white minds 第一部 ―邂逅到達―

第四章「すれ違う指先」7

 今すぐ空へ上がるべきか否か。アサキたちとはぐれ一人きりになった青葉は、しばらく思案していた。そうしているうちに、どこかで技が使われた気配を察知した。誰かが技を放とうとする時に感じる、独特の気の膨れあがり。それが波のように伝わってくる。
 しかしその源がどこにあるのか、はっきりしなかった。丹念に気を探ってみても、前方にあったかと思えば今度は右手から感じられる。目を閉じてしまうと方向感覚さえ怪しくなるような、奇妙な状態が生じていた。
「空間が歪んでるせいか」
 そうとしか考えられず、青葉は唸った。技の気配があることはどこかで戦闘が生じているという由々しき事態の証拠なのだが、駆けつけることもできそうにない。そもそもどちらへ走っていけば正解なのか。闇雲に駆け出すのは危険だろうし。
「やっぱり空からか」
 上空を見上げていても、誰かが飛んでいる様子はうかがえない。この異変に気がついているのは青葉だけなのか? 首を捻った彼は、「いや、そんなわけがない」と眉根を寄せる。梅花が気づかないはずがない。彼女がその戦闘に巻き込まれていれば話は変わってくるが。――そう考えたところで背筋が粟立った。可能性は皆無ではない。すぐにでも一度空へ上り確認した方がいいだろう。
 青ざめた彼がそう決断した時だった。後方に、それまで存在していなかった気が、突如として現れた。はっとして振り返った彼の視界で、青々とした茂みが揺れる。気の正体に思考が及ぶのと、姿を確認するのはほぼ同時だった。
「これはまた、ひどく歪んでいるな」
 笑顔でぼやきながら姿を見せたのはレーナだ。以前見た時と全く同じ恰好で、髪に絡みつく葉を払うように頭を振っている。声を失った青葉は、口を開いては閉じ、開くといった動作を繰り返した。どうしてこんなところに彼女がいるのか? 疑問は脳裏を渦巻くばかりだ。梅花の話によれば、確か今朝は無世界に現れていたはずだが。
「困ったものだな」
 レーナは小さな葉を指先で摘み、そのまま微笑みかけてくる。青葉は片眉を跳ね上げた。継ぐべき言葉を探すが、適当なものが見当たらない。単に邪魔をしに来ただけではないだろう。彼女の気から敵意は感じ取れなかった。息が詰まりそうになるほどの鮮烈な強さではないのは、きっとある程度抑えているからだ。梅花もよくそうして一般人を装っていたので、レーナが同じ事をやっていても不思議はない。
 彼が閉口していると、彼女の手のひらから葉がひらりとこぼれ落ちた。緩やかに渦を巻くような軌跡を描きながら、それは足下へ落ちていく。白いブーツの向こうへ消えていくのを、彼は何とはなしに見送った。
 無世界にも神魔世界にも現れるということは、彼女たちは勝手にゲートを利用しているのか? しかしそのような気配があれば、梅花は気づくだろう。考えてみると、レーナたちは亜空間にも現れていた。やはり自分たちの常識が通用する相手ではなさそうだ。嘆息するのを堪えた彼が顔を上げると、レーナはくすりと笑い声を漏らした。
「これでは慎重にならざるを得ないな」
「それで、何でオレのところに来るんだよ」
 青葉がようやく絞り出したのは、そんな一言だった。レーナであれば誰がどこにいるのか把握しているのではないか。そんな思いからの言葉だ。梅花のところに行くのなら、話はわかるのだが。
「ん? 何でって、もちろんお前が一人だったから」
 笑顔を絶やさぬまま、小首を傾げたレーナはそう答える。普段ほとんど微笑むことのない梅花と対照的な表情なのだが、不思議と仕草は似ている。首を傾けた際のちょっとした角度や、視線の向け方、腕の組み方まで同じなんてことがあるのだろうか? 黒い双眸の奥にある自信の強さは如実に異なっているというのに、それでも妙な癖が似ている。
「オレが一人だったからって……やっぱりお前は皆の居場所がわかるのか」
 そしてこの気の察知力。これだけ空間が歪んでいるというのに、誰がどこにいるかまで把握している。こんな人間が存在しているという事実が信じがたかった。いや、人間ではないのかもしれない。先ほど梅花から聞いた上の話が、ふと彼の脳裏をよぎった。
「そりゃあわかるさ。オリジナルは……アースと一緒だな」
 一瞬だけ宙を睨み付け、レーナはそう口にした。アースという名に青葉は反応する。あの無愛想で失礼な男だ。こちらを見下げてくる眼差しは思い出すだけで腹が立つ。
「アースがいるなら大丈夫だな」
「一体、どこが大丈夫なんだよっ」
