white minds 第一部 ―邂逅到達―

第六章「鍵を握る者」1

 殺風景な白い部屋に閉じ込められるというのは、非常に苦痛なことのはずだ。しかし状況によるらしい。緊張から解放された体は切実に休息を欲しており、場所を選ばなかった。
 眠気に抗っていたのはいつまでだったのか。寝入ってしまっていたことに気づいたのは、誰かの足音を耳にした時だった。青葉は重たい目蓋をどうにかこじ開けるようにして、首の後ろを掻く。
 一瞬、ここがどこなのかわからず混乱した。上も下も横も全て真っ白で、まだ夢の中にいるような心地だった。それでも右手に寝転がるサイゾウの姿を認めたことで、ぼんやり記憶が戻ってくる。途端、胸の内に落胆が広がった。
「ああ……」
 間違いなくここは現実だ。重だるい手足や凝り固まった肩もそれを裏付けている。壁にぴたりと張り付かせていた背はじっとり汗ばんでいた。全て夢の中の出来事であればいいのにという甘い幻想に後ろ髪を引かれつつも、青葉は周囲を見回す。
 疲れ切った仲間たちは、そのほとんどが壁にもたれかかるか床に突っ伏して眠っているようだ。だから靴音がわかるくらいに静かだったのか。宮殿に入ってどのくらい時間が経ったのだろう? この大部屋には窓もなければ時計もないので、はっきりしない。
「青葉、起きたのか」
 その時、視界の隅で影が揺れた。この声は滝だ。ゆっくり視線を右へ転じると、微苦笑を浮かべた滝と目が合う。立ったまま毛布を腕に抱えていた滝は、そのままゆっくり近づいてきた。
「どこも痛まないか?」
「それは大丈夫。滝にいは起きてたんだ。今、何時くらい?」
「お前だって通信機持ってるだろ。夕方の四時だ」
 苦笑混じりにそう指摘され、青葉は目を丸くした。確かに、腕時計型通信機には一応時計機能もついている。最近は何の役にも立っていないからと、懐に仕舞い込んだまますっかり忘れていた。なくすと大変なことになるので、いつも持ち歩いてはいるが。
「あー、そうだった」
 懐を探ろうとしたところで、ふと青葉は違和感を覚えた。リシヤの森までストロングたちを迎えに行き、後処理を行い、宮殿に戻った時には日が暮れていたはずだが。それなのに夕方というのは――。
「……あれ?」
「半日以上寝ていたぞ」
 疑問が顔に出ていたのだろう。滝はそう指摘して右の口角を上げた。「嘘だ」とも言い切れず青葉は閉口する。この首筋の突っ張った感覚は、長時間変な体勢で眠っていた時のそれだ。青葉は自分の足下に転がっている毛布を見下ろした。一体いつ眠ったのか思い出そうとするが、この部屋に戻って来てからの記憶が曖昧だ。
「覚えてないのか? 怪我を見てもらってるうちに眠ってたそうだぞ。傷のせいじゃないか? 怪我人はみんなそんな感じだ」
 眉間に皺を寄せていると、滝がまたもや心中を見透かすように付言してきた。それだけわかりやすい表情をしていたのか。いや、気でだだ漏れだったのだろう。まだ覚醒しきっていない頭でそんなことを考えながら、青葉は耳の裏を掻く。
「そっか……」
 滝の言葉を脳裏で繰り返しているうちに、朧気に思い出してきた。そうだ、一息吐いたところでジュリが怪我を見てくれるというから任せたのだった。その間に寝てしまったのだろう。辺りを見回すと、ジュリを含め女性たちはもういなくなっている。
「どんな技にやられたんだ?」
 ぼんやり考え込んでいると、滝が隣に座り込んだ。傷のことを聞かれたのだとわかり、青葉は宙を睨み付ける。
「ああ、何か黒い奴で」
「何系かもわからないのか」
「知らない技っすね」
 だからどんな効果があるのかもわからない。思ったよりも後に響く技なのか? そうだとしたら厄介だった。と、そこまで考えたところで、青葉は重大な事実を思い出した。この部屋に戻る前、リシヤの森で、彼らはレンカをカルマラに託している。
「そうだ滝にい。レンカ先輩は?」
 名前を口にすると、滝の気があからさまに曇った。ここまで明瞭な変化は珍しいことだ。それだけで、まだレンカの状態が把握できていないのだと察せられる。まずいことを聞いたなと青葉は胸中で舌打ちした。冷静ではない滝を相手にするのは苦手だ。
「まだ何も聞いていない。全く音沙汰がないから、先ほど梅花が確かめにいってくるって言って出かけていった」
「……え? 梅花が?」
 重々しい滝の嘆息に、青葉は間の抜けた声で応えた。また梅花は動き回っていたのか。女性はみんな隣の部屋にいるものとばかり思い込んでいたが、宮殿で彼女がおとなしくしているはずもなかったか。
