ウィスタリア

第二章 第九話「あなたが必要なの」

 朝焼けに照らされた山の中は、うっすらと霧がかかっていた。身を切るような風は冷たく、白んだ世界に緑の波を起こしている。
 包帯と添え木で固定された足を一瞥して、ゼイツは眉根を寄せた。徐々に痛みは収まってきていた。ウルナが持ってきてくれた謎の薬のおかげだ。痛みを麻痺させる一時しのぎのものだから、本来はあまり使いたくないらしい。だが今はそれにも頼らざるを得なかった。歩くのもようやっとだったのにこの通り山を登っているのだから、かなりの効果だ。
「この薬、本当によく効くな」
「静かにしろ、近くに誰かがいないとも限らないんだぞ」
 足場の悪い獣道を進むことも可能とは。思わずゼイツが呟くと、前方を歩いていたラディアスが肩越しに振り返った。くすんだ緑の上着を羽織ったラディアスは、その襟元を手で掴みながら眉根を寄せている。ゼイツは軽く首をすくめた。
「悪い」
 先ほどからずっとラディアスは不機嫌だ。ウルナが危険にさらされることがわかっているからだろう。反論せずに素直に謝ったゼイツを見て、ラディアスは嘆息するとまた前方を見据える。ゼイツは胸中でため息を吐いた。先ほどからずっと代わり映えのない景色が続いている。様々な木々が生えた斜面を、二人はひたすら登り続けていた。
 ウルナの提案とは、人質救出作戦としてはごく標準的で単純なものだった。要するに陽動だ。一方が目を引きつけておき、その裏で人質を助け出す。わかりやすいだけに実行はしやすい。ただ、その陽動役がウルナという点だけが問題だった。心情としては受け入れがたい。しかし、彼女以上にその役目を果たせる者はカーパルの他にはいなかった。
 ウルナという存在は特別だ。立場としてはルネテーラの単なる付き人だが、『実験』を知る者たちにとってはそうではない。カーパルが手元に置いている姪は実験材料であると同時に、失ってはならない遺産も同然だった。ウルナが姿を現せば、誘拐犯たちは必ず動揺する。それと同時に、カーパルが本気であると錯覚させることもできる。
 理屈としては、ゼイツも飲み込める。誘拐犯たちもウルナをできる限り傷つけないようにするだろうという主張は、すんなりと理解できる。しかしそれでも心はざわついていた。不安は拭いきれない。こればかりは感情の問題で、どうすることもできなかった。だがウルナを説得できる代案も浮かばず。結果、ラディアスもゼイツも不本意ながらその提案を呑むこととなってしまった。
「ひどい山道だな」
 ラディアスのぼやく声が、葉のさざめきに混じってかすかに聞こえる。霧のせいでともすればその後ろ姿を見失いそうになるため、ゼイツは意識的に歩調を速めた。ラディアスとゼイツの他にも、裏手からルネテーラを助けだそうとする者たちはいた。誘拐犯が潜んでいるだろうと思われる小屋は複数ある。念のためだ。一方、ウルナと一緒にいるのはジンデだけだった。それがゼイツには気にかかる。
 ジンデについてもゼイツはよく知らないが、ラディアスたちは信用しているらしい。そもそも、教会にいる者とは一体どういった立ち位置なのだろうか。今さらながら、そこに住む者たちの事情がわからないことにゼイツは気づかされた。
 カーパルが教会を牛耳っているらしいということ、ルネテーラが女神を象徴する者として『姫』と呼ばれていること、ウルナが緑石の持ち主として重宝されていることは把握した。だがカーパルの周りにいた者たち、実験に参加している人々、それ以外の人間がどのように考えているのか、どう思って行動しているのか理解していなかった。だからどういう人間が『離反』したのかわからない。誰を信用したらいいのかもだ。
「小屋だ」
 不意に、前方でラディアスが立ち止まった。一本に結わえられた彼の黒髪が軽く跳ねる。慌ててラディアスの隣に並んだゼイツは、その視線の先へと目をやった。
 二人が並んでいる斜面の左手、小さな谷のようにくぼんでいるところに小屋が建っていた。猟師のための素朴な家屋といった造りだが、昨日の話から考えると盗掘者が利用していたものらしい。霧のせいで、小屋の向こうがどうなっているかまでは見えない。
「あれが、その?」
「断定はできない。だが行ってみるしかないな。裏側から回ろう」
 ゼイツの方を振り向くことなく、ラディアスは言葉少なに答える。すがめられたラディアスの瞳には、鋭い光が宿っていた。よく考えてみると、ラディアスの立ち位置も不明だ。教会に住む単なる若者としては信用されすぎている。古代品発掘班所属だと聞いていたが、それはもしかすると禁忌の力を探る者たちのことだったのではないか?
