、神と魔族に翻弄される人間のようだった。それが本意ではなくとも結果的にそうなってるところなど、本当によく似ている。
 そんなことを考えながら見上げていると、彼は肩をすくめてわずかに口角を上げた。ついで切れ長の瞳が柔らかく細められる。
「シィラ殿こそ、濡れた髪のままでは風邪をひきますよ」
 彼が返してきたのは、予想外な反応だった。それは彼女自身を案じる言葉だった。彼の意図がわからず一瞬目を丸くしてから、彼女はいつもそうするようにくすりと笑い声を漏らした。どんなときにでも微笑むのが彼女の癖だ。そうすれば誰もが、自分自身もがごまかされてしまうことを彼女は知っている。彼もそうであればいいと願いながら、彼女は目尻を下げた。
「大丈夫ですよ、テキア様。リカ様の髪を乾かしたら、自分のもすぐ乾かしますから」
 おろおろしているゼジッテリカを見ながら、彼女は立ち上がった。そして右の手のひらをおもむろに、ゼジッテリカの上へとかざした。するとそこからわずかに光が漏れて、ゼジッテリカの髪が風に吹かれたように揺れる。彼女がよく使っている技の一つだ。
「……は?」
 途端、それまで黙っていたシェルダが声を上げた。ずいぶんと気の抜けた声だった。何が起こったのか、わからないというわけではないだろう。それでもきっと信じられないのだ。
 理屈は簡単で、炎系と風系の技の応用だった。ただし微妙な調整が必要なため、人によっては攻撃系の技よりも難易度は上になることもあるだろう。シェルダにとってはそうなのかもしれなかった。目の前にいる“彼”ならば、容易にやってのけられるレベルだろうが。
「ね?」
 彼女は楽しげに微笑んで、自らの頭にも手のひらを向けた。と同時に彼女の黒髪も揺れて、さらりと音を立てる。長い髪もこの技を使えば、あっという間に乾いてしまうのだ。br>  その傍では混乱したゼジッテリカが、目を丸くしながら自分の髪に触れていた。彼女の動きが見えていない分、何が起こったのか理解できていないのだろう。無理のない話だ。
「ずいぶん不思議な技をお使いで」
「ちょっとした応用ですから、大したことはないですよ」
 呆れたようなバンの言葉に、あっさりと彼女は答えた。バンくらいの技使いであれば、できないことでもないはずだ。ただし、それを面倒に思うか否かは別の話だった。彼女はそれを、苦とは感じていないが。
「それではシィラ殿、引き続きゼジッテリカをよろしく頼みますね。どうやらシェルダ殿たちが何か話があるようなので、私は自室に戻りますから」
 そこで話に区切りをつけるためか、“テキア”として彼が口を開いた。ついでバンへ送られた眼差しは、もう余計なことは言うなと告げんばかりだ。おたおたするゼジッテリカのためを思ってのことだろう。彼女はゼジッテリカから手を離し、小さく首を縦に振った。
「ええ、わかりました」
 そう答えれば、彼は踵を返して歩き始めた。翻る上着の音が、静かな廊下にかすかに残る。よどみのない動きだった。一方バンは彼女たちへと一礼してから、彼の後をゆっくりとついていった。優雅に揺れるその長い袖を、彼女は何ともなしに目で追う。黒一色でまとめている彼とは対照的に、バンの服装はとにかく華美だ。
「それではシェルダ殿、アース殿、話は私の自室で」
 立ちつくしていたシェルダとアースにも、彼は声をかけていった。その様子を横目に、彼女はゼジッテリカの頭を撫でた。すっかり乾ききった髪は、柔らかく指の間をすり抜けていく。
 すみません。
 今日何度目かの言葉を、彼女はひっそりと胸中で唱えた。それは何も知らないゼジッテリカに向けての、人間たちへ向けての、せめてもの謝罪だった。

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