「ああ。宮殿の中を自由自在に歩けるのは梅花くらいだろ。ローラインもここには詳しいらしいんだが、あの通りの様子で眠っているしな」
 左手へ視線をやった滝は、小さく肩をすくめる。言わんとしていることはわかる。この迷路のような建物の中で迷子にならずにすむのは、宮殿の人間だけだった。その一人、ジナル出身であるローラインは、魔獣弾の攻撃に巻き込まれていた。滝の視線の先では、壁際の床に寝転がって毛布を被っている青年がいる。鈍く輝く金髪が茶色い布からはみ出しているので、かろうじてローラインだとわかった。
 ローラインがあの調子なので、動けるのは梅花しかいない。それは理解しているのだが、無茶をする普段の癖を知っているだけに、気持ちは落ち着かなかった。
「まあ、そんなに心配するな。昨夜はちゃんと休んでたみたいだし、今日も昼まではリンがしっかり見張っていたそうだぞ」
 こちらの心配事など全てお見通しと言わんばかりに、滝はそう続ける。青葉は眉間に皺を寄せた。リンがお節介焼きだというのは、いつだったかシンから聞いた。特にあの謎の亜空間で一緒になってからは、梅花の様子をよく気に掛けているようだった。それは大変ありがたいことなのだが、何故か複雑な心地になる。
「……ところで、怪我人が寝てるのはわかるんだけど、どうして他の人も寝てるんすか?」
 状況がおおよそ掴めたところで、青葉は先ほどから疑問に思っていたことを口にした。まだ夕方ということは、普通に眠る時間ではない。それなのにほとんどの者が寝ているように見える。青葉たちが話をしていても身じろぎもしていない。
「ん? ああ、昨日は皆ろくに寝てないからな。宮殿の人間が事情聴取に来たり。後は、まあ、状況をうかがうために外に出て戻ってこられなくなったり。食事をもらうための手続きで奔走して……なかなか戻ってこられなかったり」
 説明する滝の声に苦いものが滲んでいった。記憶が呼び覚まされたのか。この宮殿が「手続き」にうるさいことは、青葉もよく実感している。神技隊に選ばれて派遣されるまでの短期間、ここに出入りしていた頃にも、思い出したくない体験の積み重ねばかりだった。特に夜になると放置されやすい。お腹をすかせたまま宮殿の中を彷徨い歩く仲間たちの姿を想像するだけで、気が遠くなりそうだ。
 ――そこまで考えたところで、青葉自身も空腹であることを自覚してしまった。神魔世界に戻ってきたから、何も口にしていない。
「事情はよくわかりました。わかったら腹が減った……」
「だろうと思った。今、ちょうどシンが食料を調達しに行ってる。そろそろ何人か起きそうな気配があったからな」
「え? あ、本当だ。シンにいがいない」
 そこまで先回りされているとは、もう言葉がない。辺りを見回した青葉は、シンの姿が見当たらないことを確認した。少なくとも青葉が気を探れる範囲内に、シンの気配はなかった。滝の言う通りなのだろう。
「シンにい、ちゃんと帰って来られるんすか?」
「一応、予備の食堂とここを往復することだけはできるようになってる。だから大丈夫のはずだ」
「はあ。宮殿には予備の食堂なんてのもあるんですねぇ」
 つくづく妙な場所だ。この人気のない第五北棟が有事の際の場所なのだと仮定すると、万が一の事態に備えてなのだろうか。しかしそこまで――少なくともこの宮殿は――切羽詰まっていない状況でも、使用できるとは不思議だ。
「まさか、食事を出してもらえるように交渉したのは梅花ですか?」
「……梅花以外の誰がそんなことできると思ってるんだ。正確に言うと、食料をくれるように交渉、だけどな」
「は?」
 まさか、と青葉は口の中で呟く。それはつまり食材はやるから後は勝手に調理しろと、そういうことなのか。耳を疑ったが、しかしこの宮殿の人間がわざわざ「外」の者である神技隊のために大人数の食事まで用意してくれるとは考えにくい。まだ人数がそこまで多くなかった時は、携帯食のような物を提供してくれていたが。
「え、じゃあシンにいは今何か作ってるってこと?」
「そういうことになる」
 青葉は頭を抱えたくなった。わけのわからない戦闘後、慣れない場所で、食事の支度までしなければならないこの状況。皆が疲労困憊なのも道理だった。青葉も好きで寝入っていたわけではないが、少しばかり申し訳なく思う。その間に他の者はあれこれ奮闘していたわけだ。
