ご近所さんと同居人

第九話 「その裏側で」

 消える水音、声にならない叫び、木々のざわめき、男たちが地を蹴る音。それらが入り交じった森に、もう一人男が加わった。顔を蒼くしたまま立ちつくしたソイーオの右手から、誰かが茂みを割って飛び出してくる。
 黒衣の男たちが息を呑んだ。振り返ったソイーオは眼を見開いた。黄蘗色の上着をはためかせて、飛び込んできたのはノギトだった。
 視線は鋭いまま、彼は黒衣の男へと駆け寄る。慌てて男は後退ったが、ノギトの腕が伸びる方が先だった。首元の布を掴まれて男が呻き、もがく。反撃に出ようとその手が弓にかかるよりも早く、ノギトの膝が男の鳩尾に入った。
「ノギトさん!」
 そこまで来てようやく、ソイーオは声を発する。だがノギトは振り返ることなく、もう一人の男へと視線を移した。瑠美子の体当たりで不意を衝かれた男だ。彼は懐からもう一本短剣を取り出し、無言のままそれを構えた。ノギトは片眉を跳ね上げる。
「銀の武器に、黒衣の集団。――バルソアだな」
 確信のこもったノギトのつぶやきに、あからさまに男たちは動揺を見せた。彼らの動きが止まり、辺りを包む空気が一変する。
 短剣を手にしたまま息を呑んだ男が、鳩尾を打たれて苦しむ男を一瞥した。ついでちらりと上を見上げ、何か目で合図を送る。途端、黒い影がまた大きな木から飛び降りてきた。やはり特徴的な黒衣に銀の弓矢を手にしている。他の二人よりもずっと大柄な男だ。
 ソイーオを庇うように、ノギトは飛び降りてきた男の方へと踏み出した。しかし地面へと降り立ったその男は、転がりながら呻く男を担ぎ上げただけだった。攻撃を仕掛けようという気配はない。彼は仲間を担ぎ上げたまま、すぐさま茂みの中へと飛び込んだ。ノギトが驚きの声を上げる。
「逃げる気か!?」
「ノ、ノギトさんっ」
 それとほぼ同じタイミングで、短剣を持った男も動き出していた。大柄な男とは反対の茂みへ、音もなく飛び込んでいく。ソイーオの呼び声でノギトが振り返るも時既に遅く。黒衣の影は見あたらず、揺れる木々や茂みがあるだけだった。
「くそっ」
 ノギトは小さく舌打ちすると、すぐにソイーオの方を一瞥した。そして彼に目立った怪我がないことを確かめると、辺りを見回して顔を蒼くする。
 銀の矢が地に刺さっているのを除き、戦闘の痕跡はなかった。いや、よく見ればあった。川近くの地面に赤い飛沫が飛んでいる。川面にも、不規則な軌跡を描く赤い筋があった。ノギトは迷わず川へと走り出す。
「ノギトさん」
 慌ててソイーオは後を追ったが、ノギトは振り向くことなく川へと足を踏み入れた。大きな水音がたち、波紋が広がる。ノギトは目をこらして水面を見つめると、顔を歪めてその中へと潜り込んだ。その動きに躊躇いはない。
 足だけ川へと入ったソイーオは、その冷たさに青ざめた。短時間でも命の危険に晒される水温だ。想像していたよりもずっと低い。
「ルミコさん……」
 わななく唇から漏れたのは彼女の名前。何度呼んでも答えてくれなかった、彼女の名前だった。ソイーオの体は強ばったまま、それ以上動くことができなくなる。足を縫い付けられたように、一歩も進むことができなかった。
 ノギトの潜った辺りから、時折泡が立ち上った。けれども先ほどできた波紋は川の流れに掻き乱され、判別できなくなっている。かなり深いのだろうか。ノギトの姿も瑠美子の姿もソイーオからは見えない。
 だが幸いにもしばらくも経たないうちに、ノギトは水面から顔を出した。先ほど潜った位置よりはやや下流だ。ノギトの顔色も悪くなっていたが、その腕の中にはしっかりと瑠美子が抱かれていた。彼女は驚くほど白い顔で、固く目を瞑っている。
 ソイーオは声にならない叫びを漏らした。しかしノギトは何も言わずに、彼女を抱えたまま川岸へと寄っていった。彼はそのままソイーオの横を通り過ぎると、彼女の体を地面の上へと横たえる。たっぷり水を含んだ服が、地に落ちて重たげな音を立てた。
「息はしてる」
 彼女の側に座り込んだノギトが、荒い呼吸と共にそう告げた。眼を見開いたソイーオは、慌てて彼女の横へと駆け寄る。膝をついてその口元に耳を近づければ、確かに弱々しい呼吸音が聞こえてきた。まだ、彼女は生きている。
「ソイーオ、お前走れるな? 俺がルミコを運ぶ。だからお前は先に行って、医者を呼んできてくれ。事情は後で聞く。何となく予想はできるが」
「は、はい」
 ノギトの指示通りに、すぐにソイーオは走り出した。彼女が生きているとわかれば、足が止まることもなかった。濡れた服が張り付くのも気にはならない。少しでも早く医者を呼ばなければと、その一心で彼は走った。
「城が動かない時を狙いやがって、バルソアめ」
 だからそうノギトが吐き捨てていたことも、ソイーオは知らなかった。



