誰がために春は来る 第二章
第七話 望まれぬ存在
表向きは笑顔を絶やさなかったありかだが、夜になると考えることがあった。うっすらとかかった雲の向こう、ぼんやりと光を放つ月を見ながら思うのは、いつも乱雲のことだ。
「このままじゃあ、また乱雲は自分を責めてしまう」
シイカはまだ部屋に帰ってきていない。部屋の明かりを落としたありかは今日も外を見つめていた。冬へと続く季節は空気が澄んでいて、宮殿の中でもそれが感じられる。ゆっくりとした雲の流れもどこか幻想的だった。だが心には霞がかかったままで、彼女はそっと瞳を細める。
「どうにかして私も異世界へ行けないかしら」
ここ数日で、彼女の思考ははそんな道へと辿り着いた。乱雲が神技隊に選ばれたことは、彼が異世界へ派遣されることはどうにもしようがない。しかしだからといって何もできないわけではなかった。彼女の今後はまだ未定だ。
「もし現時点で行方不明になってる人が全員異世界へ逃げ出したんだとしたら……すごい数になるわ。だとしたら神技隊五人で対処できるわけがない。ただでさえ未知なる世界で大変なのに、大人数を捕まえるなんて無理だわ。きっといずれ増員が必要になる」
そう声に出して考えながら彼女は相槌を打った。希望はあるのだと言い聞かせるよう、全てを投げ出してしまわないよう。気持ちを奮い立たせるために、ひたすら呟き続ける。
「そうよ、宮殿との連係だって必要だわ。こちら側に違法者を引き渡す必要もあるし、情報の共有も重要だし」
ただ引き離されるのを待つわけにはいかない。その一心で彼女は必死に考えていた。ならばどうすれば神技隊関連の仕事に就くことができるのか。どんなことでもいいので、神技隊に関する情報が欲しかった。
基本的なことならば乱雲から聞くことができる。彼は今神技隊になるための知識を詰め込んでいるところだった。時間を見つけては彼のところへ行き、彼女も一緒に勉強を手伝っている。特に言語に関しては彼女の方が得意だったから、彼に聞かれて教えることも多々あった。その点を生かすことはできるだろう。
「でもそれだけじゃ駄目よ。上の考えがわからなければ、どう動き出すのかわからなければ。神技隊の派遣に関わってるのも結局は上だもの。上の考えが読めなければ異世界へは行けないわ」
しかし結局壁にぶち当たって彼女は首を横に振った。何をするにも結局は上次第。上の意図が読めなければ偶然に頼るようなものだ。全てを投げ出したくなるのを堪え、彼女は頬にかかった髪を払いのけた。ここで諦めてはいけない。乱雲が自分を責めないよう、新たな道を探さなければならない。彼女自身だって、このまま素直に彼と別れたくはなかった。
「諦めたくない」
再度強く首を振った途端、足下がふらついて彼女は咄嗟に手を伸ばした。指先はかろうじて窓枠を掴まえ、倒れ込むことだけは避けることができる。瞼をきつく閉じて、彼女は深呼吸を繰り返した。
「また?」
自然と声が漏れた。最近頻繁にふらつきを覚える。もっとも乱雲のことで食欲もないのだから、ひょっとしたら栄養不足かもしれない。彼に心配かけないよう無理やりでも食べた方がいいだろうかと、彼女は頭の隅で考えた。これ以上彼の心を煩わせたくない。
「ありか?」
そこで突然背後から声をかけられ、ありかは慌てて振り返った。するとさらに平衡感覚がなくなり咄嗟に壁に背をつける。急に動いたためだろう。それでも瞬きを繰り返して何とか現状を把握すると、目の前に立っているのはシイカだった。知らない間に帰っていたらしい。いつも通り気配を感じさせない登場に、ありかは顔に無理やり笑みを貼り付けた。
「お母様、お仕事は終わったのですか?」
「ええ。それよりありか、明かりもつけずどうしたの? また具合でも悪いの?」
シイカはゆっくり近づいてくると額に触れてきた。しばらく前までは逆の立場だったのに、最近はシイカの方がよく心配してくる。もっとも、ふらついたり吐いたりしている現場を見られているせいなのだから、それも仕方ないだろう。ありかは返答に詰まって微苦笑を浮かべた。
「熱はないみたいね。でもとにかく明日は医務室へ行きなさい、そして検診を受けなさい。いいわね? ありか」
「あ、でもお母様、私は仕事が――」
「少しくらいいいのよ。どうせ違法者や巨大結界のことで上だってまともに動いてないんだから」
シイカはそう告げると不敵に笑った。シイカは時折このようなことを口にする。もともと宮殿の住人ではなかったためか、上を絶対視していなかった。いや、状況を見透かしているというか。
「お母様……」
「いいわね?」
しかしそれ以上粘ることはできず、ありかは小さく頷いた。シイカには逆らえない。それはここにはびこる暗黙の了解のように、小さな頃から体に染みついていた。こぼれそうになるため息を、ありかはどうにか飲み込んだ。
検診の結果を聞きに行くために、ありかは廊下を歩いていた。慌ただしい人の行き交うそこを進むのは、今の彼女には辛い。
「栄養不足とか言われたらどうしよう」