 苛立ちは声にも表れた。つい声量も大きくなる。しかしレーナは喫驚した様子もなく、むしろ楽しげに含み笑いをした。彼女はトンと、自分の胸を軽く叩く。肩から滑り落ちてきた髪の一房が揺れた。
「それは自分の胸に問いかけてみるといい。ま、オリジナルが大丈夫だってことはわれが保証しよう」
 青葉の心境も全てわかっていると言いたげな、余裕の声音。しかし、レーナの言葉のどこに信用たる要素があるというのか。正体もわからぬ者の保証が役に立つと本気で思っているのか? 眉間に皺を寄せた彼は首の後ろを掻いた。彼女の思考は全く読めない。
「それで本気でオレが安心するとでも思ってるのかよ……。大体、さっきからオリジナルオリジナルって。あいつには梅花ってちゃんとした名前があるんだ」
 どうしてこんなに心がざわついているのか、青葉自身にもよくわからなかった。ついつい声にも力が入る。するとレーナはきょとんと目を丸くした後、花が咲くように顔を綻ばせた。むっとする様子もなく、言い返す素振りもなく、心底嬉しそうに破顔する。呆気にとられたのは彼の方だ。一瞬だけ跳ねた鼓動を落ち着けるように、半ば無意識に胸に手を当てる。
「な、何だよ。何か言いたいことがあるなら――」
「愛されてるなぁ」
 レーナはしみじみとそう口にした。馬鹿にしているわけではなさそうだった。彼女の気からは喜びと安堵と慈しみが滲み出ていて、その言葉や表情に嘘偽りがないことを伝えてくる。唖然とした青葉が言葉を詰まらせていると、彼女は深々と相槌を打った。
「これだけ愛されてるってことに、早く気づいてくれるといいんだが」
「な、な、お前はいきなり何を言ってんだよ!」
 慌てたせいで声がうわずった。恍惚とした微笑を見ているとますます胸中は穏やかでなくなる。レーナが梅花のことを案じていたというのは、やはり事実らしい。いや、今ここで青葉が気にするべきはそんな問題ではない。
 レーナが一体何について話しているのか。予測はつくが信じたくないという思いで、気持ちは混乱していた。じっと睨み付けてもレーナは笑顔を崩すことなく、幸せいっぱいといった気を溢れさせている。あまりに純度の高い感情に、目眩すら覚えそうだった。
「勝手に一人で――」
「何の話をしているのか、指摘してもいいのか?」
 あどけない子どもを思わせる角度で、レーナは首を傾げる。額に巻かれた布の端が、一本に結わえられた髪が軽快に揺れた。楽しげな瞳の輝きを、青葉は恨めしげな気持ちでねめつける。これは自分が可愛いことを知っている者の顔だ。それでいて、実のところは、どれだけ打撃を与えているかわかっていない双眸だ。こちらの気も知らないでと吐き捨てたいのを、彼はぐっと堪えた。
「……お前、全部わかってて言ってるな」
「わかってるかどうかは確かめなければ不明のはずだが。まあ、お前の反応を見ていたら間違っていないことは明白かな。そうだろう、青葉」
 名をはっきりゆっくり口にするのは、明らかに嫌がらせとしか思えない。歯噛みした青葉は、話題の方向を変えるべく、できる限り声を低くして問いかけた。
「――お前は梅花を守りたいのか?」
「レーナ。名前、覚えていないわけではないだろう?」
 頭の角度を元に戻して、レーナはそう返してきた。どこまでも意地の悪い奴だと青葉は閉口する。あくまで話の主導権は渡さないとでも言うつもりか。仕方なく彼は言い直した。
「……レーナは、梅花を守るつもりなのか?」
 あらゆる意味で、という言葉を青葉は飲み込んだ。亜空間での出来事を思えば、身体的にという意味ではまず間違いないだろう。だが今までの発言を顧みるに、命があればいいという風には思ってないはずだ。
「もちろん。まあ、それだけではないがな」
 レーナは躊躇せずに頷いた。嬉しげな眼差しに宿る光は、どこか挑戦的ですらあった。試されているのではないかという思いが、青葉の中で湧き上がる。先ほどの発言もやりとりも、まさか全て? 彼は腹に力を込めて拳を握った。
「じゃあ何でオレたちの邪魔をするんだよ」
「邪魔? さて、何のことだかな」
「とぼけるなよ。お前の、レーナのやってることは矛盾に満ちてるだろ。何が目的なんだ?」
「単純に問いかけて教えてもらえると思っているとしたら、甘いなあ」
 青葉がどれだけ凄みをきかせてみても、レーナの余裕の態度は変わらない。それも仕方のないことだろう。実力は確実に彼女の方が上だ。
「少しは考えてくれ」
「梅花と違って偉そうだな」
「そう振る舞っているからな」
