マジシャンのいる部屋7 春休み編
いつもならうきうきしながら迎える春休みも、今年ばかりは違った。一人部屋の中で、窓から外を見つめて私はため息をつく。これももう何度目だろうか。
「みんな急に塾だもんなー」
広がる青空には雲が数個、仲良く並んで浮かんでいた。けれども私はひとりぼっち。夜になればクレ――この家に毎日やってくる黒ずくめのマジシャン――が来てくれるけれど、昼間はそうもいかなかった。それでも冬休みなら友だちと遊べたしそもそも休みが短かったから、そんなに退屈はしなかったのに。
「受験生だもんなー」
私はベッドに突っ伏すと足をじたばたとさせた。暇になると電話してくる牧恵ちゃんすらこの春からは塾に行かせられてるって、一昨日聞いてしまった。うちにはお金がないから私は行かなくてすむけど、一人で部屋にいるのはやっぱり嫌だ。一人で勉強する気になれないし、何より昔を思い出してしまうから。
「クレに勉強見てもらおうかな」
つぶやいてから私はぶるぶると首を横に振った。きっとクレは喜んで引き受けてくれるだろう。みやちゃんのためなら、って言ってくれるだろう。だけどそれは駄目な気がする。
「私にとってクレって何なのかなあ」
シーツに頬をくっつけるとほんの少しひやりとした。日の光が届かないところは、やっぱりまだ冬の気配を残してる。私は瞼を閉じてその冷たさを味わった。その方が頭の中がすっきりする気がする。
クレは私にとって何なのだろう。
それは森君に告白されてから、私の中でずっとぐるぐる回っている疑問だった。最初はただの変態マジシャンだと思ってて、でもそれから少しずつ仲良くなって。そしていつの間にか傍にいるのが当たり前になってた。クレが来ない夜なんて考えられないくらい、私にはクレが必要になってた。
でもそれは寂しさを紛らわすため? ご飯作ってくれてマジック見せてくれて相談に乗ってくれて、私はクレを都合よく利用してるだけ?
自分のことなのによくわからない。ただどうしてもクレと離れるのは嫌だった。クレともう会えなくなるって思ったら、今までにないくらい胸が痛くなる。
「これが好きってことなの?」
静かな部屋でぽつりと問いかけてみても、もちろん答えは返ってこない。誰も答えてはくれなかった。
けれどもよくよく考えてみると、離れるのが嫌だってことだけなら他の人だってそうなのだ。両親も友だちもそれは同じで、クレだけじゃあない。だからその境にある何かを私は知りたかった。
「これはクレに聞けないもんね」
日頃どれだけクレに頼り切っていたか実感しながら、私はぼやいた。握りしめたシーツの端は生暖かくなっていた。
その日の夜、いつも通り黒ずくめの格好でやってきたクレは普段とは違って表情が硬かった。ご飯作ってくれてる時も、たわいないお喋りしてる時もそうだ。仮面の奥に潜んだ瞳が何かを訴えてるように見える。
「ねえクレ」
だから意を決して私はクレの前に立った。マジックを見せてくれて疲れたのか、今クレは居間のソファに座り込んでいる。だから私の方が自然と見下ろす形になった。ちょっと不思議な気分だ。
「どうしたの? みやちゃん」
「それはこっちの台詞だよ、クレ。今日のクレ変だよ。何か隠してるでしょう?」
ちらりと見上げてくるクレの無理矢理作った笑顔に、胸の奥が痛んだ。この笑顔は嫌いだ。自信なさそうな時みたいに何だかすごく痛々しく見える。はぐらかすつもりなのかついと視線を逸らすクレの前に、私は膝立ちになった。
「何隠してるの?」
「隠してる……つもりじゃないんだけどなあ」
「じゃあ何か言いたくて言えないでいるんでしょ?」
聞いてみるとクレは大袈裟に肩をすくめた。そして困ったと言わんばかりに頭を横に振り、今度は苦笑を浮かべる。私は数度瞬きをしてそんなクレを見上げた。
「敵わないなあ、みやちゃんには」
「だってクレわかりやすいよ」
「……そんなこと今まで一度も言われたことないんだけど。兄弟子たちだって僕が落ち込んでいても滅多に気がつかないし」
そんな風に言われると私は少し嬉しくなった。クレのことを誰よりも私が一番、わかってるような気分になる。もちろん、それでもまだ全然わかってないってことくらいは理解してるけれど。
「それで、何言おうとしてたの?」
