white minds 第一部 ―邂逅到達―

第四章「すれ違う指先」6

「困りまぁーしたねぇ」
 鳥の鳴き声一つしない森の中で、アサキは途方に暮れていた。つむじに冷たい滴が降ってきたと思ったら、気づいたら一人きりになっていた。空へ目を向けていたのは一瞬だったはずなのに、つい先ほどまでそこにいた青葉の姿も見当たらない。
「どうしまぁーしょう」
 傍には誰もいないのだから、この口調を無理やり続ける必要もないのだが、どうやら癖になってしまっているらしい。アサキは肩をすくめると、もう一度空を見上げた。結んだ髪の先が首をくすぐる。
「いきなり飛び上がるのは、ちょっと急ぎすぎでぇーすかねぇー」
 困ったら空へ逃げるというのが約束だったはずだ。しかし仲間たちの姿はまだ上空には認められない。何者かと遭遇するまでは調査を続けるつもりなのだろうか? アサキは眉根を寄せた。こういう時、欲張ろうとすると大概よくない出来事が起きると決まっているのだ。理屈ではないがそうであると、彼は信じていた。
 目を瞑ると、風の音が強く聞こえる。葉のさざめきの合間からは、誰かの足音も感じ取れない。気を探ってみても同様だ。歪みのせいなのかもしれないが、近くに見知った気はなかった。目を開けた彼は口の端を上げる。
「独りぼっちは久しぶりでぇーすねぇー」
 神技隊に選ばれてからは、おそらく独りになったことはない。窮屈ではあるが、孤独を感じずにすむのはある意味気が楽だった。誰かの言動に注意を払っていれば、余計なことを考えずにすむ。別れたばかりだった恋人のことも、個性的な伯父のことも、思い出さなくてよい。懐かしい家の香りと、胸を抉る静けさを、思い起こすこともない。
「本当に、久しぶりでぇーす」
 呟く声が徐々に萎んでいった。だから一人きりというのは嫌いなのだ。見えないものまで突きつけられるのは困る。今さらどうにもならないことを、思い出したって仕方がないのに。
 うなだれた彼が嘆息した、次の瞬間だった。前方で葉や枝が揺れる音を、耳が拾った。はっとした彼は顔を上げる。余計な思考のせいで警戒が疎かになっていた。慌てて精神を集中させると、それまで存在していなかった気が確かに感じ取れた。この気には覚えがある。――それを「覚え」という程度で済ませていいのかわからないが。
「あー、いたいた」
 茂みの向こうから響いてきた声は、聞き慣れたものだった。耳馴染んだものと若干高さが違うが、それはおそらく聞いている場所の問題だろう。アサキは瞬きをしながら息を呑む。左奥から葉を掻き分けるようにして進み出てきたのは、自分と同じ顔の人間だった。
「しかし、よりによってお前かよ」
 カイキだ。そっくりそのまま同じ言葉を、アサキも返してやりたくなった。こんなところで遭遇したのが自分と同じ容姿の人間だなんて運が悪い。できることなら今一番見たくない姿だった。肩に髪の先がつくかどうかという程度の長さは、過去の自分を思い出させる。
「まったく、不運だな」
「それは、アサキも同じでぇーす」
 つい声にも嫌悪が滲み出てしまった。しかしそれはお互い様だから、別段気にすることでもないだろう。あからさまに苦い顔をしているカイキを見ていると、そう思える。これだけわかりやすい反応をされたら、わざわざ友好的な態度をとってやる必要もあるまい。
「なんだよ、偉そうだな。大体、お前たちがいきなりはぐれたりなんかするのが悪いんだろう」
「そんなのアサキたちに言われても困りまぁーす。そもそも、見つけてくれだなんて頼んだ覚えもありませぇーん」
「うぁ、腹立つ言い草」
 自分と同じ顔だと思うと遠慮がなくなるのは何故だろう。子どものような口喧嘩になるのも不思議だ。それでも幾分かはすっきりとして、アサキはつと口角を上げた。少なくとも先ほどまでの陰鬱とした感情はどこかへ消え去っている。
「こっち側はネオンにでも任せておけばよかった」
 愚痴愚痴と続けるカイキに言い返そうとして、アサキは我に返った。ネオンというのは確かサイゾウと瓜二つの青年の名だ。やはり動いているのはカイキだけではないのか。全員リシヤの森に来ているのだとしたら、何のために?
