ご近所さんと同居人

第八話 「黒衣の男」

 瑠美子の予想は的中し、次にソイーオを見かけたのはずいぶん経ってからのことだった。庭の手入れをしていた彼女がふと顔を上げると、彼は人気のない道をのんびり歩いていた。昼間の時間帯に、彼が出歩く姿を見たことがない。怪訝に思って首を傾げると、彼の双眸が不意に彼女を捉えた。
「あ、ルミコさん」
「こんにちは、ソイーオさん」
 屈託のない笑顔を向けられて、彼女はとりあえず挨拶を返す。その言葉さえぎこちないのは、気のせいだと思いたかった。だが彼は気にした風もなく、ゆったりとした足取りで近づいてくる。垣根越しに向かい合うと、彼は風に揺れた髪を手で押さえた。
「ルミコさん、丁度いいところで会いました」
「どうかしたんですか?」
「これから森の方へ行こうと思ってるんですが、ルミコさんも一緒にどうですか」
 何てこともないような様子で、彼は微笑んでいる。見合いの日のことなどなかったかのようだ。その点は、やはりルロッタたちと同じだ。そのことに少しほっとして、彼女も柔らかく微笑み返す。だが森という言葉は聞き捨てならなかった。何故またあそこにと、訝しがらざるを得ない。
「森にですか? どうしてまた……」
「僕が倒れていたのが、森の中だと聞いていたので。入り口までは何度か行ったんですが、迷ったら困ると思って中までは入っていないんです。でも今日は時間があるので、せっかくだからと」
 彼はちらりと、森の方角を一瞥した。その横顔には不思議な哀愁があって、彼女は思わず胸を押さえる。生まれ育った世界のことでも、思い出しているのだろうか?
 そういえば彼女が倒れていたのも、森の方だったと昔聞いた。それを知ってからはイムノーたちの目を盗んで、こっそりと訪れたものだ。そこに何かないかと、元の世界へ通じる何かがないかと、何度も探した。
「今日は、お城へは行かなくていいんですか?」
 だから森へ行きたいという彼の気持ちも理解できた。ただ、不用意に出歩くのは危険でもある。それ故何と答えたらいいのかわからずに、別の疑問が口からこぼれた。彼は瞳を瞬かせて、首を縦に振る。
「はい、今日は休みと言われまして。何か行事があるようで、忙しいみたいなんですよね」
「そうなんですか」
 城の行事と聞いても、思い浮かぶものはなかった。ということは内部のみで行われているものだろうか? 何にせよ、それで彼は時間を得たということだ。彼女は相槌を打ちながら答えを求めて、一度視線を逸らす。
「ルミコさんも、森へ一緒に行きませんか?」
「……でも森は、危ないので」
「危ないんですか? ルミコさんもこの間、行こうとしていたのに」
 この間と言われて、彼女は小さく息を呑んだ。それはお見合いの日のことだろう。確かにあの日、彼女は森の近くまで来ていた。人のいない場所を求めた結果、そこへ辿り着いていた。ただディーターの話を聞いた後では、彼をそこへ連れていくことはできない。
「それは、そうなんですけど」
「何かあったんですか?」
 彼は顔をしかめた。危険だからと、魔法使いは狙われるからと言えたら楽なのだが、彼を傷つけそうでなかなか言い出せない。しかしそうやって渋り続けても仕方ないだろう。ディーターから少しは聞いているはずだ。彼女はかぶりを振ると、彼の手元へと視線を落とした。
「そうじゃないんですが。魔法使いを狙う人たちが、最近動き出してるみたいで」
「ああ、ディーターさんがそんなこと言ってましたね」
「だからあんまり出歩かない方がいいんじゃないかと」
「でも僕には今日くらいしか時間がないんですよ。またしばらくずっと、城にこもらなきゃいけないみたいで」
 沈んだ声に顔を上げると、彼は悲しげに目を細めていた。慣れない異世界生活に、日々の城通い。愚痴をこぼしている様子もなさそうだったが、実は疲れ切っていたのかもしれない。彼女は胸に当てた手を握り、唇を噛んだ。彼の気持ちもわかるだけに、無下な答えが返せない。
 どれだけ不安だったのだろうか。少しでも元の世界に繋がる何かがあればと、ずっと考えていたのだろうか。そのうちの一つである魔法でさえ、彼は封じられているのだ。両手の青い腕輪が目に入り、彼女は意を決した。