 ノギトが家へと辿り着いた時、既に医者はやってきていた。瑠美子を診た医者は、すぐに病院へ連れていくべきだと告げた。呼吸が弱く、体温もかなり下がっているらしい。頭を打った可能性もあり、念のため調べた方がいいという話だった。
 家にはイムノーもルロッタもいなかったため、病院へはノギトとソイーオが付き添った。城の近くにある割と大きな病院だ。普通の人々が利用することは滅多にないが、訓練の関係で世話になっているノギトには慣れた場所だった。だが瑠美子の状態がわからないままでは、くつろげるはずもない。
 瑠美子のいる病室から、ノギトとソイーオは追い出された。椅子もない殺風景な廊下に座り込み、ノギトは大きく息を吐く。クリュの木でできた床は、見た目よりはずっと温かい。冷えた体を庇うように彼は腕を抱いた。
 ノギトの横に、ソイーオもずるずると腰を下ろした。双眸には力がなく、今にも倒れてしまいそうな様子だった。安心するのには早いが、誰もいない場所よりはずっと肩の力が抜ける。そうなると、疲れが押し寄せてくるのは仕方のないことだった。
「……ノギトさんが来てくれて、助かりました」
 先に言葉を発したのはソイーオだった。ノギトは顔を動かすことなく目だけでソイーオを見て、唇の端を上げる。そして栗色の前髪を乱暴に手で掻き上げた。
「城が忙しくなるからって、訓練が早く終わって。それで家に帰ってみたら、お前とルミコが出て行くところを見かけたもんだから」
「ああ」
「まさか襲われてるとは思わなかったが。バルソアが、こんなに早く動くなんてな」
「……バルソア?」
 耳慣れない単語に、ソイーオは頭を傾けた。ノギトは小さく首を縦に振り、近くに誰かいないかを確認する。あまり使われていない奥の病室だったせいもあるのか、通りかかる者はいなかった。そもそもこの病院は城の関係者くらいしか利用しない。医者は家へと出向くのが当たり前だから、それは当然の成り行きだった。
「純粋なヌオビア人の尊さを謳ってる集団だ。とはいえヌオビアには異世界人は多いし混血も進んでるから、結構曖昧な部分もあるんだけどな。けれども彼らは、魔法を目の敵にしてる」
 魔法と聞いて、ソイーオは黙り込んだ。彼が拳を握ると、その拍子に手首の青い輪が音を立てる。ノギトはその輪を見下ろして肩をすくめた。
「色々理屈はつけてるけど、単に城で魔法使いが重宝されてるのが気に入らないだけさ。奴らから城を守るのも、兵の仕事の一つになってるくらいだ。でも一般人は知らない。あいつらはいつも影で動いてるからな。城の方も、そういう物騒なことは隠してる」
 ノギトの声は低く、小さかった。それでもソイーオの耳には十分届くもので、加えてうなだれるには十分な力を持っていた。目を伏せたソイーオの横顔を、ノギトはちらりとだけ見る。ソイーオはやはり何も答えなかった。
「ルミコの状態が落ち着いたら、俺はバルソアのことを報告しに行く。証拠として突き刺さってた矢は持ってきてるから、疑われることはないはずだ。俺の代わりに、お前はここに残ってくれると嬉しい。書き置きはしてきたけど、父さんたちが来るには時間がかかるだろうから」
 さらにノギトが言葉を続けると、ソイーオは顔を上げて驚いたようにノギトを見つめた。彼の緑の目は大きく見開かれている。その反応が理解できなくて、今度はノギトが首を傾げた。
「何だよ」
「ルミコさんが目覚めるまで、ここにいないんですか?」
「いたいけど、そうも言ってられないだろ。またこんなことが起こる方が俺は困る。少しでも早くバルソアの動きを封じてもらわないと」
 ノギトはかすかに苦笑を漏らすと、また真顔に戻った。それからソイーオと向き合って瞳を細める。鋭い光が宿ったその眼差しに、ソイーオは息を呑んだ。ノギトは視線を逸らすことなくゆっくりと口を開く。
「危機感なかったルミコも、俺は悪いと思ってる。ディーターさんから話は聞いてたはずだからな。でも俺はお前にも怒ってる。ルミコを守れなかったからじゃない。俺が川に潜った時、お前が何もしなかったからだ」
 淡々と告げるノギトに、ソイーオは再度言葉を無くした。反論する術は彼にはなかった。彼が青ざめて俯く様を、ノギトはしばらく眺めてから立ち上がる。と同時に病室の扉が開き、小柄でやつれた顔の男が出てきた。医者だ。ノギトは小走りで彼へと近づいていく。
「ザーテンダさん」
「ん? ああ、ノギト君か。君の関係者だったんだな」
「そうです。その、ルミコは?」
「今は落ち着いている。目を覚ますのは少し後になりそうだがな。頭にもそれほど強い衝撃は加わっていないようだから、大丈夫だろう」
 見知った医者の言葉に、ノギトは胸を撫で下ろした。いつも世話になっている彼ならば、その言葉も素直に信じられる。その傍では二人の会話を聞いて、ソイーオも安堵の息を漏らしていた。瑠美子が目を覚ますまでは不安は残るが、最悪の事態だけは避けられたようだと。
「腕や手の怪我の方も処置はしておいたよ。傷は浅いし問題ないだろう。経過は見なければいけないが」
「ありがとうございます、ザーテンダさん」
 小柄な医者に向かって、ノギトはわずかに笑顔をこぼした。その様に医者も顔を緩めると、すぐに踵を返して歩き出す。廊下に響く乾いた足音が、次第に遠ざかっていった。それでもソイーオは動くことができなかった。医者が去るのを見送ったノギトは、また顔を強張らせてソイーオを一瞥する。
「じゃあ俺は行くからな」
 ノギトがそう告げても、ソイーオはうなずくことしかできなかった。立ち上がる気配のないソイーオを置いて、ノギトは歩き出した。

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