 先ほどの発言からすると、シークレットが森に入った瞬間も把握していたようだ。それらしい気を傍に感じなかったことを考えると、前もって近くに潜んでいたのか?
「カイキたちは何のためにここに来たんでぇーすか」
 明確な答えが返ってくるとは思えないが、それでも念のためアサキは問うた。襲ってくる様子がないところをみると、戦うために来たわけではなさそうだ。大体、そうなら森の入り口に辿り着いた時点でそうしているだろう。
「何のため? 知るか。オレらはお前たちのお守りだって」
「馬鹿にしないで欲しいでぇーす!」
「おいおい、怒るなって。馬鹿になんてしてねぇよ。オレだって何のために自分がここにいるのかよくわかってねぇんだって。ただ、お前たちを一人にはしておけないんだとさ」
 大袈裟に肩をすくめたカイキは、両手を挙げて皮肉な笑みを浮かべた。お守りだなどと言われるのは心外だが、しかし戦闘にならずにすむのは幸いだった。大きく息を吐いたアサキは、もう一度カイキを観察する。
 確かに、カイキの気から敵意は感じられない。小馬鹿にしたような表情だが、彼の気に含まれているのは戸惑いと落胆だけだ。嘘を吐いている様子もない。本当に、よくわからないままここにやってきたのだろう。
「……じゃあ、誰なら知ってるんでぇーすか」
 問いかけたアサキは、その答えを自分が半ば予想していることに気づいていた。たとえ返答が得られなかったとしても、きっとそうだと思い込む。裏付けが得られたら幸いといって程度の感覚だ。するとうんざりとした表情で、カイキは鼻を鳴らした。
「わかってるくせに聞いてくるとは性格悪いよなぁ。レーナに決まってるだろ」
 これで満足だろと言わんばかりのカイキの眼差しに、アサキは黙り込むことで答えた。やはり、何かを得るためにはレーナに接触するしかなさそうだ。ただし彼女から情報を引き出すのは、相当骨が折れるに違いない。
「まったく、嫌になるな」
 カイキのぼやきに、アサキは何も言わなかった。同感だと口にするのは、この場では憚られた。



「よう! 急いでっ!」
 駆け出した梅花は、肩越しに後ろを振り返った。草を掻き分けながら走るようの足取りは、お世辞にも円滑とは言いがたい。元々彼は走るのが苦手な方だが、ここは足場が悪すぎた。下生えも邪魔だし、ぬかるんでいる土では強く足を蹴り出すこともできない。
「待ってよ梅花!」
 それでも彼女が速度を緩めることができないのは、前方に感じた気の存在故だった。二つの気配が対峙しているが、どちらも梅花には覚えがあるものだ。だからこそ一触即発の危機だと察せられる。
 こんな時にこんなところでと、つい愚痴をこぼしたくなる。しかし今はその一刻も惜しい。これだけ空間が歪んでいる場所で、何かが起こってしまうと本当に手遅れになりかねない。その直前で食い止めなければ。歯噛みした梅花の耳に、かすかに女性の声が届いた。
「あなた誰よ!」
 間違いない、この声はカルマラのものだ。気に対する記憶の確かさを噛み締めながらも、この場合は安堵していいところなのかどうか梅花は逡巡した。正直に言えば、カルマラであって欲しくなかった。
 それにしてもいつの間に追いついてきていたのだろう? 梅花は眉根を寄せた。まさか上の者が時折使っているあの技を使用したのか? 確か以前に上の者の一人――ミケルダが口にした、転移の技とやらを。
「お前に教える必要はない」
「あー、なにその態度。腹立つ! どこかで見たような気がするんだけど気のせいだったみたいね。腹立つ奴は忘れないから」
 カルマラと相対しているのは、おそらくアースだ。声は青葉と同じだが、この言い様は青葉ではない。どうしてまたこの二人が対面してしまったのかと頭を抱えたくなるが、そんなことを考えている暇はなかった。追いついてくる様子のないようを待っているのも惜しくて、梅花は軽く身に風を纏わせる。これだけ木々の多い場所で飛ぶことは危険極まりないが、跳躍を補助する程度の力であれば体勢を崩すこともあるまい。
