white minds 第一部 ―邂逅到達―

第十章「不信交渉」4

「その後本当に封印結界まで緩み、半魔族が出現した。そのせいかどうかはわからないが、今回あの極悪魔族の進入を許し、結果的にはもう一人の魔族まで引き寄せることになった。この認識で間違いないな?」
 アルティードは相槌を打った。極悪魔族と称されたのは、宇宙で誰もが手を焼いていたミスカーテという魔族だ。もう一人の魔族についてはよくわからないが、ミスカーテが警戒していたくらいだから強者には違いないだろう。
 整理されたところで深刻な現状には変わりがない。何も掴んでいないことにも変化はない。アルティードは目を伏せた。転生神たちが築き上げた仮初めの平穏が終わりを迎えたことは確かだ。急ごしらえであったことを考えれば、よくここまで持ったと思った方がよいのかもしれない。問題があるとすれば、今のアルティードたちにはそれを修復する力も構築し直す力もないという点だ。
「この状況を一体どうしろというんだ」
 耐えきれぬよう、ケイルが小さく吐き捨てた。その拍子に再びずれた鼻眼鏡の位置を正す姿を、アルティードは横目に見る。自棄になっても仕方がないのだが、そうしたくなるのは理解できた。巨大結界の穴については、魔族中に知れ渡ったと思ってよいだろう。あのミスカーテが黙っているはずがない。そうなれば彼らはどう動くのか。想像したくもなかった。
「このままでは打つ手がないぞっ」
「ケイル、だから落ち着けと言っている。よく考えろ。魔族は五腹心を欠いた状態だぞ? いくら彼らでも急に総攻撃はしてこない。先導者がいない状況では奴らは派手には動けない。とにかく数を減らさないことが最優先事項になっているからな」
 頭を振るケイルに向かって、シリウスは呆れつつもそう諭した。はっとしたようにケイルは顔を上げる。魔族の中が一体どのようになっているのかアルティードたちは知らない。その点についてはシリウスを頼るより他なかった。確かに、彼らは長いこと頭を失った状態が続いていた。五腹心が封印された当初は混乱も大きかったのか、派閥争いも繰り広げられていたが、その後は小康状態と聞いていた。なるほど数の維持を優先していたのか。
「……そうか」
 ケイルもゆっくりと息を吐き出し、冷静さを取り戻したようだ。いずれは総攻撃を仕掛けてくるにせよ、まずは今だ。これからどうするのかを考えなければいけない。
 答えを求めるがごとく、アルティードはシリウスを見遣った。こうなるとどうしてもシリウスに頼らざるを得なくなる。魔族を相手取ることにおいては、彼が一番長けている。
「つまり、準備をするなら今なのだな」
「そうなるな。この間にいかに布陣を固めるかが決め手となる。正直言って、今の神界は戦力外だらけだからな。魔族とのまともな抗戦経験がない奴らもいる」
 シリウスは小さなため息をこぼした。その指摘についてはアルティードも口をつぐむしかない。戦力になりそうな者がほとんどいないことは以前から取り沙汰されている。しかしだからといって子をなす者もほとんどいなかったし、戦力を補強しようにも手立てがなかった。かつての大戦で使用された武器も、大半は未調整のままだ。それもこれも転生神の築いた砦に対する過信が大きかったためだろう。そうなだけに、とにかく今は手が足りなかった。地球に残っている者の大半は、癒えぬ傷を負った者たちだ。
「まさか、派遣した者たちを呼び戻すのか?」
 ケイルが眼を見開くのが視界の隅に映る。アルティードも、それは最終手段だと思っていた。だがもしかすると、その最終手段を用いるべき時なのかもしれない。
「ああ、考慮すべきだろう。宇宙の状況も芳しいとは言えないがな……。地球に目を向けている隙に宇宙で大規模に精神を集められてもたまらないが。その辺りは魔族の動きを見つつになる。それでも呼び戻す準備はしておくべきだろう」
 淡々と告げるシリウスの様相はいつも通りだ。それだけの決断について、彼はこの短期間のうちに考えていたのか。そのことの方がアルティードは驚嘆した。
