white minds 第一部 ―邂逅到達―

第一章「影の呼び声」2

 ダンとミツバの姿が見えなくなると、青葉たちもひとまず仲間たちのもとへ帰ることにした。「あいつらがこっち来る前に戻ろう」と提案すれば、梅花は表情を変えずに「そうね」と答える。声に感情は滲み出ていない。悲嘆も安堵も読み取れない。
 しかも、梅花からそれ以上の発言はなかった。よくわからない今回の件について、感想を漏らすことすらしない。先に歩き出した彼女の背中を見つめて、青葉は瞳をすがめた。長い黒髪が風に煽られると、薄汚れてしまったコートの背が目に入る。壁にぶつかった際に擦れたのだろう。妙に痛々しい。
 帰り道の沈黙が、青葉は苦手だった。梅花から話しかけてくることは滅多にないので自分から話題を提供するしかないのだが、今日は口を開けば文句しか出てこないだろう。彼女がそうするならばともかく、彼だけが憤っている場合は醒めた目を向けられるだけなのが常だ。それでは居心地の悪さを払拭できないと、彼は仕方なく押し黙る。
 しかしそうしていられるのも、しばらくの間だけだった。次々と湧き出る疑問が胸中を渦巻き、苛立ちばかりが募ってくる。これでは全て『気』で梅花にも伝わってしまう。不機嫌な気を隠すのが、青葉は苦手だった。我慢することを諦めた彼は、路地を抜け出し人通りが出てきたところで意を決する。
「どうして一人で出てったんだよ」
 色々と考えた末、結局口にしたのは文句だ。青葉は大股に歩いて、斜め前を歩いていた梅花に並ぶ。乾いた路面を見つめていた彼女はゆっくり顔を上げた。表情が乏しいのは相変わらずだが、近づくとやや疲れて見えるのは気のせいではないだろう。頬へとかかっていた長い髪を背へ流し、彼女はほんの少し眉根を寄せた。
「どうしてって、みんな仲良く寝てたから」
「起こせばいいだろ」
「寝不足でしょう? 早朝のあの騒動だったもの。それに、まさか技を使おうとする神技隊に狙われるとは思わなかったし。様子見だったのよ」
 梅花は青葉へと一瞥をくれ、一つ息を吐いた。確かに、強い気があるから念のため確かめに行ったらその主が神技隊で、しかも技を使って攻撃してこようとするなんて状況は想定外だ。普通はあり得ない。それは彼にも理解できるのだが、もう少し頼りにしてくれてもいいだろうという気持ちは消えてくれなかった。
「様子見だからって、一人で勝手に行くなよ。せめて伝えてから行けよ」
 一人で判断して一人で行動するのは梅花の悪い癖だ。青葉たちが神技隊としてこの無世界に派遣されてから一年になるが、いまだ改善される気配はなかった。おそらく何故怒られているのかも、何故駄目なのかもよく理解していない。そうでなければ、「何かあったら連絡するからいいじゃない」なんて言葉が何度も出てくるはずがない。
「そうね、今度からそうするわ」
 けれども今回の件ばかりはさすがに応えたのか、梅花は素直に頷いた。意外に思って青葉が瞠目すると、既に彼女の視線は前へと向けられている。建物の隙間から見える陽を見つめて、彼女は数度相槌を打った。
「技を使っての騒動なんてことになったら取り返しがつかないものね。大したことがないと高をくくっていたら駄目ね。何かあった時にはすぐに動けるようにしておかないと」
 いや、やっぱりわかっていなかった。「何故駄目なのか」は理解していなかった。落胆した青葉は、思わず右手で短い髪を掻きむしる。彼女の怪訝そうな視線を感じ取ったが、止めることは無理そうだった。
「青葉?」
「いやいやいや、そうじゃない。もちろん、そんな騒動になんてなったら大問題だ。まずい。でもな、そうじゃなくてもさ、お前に何かあったらどうするんだよ」
