white minds 第一部 ―邂逅到達―

第九章「再会」7

「強情だなぁ」
「それをそっくりそのままお前に返そう」
 呆れた顔でそう言い放ったアスファルトは、もう一度背後へと一瞥をくれた。先ほどと同じ位置からアースは動かない。それとも動けないのか。いや、こちらの様子をうかがっているに違いなかった。彼女は深く息を吸う。
 残された選択肢はそう多くない。アスファルトを追い返すには、やはり破壊系を使うしかなさそうだった。この状況で核に傷をつけられれば、さすがの彼も撤退を余儀なくされるだろう。ただし、彼の核に届くような技が今の彼女に使えるのかどうか。それが気がかりだった。梅花が比較的傍にいるこの状況で、それを『彼女』が許してくれるかどうか。
「考えても答えは出ないな」
 小さく独りごちる声が喉の奥でくぐもった。予測しようのないことについてあれこれ考えるような時間はない。最後は時の流れに賭けるしかなくなるのだから、何だか笑えてくる。
「それならやるしかないな」
 呟いた声はすぐさま風に乗って流れていった。こうなってしまうと、できるかできないかの問題ではない。きっとアスファルトもあれに気がついただろうから、短時間で勝負を決めようとするはずだ。ならば彼女も決断しなければならなかった。この場合、先に心を決めた方が勝つ。
「一瞬だけだから許してくれよ」
 軽く右手で自分の胸を叩き、彼女は一瞬だけ目を伏せた。後々のことはその時考えることにして、今は意に介さない。意識を向けるべきはこの刹那だ。まずはここを乗り切らなければ道が閉ざされてしまう。
 肩の力を抜くと、アスファルトから怪訝な眼差しが向けられた。彼女の気から何か感じ取ったのかもしれない。彼は高位の魔族の中でも気に聡い方ではないが、何故か妙に勘が働く時がある。
「行くぞ」
 誰にともなく声を掛け、彼女は軽く地を蹴った。体に風を、結界を纏わせて飛ぶように走る。今だけは周囲の気の把握も諦めて、全身の神経、精神を目の前のアスファルトにだけ集中させた。
「まだやる気か。懲りないな」
 眉をひそめたアスファルトは右手を掲げる。その指先から気が膨れ上がり、噴き出すように炎竜が生み出された。それがうねりながら迫るのを見据えつつ、彼女は地を駆けた。白い刃を生み出すこともしなかった。一度大きく跳躍すれば、炎竜の頭が頬をかすめる。
 彼女はミスカーテの筒を握りこみ、上半身を捻った。その背を、手を、足を、焼き尽くそうと炎が纏わり付いてくる。精度の低い結界だけでは防ぎきれない勢いだ。それでも彼女はかまわず、透明な瓶を前方に投げつけた。
 炎竜に飲み込まれ、硝子が弾ける音がする。煌めく破片を巻き込みつつ、青い煙が一気に周囲へと広がった。アスファルトが眼を見開くのが、視界の端に映った。
「お前っ」
 さすがのアスファルトも動揺したらしい。自殺行為だとでも言いたいのだろう。このままではたなびく青い煙の中に自ら突っ込むことになる。その意味は彼女もよくわかっている。
「正気か!?」
 後退しようとするアスファルトの手から炎竜が消えた。彼女は焦げ付いた地面に左足で着地し、ついでその勢いを殺さぬまま再度飛び上がる。そして振り上げた右手にただひたすら祈るような気持ちを込め、意識を集中させた。
「届けっ!」
 手のひらが、炎に巻かれたように熱くなった。その中に突如現れた重量感。この世界に不釣り合いな力が生み出される時の、空間を歪めるような違和感が全身を包み込む。身が引きちぎられそうな痛みと息苦しさは『彼女』からの警告だ。それでもレーナは右手を振り下ろした。その動きにあわせて白い不定の刃が生まれる。限りなく破壊系に近い、ほんのわずかだけ精神系を含んだこの刃が、彼女の最も得意とする技だ。
 彼女は歯を食いしばった。視界で白い光が幾つも弾けては霧散する。体中を焼かれたようにぴりぴりとした痛みが走り抜けた。それでも人の胴ほどある大きな刃が、揺らめきながら伸びていく。
 後退るアスファルトの顔が歪んだ。声にならない悲鳴が空気を揺らした。ほとんど透明な切っ先が、彼の白衣をかすめるのが見えた。左肩辺りから真っ直ぐ下へと、撫でるようにそれを裂いていく。
 ――届いた。
 それを確認した途端、刃が消え失せた。急激に体が重くなった。左肩を押さえた彼の前方へと、彼女は降り立つ。いや、着地した右足では体を支えきれずに、そのまま倒れ込んだ。ほとんど動かない左腕が地面の上を擦り、それでも勢いが止まらず地を転がる。口の中に砂が入り込んで思わず咳き込みそうになった。そうでなくとも呼吸をする度に肺が悲鳴を上げるようだ。