「まあ、いつ何を言われるかわからないしな。青葉も腹満たしたらまた休んでおけ」
 そう言って滝は再び立ち上がった。予想外の言葉に、青葉はつい首を捻る。長年シンと青葉に対してだけは辛辣なのに、今日は気遣わねばと思うほど疲労して見えていたのか。この部屋には鏡一つ置いてないため、確認することは叶わない。
「梅花が戻ってきたら、何か動きがあるかもしれないんだ――」
 滝の言葉は、控えめに戸を叩く音で遮られた。眠っている者を起こさないようにという、気遣いの滲むノックだ。青葉はそちらへ視線を向けつつ気を探る。この慣れた気配はシンのものだ。
「シンか」
 滝が破顔するのが、視界の隅に映る。ゆっくり開いた扉から、すぐさまシンは顔を出した。左手には大きな籠を抱えていた。その中に食事が入っているのだろう。慎重に室内を見回すシンと目が合う。
「起きたのは青葉だけだ」
 シンや青葉が口を開くより早く、滝が端的に状況を説明した。シンはどこか安堵したように、一方でそこはかとなく不満そうに笑って、部屋の中に入ってくる。白い扉がゆっくり閉まると、その音が妙によく響いた。
「そうみたいですね。まあ青葉なら余らないかも」
「シンにい何作ってきたの? オレもう限界で――」
「ああ、わかった、わかってるから立たなくていい。顔が蒼いぞ」
 そう指摘されて青葉は唇を引き結んだ。シンにそう言わしめるくらいだからよほどひどいのだろう。尋常ならざる体力、回復力が取り柄であると、一体何度言われたことか。その点は自信があったのにと少なからず衝撃を受ける。青葉がそのまま絶句していると、シンは籠を両腕で抱えて近づいてきた。
「青葉のことだから、寝たら回復すると思ってたんだけどなぁ」
「うーん、腹減ってるせいじゃないっすかね?」
「だといいんだがな。食べられそうか?」
 すぐ目の前に座り込んだシンは、籠をずいと差し出してくる。被せてあった生成り色の布を捲ると、細長いパンと大きな水筒が詰め込んであった。パンには馴染みのない野菜と炙った肉が挟んであるようだ。その上に赤みがかったソースが掛けられている。ふわりと鼻孔をくすぐる香ばしい香りに胃が刺激された。青葉は喉を鳴らす。
「うまそう。食べられそう」
 答えるそばから手を伸ばそうとすると、ぴしゃりと甲を叩かれた。眉根を寄せて顔を上げれば、シンはぽんと手ふきを投げ渡してくる。用意がいい。
「いいからさっさと元気になってくれよ」
「わかってるって」
 手に取ったパンは、見た目よりも硬かった。ソースがこぼれないよう気をつけながら、青葉はゆっくり口元へ運ぶ。野菜は新鮮とは言いがたいし肉はかなり歯ごたえがあるが、酸味と辛みの効いたソースが絶妙だ。気づいたら手にした一個があっと言う間になくなっていた。まだ全然足りない。
「相変わらずの食欲だな……」
 シンの苦笑いに文句を付ける時間も惜しくて、また籠の中に手を伸ばす。ほぼ丸一日何も食べていないのだから当たり前だろう。二つ目にかじりついていると、水筒を取り出したシンはコップに水を注ぎ始めた。いや、この香りは何かのお茶か。
「ここの食堂、ろくなのがなくてな。昼食の時に良さそうなのを使い切ったから、こんなのしか残ってなくて。夜には何か補給されてると思うんだがなぁ」
 シンとしては料理の出来映えに不満があるらしい。とぽとぽという音を聞きながら、青葉は目で相槌を打った。もっとましな物を口にしたいという気持ちはわかるが、今は腹が満たされれば十分だ。待遇に関しては、上に期待すると虚しくなるばかりだ。
 青葉が二個目のパンを平らげたところで、小さなコップを手渡された。黒くて軽いそれを受け取り、青葉は一気に飲み干す。わずかな酸味の後に苦みが広がる、覚えのないお茶だった。この宮殿で栽培されているとも思えないので、どこかの特産品だろう。
「シンこそ休まなくて大丈夫か?」
 胡座をかいて一息吐いたシンへ、遠くから滝がそう声を掛ける。シンは自分の分のお茶を注ぎ終えると、肩越しに振り返った。滝は何故かあちこちに散らばっている毛布を回収している様子だ。もしかすると、動いていないと落ち着かないのかもしれない。
「オレは平気です。夜はちゃんと寝ましたし。滝さんこそちゃんと休んでないでしょう?」
「この状況でオレが休めると思うか?」
 そう答えられて、シンは返答に窮したようだった。うーんと唸りながら困ったように笑っている。青葉の知る滝なら、まず休まない。しかもレンカが上に連れていかれたまま戻ってこないのだから、ますます休めるわけがなかった。しかし、だからといって動き続けるのも体に毒なはずだ。