「私の邪魔するなら遠慮しないからね」
 カルマラの声が、忽然と硬くなった。間に合わなかったかと梅花が諦めかけた時、視界が開けた。木々の数が減っていき、草原が現れる。いや、その向こうには泉があった。
「ほう、遠慮が必要だと思っていたのか」
「うるさいわねっ!」
 泉の手前で向き合っていたカルマラとアース。最初に動いたのはカルマラの方だった。掲げた手のひらの気が膨れあがるのを感じ取って、梅花は声を上げる。
「カルマラさん!」
 しかし、一歩遅かった。黄色い光が球の形へと収束し、カルマラの手を離れる。それとほぼ同時に、彼女の双眸は梅花へ向けられた。見開かれた胡桃色の瞳が梅花を映す。
「交戦禁止って聞いてますよね!?」
 張り上げた声が、開けた空間にこだました。身を捻って光弾を避けたアースの眼差しも、ちらと梅花を捉えたようだ。複雑そうな表情をしたのは、どういった意味なのか。だがそれを問う暇も惜しい梅花は、まず真っ直ぐカルマラの下を目指した。相変わらず季節感のないノースリーブにショートパンツ姿のカルマラは、不思議そうに瞳を瞬かせる。
「梅花じゃない、久しぶりー。前に見た時とちょっと変わった?」
「三年前と比べてるならそうでしょう。それよりカルマラさん、ここでは交戦禁止ですから。ラウジングさんからも聞いてますよねっ?」
 カルマラへと詰め寄った梅花は、まなじりをつり上げる。無論、意識はアースの方を警戒したままだ。すると、ぺろっと舌を出したカルマラは顔を背けながら首をすくめた。お得意の仕草に、梅花はつい目眩を覚えそうになる。
「これくらいは交戦しているうちには入らないでしょ? ああいうむかつく奴には一撃入れないと」
 語気を強め、笑みを深めたカルマラの手が空へと伸びた。その指先から生まれたのは小さな光弾。しかも複数。それらは梅花が止める間もなく、次々とアースの方へ向かっていった。
「規模の問題じゃないですって!」
 あいている方の腕に梅花はしがみついたが、時既に遅しだ。一方のアースは気怠げな表情のまま、迫ってくる光弾を軽い身のこなしで避けている。意味のない攻撃だった。ならばなおさら止めさせなければ。
 カルマラの腕を揺さぶりつつ睨み上げていると、今度は後方から名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「梅花っ」
 ようだ。肩越しに振り返った梅花は、草の間から顔を出したようを見て眼を見開く。
「よう! 後ろ!」
 弾むような足取りで近づいてくるようの背後で、黄色い光が瞬いていた。それが技による何かであると察知した梅花は、慌てて警告する。「え?」と振り返ろうとしたようは、その弾みで石にでも躓いたらしかった。体勢を崩した彼の頭上を、黄色い光弾が通り過ぎる。――それは真っ直ぐ、梅花たちの方へ向かってきた。
「ちょっと!?」
 カルマラが素っ頓狂な声を上げる。息を呑んだ梅花は、左手を突き出して咄嗟に結界を張った。小さな黄色い光弾が薄い膜に弾かれて消える。だが息を吐いている暇はなかった。今度は右手から迫り来る気を感じて、梅花は身を捻る。
「なになにこれ梅花!?」
 しかし普段とは違い、カルマラが横にいる。動きの幅がない。間一髪目の前を通り過ぎていった光球を見送り、梅花は喉を鳴らした。一体誰の仕業なのか? 梅花が避けた光の球はそのままアースに向かって進む。そして舌打ちした彼の剣によって叩き切られた。つまり、彼の攻撃ということでもないのだろう。
「ちょっと今の何!?」
 カルマラは混乱しているらしく、四方へ視線を彷徨わせている。こうなったら落ち着くまで頼りにならない。次なる技の気配を感じた梅花は、今度は左手に結界を張った。左方から迫ってきた光弾はアースの横を通り抜け、梅花たちの方へ迫ってくる。だがひたすら真っ直ぐ進むのみの単調な動きだ。これなら結界で容易に防ぐことができる。