 全身に火が付いたような熱さと痛みはまだ続いている。それでもどうにか顔を上げれば、膝をついた彼がきつく眉根を寄せているのが見えた。ぜえぜえと呼吸が荒いのは、刃が核まで到達した証拠だ。
「レーナ、お前って奴は……」
 それでも立ち上がろうとしているところがアスファルトの実力のなせるところか。この程度のダメージでは彼は死にはしない。ただそれでも大技は使えないし、動きも鈍ったはずだ。
「思い切りがよすぎるな」
「そうかな」
 一方の彼女はそれどころの話ではなかった。軽口を叩いてはみるものの、身を起こすのは到底無理だ。まともに動かせる部分の方が少ないかもしれない。右腕とて技を使った反動で感覚が乏しかった。体を支えるだけの力は入らないだろう。このままではまず間違いなくアスファルトの方が早く身動きが取れるようになる。
「レーナ!」
 だがそこで思い出した。彼女は一人ではなかった。駆け寄ってくるアースの気を感じ取ると、息をするのが少し楽になる。刷り込みのような安堵感だと自覚はしているが、この場合は助かった。
「無茶しすぎだっ」
 彼女が声の方へ視線を向けるより早く、アースの腕が伸びてきた。地面から引き剥がされるよう起こされると、苛立たしげな顔が視界に飛び込んでくる。だが彼はそれ以上は何も言わずに、彼女を無理やり立ち上がらせた。足に力が入りにくい。ほとんどもたれかかるような体勢だが、想像したような痛みは訪れなかった。深く息を吸い込んだ彼女は、アスファルトへと視線を転じる。
「……アスファルト?」
 肩を押さえながらどうにか立っているといった様子のアスファルトは、不意に首をすくめた。皮肉そうにつり上がった口元から苦笑が漏れる。
「先ほどの奴、ミスカーテの目くらましだな。お前も悪い子に育ったものだな」
 普段と変わりない声音で告げられたのは、ずいぶんと「らしくない」言葉だった。だがアスファルトの知っている自分と今を比べてみれば、それも仕方のないことかと納得する。どうしてこんなところまで辿り着いてしまったのかと、時折思うことはあった。彼女の願いはとても単純なものなのに。
「ああ、そうだったみたいだな。実際はどちらでも、かまわなかったんだ」
 彼女はかすかに頷いた。ミスカーテの小瓶の中身は、さすがに彼女も一瞬で判別できたりはしない。だから毒であろうとなかろうと関係なかった。アスファルトの動きを一瞬でも止めることができれば十分だった。大切にされていたとわかっているから選んだ戦略だ。それを考えれば、確かに彼女はとても「悪い子」に育ったのだろう。
「ただ幸運だっただけさ」
 彼女が力なく笑うと、アスファルトは片眉を跳ね上げた。そして無言のまま気怠げに前髪を掻き上げる。それは彼が苦悩を押し隠す時の一つの癖だった。その緑の双眸から諦めの気配を嗅ぎ取り、彼女は密かにほっとする。さすがの彼も戦闘続行不可能と判断したらしい。アースもいるからだろう。――それに、これ以上戦闘が長引くと神が来る。
「捨て身なところは直した方がいいぞ」
「それをそっくりそのまま返しておこう」
 嘆息するアスファルトに、彼女は微笑んでそう言い切った。わずかに虚を突かれた顔をした彼は、ついで左右不均等に口角を上げる。心当たりが山ほどあるのだろう。彼は気のない声を漏らしつつ白い長衣を翻した。
「検討はしておく」
 アスファルトの背中を目映い光が包み込んだと思った次の瞬間には、その姿は掻き消えていた。見事な撤退だった。巨大結界の穴を正確に捉えて転移するというのもそれなりに難儀なはずだが、彼はあっさりそれをやってのけてしまう。白い光が空気へと溶けていくのを見届け、彼女は唇を引き結んだ。
「行った……のか」
 アースの呆然とした声が鼓膜を揺らした。彼女はもう一度安堵の息を吐くと、慎重に体勢を整える。ちりちりとした胸の痛みは続いていたが、身じろぎできないくらいの激痛はない。アースの腕を支えに一歩前に踏み出してみても、倒れるようなことはなかった。地面の感触を確かめた彼女はわずかに口元を緩めた。大丈夫。まだ歩ける。
「そうだな、このままここにいると神がやってくるからな」
 そっとアースから手を離し、彼女は肩越しに振り返った。
「……神?」
「あっち。魔神弾のいる方に、今地球で最も強い神がいる」
 まだ気怠さの残る手をどうにか持ち上げ、彼女は右方を指さした。アースは怪訝そうな顔をしながら首を捻る。気がそれほどではないと言いたいのだろう。魔神弾のでたらめに膨れ上がった気のせいでわかりづらいのは確かだが、何よりあの神が気を抑えているのがその最たる理由だ。
