white minds 第一部 ―邂逅到達―

第十章「不信交渉」11

「遅かったか」
 ついで、白い光と共にまるで見えない階段から降りるよう、レーナが現れた。差し出されたシリウスの手を取ってふわりと地に足をつけた彼女は、そのまま何かを確かめるように一度爪先で土を叩く。と、アースががばっと立ち上がる気配がした。
「レーナ!」
 喜びと驚きと苦みの入り交じった呼び声だ。レーナは一瞬だけこちらへ顔を向け、ひらひらと右手を振る。いつもより幾分か力のない笑顔だったのが気になったが、身のこなしに不安定なところは見られなかった。二人一緒ということは、上から直接やってきたのか。
「結界の準備だけしておいてくれ」
 誰に対しての言葉なのか明確ではないが、レーナはそれだけを口にする。そして魔神弾の方へと目を向けた。シリウスはその間もじっと魔神弾を見据えているようだった。先ほどから同じ場所にたたずんだままでいるが、黒い鞭の動きがどうも変だ。どこへ向かうわけでもなく地で跳ね、うねり、蠢いている。
「どうなってるの?」
 ついこぼした疑問に応える声はない。異様な風が吹き荒れる中、誰もがレーナたちを見上げていた。すると白い男たちのうち誰かが「シリウス様」と囁く。それはまるで祈りの声にも似ていた。
「全部喰らったみたいだな。暴発までどれくらいあるかわかるか?」
 シリウスは誰の方も一顧だにせず、瞳をすがめて頭の横を押さえた。喰らう、暴発という不穏な単語が梅花の胸をざわめかせる。
「あの膨れ上がり方だと一分はもたないな。あくまでわれの予測だが」
 答えたレーナは珍しく真顔だった。何か考え込むように顎に手を当て、かすかに眉根を寄せている。その横顔をまじまじと見つめながら梅花は息を呑んだ。――一分。それはあまりに短い。
「わかった。ならば核を一撃で仕留める。溢れ出した分はお前に任せる」
「おい、今のわれにそれをやってのけろと? 保証はできないぞ」
 言葉を交わしつつも、シリウスとレーナは目を合わせることすらしなかった。ただ魔神弾を注視し続けている。口調こそまるで日常のやりとりのような気安さだが、何らかの危機的状況が目の前に迫っていることは確かだった。梅花が拳をぎゅっと握りこむと、アースが背後でまた舌打ちをする。それにつられたわけではないだろうが、複雑な感情を滲ませた青葉の気が静かに近づいてきた。
「梅花……」
「青葉は念のためカルマラさんを連れていく準備だけお願い」
 困惑の呼びかけに対し、梅花はそう口にした。彼が欲しかった情報はそれではないだろうが、今は梅花にも確たることが何も言えない。うまく回らない頭で考えられるのは、ただ最悪の状況に備えることだ。今のカルマラに、自分の身を守る力があるとは思えない。
「ならばこれを使え」
 と、そこでシリウスの声が響いた。彼がどこからともなく取り出したのは短剣だった。それを放り投げるようにレーナに手渡す。梅花の位置からではどんな短剣なのかはっきりとは見えなかったが、華美な装飾があるようではなかった。今リンが手にしているラウジングの短剣に近い。
「貰い物だ。今のお前にはぴったりだろ」
 苦い顔ばかりしていたシリウスが、ふいと笑った。柔らかいのにどこかほくそ笑むような眼差しが妙に印象的だった。ついで彼は答えを待たずに地を蹴る。深い青の髪が風に巻かれ、なびくよう揺れた。蠢く黒い触手を器用に避け、彼は真っ直ぐ魔神弾本体を目指す。
「足元を見られたものだなぁ」
 短剣を抱えたレーナはため息を吐いたようだった。その珍しい反応に梅花が瞠目していると、辺りを吹き荒ぶ風の勢いがさらに強くなる。
「仕方がないな、期待に応えてやろうか」
 そしてレーナは微笑んだ。短剣を目の前に掲げる姿は、厳かに祈りを捧げる少女のようだった。その独り言に呼応するよう、空気が震える。風に煽られて揺れる長い髪が、一瞬レーナの表情を隠した。
 黒い触手の一部が再び地で跳ねた。そちらへと短剣を突き出したレーナは、小さく何かを唱えたようだった。風の音に紛れ途切れ途切れにしか聞こえないそれは、覚えのない旋律に乗せられていた。何を言っているのか聞き取れないのに、ぎゅっと胸の奥を掴まれたような心地になる。梅花は固唾を呑んだ。
