「緋蓮」

 コウカラは火の国と呼ばれている。真夏の暑さがその謂われだと、私は幼いころに教えてもらった。
 大陸の中央に位置するこの国は、夏は猛火のような熱気に、冬は凍てつくような冷気に包まれる。とても住みよいとは言えない気候。それでもここから逃げ出そうとする人は少ない。
 豊かだからだ。
 私は今日もいつものように椅子に座り、屋敷の窓から外を眺めていた。二階から見下ろす景色はかわりばえしないが、ずっと寝台で伏しているよりは気が晴れる。
 薄衣を身にまとい、髪を結い上げて、ただひたすら魁(かい)の帰りを待つ。実に贅沢な身分だと思う。
 コウカラで迎える初めての夏は、私の身体を蝕んでいた。このところは、まともに起きていられる時間の方が短いかもしれない。
 魁のもとに嫁いで三月。私は妻らしいことを何一つせず、怠惰な生活を送っている。

 にぎわう往来を見守っているうちに、いつしかまどろんでいたようだった。つと肩を叩かれて、私は振り返った。
「紫樹(しき)、またそんなところにいるのか」
 呆れた魁の声を聞き、私の身体は小さく震える。
「ここの陽射しは毒だと言っただろう」
「帰っていたのですね、魁。気がつかなくてごめんなさい」
 このところ忙しそうにしていたから、今日も帰りが遅くなるとばかり思い込んでいた。
 肩を掴む彼の手にそっと自分のものを重ねると、耳元をため息がくすぐる。赤銅色の指先が、私の青白い手の上を滑った。彼の健康的な肌と比べると、私はまるで血の通わぬ人形のようだ。
 そんなことを考えていると、ふいと顎を持ち上げられた。
「紫樹はどうしてそのような顔ばかりするんだ。これから嫌な話をしなければならないのに、いっそう気が重くなる」
 ねっとりとした口づけを、私は黙って受け止めた。また彼の機嫌を損ねてしまったみたいだ。
 差し込まれた舌に翻弄されて、私は軽く目を閉じる。今日はいつになく荒々しい。彼は強引なのをあまり好まないのに。
「すまない、急ぎすぎたな」
 熱い唇からようやく解放され、私は瞳を瞬かせた。詫びる言葉とは裏腹に、長い指先は私の髪を解きにかかっている。
 よほど嫌なことがあったのだろう。私は彼の背へと手を回し、衣服越しに怪我がないかどうかを確かめた。ごく稀に、商売での揉め事から乱闘になることがあるという。
「何かあったのですか?」
 深い翠の瞳を見上げると、彼の顔が苦しげに歪んだ。煩わしい問題でも起きたのかもしれない。最近、取引先の動きが怪しいと耳にしたことがある。
 彼に何かあっては大変だと思うと、ますます青ざめてしまいそうだった。
「親父を説得できなかった。もう一人妻を迎えることになる」
 予想は大幅に外れた。私は顔がほころぶのを自覚した。
「まあ。それはおめでとうございます!」
 実のところをいうと、その言葉を待ちわびていた。
 彼は手の動きを止めて、眉を顰める。途中まで解かれた私の髪は、ゆるゆると薄衣の上を滑り落ちていった。傷んだ赤毛が一房、頬の横で揺れる。
「どうして紫樹が喜ぶんだ」
「夫人をたくさん抱えるのは豊かな家の証でしょう? この国ではそうだと聞きました」
「そうか。そんなことを言うのは親父だな」
 彼の手が離れたと思ったのも束の間。腰をぐいと引き上げられ、窓から離れるようにと目配せされた。私はおとなしく従う。
 彼が一歩足を踏み出すごとに、色鮮やかな衣服の裾が揺れた。見覚えがないのは、どこかで着替えたのだろうか。それとも私の頭が壊れているだけか。
「親父の言うことを真に受けないでくれ」
「ですが」
「もう一人の妻は香(こう)というらしい。まだ年端のいかない娘だ」
 寝台の側まで行くと、彼はおもむろに服を脱ぎ始めた。コウカラの人々は、家の中ではほとんど一糸まとわぬような姿になる。初めのうちはぎょっとしたものだが、今はもう慣れてしまった。外では日の光を避けるため足首まで布で覆っているから、その反動だろう。
 ただし、私がそうすることを彼はなぜだか許さない。
 足下に落ちていく艶やかな衣を、私はゆっくり拾い上げた。すべて軽くて丈夫な布で作られている。風通しも良いらしい。商売上手な彼の父様が、この家を豊かにしたおかげだった。
 あらゆる品がコウカラを通ると言っても間違いはない。大陸が海路を失ってからは特に、どこへどんな品を運ぶにしても、この国を避けることは難しかった。
 だから過酷な気候にも負けず、コウカラは栄えていった。北の小国で細々と暮らしていた私たちが目をつけられたのも、魁たちの商売が手広くなっていたからだ。
「また親父の意向通りになってしまった」
 薄い布一枚腰に巻きつけただけの彼は、首筋に張りついていた髪を乱暴に払う。私は目を伏せた。
 精悍な顔立ちにすらりと長い手足を持つ、心根優しい彼は、コウカラの娘たちの憧れなのだそうだ。私にとっては単に珍しい異国の人であったが、誰もが彼の妻となることを望んでいたという。
 私が選ばれたのは、父の硝子細工が欲しかったから。一部の人間から高く評価されている父の技術を、独占するがため。少なくともここに来るまでは、私はそう信じ込んでいた。
「こんなことが繰り返されるのかと思うと気が滅入る」