 ゼイツがそんなことを考えていると、ラディアスは何も言わずに再び歩き出した。ゼイツも急いで後を追う。踏まれた小枝が乾いた音を立てた。
 小屋の裏側に回るのは、骨が折れることだった。そのまま獣道を登り小屋の扉から死角となる位置まで進んでから、誰にも気づかれないように崖にも近い斜面を下る。
 痛みは落ち着いているとはいえ、足に力が入りにくい。何度か落下の危険を感じながらも、木々を伝うようにしてどうにかゼイツは下りていった。ラディアスもあまりこういうことは得意ではないようで、ゼイツのことなど気にかけてはいられないようだ。二人は無言のまま慎重に下っていく。
 見下ろした時はかなり小さく感じたのだが、近づいてみるとそれなりの大きさの小屋だった。数人くらいなら長期間住むこともできそうだ。霧に紛れるよう背をかがめて小屋へ近づき、ゼイツは息を呑む。
 盗掘者が建てたのか? それとも元々あったものを利用しただけなのか? どちらにせよ、単に寝泊まりするだけの場所ではなさそうだった。小屋の後ろには井戸まである。その傍には、比較的新しい薪が積まれていた。ゼイツはラディアスと目を合わせる。
 小屋の中から人の気配はしないが、誰かが利用していることは間違いない。ゼイツは息を詰めた。周囲に人影がないことを確認して木の壁に身を寄せると、入れそうな戸がないか探り始める。それと同時に耳を澄ませた。中から話し声でも聞こえたら状況がわかるのだが。
 ゼイツに倣い、ラディアスも壁を丹念に調べている。出入り口が正面のものだけならば、陽動を使っても意味がなかった。中にいる者を外へと誘い出さなければならないとなると、ルネテーラ救出は難しくなる。ゼイツは屋根の方を見上げた。天窓でもついていればまだ望みはあるのだが。
「止まりなさい!」
 刹那、右手から誰かが声を上げるのが聞こえた。野太い男のものだった。ゼイツはラディアスと顔を見合わせ、周囲へと注意を払いながら走り出す。目の前の小屋から聞こえたものではない。だがそこまで離れてもいない。右手に生い茂る木々の方へと、二人は小走りで進んだ。霧の中よく目を凝らすと、木々の向こうにも簡素な小屋が建っていた。先ほどのものよりは小さい。
「ウルナだ」
 土を踏みしめながら、ラディアスが囁くのがゼイツの耳にも届く。目指した素朴な小屋の前へ、比較的整えられた道が延びているのが見える。人が数人通れるかといった程度の幅だ。ウルナともう一人の男――おそらくジンデだろう、がそこを歩いていた。小屋の前では、短剣を腰からぶら下げた男が顔を引き攣らせている。
「止まりなさい!」
 小屋の前で立ち尽くしていた男が、繰り返し叫んだ。それでようやく、ウルナたちは足を止める。風に吹かれて揺れるウルナのスカートは、いつか穴の中で見たのと同じ薄紫色のものだった。場違いな色合いと艶が誰の目をも惹く。
「姫様は無事なのですか?」
 立ち止まったウルナが、端的に尋ねるのが聞こえた。ゼイツはラディアスと目を合わせて、音を立てぬように林の中を進む。目指すのは小屋の裏側だ。今、おそらく皆の注意はウルナたちへと向けられていることだろう。絶好の機会だった。
「約束はどうなった?」
「姫様は無事ですか?」
「約束は?」
 平行線な問いかけが続く。ウルナが声を張り上げてくれているおかげで、ゼイツたちは動きやすい。いつも控えめな喋り方なので意識はしなかったが、彼女の声はよく通った。凛とした響きは、少しカーパルにも似ているかもしれない。
「姫様と、ルネテーラ姫と会わせてください」