 絞り出した声には、青葉自身も意識できるくらいに怒気が滲んでいた。何度口にしたら気が済むのだろう? 彼は額を抑えたまま、ちらりと梅花を横目でうかがう。歩きながら不思議そうに首を傾げている様を確認して、彼は胸中で盛大なため息を吐いた。これはやはり通じていない。
「死なない限り『上』とは連絡取れるし大丈夫よ。これくらいの怪我だったら、後でこっそり技で治せるし」
 彼女は一瞬だけ自分の背中の方を見やる。技を公で使うことは禁じられているが、気づかれないよう使用することは可能だ。傷を治すような治癒の技であれば、人目につかないようにするのは簡単だった。だが、彼が問題としているのはそこではない。
「ああ、もういい」
 青葉は歩調を速めつつ、首の後ろを掻いた。わかってもらおうと言葉を重ねることにはもう疲れていた。この半年ほど挑戦し続けてきたが、結果はこの通りである。自分を心配する人間などいないという強固な思い込みは、もはや呪縛のようだ。
 それにもうすぐ仲間が待つ『特別車』へと辿り着く。剣呑な空気を漂わせたまま仲間と会っても仕方がない。ただし、三人ともまだ眠っていたら怒鳴りつけてやろうとだけ決意して、青葉は足早に進んだ。アスファルトを蹴り上げる足裏の感触が不快だ。神魔世界にはなかったこの独特の固い感触が、こういう時には苛立ちを加速させる。
 ベンチと広場と林で構成されている公園の隅に、『特別車』は駐めてあった。ほとんど何一つ持たされずに派遣される神技隊としては例外的に、上から支給された車だ。本来の用途は不明だが、亜空間を利用した技術が使われている優れものだった。今はその特別車の前に小さな白いテーブルが一つ、椅子が四つ出されている。その椅子に腰掛けている仲間二人は、実にのんびりとした様子だった。
「アサキ! よう!」
 青葉は二人へと向かって小走りで近寄った。名前を呼ばれたうちの一人、小太りで金髪の青年――ようが、ゆっくりと振り返る。のほほんとした笑みを浮かべたようは、気楽な様子で手を振ってきた。
「あ、青葉だ。おかえりー」
「青葉、おかえりでぇーす。梅花はどうしまぁーした?」
 ように続いて、黒髪の青年――アサキが尋ねてくる。この無世界では珍しい長髪の、やや風変わりな喋り方をする美青年だ。ただし中身は常識人なので、誰よりも話はしやすい。青葉は肩越しに振り返り、急ぐこともなく近づいてくる梅花を指さした。
「梅花ならそこ、後ろ」
 問われた真意が「事件があったのかどうか」だということには気づいていたが、あえて青葉はそこに触れなかった。気で居場所などすぐにわかるのは、アサキも同じだ。青葉はそのまま空いている椅子の一つに座り込んだ。それと同時に両手を挙げたようが、喜びの声を上げる。
「あ、梅花! おかえりー! サイゾウは今ちょうど買い物に行ってるから」
 梅花は周囲へと一瞥をくれてから「ただいま」と小さく返事をした。背中の痛みはもうないのか、動きにぎこちなさは見られない。いや、そう振る舞っているのか。青葉はテーブルに頬杖をついて彼女の横顔を盗み見た。何を考えているのかよくわからないのは変わらずだ。
「梅花、何かあったんでぇーすか?」
 同じように梅花を見たアサキが、顔をしかめた。特別車の方へと向かっていた梅花は、立ち止まってアサキの方を振り返る。訝しげに細い眉がひそめられていた。何故気づいたのかと言わんばかりだ。
「怪我したんでぇーすか? コートも傷ついてまぁーす」
 そう指摘され、梅花は「ああ」と小さく声を漏らした。背中の汚れがアサキの目にも留まったのだろう。「買い換えなきゃ駄目か」と彼女が小さく呟いたのを、青葉は聞き漏らさなかった。まず気にするのはそこかと問いたくなる。神技隊はどこでもそうだと聞くが、青葉たちも決して裕福ではない。
「さすがアサキ、鋭いわね。実はちょっと妙な騒動が起きちゃって」