「あいつは隠し事もうまいからな」
 ぽつりと独りごちてから、彼女は微笑んだ。まだ口の中に砂利の感覚が残っていて不快だが、それを気にしている余裕はない。あともう一踏ん張り必要だった。
「さて、最後の仕上げだな」
 今にも暴発しそうなあの魔神弾をどうにかしなければ、神技隊が危ない。それでは何のために無理を重ねてきたのかわからなくなる。神技隊に何かあってからでは意味がなかった。
「アース、ネオンを背負ってやってくれないか? これからあちらに合流する」
 ごく当たり前に、いつものようにそうお願いした途端、力強く腕を掴まれた。かろうじて立っていたところを引き寄せられて体が傾ぐ。文句を言おうと視線を向ければ、憤怒を滲ませた眼光に見据えられた。
「正気か!?」
 先ほどのアスファルトとほとんど同じ口調だ。声音までそっくりだった。こんなところが似るものなのだなと密やかに感心しつつ、彼女は首肯する。
「うん。オリジナルたちを、あの場に残しておくのは危険だからな」
 どれだけアースに止められようとも、これだけは譲れない。
「だがお前、その体で……」
 無論、アースが逡巡する理由はよくわかっていた。満身創痍といってもよい状態であることは彼女も自覚している。ただ、一番危険なミスカーテとアスファルトが去ったとなれば、あとはどうにかなると踏んでいた。いや、どうにかするしかない。あちらの出方は予想できるから手段はある。
「まあ、よい状況とは言えないが。だがカイキたちもどうやら倒れたままのようだ。迎えに行ってやらないとまずいだろう?」
 彼女はわずかに肩をすくめた。そう、カイキたちが置き去りのままだ。巻き込んでおいてこのままというのはあまりにひどい扱いだろう。助けてやらなければ。するとさすがのアースも仲間の名前を出されると文句は言えないようだった。彼女はそっと彼の手に自分のものを重ねる。
「我が儘を言ってすまない。文句も説教もいくらでも聞くから。だからよろしく頼む」
 破顔してそう頼み込めば、アースが断れないことは予想できた。「悪い子に育ったな」というアスファルトの言葉を思い出して、彼女は内心で苦笑する。まったくもってその通りだ。ユズが知れば嘆くかもしれない。
「……仕方がない奴だな」
「ありがとう」
 ――ずっとアスファルトのもとにいたらどうなっていたのだろう。あり得なかった未来を思いながら、レーナはそっと瞳を細めた。



 目前に迫った黒い鞭の先が、透明な膜に弾かれて跳ねた。短剣を振りかざそうとしていたリンは、固唾を呑んで瞠目する。
 この結界は彼女のものではない。彼女はつい直前まで、黒い触手の動きに気づいていなかった。それでは誰の技なのかと肩越しに振り返れば、カイキの体を支えたシンが息を呑んでいるのが見える。その隣では青葉が緊張に顔を歪めていた。つまり二人の技でもないらしい。青葉にもたれかかっている梅花に何かできるとも思えなかった。そうなると一体誰なのか。
「技使い、無事か!?」
 答えを求め空を見上げようとしたところで、シリウスの声が降り落ちてきた。やはり今の結界は彼のものだったのか。声の方へ視線を向けると同時に、シリウスが音もなく地に降り立つ。ふわりと風を含んで舞う青い髪がやけに目を引いた。
「あ、はい。大丈夫です」
 リンが短剣を握る手に力を込めると、シリウスは振り向きざまに右手で空を払った。背後から迫っていた黒い鞭の先端を、その手刀が切り裂く。単に手を使っただけではないのだろう。強化したというよりは一種の精神系の技のようだ。見慣れたものではないが、精度の高い技であるというのは察することができる。
「しつこい奴だな」
 シリウスは舌打ちした。神と思われるこの青年は、何故だかリンたちを守ってくれるつもりらしかった。少なくとも現時点ではそうだ。今までの上の者たちの言動を思い返すとその理由が想像できないが、助かっていることには間違いない。リンは辺りへと視線を走らせながら、端的に問いかける。
「状況はどうなってるんですか?」
「あの性悪魔族が撤退したんだ。同時に半魔族も消えた。だからあの暴走気味な半魔族の狙いがお前たちに切り替わったんだろう」
 背を向けたシリウスはため息混じりにそう告げる。尋ねて普通に答えが返ってくるありがたみを噛み締めつつ、リンは彼の言葉を脳裏で繰り返した。――撤退した。その一言を飲み込むのに時間がかかった。それはつまり、あの凶悪な魔族――ミスカーテがいなくなったということか?