 正直、そこまでしなければならないのかという思いもある。が、そうしたとしても万全とは言い難いことも理解していた。守る側は常に不利となる。アルティードたちはいつも劣勢だ。あの大戦を乗り切っただけでも十分だったと、そう思わざるを得ない状況だった。その後の体制は砂の上に立つ儚い蜃気楼のようなものだったのだ。それがここにきてついに露呈しただけなのだろう。
「それで、一つ提案がある」
 シリウスはそこで言葉を切った。たちまち辺りが静まりかえった。シリウスが何かを申し出てくるなど皆無だった。「勝手にしろ」や「好きにしろ」が返答の定番だ。そうなだけに今の一言は重く響く。この状況を確認した後に一体何を言い出すのか。名案でもあるというのか? 困惑したアルティードが黙していると、「何だ?」とケイルが先を促した。
「あいつを引き入れろ」
 それは耳に残る、淡泊な一言だった。瞠目したアルティードは声を失った。ケイルが怪訝そうな顔をしているのは「あいつ」が誰を指しているのか理解していないからだろう。けれどもアルティードにはすぐにわかった。先ほどからシリウスがしつこいくらいに「あいつ」と呼んでいるのは一人しかいない。
「……正気か?」
 あの得体の知れない者を結界の内に留めておくことさえ、危うい選択肢だったのだ。一度は追い出すことさえ検討したし、ケイルたちは実際動いた。それでも彼女――レーナはいつの間にか戻ってきた。そんな者をどうやって引き入れるというのか。
「正気だ。あいつを現状のまま放置するよりはましだろう。違うか?」
 じっとシリウスを見据えれば、当然と言わんばかりの答えが返ってくる。血迷ったわけではなかったらしい。しかし気軽に返答できる案件ではない。アルティードが閉口していると、話に置いていかれたケイルが怪訝そうに首を捻った。
「おい、アルティード、シリウス。あいつというのは誰だ?」
 鼻眼鏡を指で押さえつつ顔をしかめたケイルは、ゆっくりアルティードの方を振り向く。シリウスが答えないことを予想したのだろう。その名を口にした時の反応がありありと想像でき、アルティードは逡巡した。喫驚するだろうし、まず間違いなく叫び出す。だが言わないわけにもいかない。シリウスが動かないのを横目で確認し、アルティードはできる限り静かにその名前を舌に乗せた。
「――レーナのことだ」
 答えた途端、ケイルは絶句した。何度か口を開閉させてから怖々とシリウスへ視線を移す様というのは、普段なかなか見られるものではない。しばらくその状態が続いた後、ケイルは案の定驚愕の声を上げた。
「正気か!?」
 先ほどのアルティードと全く同じ反応だった。当然だろう。何を考えているのかわからぬあの少女を引き入れるなど無謀としか思えない。確かに彼女の力を当てにしたい気持ちはわかるが、同時に請け負う危険性が大きすぎた。
「あんな奴、信用できないだろう!」
「信用できるとは言っていない。だが排除する労力を考えると、利用する方が賢いだろう? 現状のようなあやふやな関係の方が厄介だと思うがな」
「利用される、の間違いではないか!?」
 ケイルの怒号が室内に響いた。頭痛を覚えたアルティードは思わず眉をひそめる。ケイルでさえこの様子なのだから、さらに頭の固いジーリュたちに話を通そうとしたらとんでもない反発を受けるのは必至だ。アルティードは額を押さえながらため息を飲み込む。無謀としか思えないのだが、シリウスが本気なのも感じ取れるから困る。
「それでかまわない。あいつは人間たちを守ろうとしているんだろう? それを利用しない手はない」
 腕組みしたシリウスは落ち着いた声でそう続けた。この程度の抵抗は彼も想定済みだったと言わんばかりだ。実際、予想していたのだろう。それでも提案しようというのだから、やはり肝が据わっている。
「何が狙いかはわからないが、それがぶれないのがあいつだ。長らく見張っていたからわかる。ならば人間を守るという方針も変わるまい。大体、あいつの動向をうかがったまま攻めいってくる魔族に対抗しようという方が無謀だろう。余計なところに力を割く余裕など我々にはないはずだ」