 ウルナの声が近くなる。小屋の後ろ側には、見張りの類はいなかった。傍に井戸はなかったが、代わりに小さな扉がついている。裏口か。少しずつ速度を落として、ゼイツとラディアスは扉へと近づいた。ここからいつ誰が飛び出してくるかわからない。固唾を呑み、ゼイツは短剣と拳銃の位置を確認した。
 土の固さ、枯れた葉と小枝の悲鳴を足の裏で感じる。鼓動も速くなっている。小屋の裏口は、遠くで見た以上に簡素な作りだった。背を屈めなければ入れそうにない大きさだ。その横へと張り付いて、ゼイツは耳をそばだてた。ウルナたちの声ばかりが響いて、中から物音はしない。横目で見ると、ラディアスも同じように壁に身を寄せていた。
 相手はウルナに気を取られている。今すぐ乗り込むべきか? しかしこの中にルネテーラがいなければ一巻の終わりだ。ゼイツの脳裏を幾つもの可能性が通り過ぎていく。
「その前に約束を果たすという証明がなければ駄目だ」
「私が来た、それが証明にはなりませんか?」
 表では、男とウルナの言い合いが続いている。きっぱりと言い切るウルナに、男が狼狽えたのがそこはかとなく伝わって来た。ウルナの立ち位置だからこそ使える手だ。予想通りの流れに、ゼイツは少しだけ安堵する。
「姫様に会わせてください」
 もう一度、ウルナが声を張り上げる。と同時に、かすかに小屋の中から女の声がした。悲鳴ではなかった。ゼイツがはっとした次の瞬間、横にいたラディアスが扉へと体当たりする。華奢な戸は歪みながら押し開けられ、耳障りな音を立てた。一気に空気が膨れあがったような錯覚に襲われる。
「姫様!?」
 彼方で響くウルナの叫び声を聞きながら、ゼイツも小屋の中へと踏み込んだ。空気が湿気っている。しかも薄暗くて狭い。動揺を露わにしている男たち三人の向こうにルネテーラの姿を認め、ゼイツは唇を引き結んだ。これでは派手に動けそうにない。
「ゼイツ!」
 扉の横で、ラディアスは青年の背を足蹴りするとそのまま踏みつけた。ゼイツはそれを横目に素早く床を蹴り上げる。そして無造作に置かれていた椅子の後ろへ回り込むと、上着の内側から短剣を取り出した。
 躊躇いはなかった。席を立ち懐へ手を伸ばしていた初老の男を、ゼイツはそのまま柄で横殴りにする。鈍い振動が手のひらへと伝わった。くぐもった悲鳴を漏らした男は、もんどり打った後に床を転がる。しばらくは起き上がれないだろう。
 これで残りは一人だ。ゼイツは短剣を握り直すと、壁際に座り込んでいるルネテーラへと走り寄った。縹色のドレスに身を包んだルネテーラは、冷気を避けるように小さくうずくまっている。後ろ手に縛られているだけで、目に見える怪我はなさそうだった。
「ゼイツ?」
 振り向いたルネテーラは瞳を瞬かせる。その細腰を抱えて強引に立ち上がらせると、背でかくまいながらゼイツは最後の男へと視線を向けた。大きく、鼓動が跳ねた。黒々とした銃口が、ゼイツへと向けられていた。それ以上動くことができず、ゼイツは思わず息を止める。
「そこまでだ」
 防寒着を着込んだ男は、難しい顔をしたまま拳銃を構えていた。ゼイツよりも十歳ほど年上だろうか? 目尻の皺を深くして、男は重々しく口を開く。
「武器を手放せ」
 こうなる可能性は、ゼイツの頭の隅にもあった。ニーミナにも何人か拳銃を持っている人間がいることはわかっていた。ここで撃たれたら三度目だなと、どうでもいいことをゼイツは考える。
 この至近距離では、今度こそ死ぬかもしれない。腑の底がひやりとした。この状況ではラディアスも身動きが取れないだろう。短剣ではなく拳銃を手にしておけばよかったと、少しだけ後悔した。
「カーパル殿は約束を守る気などないのだろう? そんなことはわかっている。わかりきっている。彼女なら姪も切り捨てかねない」