「……わかりました。じゃあ、中をちょっと覗いたら帰ってきましょう」
 今回だけは、彼女は折れることにした。この辺りを怪しい人がうろついているとも、聞いたことがない。人気がない点では、森も家の近くも同じだった。それならば危険度はあまり変わらないだろう。
「いいんですか?」
「あ、長居は駄目ですからね」
 顔を輝かせる彼を横目に、彼女は微苦笑を浮かべた。そんな反応をされると、やっぱり駄目だとは言えない。彼女は首を縦に振ると、天気を確かめるよう空を見上げた。幸いにも雨が降る気配は、微塵も感じられなかった。
 二人はすぐに森へと向かった。入り口へ辿り着くまでは、特に何事も起こらなかった。会話も当たり障りのないもので、城での出来事が大半だ。城の中のことは彼女も知らなかったので、興味深く聞くことができた。不思議な場所だとは思っていたが、想像していた以上にそこは変わっている。
「着きましたね」
 森はいつもと変わりなく、今日も静かだった。野鳥が時々鳴く程度で、人の気配はない。のどかな天気といい、散歩日和だった。日光に照らされた葉が煌めき、爽やかな景色を作り出している。
 彼女は目をすがめて森の中を見やった。懐かしい場所だ。ノギトに見つかるまで、そこらを歩き回ったこともよくあった。それでもランドセル一つ見つけることはできなかったが。
「じゃあ入りましょうか」
「少しだけですよ」
 先に歩き始めた彼の後を、慌てて彼女は追った。外とは違い湿度を感じさせる静寂の中に、二人の足音が染み渡っていく。彼は辺りを見回しながら頭を傾けた。
「普通の森ですよね」
「そうですね」
 彼の知る森と、この森はよく似ているのだろう。彼女はヌオビアに来るまで森なんて見たことがなかったが、彼はそうではないようだった。彼の生まれ育った世界はどんなものなのだろうか? 彼女は周囲へ視線を走らせながら、ぼんやりと思いを巡らせた。
「ルミコさんも、ここで見つかったって聞いたんですけれど」
「ディーターさんにですか? そうですよ。私が発見されたのは、この奥の川なんです」
「川があるんですか?」
「ええ。その時のことはよく覚えてないんですが、私溺れかけてたみたいで」
 ずぶ濡れの服に、蒼白い肌。額から血を流していた姿を、最初に見つけた人は死体だと思ったようだ。ただ駆けつけてきたディーターやイムノーが、そうではないと気づいて助けてくれた。二人がいなければ今の彼女は存在していないと、そう言っても過言ではない。
「あ、でも今日は行っちゃ駄目ですよ」
「はい、わかってますよ」
 瑠美子がはっとして声を上げると、ソイーオは苦笑を漏らした。過保護だなとでも思っているのだろうか。彼女は嘆息すると、ふと右手を見やる。
「……あれ?」
 そこに何か黒い物が見えた気がして、彼女は瞳を瞬かせた。一面に広がる緑の中、何か黒い影が動いた気がした。割と大きい。入り口近くに大きな動物が姿を見せることは、まずなかった。いたとしてもせいぜい鳥か小動物くらいだ。それなのに、おかしい。
 思わず彼女が立ち止まると、怪訝そうに彼が振り返った。
「ルミコさん、どうかしました?」
 心臓の高鳴りを自覚しながら、彼女は固唾を呑む。今のが見間違いであってくれればいいと、そう必死に祈りたかった。だが嫌な予感ばかりが強まっていく。あれはたぶん、人の姿だ。黒ずくめの人間だ。
「ソイーオさん。今、誰かが――」
 彼女が言いかけた言葉は、途中で遮られた。足下に突き刺さった矢を見て、彼女は声のない悲鳴を上げる。後退るべきだとわかっているのに、縫いつけられたように足が動かなかった。
 草の茂る中、数本の矢がその存在を主張していた。妙な模様の入った、銀の矢だ。今時弓矢を使う者などいるのかと、考える余裕もなかった。狙われて逃れられるとも、彼女には思えない。
「ルミコさん!」
 すぐさまソイーオが駆け寄ってきて、彼女の前に立った。矢を見下ろす視線は鋭く、普段の彼からは想像もできない凄みだ。彼女は悲鳴を押し殺しながら辺りを見回した。
 矢が飛んできた方向と、人影を見た方向は別だ。相手は複数いるのかもしれない。つまり、どこから何が来るかわからない。泣きたい気持ちになって、彼女は自らの腕を抱いた。
