誰がために春は来る 第二章

第六話 会えてよかった

 乱雲はおそらく先ほどの会議室にいる。そう確信したありかは、廊下を急ぎ足で歩いていた。同じく忙しそうな者たちが行き交う中、彼女は訝しがられないよう涙だけは堪える。
 届をもう少し早く出していたら選ばれなかっただろう。後悔が胸の中から溢れ出し、全てを包み込んでしまいそうだった。彼との仲を公認にしてしまえばこんな問題は生じなかったかもしれない。だがもう遅い。彼が選ばれたのは変えようのない事実だ。乱雲の行動を考えても、シャープたちの言うことはおそらく真実だろう。
「もう、馬鹿よね馬鹿」
 誰に対する言葉なのかもわからず、彼女は微苦笑を浮かべた。大っぴらにしていなかった自分たちなのか、詳しく調べもせず選んだリョーダたちなのか、それとも別の誰かなのか。ともかく馬鹿馬鹿しく感じられて仕方なかった。しかし今、何よりも彼に言いたいことがある。
 目的地が定まっていれば、辿り着くのにそれほど時間はかからなかった。白い壁に埋め込まれるよう存在している扉。その前に立ち、彼女は息を整える。
 乱雲の気は確かにここに存在していた。落ち着いて確かめれば間違いがない。他に人らしき気配は感じられないから、彼一人だろう。
「怯えちゃ駄目よ」
 拒絶への恐怖を振り払い、彼女はきつく目を閉じた。彼がどんな反応をするかはわからない。互いに傷つく結果になるかもしれない。けれどもこのまま終わるのだけは嫌だと言い聞かせ、彼女は瞼を開けた。そして無機質な白い扉をそっと叩く。
「どうぞ。あ、誰ですか?」
 すると返ってきたのは予想よりもあっさりとした声だった。気で感じ取っていないのだろうか? 相手が誰か探ろうとしないその態度を怪訝に思いながら、彼女はおもむろに取っ手を握った。思ったよりも軽い扉は、少し力を込めただけで開く。
「乱雲」
 その名を呼ぶと、本に向かって眉根を寄せていた乱雲がゆっくり顔を上げた。彼は座ったまま一瞬目を疑うように息を呑み、それから発するべき言葉を失って何度か口を開閉させる。彼女が来ることなど予期していなかったと、如実に語る態度だった。彼女は苦笑を漏らしながらゆっくり彼へと近づいていく。
「あ、りか……」
「どうしてそんなに驚いてるの? 昼間私のこと見たんでしょう?」
「で、でも」
「すぐ閉めたから気づかれないと思った?」
 まるで責めているようだなと思いながら、彼女は笑った。彼は閉口し、ただひたすら彼女を見つめている。揺れる黒い瞳には彼女の姿が映し出されていたが、自分でもおかしくなるくらい弱々しい顔をしていた。
「神技隊のこと聞いて、だから来たのよ」
 本題を口にすると、彼はあからさまに体を強ばらせて立ち上がった。華奢な椅子が音を立てて揺れる。時計の音しかしない室内に、それは驚く程よく響いた。
「どうしてそれを……? 確かまだ、公にはされてないはずじゃ」
「うん、されてなかったみたいね。でも情報を得たシャープたちが慌てて教えにきてくれたのよ」
 そう告げると、彼は額に手を当て長く息を吐き出した。複雑な感情を含んだその息は、徐々に空気へと溶け込んでいく。彼はそのまま前髪をかき上げた。
「そうだよな、そのうち伝わっちゃうんだよな」
「そうよ。ずっと隠してるなんてできないんだから。それなのに乱雲、どうして何も言ってくれなかったの?」
 彼女は一歩彼へと近づいた。苦笑した彼はもう一度椅子に腰を下ろす。本の表紙を閉じてその表面を撫でる様は、出会った頃のように儚げだった。
「上の命令は絶対、だろう?」
 耳馴染んだ台詞に、今度は彼女が口を閉ざした。それは彼女の口癖のようなものだった。そしてその『教育』を受けた彼の口癖でもある。無慈悲でも理不尽でも上の命令ならば逆らうことはできない。この宮殿で生活している者ならば、体の芯まで染みついている鉄則だ。
「そう、だけど」
「だから断れなかった」
「私だってわかるわ、それくらい。だからあなたを責めてるわけじゃあないのよ。ただ、どうして何も言ってくれなかったのかって聞いてるの」
 彼女はさらに一歩、彼へと近づいた。手を伸ばせば触れられる距離。しかし彼女はそこで立ち止まり、彼の双眸だけを見つめた。言い逃れはして欲しくないのだと告げるように、視線を彼へと固定する。対して彼の瞳は辺りを彷徨うばかりだった。
「何でって……相談しても仕方ないじゃないか」
「相談しなくてもいいのよ! ただ私にちゃんと伝えて欲しかったの。知らなかったから突然聞いて動揺したんじゃない。あなたに避けられて、何が起こってるのかわからなかったわ。だから言って欲しかったの。ちゃんと教えて欲しかったのよ」