 拳銃を構えながら、静かに男が言う。その点に関してはゼイツも反論できなかった。カーパルの味方をすることはできない。だがここで屈するわけにもいかない。背筋を冷たい汗が流れていく感触があった。ルネテーラが小さく「ゼイツ」と囁くのが聞こえる。
「ルネテーラ姫をこちらへ渡しなさい」
 淡々とした男の声が小屋内に染み入る。しかし男の言う通りにすることはできない。渡したが最後、撃たれることには変わりないだろう。ゼイツは息を詰めて奥歯を噛んだ。こんな時は誰でもいいから縋り付きたくなる。助けてくれるのであれば何でもいい。本当に女神がいるのなら祈りたい気分だった。
「早くしろ」
 苛立ちを押し殺した男の言葉に、ゼイツはゆっくりと頷く。時間を稼いでも何も変わらないのだが、それでも抗う方法を必死で探した。視界の隅では、ラディアスが苦々しい顔をしている。倒れた男は呻いているだけで立ち上がる様子もない。目の前の男さえどうにかできれば、活路はあるのだが。
「おい、早くし――」
「そこまでにしてください」
 刹那、凛とした声が空気を裂いた。同時に、表の扉が勢いよく開いた。拳銃を構えていた男が、眼を見開いてそちらへと顔を向ける。咄嗟にゼイツは、手にしていた短剣を勢いよく投げつけた。ほとんど無意識だった。
「なっ!?」
 短剣は男の手へと命中した。力の抜けた指先から拳銃がこぼれ落ち、床で跳ねる。それを認めたラディアスもすぐさま動いた。血の流れる手で拳銃を拾い上げようとした男へと、躊躇なく飛びかかる。男が顔を上げようとするより早く、ラディアスはその後頭部を思い切り肘で叩き伏せた。耳障りな鈍い音がする。
「うぐぅ」
 ラディアスが男の背に乗り上げたのを確認して、ゼイツは息を吐いた。どっと汗が吹き出した。今さらのように足が震える。それでもどうにか座り込むのだけは堪えて、ゼイツは表の扉の方へと双眸を向けた。
「大丈夫よ、ラディアス。その拳銃にはもう弾がないわ」
 扉を開け放っていたのはウルナだった。転がっていた拳銃へ手を伸ばしたラディアスへと、彼女は無表情のまま言い放つ。思わずゼイツは「えっ」と声を漏らした。弾がないとはどういうことだろう? 呆然としたまま、ゼイツはウルナを凝視した。
「彼はゼイツを一度撃ってるもの」
 よく見ると、ウルナの背後には数人の男たちがいた。ウルナと一緒に歩いてきたジンデの他にも、小屋の見張りを縛り上げている男たちが三人。別の方向から裏へと回ろうとしていた者たちだろう。間に合ったようだ。
「そうだったのか」
 ゼイツは思わず、自分の左肩を見た。まさかあの時の拳銃の持ち主が、ルネテーラ誘拐の主犯格だったのか。古代武器を持つことを許可されているのだから、それなりの地位にはいたに違いない。いや、そういう者でなければこんな行動は起こさないか……。
「ゼイツ」
 背中でまた、ルネテーラが小さく名を呼ぶ。そこでようやく、彼女が縛られたままであることをゼイツは思い出した。慌てて振り返り短剣を取り出そうとしたが、それは手元にはない。投げつけた短剣は、まだラディアスの足下に転がっていた。中途半端な位置で止まった手が、収まりどころを求めて宙をうろつく。ゼイツは微苦笑を浮かべた。
「悪いがラディアス、その短剣――」
「あのね、あのねゼイツ」
 ラディアスの方を振り返ろうとしたゼイツに、再びルネテーラが呼びかけてくる。唇を震わせたルネテーラは、瞳に涙を浮かべていた。こんな怖い思いをしたのは初めてなのだろうと、ようやくゼイツも落ち着いて考えられるようになる。さらわれて心細い思いをしたに違いない。拳銃をまともに見たこともないのかもしれなかった。
「ルネテーラ姫、怪我は?」
「あ、ありません。大丈夫。それより、ゼイツも怪我をしていると聞いて」
「ああ、俺は大丈夫」