 よどみなく語られる内容は、実のところ重い。それはアルティードも実感していた。人間たちの力を借りなければならぬほどに戦力は不足している。半魔族が相手でもそうなのだから、直属級の魔族を相手にするなら、利用できるものは何でも利用するくらいの気概が必要だった。そんなことはわかってはいる。が、それでも躊躇してしまうのはレーナの言動がいつもこちらを試しているように感じるからだ。足下を見られているようにも思え、油断ならないと警戒心が湧き起こる。
「それは……」
 痛いところを突かれて、さすがのケイルも口ごもった。その横顔へと一瞥をくれつつ、アルティードは言葉を探す。シリウスがどこまで彼女のことを理解しているのかも定かではないが、それを問いただしたとしても、答えが得られるとは思えない。
「私は間違っているか? 適切な反論、打開策があるなら言ってくれ」
 静かに問いかけるシリウスの声が胸に刺さった。そんなものはないと確信している彼の気に、沈黙以外の応えが返せない。策が思いつくならとうに口にしている。これほど困窮していない。すると深々とケイルがため息を吐いた。
「……ずいぶんと詳しいな」
 絞り出すようなケイルの一言に、ふっとシリウスは笑った。わずかに皮肉の混じる、だがどこか清々しいとも感じる笑みだ。そのような表情を見せるのは実に珍しいことだった。シリウスは腕組みしたままかすかに頭を傾ける。
「調べたからな」
 その一言、表情から、シリウスが積み重ねてきた苦労が垣間見えた。日々魔族の動向をうかがいながら危険な芽を潰し続けてきた彼は、秘密裏の情報収集が得意だ。それでも彼女の何かを掴むのは難儀なことだったのだろう。それならばカルマラたちが何も掴めなかったのも仕方がない。
「魔族の間では有名人だ。神魔の落とし子なんて呼ばれ、恐れられている。あいつは何故だか神と魔族の決戦を避けたがっているようだったから、やっていることは私と似たようなものだったな。均衡を保ちたいんだそうだ。要するに、現時点では利害は一致しているということだ」
 まるで以前からこのような事態を想定していたかのように、滑らかな文言が流れ込んでくる。そうでなければいくらシリウスとてこれほど冷静ではいられないだろう。まさか彼はいつか彼女がここに来ることを予期していたのか?
「それを、証明できるのか? 利用できると証明できるのか?」
 苦々しい声でケイルは問うた。半分は了承したも同然の返答だった。そのことにアルティードは驚嘆する。神であることを誇り、異物を嫌うあのケイルがまさかこれを呑もうというのか? ――それだけ今の事態が危機的だと実感しているのか。
「……あいつは疑われて本望みたいな奴だから、なかなか難しいかもしれないが」
 そこでシリウスは言葉を濁した。笑っているような困惑しているような何とも言い難い表情を浮かべ、首を捻る。その気にも躊躇が滲んでいた。確かに、証明というのは難しいだろう。ある程度の危険性を加味した上での決断になるはずだ。
「私には良案が浮かばないな。そうなると、当人に証明してもらうしかないか」
 明後日の方へ視線をやりつつ、ぽつりとシリウスはそう続けた。その意味を飲み込むのに寸刻の間を要した。一瞬生まれた沈黙の後、アルティードは慌てて口を開く。
「おい、シリウス。この件をまさか彼女に話して相談するとでも?」
「そうなるな」
 耳を疑って問いただせば、あっさりと肯定された。揺れる青い髪を眺めながら、アルティードは声を失う。これだけ連続して驚くのはどれくらいぶりだろう。シリウスがいなければまず起こり得ない事態だ。
「……本気か?」
「ああ。あいつにとっても悪い話ではないはずだ。あいつだってこちらの動向をうかがいつつ人間たちを守るのは骨が折れるだろう?」
 何が疑問なのかわからないと言いたげなシリウスは、冗談を言っている様子でもない。すると閉口するアルティードに代わり、ケイルが動き出した。シリウスの方へと詰め寄る彼の気は当惑と焦りを孕んでいる。
「り、利用しますと告げてそれを呑む馬鹿がいるか!?」
「まあ、普通はいないな。だが利害が一致していれば、あいつなら喜んで呑むだろう」
 伸ばされたケイルの腕を避け、シリウスは嫌そうに顔を背ける。二人の横顔を眺めつつ、アルティードは今までのレーナの言動を思い返した。シリウスの言わんとすることもわかるような気がする。要するに、彼女とシリウスは似た者同士なのか。種族だの立場よりも、その場の利害と優先順位を重んじる者なのか。
