white minds 第一部 ―邂逅到達―

第四章「すれ違う指先」2

 青葉を見送り部屋へ入ろうとしたところで、梅花は呼び止められた。憂いと緊張の入り交じったこの硬い声はラウジングのものだ。振り返った彼女の視界に、急ぎ足で近づいてくる彼の姿が映る。
「ラウジングさん」
「ちょうどよいところにいた。話は聞いているだろう?」
「ほとんど聞いていないに等しいですが、ラウジングさんから聞けるということはうかがってます」
 深緑の髪を隠すことなく歩く様は、まさに上の者だった。無世界での様子とは違う。周囲の人間にどう思われてもかまわないという一種の傲慢さ、距離感が見て取れた。基本的に、彼らが気にしているのは同じ上の者の目だけだ。
 服装は、以前亜空間で見たものと同じだった。光の加減によって薄緑色に見える、一見したところでは薄灰色の上下揃いの服。上の者は何故だかほとんど同じ恰好をしていることが多い。
「そうか、それで十分だ。お前たちには、もう一度リシヤの森を調査してもらうことになった」
 聞き耳を立てている者がいないことを確かめ、ラウジングはそう告げる。梅花はわずかに眉をひそめた。彼の言い様には感じるものがあった。何か重要な物事が隠されている時の感覚に近い。根拠となる明らかな兆しを見つけたわけではないが、彼女の直感がそう主張していた。
「もう一度と言いますと、先日の調査でもわからないところがあったんですか?」
「――レーナたちに邪魔をされてな、十分調べることができなかった。だから今度はお前たちに行ってもらおうと思う」
 わずかな躊躇いの気配を見せてから、ラウジングはそう説明した。「お前たち」という響きから彼が何を言わんとしているのかを察して、梅花は「そうですか」と頷く。つまりフライングとピークスを行かせるつもりはないのか。人数が多くなると、何かあった時の対処が困難になるからだろうか。
「さらに歪みでも広がったんですか?」
「その可能性がある」
「では歪みの度合いを調べたらいいんですね? あとは緊急度と。私たちシークレットの五人で行けばいいんでしょうか」
「話が早い。助かるな」
 ほっとしたようにラウジングは相槌を打った。上が懸念することなら、梅花はおおよそ知っている。その一つがリシヤの森の空間の歪みだ。同じ境遇にあるナイダの空間も歪んでいるはずなのだが、何故だか扱いは違う。それは常々不思議に思っていた。しかし今ここで彼に尋ねたところで答えは得られないだろう。梅花はつと視線を外した。
「わかりました。ただ、一度無世界に戻って仲間たちを連れてこないといけませんね。……ゲートのこともありますし」
 今頃アサキたちは心配していることだろう。急いでいたので、簡単な状況しか報告していない。そこへいきなり「神魔世界に行くことになった」と伝えたらさぞ驚くに違いなかった。
 ゲートについては、様子を見るしかないという結論に至っていた。現時点では今まで通りの状態に戻ってしまっているし、調べようとすることそのものが刺激となりかねないという懸念もあった。宮殿側でも注意深く観察し、何かあれば即時対応するという方針だ。その方が神技隊の負担も減るので助かる。無論、ゲートを通る際には今まで以上に慎重に行かなければならない。
「ああ、それはかまわない。調査にはこちらからも一人出すことになったしな」
 ラウジングはどこか言いにくそうな顔でそう続けた。上からの人員と聞いて、梅花は瞠目する。よほど上はこのことを重く受け止めているらしい。しかし一体誰が行くのか? こういった事態が生じた時に動ける者というのは、上では限られているはずだ。
「その言い方だとラウジングさんではなさそうですね」
「……そうだ」
「ミケルダさんですか? カルマラさんですか?」
 ぱっと思いつく名を梅花は挙げてみる。眼を見開いたラウジングは一瞬だけ辺りを気にして、ついで肩をすくめた。
「カルマラだ。よく知ってるな」
 間を置いてからラウジングは微苦笑を浮かべた。どうやら言いにくそうだったのはそれが原因らしい。納得した梅花は「まあ」と答え、知った顔を思い浮かべた。陽気な二十代女性といった風体のカルマラは、自由闊達すぎるのが問題とされている。有り余るほどの行動力を好奇心に費やすことが多く、振り回されている者も多いらしい。この表情を見る限り、ラウジングもその一人なのだろう。
「それじゃあカルマラさん対策をしないといけませんね」
 カルマラがいつも宮殿にいるわけではないことは、梅花も知っている。暇をもてあましている時は『下』にもやってくるので、いるかいないかはわかりやすかった。しばらく顔を見かけていないから遠出しているのだと思っていたが、いつの間に帰ってきていたのか。帰還したばかりのカルマラは羽目を外しやすいので要注意だ。
