マジシャンのいる部屋8  お土産編

 クレがいない夜が続いて、そろそろ二週間になる。
 始めは落ち着かなくて仕方なかった。誰もいない部屋では時計の音がすごく耳について、居間に下りては見たくもないテレビを見たりしてみた。テレビをかけながら勉強してもはかどらないし、一人っきりで食べるご飯はあんまり美味しくない。
 それでもクレに教わった料理を自分でやってみたりしたら、昔食べてたコンビニ弁当よりはむなしい味がしなかった。教えてくれた時のクレの仕草とか言葉とか思い出してたら、ぽっかりと空いた穴もちょっとは塞がったような気になるし。
「クレがいなくたって私は大丈夫だもん」
 それが一人で家にいる時の口癖になっていた。一体何回唱えたか覚えていない。だけど学校が始まってからは、その回数も減っていった気がした。牧恵ちゃんの塾の愚痴を聞いたり、口うるさい先生の授業を受けたりしていると、一日の半分は終わる。家に帰ってからも、宿題という天敵が私の自由時間をどんどん削っていた。やっぱり受験生だからか、先生たちにも熱が入ってるみたいなんだよね。宿題の数も量も増えてる。面談も増やす予定みたい。とはいってもうちの両親は忙しいから、そのうち何回まともに面談できるかはわからないけれど。
「今日のも上手くできたかも」
 そんな日々でもコンビニ弁当だけは嫌と、私は今日も真面目に料理していた。時間はかかっちゃうけれど、味はまあ、食べられないこともない……出来だと思う。夕飯はアサリの和風パスタ。前にクレが何度か作ってくれた、私の好物の一つ。だから頑張って作り方教えてもらったんだ。
「うん、美味しい!」
 自画自賛して食べながら、私は今日の夜の予定を思い描く。まず数学の宿題をやってしまわないと。確かプリント二枚だよね? 私数学苦手なんだよなあ。けれど忘れたらねちねちとした説教受けることになるし。
 その後は、あ、英語の予習か。当てられて答えられないとその後先生に集中攻撃されるから、うっかり忘れないようにしないと。彼氏とうまくいってないらしいともっぱら噂の先生は、真面目にやらない生徒には容赦なかった。じゃあやってもわからなかった場合はどうするのさ、とは面と向かっては言えない。休み時間の愚痴にする程度だ。
 そんなことを考えているといつの間にかパスタはなくなっている。この瞬間が実は一番寂しい。私は皿とフォークを流しに置くと、小さなため息をついた。壁の時計を見上げるともう八時になってる。宿題、何時に終わるかなあ? 考えながら自分の部屋へと向かう足取りは、どうしても重くなった。
 鞄を手にして部屋の前に立つ瞬間、これが私は嫌いだった。扉を開けた途端広がる薄暗い世界に、全てが飲み込まれるような気分になる。それはクレが来る前の家を思い出させた。だから嫌いだ。
 それでもずっと突っ立っているわけにはいかなくて、私は取っ手を握ると扉を開けた。部屋を包む薄闇。時計の音が広がる世界。カーテン越しに漏れてくる外の明かりに、机と棚の輪郭だけが浮き立っていた。いや、それだけじゃあなかった。今日はもう一つ、その中に浮き立つ輪郭があった。シルクハットをかぶってステッキを持った、一人のマジシャンの姿が。
「クレ!?」
「こんばんは、みやちゃん」
 私の部屋に立っていたのは、やっぱりクレだった。明かりのついていない部屋の中でたたずむ姿は、初めて会った時のクレを思い出させる。あの時はものすごく怪しくて警戒した。うん、恰好だけ見れば怪しいよ。タキシードとシルクハットも普段着としては十分変だけど、何よりその仮面。顔を隠す仮面の怪しいことといったらこの上ない。そんな人が無断で自分の部屋に入ってきたらそりゃあ驚くよね? 普通怖いと思うよね? あの反応は正しかったと信じてる。
 でも今は、クレのことを知ってるから怖いとは思わなかった。むしろ嬉しさに、顔がほころんでいく。どこから入ってきたのとはもう聞かない。私は慌てて蛍光灯に明かりを灯すと、クレの元に駆け寄った。
「クレ! 帰ってきたの?」
「うん、ついさっきね。だから真っ直ぐみやちゃんのところに来たんだよ。お土産渡そうと思って」
 そう言うクレの後ろには確かに何か包みがあった。お土産というからお菓子か何かかなと思っていたんだけれど、それにしては大きい。薄闇だから最初はわからなかったけれど、そうでなければ隠そうとしても丸見えだ。私は鞄を床に置くと、差し出されたピンク色の包みを受け取る。
「開けていい?」
「もちろん」
 私はドキドキしながら包み紙を開けた。その中にあったのは、ふわふわした羊のぬいぐるみだった。もこもことした手触りが気持ちいし、可愛い顔をしてる。色んな角度から見てみたけど、やっぱり可愛い。
「わー可愛いぬいぐるみ!」
「みやちゃん、それ枕だよ」
「枕?」
「それでいい夢が見られるんだって。みやちゃんの夜が寂しくないようにって思って」
「嬉しいっ」
 私は羊のぬいぐるみ、いや、枕を抱きしめた。枕……言われてみれば羊にしていれば少し平べったい気がする。でも可愛いからいい。それに毎日でも抱きしめたくなる柔らかさだし。
「クレ、ありがとう」
「喜んでもらえてよかったよ。それ買ってたらさ、兄弟子たちに笑われちゃって。お前どうしたんだ、とか、ついにあなたにも春が来たのね、とか」
 言いながらクレは頬を掻いた。確かに、こんな可愛らしい枕を買うクレを想像したらなかなか楽しそうだ。クレにはこういう趣味はなさそうだし、きっと兄弟子さんたちもさぞ驚いたことだろう。……ってあれ? 兄、弟子?