「……わかった」
 ならば試してみる価値はあるかもしれないと、アルティードは頷いた。弾かれたようにケイルが振り返るも、呆れ果てているのか怒声は放たれなかった。ついでシリウスの興味深そうな眼差しが向けられる。その気は「ここで決断するのか」とでも言いたげだった。
 無論、アルティードも判断を急いでいい話だとは思ってもいない。しかしここで言い争いを続けていてもただいたずらに時が過ぎていくだけだ。そろそろ話をまとめなければ。
「シリウスの提案はわかった。しかしケイルの言う通り、危険性の伴うものだ。重要な決断となり得る故に、こちらもこちらで信用に足る情報が欲しい。シリウスの言だけではジーリュたちも納得しないだろうしな」
 そこでジーリュの名を出せば、シリウスはあからさまに嫌そうに顔をしかめた。神としての尊厳を最も重視している者だからだろう。シリウスとはそりが合わず、口論になることもある。大体シリウスが諦めていることが多かったが。
「ならばシリウスの言う通り、それを彼女に証明させよう。彼女が人間を守るつもりであり、そのためならば我々に協力する意志があるのかどうかを確かめよう。ケイル、それならいいな?」
 文句を言わせるつもりはなかった。それ以外に一体この状況をどうしようというのか。彼女が信用できないとの結論が出れば、この提案はなしだ。利用できそうだとの判断に至れば、そのまま人間たちを守ってもらえばいい。こちらは今まで通り、魔族の来襲に備えるまでだ。そこにはおそらく、またあの人間たちを巻き込むことになるだろう。つまり自動的にレーナも関わることになる。どうせ懐にいるのは同じこと。ならば少なくとも形の上では、協力し合うという体にしておいた方が何かと都合はよい。
「……いいだろう。しかしどうするんだ? レーナの居所は掴めていないんだろう?」
 アルティードの覚悟はケイルにも伝わったらしい。渋々首を縦に振ったケイルは、うかがうようシリウスへと一瞥をくれた。それは確かに一つの難点だった。あれだけ鮮烈な気を持っているというのに、彼女はそれを常に隠しているらしい。おそらく気が探りにくいリシヤの森やその近辺に潜んでいるのだろうと予想はしているが、それ以上のことはわかっていなかった。話をつけるにしてもどうすればいいのか。
「それなら考えがある。私がその人間たちを伴って行けば、話があることくらいあいつならわかるだろう。……言い方は悪いが、人間を餌におびき寄せるってことになるな」
 一瞬考え込むよう天井を睨み上げてから、シリウスはそう述べた。躊躇ったのは人間を巻き込むためだと思われるが、しかしそれを言ったら今さらの話だ。一番有効そうな方法であることはアルティードにもわかった。これをレーナは無視できないはず。おそらくあちらもシリウスの動向には注意を払っているに違いなかった。
「つまり、詳細はシリウスに任せていいんだな?」
 そこでアルティードは口の端を上げる。おびき出す作戦まで考えているくらいだから、この件に関してはシリウスに最後まで責任を持ってもらうことにしよう。そんな思いが伝わったのか、シリウスは気怠そうに耳の後ろを掻きつつうろんげな双眸を向けてきた。
「押しつけか、アルティード」
「そのようなつもりはない。そもそも提案したのはシリウスだ。人手が足りないことはわかっているだろう? 呼び出してどうするのかを含めてお前に任せる。いいな?」
 彼女を牽制できるのはシリウスくらいしかいない、というのも重要な点であるし、彼女とまともに言葉を交わせそうなのもシリウスくらいだった。散々調べてきたのなら、それを有効活用してもらわねば。大体こちらにはさらに面倒な仕事が残っている。――あのジーリュへ話を通しておくという、悩ましい仕事が。
「……仕方がないな」
 もとよりそのつもりだったのか、シリウスはあっさりと頷いた。細められたその青い瞳が憂慮と期待の色をたたえる。ケイルの重々しい吐息が、ついで訪れた沈黙を強調した。アルティードは静かに手を組み、いずれまみえる未来へと思いを馳せた。

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