 レーナは悪戯っぽく笑った。彼女を怒らせることも、苛立たせることも不可能のようだ。感情的にさせて情報を得るという手段は通用しそうにない。解いた拳の汗を服に擦りつけ、青葉は軽く舌打ちをする。ならばこんなところで問答していても無駄だった。早く仲間たちの下へ向かわなければ。
「ほら、こんなところで余計な時間を使ってもいいのか? 梅花はこの先にいるぞ」
 するとそんな胸中を見透かすように、レーナは右手を指さした。眼を見開いた青葉は、その方向と彼女の顔を見比べる。嘘を吐いている時の気ではなさそうだが、その言葉を信じていいものか。
「――お前は行かないのか?」
「われは行かない方がいいだろう。神がいる。話がややこしくなる」
 大袈裟に肩をすくめたレーナは、ついで辺りを見回した。何かを確認するかのような仕草だった。こうして思案する横顔だけ見ていると、本当に梅花と同じだ。
「これだけ歪みがひどいと、修復は必須だな。神も早くそう判断して動いてくれるといいんだが。まあ、人員の問題もあるか」
 青葉に話しかけるというよりは、まるで独り言だった。しかし先ほどから立て続けに耳にするその「神」というのは何なのか? だが素直に聞いても先ほどと同様に一蹴されるだけだろう。尋ねたくなるのを堪えていると、レーナは再び視線を寄越してきた。
「ほら、だから早く行け。梅花のところまでは、そちらを真っ直ぐだ。合流したらさっさとこの森を脱出しろ。いいな」
 顔をしかめた青葉は、頷くことなくレーナに背を向けた。言い聞かせられたようで癪だが、ここで言い争いをしても何の利点もない。彼女の言葉が嘘であったら、その時はその時だ。青葉の力だけでは、梅花の居場所は探れないのだし。
 礼も告げることなく、彼は走り出した。レーナの指さした方向へと真っ直ぐ駆けていく。そのまま大きな茂みを抜けても、道らしきものはなかった。下生えを掻き分けて進むために速度が上がらない。木の枝をかいくぐり、ぬかるみに足を取られないよう気をつけながら、それでも彼はできる限り急いだ。
 かすかに梅花の気が感じ取れたのは、レーナの言葉を疑い始めた頃だった。梅花の側には、もう三つほど気がある。そのうち一つはアースのもので、もう一つはようのものだった。最後の一つは全く見知らぬ気だ。それがレーナの言う「神」なのか?
「梅花!」
 走りながら青葉は声を張り上げた。この距離では届くかどうかというところだが、梅花ならば気づいてくれるかもしれない。彼は草を踏みつけ、落ちて朽ちている枝を飛び越えた。すると木々の合間から、少し開けた場所が見えてくる。
「青葉?」
 奥に泉があった。その前に、梅花は立っていた。振り返った彼女の双眸は、どうやら青葉の姿を捉えたようだ。その瞳に浮かんだのが歓喜の色であったことに、彼の鼓動は跳ねる。だが視界の端に映ったアースの表情のせいで、一気に気持ちは負の方向へ傾いた。長剣を携えたアースは、右の口角だけをつり上げている。
「よかったね梅花。青葉も来てくれたよ!」
「今さらな話だがな」
 よく見ると、梅花の後ろにはようが座り込んでいた。ぴょこりと立ち上がったようは笑顔で両手を振り上げる。二人とも怪我はない様子だ。しかし左手から突き刺さってきたアースの声には、苛立ちが増す一方だった。早足程度まで速度を落とした青葉は、アースを睥睨する。
「……何が言いたい」
「何も。お前と話すことはない」
 アースは鼻を鳴らした。小馬鹿にしているのは明らかであり、青葉は眉間に皺を寄せる。だが彼がアースへ向き直るより早く、慌てた顔をしたようが駆け寄ってきた。ぽよんぽよんとした気の抜けた走りを見ていると、不思議と毒気が抜かれていく。
「アースは僕らを助けてくれたんだよ! だからそんなに怒らないでっ。それより青葉、よくここがわかったね?」
 立ち止まった青葉の隣にやってきたようは、そう言いながら辺りを見回した。つられて青葉も視線を巡らせる。梅花から数歩離れたところに立つアースは、こちらに半ば背を向けた状態だ。そしてそこからさらに離れたところに、見知らぬ女性がたたずんでいた。何故だか気まずげにそっぽを向いているが、ずいぶんと涼しげな恰好をした短髪の女だ。見知らぬ気の正体は彼女だろう。
「ああ。梅花たちがここにいるって、レーナが言ったんだ」
 わずかな逡巡の後、青葉はそう答えた。と同時に、弾かれたように振り返ったアースと目が合った。「会ったのか」という問いかけを宿した眼差しには、疑念と苛立ちと少々の不安が見え隠れしている。詳細を話すつもりもない青葉が視線を逸らすと、忌々しげな舌打ちが空気を揺らした。
「まったく、あいつは」