「そうしてもらえるとありがたいな。ああ、聞いているとは思うが、リシヤの森では交戦は禁止だ。あいつにも言っておいてくれ」
「それはかまいませんが。私が言うよりもラウジングさんが言った方が……」
「もちろん、私も注意しておく。ただ複数人で言っておかないと効果が薄いだろう?」
 ラウジングのため息には、今まで積み重ねてきた苦労が滲み出ているようだった。忠告をなかなか聞き入れてもらえない経験は、梅花にも大いにある。彼の言葉はもっともだ。梅花が同意を示すと、彼は何とも言えぬ顔をした。『下』の者にまで理解されてしまっていると思うと嘆かわしいのか。それでもあからさまには表出せず、「それでは後ほど」と言って彼は踵を返した。――いや、そうしようとして途中で足を止め、肩越しに振り返る。
「カルマラの準備が整い次第出向いてもらうことになるので、それまでに仲間たちを連れてきてもらえると助かる」
 準備というのは、カルマラにこちらの事情と状況を理解してもらう作業のことだろうか。彼女も性格は悪くないし、分け隔てなく誰とでも話せてしまうある種の才能の持ち主だった。ただ、一緒に仕事をする身となると大変だろうとは察せられる。頭が悪いわけではないのだが、やや強引で楽観的で衝動的だ。
「わかりました」
 返事を確認してから、ラウジングは再び歩き出した。深い緑の髪が左右に揺れる。彼の背中を見送りつつ、梅花は肩を落とした。
「カルマラさんを引っ張り出すってことは、相当上は焦ってるのね。ちょっと情報収集が必要かしら」
 こぼれた呟きは、白い廊下の中に染み込んでいった。遠ざかっていくラウジングの姿は、いっそう気怠げに見えた。



「ただいまー」
「シンさん見てください、この花! いつもは見かけない――」
「あーはいはい、ローラインはまずはその花を飾ってきてちょうだい、話はそれからね」
 玄関の戸が開く音がしたと思ったら、賑やかな声が飛び込んでくる。家計簿を閉じたシンは、微苦笑を浮かべながら立ち上がった。今日はたまたまローラインの仕事が休みだったため、リンと二人で買い物に行ってもらっていた。帰りが遅いと心配していたが、どうやら花屋にでも寄っていたらしい。座卓の上に置いてあったリモコンを手にしてテレビを消すと、笑顔のローラインが部屋に飛び込んでくる。
「ほら見てください、美しいでしょう! 今から飾りますね」
 シンの反応を待つこともなく、ローラインは花瓶のある台所の棚へ向かう。よほどの浮かれようだ。苦笑を押し殺していると、玄関から傘をたたむ音が聞こえた。それから程なくして、買い物袋を二つ手にしたリンが部屋の中に入ってきた。一つは元々ローラインが持っていた物なのだろう。歩み寄ったシンは何も言わずに、重そうな紙袋の方を奪い取る。そしてちらとローラインの方を見遣った。
「はしゃいでるな」
「そうなの。まあ、久しぶりのまともなお休みだからね。この間のは、亜空間の件で潰れちゃったようなものでしょう?」
 眉尻を下げたリンは、ローラインに続いて台所へ向かった。シンは手にした袋の中をのぞき込み、思い切り顔をしかめる。紙袋の中身は白い箱だらけだった。それなりに重いが、これらは一体何なのか。
「……これ、何だよ」
「ん? それ? 食器。この間サツバとローラインが喧嘩して割っちゃったでしょ? あ、いいからその辺に置いておいて。後でローラインが綺麗にしまうんだそうよ」
 白い箱を見下ろしていると、冷蔵庫の辺りからリンの声がした。ローラインが置き場所まで決めるということは、選んだのも彼なのか。若干嫌な予感がしたが、リンも一緒だったことを考えるとそこまで実用性のない品ではないはずだ。素直に頷いたシンは、言われた通り隅の方に紙袋を置いた。下手に触らない方がいいだろう。
「予定にない出費だけど、買いすぎてないだろうな」
「大丈夫、厳選しておいたから。ローライン、その倍以上買おうとしてたのよ」
 顔をしかめつつ振り返ると、リンは冷蔵庫の中を睨み付けていた。金銭感覚については彼女が一番しっかりしているので、心配はいらないと思うが。それでも確認してしまうのは苦しい時期を経験したせいだろう。いまだに感覚が抜けきらない。家賃を払うことさえ苦労していたあの頃には、もう戻りたくなかった。
「あ、そうそう、帰りにシークレットのアサキたちと会ったのよね」
 台所へ近づこうとしたシンの耳に、予想外な名前が飛び込んでくる。アサキというと、あの不思議な喋り方をする青年だったか。首を捻ったシンが冷蔵庫に近づくと、台所の奥からローラインの鼻歌が聞こえてくる。冷蔵庫の中を睨み付けているリンの横顔に、シンは話しかけた。
「シークレットに? どこで?」
「花屋のすぐ傍。アサキたちもどこかの帰りだったみたい。状況はよくわからないけど、青葉と梅花は神魔世界に報告に行ってるんだって」