 特別車の扉に手を掛けて、梅花は肩をすくめた。まさか、また「どうってことない事件」として済ませようというのか? 押し込めたはずの苛立たしさが頭をもたげてきて、青葉は不機嫌な声で口を挟んだ。
「梅花がよくわからない奴らに絡まれたんだ」
 その言葉に、アサキとようはあからさまに反応した。全ての動きを止めて思い切り眼を見開く。だが二人が疑問の声を上げようとしたところ、開きかけていた車の扉を閉めて、梅花がそれを制した。
「よくわからない奴らじゃないわ、神技隊よ。第十六隊ストロングのダン先輩とミツバ先輩」
 青葉の発言を、梅花はきっちり訂正した。続いて飛び出した予想もしなかった単語に、アサキとようは目を白黒させている。当然だ。説明しようにも攻撃的な口調になるのを止められそうになくて、青葉は黙り込んだ。するとようが大きく首を傾ける。
「えーと、何で梅花が神技隊に絡まれるの? 悪いことしたの?」
「人違い、みたい。私とそっくりな人に襲われたんだそうよ」
「何それー」
 特別車に背を向けた梅花は、簡単に説明した。ほんの少しだけ困惑顔なのが青葉には意外だった。先ほどは見せなかった表情だ。
 神技隊同士は知り合いではない。彼らは毎年一隊ずつ、この無世界へと派遣されている。はじめは臨時の措置だった。異世界へ侵入し技を行使するという禁を犯した者たちを連れ戻すのが、第一隊となった神技隊の役目であった。しかしそういった違法者たちは増え続けるばかりで、増員を余儀なくされた。臨時であったものがいつしか定例化し、この春で第十九隊が派遣されているはずである。
 その理由の一つには、この世界で生活しながら違法者を取り締まる難しさがある。全く別の文化を持つ、異質なる世界で生活することは、それだけでも十分に苦労の連続であった。しかも技の存在を知られてはならないとなると、なおさら難しい。
 こちらで生活するためには、とにかく金を稼がなければならない。最低限の衣食住が保障される神魔世界とは勝手が違った。生活費を稼ぎながら『本職』である違法者の取り締まりを続けているうちに、体を壊す者も出始めた。その結果決められたのが五年ルールだ。最低五年は違法者を取り締まること。その後は自由。留まるのも、神魔世界に帰るのも。
「詳細がわかり次第、上に報告しないと駄目ね」
 梅花はため息を吐く。『上』というのは神技隊を派遣した『宮殿』に住む者たちのことだ。彼ら第十八隊シークレットには、違法者を取り締まる以外にもう一つ役割がある。それは上への情報提供であった。
 無世界へ派遣されてしまうと、『ゲート』の出入りが自由にできない神技隊は、上との連絡が途絶えがちになる。一応交信するための道具は渡されているが、詳細な情報を提供するには向かない。上はそのことにも危機感を抱いているようだった。そのため梅花が派遣されたのだという。彼女は宮殿出身の技使いだ。当人は上の使いっ走りだと言っていたが。
「厄介なことになってまぁすねぇ。第十六隊ストロングっていうと、アサキたちよりも二つ上でぇーすねぇ」
「報告もいいけど、放っておいていいの? また襲われない?」
 ようやく頭が働くようになってきたのか、アサキとようが口々に述べる。梅花は車に背をもたせかけると、わずかに頭を傾けた。青葉には躊躇っているように見える。反対されるだろうということは理解しているのか? 彼女は静かに瞼を伏せてから、先ほどの約束を口にした。
「人違いだって信じてもらうために、明日会うことになってるの」
「本当に会う気なのか?」
 青葉は即座に問いかけた。あの腹が立つ二人とまた顔を合わせることになるのかと思うと、いい気分にはならない。彼が頬杖をついたまま瞳を細めていると、ようやく梅花の視線が彼へと向けられた。感情の読み取りにくい黒い双眸を、彼は見返す。