妙な病気にかかっているとは思わないが、悩みは多いため健康だとは断言できなかった。胃腸の調子だってよくない。万が一何か病気があり、もしもその情報が上へと渡れば、異世界へ行くという密かな企みもついえてしまうかもしれない。そんなことが気がかりで足の運びは重かった。それでも行かなければ何度も呼び出されるのだから、向かわなければならないのだが。
「すいません」
医務室の前へ辿り着くと、白い扉を数度彼女は叩いた。返事はないが中にある気は一つだけ。彼女は恐る恐る扉を開けると、部屋の中へと足を踏み入れた。薬品独特の匂いが鼻につき、一瞬吐き気がこみ上げる。それでも歩みを止めると次第に落ち着いていき、無意識に力を込めていた拳を解いた。
「ああ、ありかさんね」
するとカーテンの奥から一人の女性が顔を出した。蜂蜜色の髪を頭の上で一つにまとめた、快活そうな壮齢の女性。ここ医務室の長――つまりシャープの母親だ。この間の検診の時にもお世話になった。
「はい、遅くなってすみません」
「いいのよ。ほら、そこの椅子に座って」
そう言われるままに、ありかは椅子に腰を下ろした。ギギッと耳障りな音がするが、今はそれも無視する。そして目の前にいる女性を見つめた。シャープと同じ緋色の瞳が、不思議な光をたたえながら彼女へと向けられる。
「検診の結果が出たわ。色々調べてみたけれど健康には問題はなさそうよ。ただ少し痩せ気味かしらね、これからは気をつけないと」
「は、はあ」
安堵したようなしてないような不思議な気持ちのまま、ありかは相槌を打った。胸をなで下ろしたいのにどうも言い様が気になる。何か重大なことが待ち受けているようなそんな予感がして、落ち着きたいのに落ち着けない。
「ありかさん、あなたパートナーは?」
「……え?」
「いないの?」
「え、あ、えっと」
「ああ、まだ届を出してないのね。ならすぐ出さないと」
しかし続けて聞かれた内容は予期していたものとは全く違っていて、ありかは戸惑った。何故そんなことを尋ねられるのかわからなくて混乱してしまう。まるで悩みを見透かされたようで心臓が高鳴った。自然と胸へと伸びた手を固く握る。
「ありかさん、今から言うことを落ち着いて聞いてね」
「え? あ、はい」
「あなた、妊娠しているわ」
だがさらに追い打ちをかける言葉が、彼女の体を強ばらせた。妊娠という単語が頭の中をぐるぐると回り、思考が追いついていかない。
「妊、娠?」
「調子が悪いのならおそらくそのせいよ。二ヶ月ちょっとくらいかしらね。詳しい検査をしないと正確な数字は出ないけれど、つわりが出るのも多い頃だし」
説明する声がとても遠かった。耳からきちんと入ってくるのに頭を素通りしていくようで。何度飲み込もうとしても内容が入ってこなかった。――妊娠。口の中でその単語を繰り返す。妊娠、妊娠。本来なら喜ぶべき事実に打ちのめされ、彼女は体を震わせた。
「大丈夫? ありかさん。顔が真っ青よ」
すると長い指がそっと額に触れてきた。それでようやく現実の感覚を取り戻し、ありかは無理やり唾を飲み込む。そしてそっとお腹に触れた。何も感じないが、検査によれば確かに新たな命が宿っているという。乱雲との間に生まれた命が。
「だ、大丈夫です」
かろうじて声を絞り出してありかは答えた。だが動揺を隠すことはできなかった。そんなに驚くなんてと呆れられているかもしれないが、今は気にしている余裕がない。
乱雲に言うべきか。だがそんなことを言えばさらに彼は混乱するだろうし、罪悪感を抱くだろう。子どもがいても異世界へ行くことができるのか? 無理なのか? 考えることがありすぎて、それなのに思考が働かなくて泣きたくなった。何をどうするべきかわからなくて、涙がこぼれそうになる。
「本当に大丈夫?」
「はい、ちょっと、その、気分が悪くなっただけです。その、薬品の匂いが」
「あ、なるほどね。わかったわ、詳しい検査結果については後で書類を送るから、今日はもういいわ。ゆっくり休みなさい」
そう言われてありかは立ち上がった。今はとにかく心を落ち着けたかった。ここを一刻も早く離れたくて、のろのろとだが歩き始める。歪な靴音が室内に響いた。
「気をつけてね」
背後からかかった言葉に、ありかは無言のまま首を縦に振った。そして扉を開け、廊下へと足を踏み出す。すると部屋へ入ろうとしたシャープとぶつかりそうになり、彼女は慌てて身を引いた。咄嗟にお腹に手を当てたのは無意識のうちか否か。
「わわっ、ってありかさん?」
「あ、ごめんなさいねシャープ」
泣きそうな顔を見られたくなくて、ありかは謝るとすぐに背を向けた。シャープは訝しげに思っているだろうが、今は繕う余裕もない。急いでるからと付け足してそのまま歩き出した。俯くと黒い髪が頬へ滑り落ちてくる。
「妊娠だなんて」
独りごちながら嘆息し、彼女は瞳を細めた。具合がよくないのは全て心労によるものだと信じ込んでいた。まさかこんな理由があるとは考えてもみなかった。こんな理由が隠れているとは。
「私はどうしたらいいの? どうすればいいの? ねえ乱雲? ねえ、お母様……」
かすれた声は、白い空間へと溶け込んでいった。