 何かを諦めたらしく、冷蔵庫を閉めたリンは顔を上げた。それだけでは何が何だかわからないと目で問いかければ、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「アサキたちもよくわかってないみたいなのよ。まーろくなことではないでしょう。何だか、わからないことだらけよねぇ」
 腰に手を当てたリンは大きなため息を吐いた。重々しい空気が広がるが、そんなことは知らないとばかりにローラインの鼻歌は続いている。彼女はしばし考え込むような素振りを見せてから、つとシンの方へ目を向けた。
「今さらだけど、私ってばシンのこともろくに知らないのよね」
「……え?」
 神妙な顔で思わぬことを口にされ、シンはたじろいだ。この二年ちょっとほぼ毎日のように一緒にいるというのに、まだそんな風に思われていたのか。それとも言いたいのは『別の何か』についてか? 内心で動揺していると、リンは深々と相槌を打つ。
「私、シンがどんな風に戦うのかも知らないのよ」
 しみじみと述べるリンに、シンは強ばった笑みを向けた。安堵したのか落胆したのか、自分でもよくわからない。それを彼女も訝しく思ったようで、不思議そうに首を傾げられた。しかし追及するつもりはないらしく、ちらとローラインの様子を確認してから軽く髪を掻き上げる。
「この間、亜空間で変な奴と戦った時、初めて梅花の戦い方を見たの。あの子は視野が広いし周りにあわせて戦うこともできるから困らなかったけど。いつもそうとは限らないのよねー」
 どうやらリンの思考はこの一見平穏な時間から離れているらしい。アサキと顔を合わせたからだろうか? 梅花たちが報告に行くとなると、ただ青の男がやってきたというだけではないのだろう。顔をしかめたシンは何と返すべきか逡巡する。どの言葉も、今のリンの思考には及ばない気がする。
「アースたちは、何でだか私たちを殺すつもりはないみたいだったけど。でもこの間のあの獣は違った。死ぬとかそういう実感は全然湧かないけど、でもこのままじゃあよくないと思うのよねー。ただ何かが起こるのを待ってるだけとなると、後手後手じゃない」
 リンの言わんとすることが、シンにもようやく飲み込めてきた。確かに、ここ数年共に生活しているだけあって彼女の性格はわかっている。しかし技使いとしての彼女を知っているかと問われたら、彼は首を振らざるを得ない。無世界では基本的に技を使うことは禁じられているから、仕方が無いと言えばそうだが。
 一方、滝や青葉の技の得手不得手、戦い方についてならよく知っていた。手を合わせたことも数え切れないほどなので、どういった場所であればどんな風に判断するかも、おおよそ予測はつく。二人の動きになら、さほど神経を使わなくても対応できるだろう。
「つまり、互いに技使いとしての個性を把握しようってことか」
「そうそう、そういうこと! さっすがシン、話が早いわ」
 両手を打ったリンは、ぱっと顔を輝かせた。しかし、把握と言ってもそう簡単にできることではない。実際に技を使うわけにはいかないから、口だけの説明になってしまう。それでも何も聞いていないよりはましだろうか。
「なら、滝さんたちのところに行ってみるか」
 フライングとピークスは神魔世界に行っている。シークレットも青葉と梅花は不在だ。となると残るはストロングだけだった。彼らが日中何をしているのか聞いたことはないが、誰もいないということはないようだったと記憶している。
「滝先輩たちにも聞いてみるってこと?」
「それもあるけど」
「あるけど?」
「滝さんたちのところは、広いらしい」
 そう告げたシンは肩をすくめた。リンは奥にいるローラインへ一瞥をくれてから、堪えきれずに苦笑する。ある程度の話をするとなると、一般人のいない環境が必要だ。しかしこの狭い部屋に他の神技隊を呼び寄せるのは無謀だった。ならば出向くしかない。
 もちろん、滝がいればシンの動きについて客観的な評価を下してくれるだろうという思いもある。加えて、どんなところに住んでいるのか、一度見てみたいという純粋な興味もあった。どのようにしてその住処を手に入れたのかという点も気になる。
「わかったわ。ローラインのお片付けも時間が掛かりそうだし。私たちだけで行きましょう」
 頷いたリンは、ローラインの鼻歌に耳を澄ませた。久しぶりの休みなのだから満喫させてやりたいという思いもあるのだろう。こちらの話を聞いているのか聞いていないのか、ローラインは無反応だ。ならばそっとしておこう。勢いに乗っている彼の相手をすると、こちらが疲弊してしまうし。
「そうだな」
 破顔したシンは首を縦に振り、窓の外へ目を向けた。今朝から降り続けている雨が、止む気配はなかった。

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