 本当は何も大丈夫ではない。痛みを感じないように一時的にごまかしているだけだ。おそらく薬の効果が切れた時、激痛に襲われることだろう。しかし必要以上にルネテーラを怖がらせる必要もないだろうと、ゼイツは口角を上げた。
「ルネテーラ姫が無事で、本当によかった」
 誰も死ななくて、誰も怪我がなくて本当によかった。ゼイツは心底そう思った。視界の端では、ラディアスが縄で主犯格の男を縛り上げている。その横で、ウルナは落ちていた拳銃と短剣を拾っていた。こんなにうまくいったのは、あちらも準備が足りなかったからだろう。少しでも早く動いてよかったと、安堵の息が漏れる。
「ねえゼイツ」
 手が動かせないためか、ルネテーラの頭がゼイツにもたれかかってくる。ゼイツは瞳をすがめると、その背中を軽く叩いた。身長差のため、ルネテーラの顔は見えない。豊かな銀の髪は、縹色のドレスの背でかすかに揺れていた。
「わたくし、一人になって、ずっと考えていたんです」
 絞り出したルネテーラの声がゼイツの鼓膜を震わせる。今にも泣き出しそうなか細さが、普段の彼女とは別物だった。ゼイツはちらりとウルナの手元を見る。誘拐犯の血がついた短剣で縄を切るのは止めた方がいいだろうか? 誰か別のを持っていればいいのだがと、ゼイツは記憶を探った。ラディアスは仕込んでいた気がするのだが。
「ウルナたちのこと、ウィスタリア様のこと、そしてあなたのこと」
 不意に、ルネテーラが顔を上げた。滲んだ涙が一粒、白い頬を伝って落ちていった。ゼイツは眉根を寄せる。慰めのためのよい言葉がすぐには浮かんでこなかった。繊細な少女を相手にしたことなど皆無に近い。子どもならともかく、女の涙は苦手だった。
「ねえ、ゼイツ。わたくしは、あなたが何者なのか知りません」
 そこで思いも寄らないことを口にされて、ゼイツは息を止めた。喉の奥にとどまった空気が、くぐもった音となって消えていく。瞠目したゼイツを、ルネテーラは真っ直ぐ見上げてきた。紫の双眸にはどこか神妙な光が宿っている。
 ゼイツは今し方の会話を脳裏で繰り返した。何故こんな言葉が突然飛び出してきたのか。彼は何か重大なことを聞き漏らしていたのではないか? 先ほどとは別の理由で汗が噴き出してくる。ゼイツが黙していると、ルネテーラはかすかに瞼を伏せた。
「でも、わたくしは、あなたのことを考えていました。あなたのことをずっと気にかけていました。わたくしには、そのような方などいない方がいいってわかっているの。わたくしは皆の望む、女神の象徴であるべきなんです。ずっとそう言われてきました」
 雲行きの怪しさに、ゼイツはますます言葉を失った。耳の奥で甲高い音がする。汗の滲んだ手のひらを、彼は強く握った。ルネテーラの声はウルナやラディアスにも聞こえていることだろう。しかし二人は何も言わない。口を挟んではこない。二人がどんな顔をしているのか、ゼイツに確認する勇気はなかった。何をどう間違えたのかわからないが、続きを聞いてはいけない気がする。
「でも、あなたと会えないかもしれないと思ったら、わたくし……。ねえゼイツ、わたくしはウィスタリア様ではありません。でもウィスタリア様の象徴なんです。だからいつでもわたくしは笑顔でいなくはならないの。俯いていてはいけないの」
 ゼイツは瞬きをした。視界の端で動き出したラディアスは、今度は初老の男を縛り上げにかかる。ウルナは先ほどと同じ場所でたたずんだままだ。誰かが話を遮ってくれたらいいと、ゼイツは心の底から願った。先ほどのように。だが何度も都合よく行くわけもなく、ルネテーラは瞳を細めて口の端を上げた。
「わたくしにはあなたが必要なの。わたくしの支えになってくださる?」