「またさっきみたいなことになったらどうするんだよ。危険じゃないのか?」
 たとえ相手が技を使ってきたからといって、こちらも技で応戦するわけにはいかない。人目につかないところでなら問題ないが、明日は場所も指定されている。条件はよくなかった。辺りを不穏な空気が包み込み始めたせいか、アサキとようがおろおろし出す。
「そんなこと言っても、会うしかないでしょう。それに、彼らのリーダが誰なのか、青葉は知らないの?」
「リーダーって……ええっと、ストロングってことは――」
たき先輩。元ヤマトの若長わかおさ。知り合いでしょう?」
「滝にいか!」
 青葉が重要な事実を思い出すより早く、梅花は答えを言った。思い出した途端に、青葉の胸の内に複雑な感情が湧き起こった。自分でも安心しているのか不安なのかわからない。知り合いがいるという安堵と、その仲間が『あれ』であるという衝撃に、喜んでいいのかどうかも定かでなかった。
 滝は『ヤマト』の次期長――若長だった青年だ。ヤマトは青葉の生まれ育った場所でもある。近くに住んでいたため、滝とは幼い頃からの知り合いだ。滝が神技隊に選ばれたと聞いた時はひどく喫驚したことを、今でもよく覚えている。あれはヤマトだけではない、全ての技使いにとって衝撃的な知らせだった。若長が神技隊に選ばれるほどに異世界の状況は悪くなっているのかと、誰もが不安を抱いた。こうして実際に来てみたらそのようには思えないが。
「そうか、滝にいか……」
「来てくれるというのなら、話くらいはできるでしょう。誤解を受けたままってのも困るしね」
 確かに梅花の言うことも一理ある。今後も遭遇しないとは断言できないのだから、不安の種は消し去っておいた方がいいだろう。それではどうするべきか――。
「わかった。オレも行く」
「そうしてもらえると助かるわ」
 即座に告げた青葉へと、梅花は嫌がることなく頷いた。妙に素直だなと彼は訝しむ。てっきり一人でも大丈夫だと突っぱねられると思ったのだが。
「滝先輩とは一度会っただけだから、忘れられていた時に困るもの。三年以上も前の話だし」
 小さく、梅花は呟いた。確実に誤解を解くためにはその方がいいということか。青葉は脱力しそうになりながら、かすかに口元を歪めた。何だか頭痛がする。
「お前を忘れる人間なんていないと思うが……」
「どうして?」
「いや、何でもない」
 青葉は首を横に振った。「簡単に忘れられる容姿じゃない」という言葉を、彼はすんでのところで飲み込む。すぐに忘れてくれる顔ならば、ダンとミツバに襲われることもなかっただろう。ただ可愛いとか美少女だとか、そういうのとは違う。透明感とも言うべきどこか人間離れしている顔立ちは、一目見たら脳裏に焼き付く。
 しかも『気』も特徴的であった。眩しい程に鮮烈でありながらも柔らかく温かく染み入ってくるこの気。そこにこの容姿が組み合わさった人間を、技使いが忘れるわけなどない。
「ほら、梅花の気はさ、こうぶわーっとすごくてふわーっと柔らかくて、しゅんと透明じゃない。忘れられないと思うよ」
 青葉が黙りこくっていると、それまで口をつぐんでいたようが代わりに答えてくれた。わかるようでわからない表現の仕方だが、言わんとすることは伝わったのだろう。梅花は曖昧な笑顔を浮かべながら頷く。
「そう。ってことは、私によく似たその人は、気まで似ていたのかしらね」
 先ほどのミツバの発言を思い返すと、そういうことになる。見間違えるはずのない人間と、よく似た存在がいる。俯いた梅花に、青葉はますます掛ける言葉を失った。重苦しい沈黙が広がる中で、「だとしたらすごいねー」と無邪気に驚くようの声だけが、朗らかに辺りに響いた。

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