 途端、ぶわりと気が広がった。レーナを中心に生み出されたものが結界であると認識するのに、しばしの間が必要だった。緻密に編み込まれた気の流れは、結界と呼ぶにしては繊細で、広範囲で、そして柔軟で。
「そんな……」
 かすかに聞こえたカルマラの驚嘆の声さえ、すぐに意識の外に追いやられてしまった。
 魔神弾の方から強い気が膨れ上がり、それを中心に白い光の粒子が瞬くのが目に映る。気はますます膨れ上がろうとするが、しかしそれも不意に停止する。レーナが生み出した結界が、白い光ごと『気』を包み込むのが感じられた。
 そんなことがあり得るのか。気の流れを制御することなど可能なのか。喫驚しながら梅花は目を凝らす。吹き荒れていた風が徐々に静まっていくと、かすかに揺れる地の向こうに、白い光に満ちた巨大な球体が存在していた。それは時折明滅しながら、パチパチと火花を散らしている。
「何が起こっているの?」
 答えが返らないことはわかっているのに、呟かずにはいられない。気づけば黒い鞭も、魔神弾の姿も見当たらなくなっていた。先ほどまで魔神弾が存在していた場所にあるのは、輝く球体だけだ。
「……シリウス様?」
 そこで背後のカルマラがぼんやりと独りごちる。そうだ、シリウスは一体どこに行ったのか? 怪訝に思って視線を彷徨わせても彼の姿は見当たらなかった。レーナは先ほどと変わらず、球体の方に向かって短剣を突き出したまま。事態についていけない者たちは、ただこの光景を呆然と見つめているしかない。
「何ら問題はなさそうだな」
 そこでまた忽然とシリウスの声がした。今度は前方――レーナの方からだった。目映い白い光を纏いつつ、彼は虚空から姿を見せる。さすがに何度目かにもなれば梅花も驚きはしないが、これはどういう技なのだろう。彼はそのままレーナの隣に着地した。その横顔に浮かんでいたのはどこか皮肉そうな笑みだった。
「そう見えるとしたらお前の目は節穴だな。……仕上げくらいして欲しいところだ」
「またお願いか?」
「誰のせいだと思ってる」
 レーナとシリウスは何故か悪態を吐き合いながら、白い球を見据えた。レーナの結界に包まれているというのに、時折脈打つように気が膨らんでは縮むのが感じ取れる。
「始まりを考えれば自業自得だ」
 と、シリウスがゆくりなく右手を掲げた。その長い指がまるで文字でも綴るように振られた瞬間、膨らみかけていた白球の気の動きがぴたりと止まる。かがよう光も徐々に揺らぎが小さくなり、火花が爆ぜるような音だけが耳に届いた。
「お見事」
 レーナが笑うと同時に、その球体は急速に縮みだした。パチパチという場違いに軽い音を響かせながら、それはますます小さくなり――最後はぽうっとささやかな断末魔の悲鳴を上げ、消えた。
「……え?」
 声を上げたのは誰だったのだろう。呆気ない幕引きに、梅花もどう反応してよいのかわからなかった。肩を落としたレーナが短剣を下ろすのを見ても、何も口にすることができない。気を探り、瞳を凝らしてみたが、魔神弾がいた場所は空っぽになっていた。ただ黒い触手に抉られた地面の跡が、幻ではなかったのだと告げている。
「これでお片付けは終了だな」
 戸惑いの沈黙を打ち破ったのはシリウスだった。感慨の乏しそうな声でそう感想を述べ、彼は辺りを見回す。それを合図としたように、白い男たちのうち数人が立ち上がった。「シリウス様!」と呼ぶ声が次々と空気を揺らす。しかしシリウスは適当に左手を掲げて、気怠そうにそれを制するだけだった。まるで「近寄ってくるな」と言わんばかりだ。
「それにしてもあの半魔族は一体何のためにこんなところに来たんだ。馬鹿なことをやらかさなければ喰らわれることなどなかっただろうに」
 辺りを見据えるシリウスの眼差しは神妙だ。被害の状況を確認しているのか? 梅花もそれに倣って視線を巡らせる。シンとリンはもちろん無事だ。後ろの方ではホシワとアサキ、よつきが呆然としている気配がある。すぐ後ろで座り込んでいるカルマラは何やらわけのわからないことを呟いていたが、それを青葉が必死になだめていた。傍にいるアースは……恐ろしいほどの無言を貫いている。