 決定的な一言に、ゼイツは首を縦にも横にも振れなかった。救いを求めてウルナを一瞥したが、彼女は微笑を浮かべて頭を傾けているだけ。「それは駄目」だとは決して口にしなかった。
 まさかウルナは、ルネテーラの幸せのためならばゼイツでも利用するのだろうか? 他国の者でも気にしないのだろうか? そう考えると目眩を覚えそうになる。視界に靄がかかったような錯覚に陥った。
「もちろん、すぐに答えが欲しいとかそういうわけじゃないの。ただ、ずっと教会にいて欲しいんです。いなくならないで欲しいの。お願いです」
 ルネテーラの懇願を、ゼイツは振り払うことができなかった。この流れが別の問題を引き起こさないことを、ひたすら願うばかりだった。



 広い草原をクロミオは走っていた。見慣れない場所だ。背丈ほどある長い草に埋もれそうになりながら、何を求めるわけでもなく駆けている。自分が何故こんなところにいるのか覚えがなかった。ただ一人でいることが心細くて、誰かに会いたくて、必死に足を動かす。ひたすら続く草の他は、疎らに生えている木くらいしか見えない。
「お姉ちゃんっ、ラディアスさん!」
 名前を呼んでも返事がない。どんどん泣きたくなって、クロミオはついにその場にしゃがみ込んだ。寒い。吹きすさぶ冷たい風が頭上を通りすぎていく。揺らされた長い草が、誰もいない静寂を強調しているかのようだった。ここはどこなのだろう? どうしてこんな所にいるのだろう? クロミオは膝を抱えた。
「どうして誰もいないの? ねえ姫様。お姉ちゃんは? ラディアスさんは? ゼイツさんは? ねえ、どこ?」
 涙でくぐもった声が風にさらわれていく。全てが冷たい。凍えそうだと、クロミオは体を震わせた。よく見ると、自分も見覚えのない恰好をしている。晴れた空を思わせる鮮やかな上着に、黒いズボン。靴もしっかりとした作りだった。これでコートかマントがあれば完璧だったのだが、生憎そこまでは用意されていない。頬に突き刺さるような冷たい空気が、呼吸をする度に体を冷やしていく。
「一人は嫌だよ……」
 両膝を強く抱え込んでクロミオは目を瞑った。我が儘を言わないようにずっと我慢してきたが、こんなところに一人なのは耐えられない。いくらなんでも限界だった。クロミオは唇を噛む。
「嫌だよ」
 置いていかれるのには慣れていた。ラディアスの部屋に一人残されるのも、初めてのことではなかった。皆はクロミオを残してどこかへ行ってしまう。危ないからと、子どもだからと、何も教えずに去ってしまう。一緒に待っていてくれるのはルネテーラくらいだと、いつもクロミオは文句を言っていた。それでもウルナは説明してくれない。
「ずるいよお姉ちゃん。お姉ちゃんが心配なのは、僕も一緒なのに」
 常に知らないところで何かが動いている。クロミオはその結果を見ているだけ。気づいたら周囲からどんどんと人が消え、誰もいないところに取り残されている。いつか同じようにウルナも消えてしまうのではないかと、クロミオは怯えていた。それだけは嫌だった。だから訴え続けているのに、ウルナは取りあってくれない。
「僕だって心配なのに」
 消え入りそうな泣き言を漏らした途端、不意に背中が暖かくなった。微睡んでいる時、柔らかい毛布を掛けられたかのような心地よさがあった。ウルナが来てくれたのかと、はっとしてクロミオは振り返る。
「……あれ?」
 だがそこにいたのは、見慣れないものだった。人間でもなかった。薄紫色の四つ足の獣が、クロミオに寄り添っていた。背丈は彼と同じくらいかもしれない。草の間で長い尾が揺れるのを、呆然とクロミオは見つめた。まるで「大丈夫?」と問いかけているように思えた。黒い瞳は何だか気遣わしげだ。