「実はさ、明後日から師匠のどさまわりについていくことになったんだよね。今までは許してもらえなかったんだけど、最近腕上げてるって認められたから」
「え!?」
おずおずと口にするクレの手を、私は驚いてぎゅっと握った。手袋をしてない手は私のより少し温かい。するとクレも驚いたのかびくりと体が固くなって、まじまじと見つめられた。私は嬉しさを隠しきれずに満面の笑みを浮かべる。
「よかったじゃんクレ! やっとクレの実力が認められたんだねっ」
「え? ……あ、うん」
「クレってば人前で緊張しなければもう一流のマジシャンなんだから。きっと兄弟子さんたちにだって負けてないよ!」
「……み、みやちゃん」
私は握ったクレの手をぶんぶん上下に振った。それなのにクレは複雑そうな顔で曖昧な言葉だけ口にして、全然嬉しくはなさそうだ。それが不思議で、私は手を離すとおそるおそるクレの顔をのぞき込んだ。何かまずいことを言っただろうかと思い返してみても、心当たりは全くない。
「あのさ、みやちゃん」
「何? 私何か変なこと言った?」
「いや、そうじゃなくて」
尋ねてみるとクレの歯切れはさらに悪くなった。解放された手を仮面にやって位置をただすと、クレは言いにくそうに口をもごもごとさせる。
「どさまわり、って僕言ったよね。意味知ってる?」
「意味? えーっと演歌歌手とか地方に行って歌ったりすることだよね」
「そう、そんな感じ。だからしばらくみやちゃんに会いに来られないんだ。たぶん二週間くらい」
そう宣言されて私は愕然とした。そうだ、いいことばかりじゃあないんだ。クレの実力が認められてきたのはいいけれど、二週間も会えなくなるのは辛い。お正月の時だって一週間も離れてはいなかったのに、それなのに春休みに二週間だなんて。
「そ、そっか……」
さすがに落ち込むのは隠しきれなかった。喜んであげなきゃいけないのに、頑張ってって笑顔で送り出してあげたいのに、それなのに強ばった顔にしかならない。そんな自分を見せたくなくて、自然と視線が床へと落ちた。せっかくのチャンスなのにクレを心配させたくない。
「みやちゃん」
するとクレの手が私の頭を数回ぽんぽんと軽く叩いた。慌てて顔を上げると、穏やかに微笑んだクレの瞳が真っ直ぐ向けられる。
「ごめんねみやちゃん。でも僕の実力が認められてきたのも、全部みやちゃんのおかげだから」
「私の?」
「みやちゃんのおかげで、師匠の前でもそんなに緊張しなくなってきたんだ。だから――」
「だから?」
「いや、何でもない」
クレの手はゆっくり離れていった。言葉を濁したクレが何を考えてるのかわからなくて、私はもう一度首を傾げる。だから、だから何なのだろう? でもそれ以上クレは説明してくれそうになかった。ただその瞳はほんの少し怯えを含んでるみたいで小さく揺れている。私は慌てて、続ける言葉を探した。
「私のことは心配しないで。ほら、受験勉強だって始めなきゃならないしさ、それに一人で何もできなくなったら困るから。だからね、クレ、約束してくれる?」
こんな目は見たくなくて、もう一度笑顔になって欲しくて、私はクレの手を取った。そして男の人の手にしては妙に細い指をそっと自分の指で撫でてみる。マジックの練習で何度も怪我したのか、クレの指は切り傷だらけだった。きっと私の知らない苦労をいっぱいしてきたんだろう。その努力を無駄にしたくない。
「み、みやちゃん」
「帰ってきたら笑顔で会いに来て。私も笑顔で迎えるから。あと、どさまわりの話もちゃんとしてよ? 隠さないで」
そう言った途端、今日ずっと考えていた答えが突然目の前に現れた気分になった。私にとってクレは一番笑顔でいて欲しい人だ。不敵な笑顔でもいいし、微笑んでいてもいいけれど、無理矢理笑っていては欲しくない。
私が出会った人の中で、一番幸せになって欲しい人。
「いい?」
「わかったよ、みやちゃん。だからその……手、離して。くすぐったいから」
「あ、ごめんね」
私は言われた通り手を離すと、その場に立ち上がった。
二週間はすごく辛い日々になるだろうけど、その後見るクレの笑顔のためなら頑張れる気がする。私が不安そうならクレは安心していけない。だから頑張らなきゃいけないんだ。
「そうそう、お土産も忘れないでねー」
私は悪戯っぽくそう付け加えると台所へと小走りに駆けた。背後からはクレの苦笑が、聞こえたような気がした。