 本当に、魔法使いを狙う者たちなのだろうか? ソイーオを狙っているのだろうか? まるで夢の中の出来事のようだった。現実のものと信じられなくて、彼女は唇を震わせる。
「逃げましょう」
 ソイーオの手が彼女の手首を掴んだ。異論の声を上げる間もなく、彼女は力強く引っ張られた。彼は迷うことなく森の奥へと駆けだしていく。
「ソイーオさん、そっちは――」
「入り口は塞がれてます。奥へ追い込む気なんでしょうが」
 息を切らせながらの言葉は、聞き取りづらかっただろうに。それでも的確な答えを返して、彼は走り続けた。もつれそうになる足を叱咤して、彼女もついていく。
 足が重い。心臓が苦しい。頭に血がうまく回っていないのかくらくらし、ともすれば視界が霞んだ。それでも立ち止まれずに、彼女は手を引かれたまま走り続ける。
 背後から来る矢が、時折足下に突き刺さった。その度に背筋が凍りつき、息が止まりそうになる。嫌な汗が噴き出す。それでも止まらずにいられたのは、ソイーオのおかげだった。彼は迷うことなく前へと進んでいる。
「あっ」
 しかしその逃亡も、しばらくも経たないうちに終わりを告げた。目の前に川が見えて、彼の走る速度が少しずつ落ちる。さらに奥の湖から続くそれは、長さこそさほどないが幅は割とある。深さもそれなりにあるため、渡るためには何かが必要だった。
 飛んできた矢が、彼女の横をかすめていった。ついに彼は立ち止まり、彼女を背に庇って振り返る。まさに背水の陣だ。
 追いかけてきたのは、一人の男だけだった。全身黒の布を被ったような、異様な恰好をしている。やはりあの時見えたのは彼らの一人だったのだろう。黒衣の中、手にした銀の弓がより際だって見えた。こんな男は今まで見たことがない。
「何者ですか!?」
 ソイーオの凛とした声が響き渡る。しかし、男が答えるそぶりはなかった。もとより話すつもりなどないということか。じりじりと寄ってくる男から目を逸らせずに、彼女は息を詰めた。
 ディーターの言うことを聞いておくべきだった。まさかこんな所にといまだに信じられないが、現実は現実だ。家で大人しくしていれば、こんなことにはならなかった。彼女はあの時の判断を呪って、奥歯を噛みしめる。
 刹那、何か違和感を覚えて彼女は左手を仰ぎ見た。理由はなかった。いや、姿を見せた男が一人だけなことに、恐怖を覚えてはいた。だがそれを見たのは本当に偶然だった。
「危ない!」
 木の上から飛び降りてきた、黒ずくめの男。その手にある銀の短剣が、差し込んだ陽光を反射して輝いた。彼女は咄嗟に、その男に向かって駆け出す。
 何故そうしたのか、彼女にもよくわからなかった。ただ幸いにも、それは男にとっても想定外な行動のようだった。地面へ膝をついた男は、わずかに躊躇する。
 彼女はそのままの勢いで男へとぶつかった。左腕に痛みが走ると同時に、短剣が落ちる音が聞こえる。止まりきれずに地面へ転がった彼女は、無我夢中で放り出された短剣を手にした。目の前に光る銀へと手を伸ばしただけだが、どうやら刃の方を持ってしまったらしい。手のひらに痛みが走る。
「ルミコさん!?」
 ソイーオの叫びに、彼女は答えることはできなかった。舌打ちとともに強く蹴り上げられて、どこが痛いのかわからず涙が溢れる。とにかく腕が、手が、熱くて仕方なかった。目に映る空と地面が入れ替わることで、かろうじて自分が転がっていることだけは理解できる。
 だがそう思ったのも束の間。一瞬だけ重力が消えたと後、ついで体が水に包み込まれた。熱かった体が、瞬く間に冷やされていく。今度は全身が凍りついたように硬くなった。息苦しい上に体が重い。
「ルミコさん!」
 ソイーオの声も、遠かった。霞んでいく視界には、水面の上で煌めく日が見えるばかりだ。しかし手を伸ばしてもそれには届かなかった。いや、しっかり伸ばせているのかもわからない。息苦しいはずなのにそれさえも感じなくて、瞼が重くなった。
 何もわからない。全ての時間が、ゆっくりと過ぎ去っていく。小さくなるソイーオの声を聞きながら、彼女は誘惑に勝てず目を閉じた。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