「魔神弾のでたらめな動きはミスカーテの思惑を崩すからな。分が悪いと踏んだんだろう。しかし、これは厄介なことになったな」
 ぶつぶつ独りごちるようにぼやいたシリウスが、もう一度肩越しに振り返った。そしてあからさまに顔をしかめた。その気には今までにない訝しげな色が滲んでいた。彼にそうさせる原因が思い当たらずリンは首を傾げる。カイキたちを助けたことを怪訝に思っているのか? しかしぱっと見ただけでは、カイキと自分たちの区別はつかないはずだが。
「……レンカ先輩、大丈夫でしょうか」
 と、そこで梅花がか細い声を発した。リンははっとする。まだ余力のあったレンカは、倒れた滝の元へ駆けつけているはずだった。ここからさほど離れてはいないが、この黒い鞭が巻き起こす粉塵のせいで肉眼では捉えにくい。魔神弾のでたらめな気のせいでそちらも当てにならなかった。確かに、巻き込まれていなければいいのだが。
「レンカ先輩ならまだ技が使えるから大丈夫だろ。少なくともオレたちよりは元気だ」
 閉口するリンたちの傍で、答えたのは青葉だった。半分は自分たちに言い聞かせるような言葉だが、確認する術がない以上そう信じておくしかないか。レンカは結界にも長けているから、リンたちよりもずっとうまく対応しているだろう。
 リンが頷くと、前触れもなく地響きのようなものが足下から伝わって来た。また黒い触手の大群が迫っているのか? 視線を巡らせども土煙が邪魔ではっきりとはわからない。それでも腹に響く重低音は徐々に大きくなっている。そしてしばしの間を置き、右手から不意に黒い鞭が顔をのぞかせた。
「鬱陶しい奴だな」
 再びシリウスは片手を振り上げた。その手のひらから生み出されたのは緻密な結界だった。薄く均等に張られた透明な膜が、迫る黒い筋を次々と弾き返す。ばちりと火花が爆ぜるような音を立てつつ、地に落ちた触手はのたうつように跳ねた。結界に触れただけだというのに、ずいぶんとダメージを負ったようだ。やはりシリウスの技は尋常ではない。
 しかし考えてみると、それだけの実力者が守る一方というのも不思議な話だった。気の強さだけでは判断できないが、魔神弾よりもミスカーテの方が強いことは明らかだろう。そのミスカーテを追い返したシリウスが魔神弾に手こずるはずもない。リンたちが邪魔と言えば邪魔なのかもしれないが、どことなく違和感がある。
「あっ」
 そこで不意に梅花が声を上げた。唐突なタイミングだった。慌てて気を探ってみても、先ほどと特段変わりがあるようには思えない。魔神弾の攻撃ではないのか。大体、よく考えると奇妙だった。梅花の気に含まれていたのは不安や喫驚ではなく、何か別の――たとえば安堵や祈りに近いものだ。その意味がわからず梅花へと一瞥をくれれば、彼女の双眸が空へ向けられているのがわかる。その真っ直ぐな視線を、リンはやにわに追いかけた。
 灰色の空で、小さな光が瞬いた。ついで何もなかったはずの空間に忽然と白い光が現れ、それはすぐさま人の形をとる。――レーナだ。
「えっ!?」
 リンは眼を見開いた。黒髪をなびかせ風を纏いつつ地に降りたレーナは、その反動を利用するように跳躍する。軽やかな動きは重力を感じさせないものだった。しかしどことなく左手の動きが不自然だ。
 それでもレーナはひらりと身を翻すようにしながら、迫る黒い触手を剣で切り裂く。いつもの不定の刃ではなく細身の長剣だった。その珍しさに瞳を瞬かせているうちに、レーナはリンたちの前まで辿り着いた。ふわりと音もなく着地すると、尾のような長い髪がたおやかに揺れる。
「来たか」