 彼の手が再び私の腰を捕らえ、力強く引き寄せてきた。拾い上げたばかりの滑らかな布が、床へまた落ちる。
 よろめいた私をそのまま寝台の上へ横たえて、彼は気怠げに微笑んだ。こうやって見下ろされるのは好きではない。熱を帯びた彼の眼差しを直視すると、心がざわつく。
 どうしたら彼は私のことを嫌いになってくれるのだろう。
 最近はそればかりを考えている。私は父を守るためにここへ来た。心を渡すつもりなどなかった。父へと残酷な条件を突き付けた魁たちに、私たちのすべてをくれてやるつもりなんてなかった。
 最期まで彼らの富を貪り、消えゆこうと思っていたのに。
「お前は何も感じないのか、紫樹」
「私はただ、あなたの幸せを願っています」
 微笑むことなく、私は嘘偽りない言葉を口にする。私のことなど気に掛けず、どうか。そんな祈りが伝わるはずもないのに、彼の表情はますます曇った。
「妬いてもくれないのか」
「醜い争いごとは嫌いなんです」
 彼の髪が私の青白い頬をくすぐる。
 見た目も、中身も、私と彼は正反対だ。一目惚れだったのだと彼は言う。それを父親に利用されたのだと。その言葉を、今の私は信じることができた。だからこそ苦しかった。
 節くれ立った指先が、切り時を忘れた赤毛を一房掬い上げた。父親譲りの自慢だった髪も、コウカラの日を少し浴びただけでいっそう赤みが強くなってしまった。
 自分の弱さの象徴みたいで、ばっさり切り落としたくなる。それができないのは彼が気に入っているせいだ。
「綺麗だな」
 瞳を細めた彼から、私は目を逸らした。彼の言葉はまるでコウカラの強い陽射しのようだった。


 魁と香の婚礼は速やかに行われた。その後も私の生活には、なんら変化がなかった。
 まだ十五歳になったばかりの香は私の話を聞きたがったらしいが、身体に障るからと魁が控えるよう伝えたのだという。
 私はますます寝台に伏せる時間が長くなり、夢現の世界をさまようことが増えた。
 身体を横たえていると、何度となく小さいころの記憶がよみがえった。工房に閉じこもった父の後ろ姿や輝く炎の揺らめき、形を変えていく硝子が、瞼の裏に焼きついている。
 狭い工房の中は息が詰まるような熱気で満たされていた。その空気を吸い込むたびに、私は咳き込んだ。あのときは、それがどうしてなのかわかっていなかった。
 私の身体は病に冒されている。少しずつ、命を削り取られている。このことは私と父の秘密だった。
 国中を駆けめぐっても治す術など見つからない。ゆるゆると死へ引きずり込むこの病と闘うことを、私はあるとき諦めた。
 父がどんどんやせ衰えていくのを見ていられなかった。苦労を掛けた分、少しでも役に立ちたい。それだけを願っていた。
 だから魁の求婚を受け入れた。父の硝子細工を守るために。
 もちろん、父は反対した。私の病が悪くなるのではないかと恐れ、何度も説得してきた。自分は娘を利用したくはないと、泣きながら激高したこともあった。
 父の気持ちもわかっているつもりだ。それでも私は、自分の命が父のために使われるのならば幸せだった。そして父をここまで追い詰めた魁たち親子への復讐を、密かに誓っていた。
 父にそれ以外の道が選べないよう追い込んだのは、魁の父様だ。取引先を丸め込み、苦渋の選択を強いた。なんて卑怯な人なのだろう。
 だから魁もそのような人間なのだと、私は思い込んでいた。彼の心を弄び、利用し、堕落させ、消えるつもりだった。どうせ私の命はコウカラでは長くはもたない。
 コウカラは火の国だ。情熱的な人々が日々燃え盛っている国だ。彼らの熱気は、穏やかな暮らしを望む私には毒だった。肌を焼く陽射しだけではなく、明朗な言葉も、熱い吐息も、棘となって刺さる。
 魁もそうだ。彼のまっすぐな眼差し、優しい手のひら、愛の言の葉、すべてが私を蝕もうとする。眩しすぎる。彼の隣にいると、薄汚い私が照らし出されてしまう。暴かれてしまう。
 彼の想いを受け止めることは、彼のためにはならない。そう確信してから、私はとにかく彼から離れようと努力した。そして、こんなことを考えている自分に気がついたときには愕然とした。
 私はいつから彼を愛していたのだろう。
「紫樹」
 思考と現実の狭間でまどろんでいると、柔らかい声が聞こえた。寝台の上で、私はどこへともなく手を伸ばした。目を開けているはずなのに、すべてがぼやけて見える。魁の声は聞こえるのに顔がわからない。
「紫樹。ずっと寝ていたのか?」
 彼の手と思われるものが、私の頬に触れた。いつもは熱い指先が、今日ばかりはひんやりと感じられた。気持ちがいい。
「紫樹? おい、ひどい熱だぞ!?」
 慌てた彼の声がして、むりやり身体を抱き起こされた。それでもまだ頭の中はぼんやりとしていた。彼の顔を見上げているはずなのに、どんな表情をしているのかはっきりとしない。
「紫樹、しっかりしろ。待っていろ、すぐに医者を呼ぶから」
「止めてください、魁」
 ほとんど無意識に、私はそう口にしていた。医者という存在は、私にとっては脅威だ。
 この病のことが知れ渡ったらどうなるだろう? 魁の父様は何と言うだろう? 私を責めるだろうか? 彼を罵るだろうか?