「慰めて、くれてるの……?」
 恐る恐る話しかけた拍子に、その獣はクロミオから離れた。そして一気に駆けだした。軽やかな動きだった。慌てて立ち上がったクロミオは、草を分けながら遠ざかっていく後ろ姿を眺める。緑の海の中で、薄紫の体躯はうっすら輝きを纏っているかのようだった。だがそれも次第に弱まっていく。
 クロミオは我に返ると、慌てて走り始めた。一人にならないのならば、この際相手が人間でなくてもよかった。置いていかれたくない。
「ねえ、待ってよ!」
 草の流れで、獣が今どこにいるのかがわかる。逆に言うとそれしか手がかりがない。必死にクロミオは走った。そうしながら、その獣が何者であるかを考えた。
 薄紫色の生き物など見たことがないし、聞いたこともない。色を抜きにしても教会の近くでは見かけたことがなかった。高々と跳躍できそうなしなやかな足が印象的だ。似たような姿を、以前ラディアスが貸してくれた本で見たことがあるような気がする。
「えーっと、そうだ、豹!」
 ずいぶんと昔に絶滅したと言われる豹に似ていた。模様がないところも色も違うが、姿形はぴったりだ。そうなるとますます見失ってはいけない気持ちになる。クロミオは懸命に薄紫の豹を追いかけた。
 だが獣の足に追いつけるはずもなく、しばらくもしないうちにどこにいるのかわからなくなってしまった。風に揺れる草の中に、その姿を見つけられない。遠くに見えた木々が近づいてくるだけだ。
「もう、待ってって言ったのに」
 ぐちぐちと呟きながら徐々に速度を落とし、クロミオは肩を揺らす。けれども立ち止まってしまおうかと顔を上げた時、前方で草が途切れているのが見えた。目を凝らすと、その奥には小さな湖があった。緑の向こうで、湖面が光を反射して輝いている。その湖の奥には数本の木と、そしてやはり草原が続いていた。
 もしかしてあの豹はこの湖を目指していたのではないか? 希望を見つけて、再びクロミオは駆け出した。手が切れるのもかまわず草を掻き分け、転びそうになっても体勢を立て直して走り、どうにか草の海を飛び出す。
 そこに、先ほどの豹はいなかった。代わりに、人がいた。しゃがみ込んだ一人の女性が、静かに湖に手を浸している。彼女の長い黒髪が、細い背の上で揺れていた。
「お姉ちゃん?」
 つい癖でウルナを呼んでしまったが、違うことはすぐにわかった。緩やかに波打つウルナの髪とは違う。女性の髪は、美しい布地を思わせる滑らかさだった。立っていないため背丈はわからないが、ウルナとさほど違わないのではないかとクロミオは思う。子どもではない。だが大人と呼ぶには少し華奢だ。クロミオはゆっくり女性へと近寄っていった。
「ねえ、あなたは誰?」
 一歩一歩近づいていくと、鼓動が早鐘のように打ち始める。呼びかけても女性は振り返らない。無視しているのか、聞こえていないのか。髪に隠れてよく見えなかったが、彼女は白い服を身に纏っていた。長い指先がそっと湖面を撫でると、透明な水に波紋が生まれる。空の色をよく映した綺麗な湖だ。
「ここはどこなの?」
 薄紫の獣、白い服、黒い髪。立ち止まったクロミオは、瞳を瞬かせた。自分の中で、何かがはまった音を聞いた。振り向かない女性の背中を見つめて、クロミオは小首を傾げる。
「もしかして、女神様?」
 ひょっとして女神の世界に迷い込んでしまったのではないか。クロミオはおずおずと問いかけたが、やはり女性は答えなかった。足を止めたクロミオは、眼を見開いたまま唇を引き結ぶ。動悸が止まらなかった。だがそれは、不思議と心地よく感じられた。

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