 しかし、安堵している暇はなかった。光球が結界にぶつかろうというまさにその直前、今度は右手と後方に気が出現した。おそらく同じような技だろう。結界に弾かれた光球が耳障りな音を立てる中、梅花は視線を巡らせる。まずい。右手からも後ろからも複数の光弾が向かってきている。数が多い。
 衝撃への覚悟を決めて、梅花は体を捻った。霧散しつつある光球を視界の端に捉えつつ、右手に向かって結界を生み出す。精度を犠牲にすれば間に合うかもしれない。
 いつの間にやら腕を掴んできていたカルマラを突き飛ばし、梅花は歯を食いしばった。だが想定したような衝撃は訪れなかった。肩越しに振り返った彼女の視界に、思わぬ人物の背が映る。
 アースだ。跳躍と表現するにしては長い距離を飛び越えてきたアースが、彼女の背後に回り込んだ。そして迫っていた三つの光弾を次々叩き切る。黄色い光の残渣が、視界の端で瞬いた。
「おい、そこの女。お前のせいだぞ!」
 再度舌打ちしたアースは、剣を構えながらカルマラの方を見下ろした。倒れそうになるのをすんでのところで堪えたカルマラは目を丸くする。梅花は右方からやってきた光弾を結界で弾き、もう一度辺りを見回した。草むらの中に埋もれていたようが、よろよろ体を起こす様が見えた。今のところさらなる攻撃の気配は感じ取れない。けれども油断は禁物だ。
「ちょっと、何で私のせいなのよ!?」
「あれは、さっきお前が放った技だろ」
「それがどうしてあちこちから襲ってくるのよ!?」
「知るかっ」
 カルマラとアースの怒号が飛び交った。梅花は瞳をすがめる。すぐ傍で繰り広げられる言い合いが、耳というよりも頭蓋全体にずしりと響いてきた。彼女が額を軽く手で押さえていると、また前方に光球が出現したのが感じ取れる。やはり複数だ。
「空間の歪みのせいですかね」
 そう結論づけるしかなかった。やり過ごした技が歪められた空間を擦り抜け、四方八方から迫ってきているのか。そうなると避け続けるだけでは埒があかない。消滅させるしかない。
「ちっ、厄介だな。本当に迷惑な女だ」
 何度目になるかわからないアースの舌打ちが空気を揺らす。ようの横を擦り抜けて向かってきた光弾三つを、梅花は結界を使い無に還した。何故だかわからないがアースが協力してくれるのなら、じきにこの攻撃も収まるだろう。肩を怒らせるカルマラの腕を掴みつつ、梅花はアースへ双眸を向けた。
「どうして助けてくれるの?」
 そもそも何故リシヤの森にアースがいるのかもわからない。答えを期待せずに問いかけると、心外だとでも言いたげにアースは視線を寄越してきた。呆れたような諦めたような、それでいて自嘲気味な眼差し。青葉とは違う表情に新鮮みを覚えていると、アースは右の口角だけを上げた。
「お前に怪我などさせたら、レーナが怒るからな」
 返答は簡潔なものだった。やはり、レーナなのか。薄々勘づいていたことではあるが、彼らの行動を左右しているのはレーナらしい。だが、ならばどうして当初はいきなり襲ってきたのか? 疑問に気を取られているうちに、今度は左方から気が迫りつつあった。それでも慌てる必要はない。不機嫌顔のカルマラの張った結界が、瞬く間に光球を消滅させる。混乱から立ち直ったようだ。技と技が干渉し合う際の独特の高音が、かすかに空気を震わせた。
「それならどうして私たちの邪魔をするのよ」
 問いかけるというよりもぼやくような疑問が、梅花の唇からこぼれ落ちる。再び振り返ったアースは何かを口にしかけ、けれども寸前で飲み込んだようだった。どこか哀れむような、同情するような、それでいて嬉しげでさえある複雑な気が、彼から感じ取れる。
「あいつから何も聞いていないというのなら、われが答えるわけにはいかない」
 どこまでもレーナの意思を尊重するつもりらしい。徹底した姿勢には、感嘆の息が漏れそうになる。何かを得るためにはやはりレーナに直接尋ねるしかなさそうだ。早朝の彼女の笑顔を思い出し、梅花は前途多難な今後を案じた。

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