 自分のことはいい。でも何も知らない彼が非難されるのだけは我慢できなかった。
「大丈夫ですから」
「どこが大丈夫なんだ」
「いいえ、平気です。よくあることですから」
 咄嗟にそう答えてしまってから、間違いであったと気がついた。魁が何かを感じ取ったのが、私を抱える腕から伝わってきた。そんなことまでわかるのに、どうしてこの目はしっかりと彼の顔を捉えてくれないのだろう。
「よくあることって、どういうことだ?」
 私は口をつぐんだ。コウカラの暑さのせいで体調を崩しているのだと、彼は今まで勘違いしていた。これが初めてのことだと思っていたはずだ。
 私はなんてことを言ってしまったのか。黙り込んだ彼の顔が、段々はっきり見えてくる。なにかを押し込めた微笑みが目に入り、胸が張り裂けそうになった。あのときの父を思い出す。
「いえ、私は、昔から身体が弱くて」
「何か隠しているな?」
 彼はもう確信している。肌がぞくりとあわ立った。恐ろしいのに魅惑的なのはどうしてだろう。
 答えあぐねていると、翠の瞳が覗き込んできた。私は喉を鳴らす。
「魁……」
「紫樹、いいかげんにしてくれ」
 強引に唇を塞がれる。貪るような口づけが、現実へと戻ってきた私を掻き乱した。彼の冷たい背中に私は腕を回す。
「後悔なんてさせないでくれ。……病気なのか?」
 唇が離れた途端、吐息が頬に触れた。私はためらった。彼の声が熱くて甘くて、誘惑に負けそうになる。優しい彼にすべてを負わせてしまえば楽になれると、誰かが耳打ちしている。私はなんてずるくて厚かましい人間なのだろう。
「答えないところをみると、そうなんだな」
 そんな風に問いかけられると、肯定も否定もできない。まるで罠だ。さすがは日々商談をしている人間だと、こんなときなのに感心してしまう。
 そうか。彼を謀るなど、はなから無理だったのか。
「紫樹がなんと言おうと、医者にみせるぞ。そして治療法を探す」
「それだけは、それだけは止めてください!」
 決意のこもった彼の言葉を聞いて、私は目を見開いた。間近にある瞳が眩しい。まっすぐなだけに抵抗できない、強い眼差しだ。
 簡単な返事を口にしようとするだけで、唇が震える。息も弾んだ。
「それが嫌だから、私は黙っていたのに」
「治らないと言われている病気なんだな?」
 病を抱えた妻など欲しがる者はいない。何もできない女など邪魔でしかない。それでも、騙していたのかと彼が怒鳴ることはなかった。嘆くこともなかった。彼が罵ってくれるような人であったら、私は何も悩まなかった。
 どうして彼は私を選んだのだろう。それがいまだに一番の不思議だ。
「心配するな。どんな手を使ってでも探す。コウカラにはすべてのものが集まってくるんだ。治療法だってきっとある」
 彼の腕に力がこもる。私は息をのみ、厚い胸板に頭を預けた。一気に身体が冷え切ったように感じられた。私は今、とても大きなものを失ったのではないか。強く脈打つ自らの鼓動を意識していると、優しく頭を撫でられた。傷んだ赤毛が耳朶をくすぐる。
「大丈夫だ、紫樹。お前はコウカラに来たんだ」
 私は瞼を閉じた。長い指が髪を梳いていく感触が心地よい。彼を説得する言葉など、私には思い浮かばなかった。
 彼は火の国の人間なのだと、あらためて思い知らされた。私は今まで彼のどこを見ていたのだろう。ばからしく思っているのに、安心しているのはどうしてなのか。
 私はきっと彼の熱に溶かされている。
 再び夢現の世界へ落ちていく最中、瞼の裏に懐かしい光景がよみがえった。燃え盛る炎と形を変えていく硝子を、私はぼんやり思い出していた。

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