 その来訪に、リンよりも早く反応したのはシリウスだった。敵意も好意も混じらぬ淡々とした声音だ。体勢を整えたレーナは、一度彼へと一瞥をくれる。そして無言のまま状況を確かめるよう視線を巡らせた。その眼差しが梅花たちに向けられたところで、たちまち顔がほころんだ。傍目にもわかりやすい変化だった。
「カイキたちも助けてくれたんだな、ありがとう。無理をしたようだから心配したぞ」
 その声掛けは梅花に対してのものか、それともリンたちも含まれているのか。判然としないが、何と答えるべきかわからずリンは口をつぐんだ。カイキたちに助けられたのはリンも同じだ。礼を言われるようなものではない。
「……それは、自分の姿を見てから言った方がいいんじゃない?」
 誰も何も答えなかったためか、梅花がまずそう指摘した。梅花自身もぐったりとした様子で座り込んだままだが、それでも返す声には力が戻っていた。精神の方は回復してきたのかもしれない。するとレーナはきょとりと首を傾げ、自分の姿を見下ろす。
「あー、まあ、ひどいな」
 どこか出血しているわけでもないし、手足が折れているような様子もないが、しかし気を探ればわかる。ミスカーテの技で負った傷はまだ癒えていないのだろう。
「オリジナルほどではないが」
「確かにずいぶんと満身創痍だな」
 眉をひそめるレーナを凝視し、シリウスがまた口を挟んだ。再び結界を張って黒い鞭を弾きつつ、気安い口調で感想を述べている。そこでようやくレーナは彼の方へと向き直った。二人の間の距離は大人の足で十歩ほどだろうか。それでも交わった視線の強さは、まるで真正面から睨み合った時のそれと同じだった。
 冷たく澄んだシリウスの眼光に宿っているものが何なのか、リンには読み取れない。一方のレーナは相変わらずの微笑をたたえており、やはりそれだけでは何を思っているのか断定できなかった。ただ一つ確かなことがあるとすれば、二人は互いを知っているのだろうというものだ。
「そうだな、色々と事情があってな」
 頭を傾けたレーナは、答えになっていない答えを返す。彼女にはよくあることだが、ここにきてもまだ貫くつもりらしい。それを知ってか知らでか、シリウスは苦笑もせず肩をすくめるに留めた。
「そうか」
「そっちこそ、あんなのに手こずるなんて腕が鈍ったんじゃないか?」
 レーナは長剣を地に下ろし、そのまま突き立てた。そして黒い触手の群れへと一瞥をくれる。それらはどこからともなく現れては弾かれ、のたうち回り、引っ込み、そして飛び出してくるという一連の動作を繰り返している。本体である魔神弾がどこにいるのか、気だけでは判断がつかなかった。這いずり回る触手からも魔神弾の気が感じ取れるせいだ。
「ほぅ、わかっているくせに尋ねてくるとは性格が悪いな。暴発させたくないからに決まってるだろ。あの危うさに気づかないとは、まさか言わないよな?」
「そうだな、あれは危ういなぁ。餌も大量にあるしなぁ」
 悪態を吐き合っているように聞こえるが、二人の間にあの憎悪はなかった。魔族と神が対峙する時の独特の緊張感、突き刺さるような空気が感じ取れない。
 一体どういうことなのか。リンには皆目見当もつかなかった。今まで彼女が知る神と呼ばれる存在は、レーナたちのことをずっと敵視していた。知り合いという時点でも奇妙だったが、それ以上の違和感がある。リンは二人の顔を交互に見比べた。こうしている間も、結界に弾かれた黒い鞭が空中で踊っている。

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