 そう伝えると、彼は再び唇を結んだ。視線を逸らして本から手を除けると、持ち上げられたままだった髪が数本、額へと落ちる。彼はしばらく何も口にしなかった。それでも彼女は辛抱強く言葉を待った。急かすのではなくただ黙し、彼の心の整理が終わるのを待ち続ける。その時間は妙に長く感じられた。実際は数分程度だったのだろうが。
「本当は、言いたかった。だけどありかを不必要に悩ませたくなかったんだ。ありかに罪悪感を持って欲しくなかった。それにありかには幸せになって欲しいから。だからオレのことなんか、忘れてもらおうと思って」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 彼が告げてきた信じがたい内容に、彼女は思わず声を上げた。苦痛を堪えて待った後の言葉は、彼女にとってあまりにも衝撃的だった。
「ありか?」
「そんな、やめてよ、忘れるだなんて。何も聞かずに去られて、忘れられるわけないでしょう? 勝手だわ乱雲」
 彼女は大仰に首を横に振った。頭がくらくらして地面がどちらなのか一瞬わからなくなるが、ふらつくだけで何とか倒れずにはすんだ。慌てた彼が立ち上がる音がし、その手が彼女の肩へと伸びてくる。慣れた感触にほんの少し心の荒波が静まった。
「落ち着けよありかっ」
「……うん、大丈夫」
 深呼吸を繰り返し、彼女はゆっくり頭をもたげた。心配そうな彼の目は見慣れたものだ。彼女がずっと見つめてきた優しくて温かくて、そしてわずかに切なさを含んだ瞳。軽く瞬きをしてから彼女は微笑んだ。
「わかってる、あなたが私のこと思ってくれてることは。でもね、私にも選択肢をちょうだい? 上の命令もあなたの決断も私は変えることできないけれど。それでも自分のことくらい決断したいの」
 彼女はそっと手を伸ばし、彼の頬へと触れた。いつだって優しすぎて傷ついてきた目の前の相手を、今まで通り愛おしく見つめる。
 シャープは今からでも抗議しろと言ったが、上の決定があり、かつ動き出してしまったものを変えることはできなかった。それは既に仕事に就いた彼女だからわかる。未定のことならばともかく、決定したものは覆せない。――相当の問題が生じない限り。だから乱雲が神技隊として派遣されるのは、どうしようもない事実だ。彼にも彼女にもそこに選択の余地はない。
「ありか」
「あなたが神技隊に選ばれたのは私にはどうしようもないわ。でもね、あなたがいなくなるまでどう過ごすのかは私の自由でしょう? もう後悔したくないの。だからあなたの傍にいさせて。あ、もちろんあなたが嫌じゃなかったらね」
 彼女はそっと手を下ろすと、涙を堪えて微笑んだ。すると今度は乱雲の手が彼女の頬へと触れてくる。
「オレが断るわけないだろう? こんなところで一人で勉強し続けるのは気が滅入るし」
 唇へと指を伸ばして、彼は冗談交じりに笑った。顔すら触れそうな距離にいる彼へ、しかし彼女は疑問の視線を投げかける。
「勉強?」
「そう、また勉強なんだ。ほら、そこに本があるだろ? あれには無世界の言語について書かれてるんだ。古語の一つらしいんだけどな」
 すると彼は少し離れて簡素な机の上を指さした。そこには先ほど彼が見ていた本があるが、見慣れない表紙だし分厚い。図書庫に勤めている彼女でも、そんな本は見かけたことがなかった。故に自然と頭が傾く。
「むせかい?」
「オレたちがこれから派遣される異世界のことをそう呼ぶらしい。上の人たちが言ってた。その本も上の人たちがくれたんだ」
 なるほど、それは上の物だったようだ。おそらく下の者たちの目に触れないようにと保管していたに違いない。それが必要になったから仕方なく引っ張り出してきたということだろう。上のやりそうなことだ。
「大変なのね、神技隊になるのも」
 彼女は大仰に肩をすくめてみせた。見ず知らずの言語を学ぶなど想像するだけで目眩がしてくる。しかも彼は暗記が苦手だ。移住者試験にも苦労したくらいなのだし。
「ありか」
 すると突然抱き寄せられて彼女は息を呑んだ。視界が黒く塗りつぶされたのは、胸に押しつけられたためだろう。息が苦しくなり彼の服の袖をぎゅっと掴む。しかし彼が離してくれる素振りはなかった。空気を求めて、彼女は何とか頭の角度を調整する。
「オレ、ありかに会えてよかったよ」
 彼自身の体を通して声は伝わってきた。優しくて温かくて切ない声が、直接彼女の体へと染み込み、涙がこぼれそうになる。
 出会わなければよかったとは思わないが、何故これほど彼が苦しまなければならないのかと泣きたくなった。傷ついて宮殿へと逃げてきたのに、彼はまた傷つきながらここを去らなければならない。それはあまりにもむごい。
「ありがとう、ありか」
 彼女に答えるべき言葉は、少なくとも今はなかった。ただ抱きしめられたまま、嗚咽だけを堪えていた。

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