 私は枕を抱きしめたまま、クレの顔をまじまじと見た。クレはそんな私の反応に、不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたの? みやちゃん」
「兄弟子さんたちって、その、全員男だよね?」
 私がおそるおそる尋ねると、クレはああ、とステッキの頭を叩いた。言いたいことが伝わったらしい。クレは笑い声を殺しながら、右手の人差し指を立ててきた。手袋に包まれた指が軽く左右に振られる。
「違うよ、みやちゃん。まあ面倒だから兄弟子、でくくってるけど、女の人もいるよ。師匠の次に腕が立つのも、女の人だしね。今回僕はその人のアシスタントをやってたんだよ」
 そう説明されると、私の中を何かとてつもない衝撃が走った。そ、そうだよね、女性のマジシャンだっているよね。いてもおかしくないよね。でもそのアシスタントって。
 私は強く羊の枕を抱きしめながら、クレの頭からつま先までを順繰り見た。するとクレはさらに訝しそうに頭を傾けてくる。
「み、みやちゃん? あ、あの――」
「アシスタントってさ」
「う、うん?」
「テレビとかでよく色気ある恰好した人だよね?」
 思い切って私がそう言うと、クレは盛大に脱力した。その場に膝をつきそうだった。あれ、私何か変なこと言ったかな? クレは手を膝に置くと気の抜けたような笑い声を漏らす。
「クレ、大丈夫?」
「みやちゃん、それで今何か考えてたの?」
「えーと、男の人の色気ってどうやったら出るのかなあって思って」
「みやちゃん、普通の恰好だよ、このままだよ」
「それ、普通とは言わないよ?」
 まだ復活しきれていないクレの服を、私は軽く指さした。何故だかちょっぴり意地悪したい気分だ。自分でも何でだかよくわからないけれど、心が波立ったまま。
 だからだろう、クレは困ったように微笑んでいた。おかしいな、クレにして欲しいのはこんな笑顔じゃないのに。もっと自然に笑っていて欲しいのに。
「みやちゃん」
「何?」
「ひょっとして怒ってる?」
「え?」
「……ずいぶん一人にしちゃったし」
 するとクレが小動物みたいな眼差しでそう尋ねてきた。でも違う、私は怒っていない。クレにそんな顔をさせたいわけじゃあない。じゃあ何で落ち着かないのかって聞かれたら困るんだけど。でもこういうやりとりは望んでない。私は慌てて首を横に振った。
「全然! 違うよ、ただ……」
「ただ?」
「な、何でもないっ! この羊、ありがとうねクレ。私大事にするよ」
「あ? うん」
 クレはまだ納得しきれていないみたいだけど、私は無理矢理話をまとめた。クレは帰ってきたばかりで疲れてるんだし、立ち話もよくないよね。私は枕をベッドの上に置くと、クレの腕を取った。クレの体が一瞬強ばるけれどそれは見ない振りをする。
「クレも疲れてるよね? 何か飲みに行こう」
 強引にクレの腕を引っ張って、私は部屋を出た。クレが誰かのアシスタントするのはちょっと嫌だなとか、そんなことが頭をよぎったとか思い出したくはない。そんなこと思っちゃ駄目だ。クレの実力が認められた結果なんだから、我が侭を言ったらクレが困る。
「ねえクレ」
「何? みやちゃん」
「早くアシスタントするんじゃなくて、される側になるといいね!」
 けれども私はそう言った。言っちゃった。腕を引かれたクレはちょっと呆気にとられた様子で、でもその口元は柔らかく微笑んでいる。だから私は少し安心して、クレの顔を見上げた。
「そうだね」
 少し間をおいてそう返してくるクレの瞳は、仮面越しにも柔らかかった。春の日差しみたいにほんのりと暖かくて、見つめられると心まで温かくなる。いつもとは違うけれど、これはこれで優しい笑顔だ。
 だからこれくらい言っても、きっと許してもらえるよね?

春休み編   シリーズトップ   勘違い編