「それは、そうですけど……」
 シンがそう言葉を濁した時だった。再び戸をノックする音が響き、青葉は慌ててコップを籠に戻す。誰がやってきたのか、気を探る必要もなかった。
「梅花!」
 この気配は間違いようがない。脳裏にその名が浮かぶと同時に、声となって飛び出してきた。扉を開いて恐る恐る中を覗き込んできたのは、やはり梅花だ。目が合った彼女は一瞬だけ瞠目する。ついで安堵したような呆れたような、何とも捉えがたいため息を吐いた。
「青葉、起きたのね」
 後ろ手に戸を閉めた梅花は、足音を殺して近づいてきた。見たところ顔色が悪いわけでもないし、足取りもしっかりしている。リンの監視下で休んだというのは本当のようだった。
「もう平気なの?」
「ん? ああ、たぶん」
 青葉はやや気まずい思いで片手を振った。どうやら彼の方が気遣われるべき立場にあるらしい。シンの後ろで立ち止まった梅花は、床に置かれた籠を見下ろした。軽く束ねられた髪が揺れるその後ろから、滝が小走りに近寄ってくる姿が目に入る。
「梅花、何かわかったか?」
 やや焦りの滲んだ声が空気を揺らす。滝へと視線を転じた梅花は、何か言いたげに口を開いた後、大きく嘆息した。彼女が発言を躊躇うのは、何かよくない知らせがある証拠だった。それも、とびきりの。眉根を寄せた青葉は水筒を手に取る。緊張感の増す中、お茶を注ぐ音が場違いに染みた。
「順に話しますが。レンカ先輩についての情報は得られませんでした」
「――そうか」
「それに、どうも面倒なことが起ころうとしているみたいです」
 気にするなと首を横に振った滝へ、ついで梅花は不穏な言葉を投げかける。籠に布を掛け直していたシンが「え?」と声を漏らした。
 青葉は再びお茶を飲み干した。予想通りだ。既に現時点でも十分に面倒な事態だと思うが、それ以上の何かが生じるのだとしたら口にもしたくなくなる。青葉もできれば聞きたくはないが、しかし耳を塞ぐわけにもいかなかった。
「色々探ろうと歩き回っていたら、釘を刺されまして。神技隊は明日の夜まで、この宮殿を決して出ないようにと言われました」
 続く梅花の言葉は、瞬時には頭に入らなかった。「は?」と思わず素っ頓狂な声を上げてから、青葉はもう一度脳裏で繰り返す。
 それは妙だ。宮殿を出るなという命令だけならば「上にありがち」で片付けてもよいが、期限付きというのに違和感があった。上からの待機命令は大概ぼんやりしている。いつまでかはっきりとせず、ずいぶんと苛々させられた。それが突然「明日の夜まで」とはどういうことなのか。
「それって、何か変じゃないか?」
「そう、変なの。だから心配なのよ。明日の夜まで、しかも決してと念を押してくるなんてただ事じゃあないわ。今までの待機とは、たぶん意味が違う」
 青葉が疑問の声を上げると、梅花は相槌を打った。彼女が引っかかっている点もそこらしい。いつもの上らしくないことに彼女は敏感だ。だから面倒ごとが起こるのではと懸念しているのだろう。
「なるほど」
 腕組みした滝が唸った。ますます雲行きが怪しくなってきた。青葉はコップを適当に床に置くと、首の後ろを掻く。これ以上の厄介ごとは遠慮して欲しいのだが。
「私にそう言ってきたのは、見知らぬ上の人だったんです。普段は『下』に降りてこないような方です。これも変です」
 滝へと一瞥をくれ、梅花はさらにそう付け加える。不穏の兆しとしては十分すぎる材料が集まっていた。目を伏せた彼女が何をどこまで考えているのかは知れないが、楽しい話ではあるまい。
「上は、明日の夜までに、何かをするつもりです」
 断言する梅花の声には、静かな憂いが含まれていた。青葉は固唾を呑む。神技隊を待機させたまま一体どこで何をやるのか? 全く予測はつかないが、それが平和的な計画であるとは思えなかった。
「それが何かまではわかりませんが。上もかなりごたついているみたいなので、危ないですね」
 天井の向こう側でも見透かすように、梅花は視線を上げる。まるで本当にそこに「上」があるかのようだ。緩く束ねられた髪が彼女の背で踊る。
「取り越し苦労で終わればいいんですけど」
 囁く声は祈りのように響く。それを軽く笑い飛ばすこともできず、青葉は膝の上で拳を握った。

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