 そう吐き捨ててから、アースは地を蹴った。「あっ」というようの声が、気まずげに響く。アースはそれ以上は何も言わずに、青葉たちのすぐ横を擦り抜けていった。その背中を尻目に青葉は嘆息する。腹立たしいのに何だか同情したくなるのは容姿のせいなのか、はたまた心境が推測できる故か。
「……行っちゃったね」
 呟いたようは青葉の顔をうかがってきた。全てがどうでもよくなりつつある青葉は、頷きながら梅花たちの方へ視線を向ける。梅花は去っていったアースと、立ち尽くしている女性を交互に見ていた。まだ何か気がかりなことでもあるのか。
「アースはいなくなりましたけど。カルマラさん、どうしますか?」
 梅花はおずおずといった調子で口を開いた。話しかけた相手は例の女性だ。カルマラと言えば、梅花が口にしていた上の者の名と同じだった。しかめ面をしていた女性――カルマラは、唇を尖らせながら首を捻る。
「どうしよう。本当にどうしようね? まさかこんなに変な空間になってるとは思わなかったわ」
「報告に戻った方がいいんじゃないですか? 調査しているうちに迷子にでもなっちゃいますよ、ここは」
「うーん、報告はもちろん必要なんだけど。どこがどう歪んでるかって説明できなきゃ私が来た意味がないじゃない? でもさすがに複雑過ぎるのよねー」
「じゃあその通りに報告すればいいじゃないですか。カルマラさんでも把握できない程の歪みだって」
 困り顔のカルマラに、梅花は次々と助言していく。会話の調子からすると、どうもそれなりに交流のある相手らしい。カルマラの方が年上のように見受けられるが、口にしている内容は子どもっぽい。剥き出しになっているすらりとした手で頭を抱え、カルマラは呻いた。
「それじゃあまた怒られるぅ。ラウに怒鳴られるしアルティード様に呆れられちゃう」
「……わかりました。じゃあ計測器一式を持ってきますから、カルマラさんはここで待機していてください。正直、あんな物がどの程度役に立つかわかりませんけどね」
 いやいやと体を揺らすカルマラを見て、梅花は諦めたように首を振った。仕方がないと言わんばかりだ。カルマラの顔がぱっと輝いたのは、青葉の目にも明らかだった。なんとわかりやすい。上の者というとラウジングのような無愛想な人間という印象だったのだが、あっさり覆されてしまった。梅花が以前ラウジングを「至って普通」と評していた意味が、何となくわかる気がする。
「ありがとー! さっすが梅花、話わかるわぁ」
「その代わり、ここで、おとなしく、余計なことをしないで、待っていてくださいね。……青葉とよう、カルマラさんを見張っててくれる?」
 一言一言念を押した梅花は、微苦笑を浮かべて青葉たちの方を振り返った。待っているだけならば何が問題なのかわからないが、ようは訳知り顔で頷いている。青葉が辿り着く前に何かあったらしい。
「見張ってるだなんて、ひどーい。その扱いはさすがに失礼じゃない?」
「そんなこと言っていいんですか? 先ほどの件を詳細にラウジングさんに報告しちゃいますよ?」
「え、それは駄目! わかった、暇だけどおとなしく待ってるから計測器持ってきてください。お願いしますっ」
 ピッと背筋を伸ばしたカルマラは真顔になった。気が抜けるやりとりだ。梅花は大きく息を吐き、とぼとぼと歩き出す。疲れた顔で近づいてきた彼女に、青葉は小走りで寄った。
「おいおい梅花、本当にいいのか?」
「たぶんここではレーナたちは襲って来ないわ。だから待機していて。空から気を探るから、青葉たちが固まっていてくれた方がわかりやすいの。……カルマラさんの相手は大変だろうけど、お願いね。すぐに戻ってくるから」
 小声でそう告げた梅花は、かろうじて微笑みとわかる程度に頬を緩めた。あくまでも案じているのはリシヤの森や青葉たちのことらしい。彼としては彼女自身の方が心配なのだが。
「梅花、無理するなよ」
「後でややこしいことになると、その方が疲れるもの。じゃあお願いね」
 伸ばした青葉の手は、小さな手のひらに押し戻された。梅花はもう一度カルマラの様子を確認してから、全身に風を纏わせる。ふわりと浮き上がった彼女の体が空へ消えていくのを、彼は黙って見送った。こういう時は止めても無駄だとわかっている。彼は首を鳴らしながらカルマラの方を横目で見遣った。
「よろしくー」
 舌を出して笑ったカルマラに、返す言葉は見つからなかった。上というのが一体何なのか、ますます理解できなくなった。

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