「どうせ欲張ったのはミスカーテだろう。あいつは捨てられたんだ。まあ、小瓶を落としたことに気づいたのかもしれないが」
 そう答えたレーナは、突然脱力したようにその場に座り込んだ。踊るように揺れた髪がそのまま地面を撫でる。あまりに唐突な動きだったため、梅花の反応は遅れた。しかしアースは違った。弾かれたように駆け寄ると、傾いだレーナの背をすんでのところで支える。
「おい、レーナ……」
「うん、大丈夫。ほらシリウス、返す」
 アースの腕をぽんと叩いたレーナは、そのまま上体を捻りシリウスの方へと短剣を掲げた。今度は梅花の目にもはっきり見えた。鞘にうっすらと紋様が彫り込まれた小振りな短剣だ。儀礼用のものに近い印象を受ける。眉をひそめたシリウスはそれを受け取りながら、「いいのか?」と問い返した。レーナはゆっくり首を縦に振る。
「いいもなにも、今はお前のものなんだろう? 渡したい奴がいれば渡せばいい。本来は人間用だ」
 レーナが笑って手をひらひらとさせれば、シリウスの顔に微苦笑が浮かんだ。仕方がない奴だとでも言っているようだった。それを見て梅花はほっと胸を撫で下ろす。ひとまずの危機が去ったことをようやく実感できた。取り巻くようにこちらをうかがっている白い男たちのことは気になるが、シリウスがいる限り妙なことはしてこないだろう。
「言っただろう? お前の人間に対する態度は信頼しているって」
 手を下ろしたレーナはそう付け加えた。アースの背が邪魔で表情は見えないが、彼女が微笑んだことは容易に想像できた。彼女の気はひたすら穏やかで朗らかで、そして痛いくらいに澄んでいる。
 一方のシリウスは呆れかえったような、それでいてどこか楽しそうな顔をして肩をすくめた。やや垂れ気味の眼差しに宿るのは懐古と愉悦、そして諦念だろうか。それでも彼の気に滲んでいるのが好意的な感情であることはうっすらと感じ取れる。
「ああ、そうだったな。それがお前の得意技だったな。その勢いで早くケイルたちも陥落させてくれ」
「それ、お前は陥落済みという風に聞こえるが?」
「お前の信念に対する態度は評価している、ただそれだけだ」
 二人が一体何について話をしているのか定かではなかった。ただしケイルという名には聞き覚えがある。上での話の続きだろうか? 手がかりを求めるよう背後を振り返ってみたが、混乱し続けているカルマラは目を白黒とさせていた。シリウスのこういった態度は珍しいのか。それともケイルの陥落が意味する内容が問題なのか。
「では取り引きの続きは任せてもいいんだな?」
 座り込んだ体勢のまま、レーナは確認の言葉を放った。取り引きという単語を耳にして、梅花の鼓動が小さく跳ねる。忘れてはいけない。二人は交渉のために『上』に赴いたのだ。魔獣弾が現れたから話は中断となってしまったのか? それはどこまで進んでいたのか?
「ああ。もうほとんど終わりのようなものだからな。こんな茶番までさせておいて駄目だと言ったら、私がケイルの眼鏡を粉砕してやる。だからお前はこれ以上その怪しい言動を謹んで、技使いたちの後ろにでもついておけ。――詳細はアルティードに決めさせる」
 一方的に宣言したシリウスは、短剣を腰に差しつつ踵を返した。鮮やかな青が揺れる様は、煤けた荒野と化した大地からまるで浮き上がっているかのように見える。反論がないことを確信している足取りに、白い男たちが慌て始めた。カルマラもはっと我に返ったようだった。彼女はふらつきながらも立ち上がり、シリウスに向かって駆け出す。
 ようやく時が動き出したようだった。それでも現状を受け止めきれない梅花は、シリウスを取り巻こうとする者たちを見つめて瞳を瞬かせる。シリウスの言葉、レーナの返答、二人の表情を思い返すと、ぼんやりと内側から得体の知れない感情が浮かび上がってきた。
「……もしかして、話がついたの?」
 詳細はわからない。『上』で何が起こったのかも判然としない。けれどもシリウスとレーナの様子から、交渉決裂の気配は感じられなかった。それが意味する未来を思うと、胸の奥が静かにざわめいた。

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