未来の魔法使いたちへ

エピローグ

 古くさい鐘の音が響いて、私は大きく伸びをした。緩い黒いローブが腕をすり落ちて日に焼けた肌が露わになる。
「そろそろ休憩しようかなあ」
 小さな紙を挟んで、私は分厚い本を閉じた。表紙にはハスティーとだけ軽く名前が書かれている。昔ハスティー先生が使っていた研究のための本だ。ファリドについて詳しく書かれている、数少ない著書。
 卒業を控えた私は、学園で研究することを志願した。私が希望したのはハスティー先生が行っていたファリドの研究を引き継ぐことだった。
「でもおかしいよね、実技はともかく勉強、特に歴史が苦手だった私が研究生だなんて」
 つぶやきながら近くにある薄い本を手元に引き寄せれば、自然と笑い声がもれる。それはあの事件直前までハスティー先生が行っていた、ファリドの遺跡についての走り書きの集まりだった。
「ファリドの晩年、環境破壊によって体を壊した娘の看病についやされていた」
 その一行を私は口にする。その本には主に、ファリドの研究所での生活と最期について書かれていた。
 ファリドは魔法体系を確立した偉大なる魔法使い。けれども彼は後に他の魔法使いから追放されてしまう。
 魔法を無効にする魔法を、研究しようとして。
 私はページを一枚繰った。ハスティー先生の走り書きは続いている。丁寧ではないけど読みにくくはない、不思議な字だ。
「ファリドのおかげで魔法は飛躍的に進歩して、一般人にも広まった。あらゆるところで魔法は利用されるようになり、人々の生活を豊かにした。けれどもそれは弊害をも生み出した。人々は魔法に頼りすぎて、魔法を使いすぎて、そのため自然が破壊されていくのに気づかなかった」
 その影響を最も早く受けたのが子どもたちだった。幼い子どもが原因不明の高熱に侵されたり、風邪を頻繁に繰り返すようになったり、突然死することが増えた。今からもう数百年以上前のことだ。けれどもじわじわと広がるその現象に気づく人は、当時はほとんどいなかった。
「ファリドの娘は繰り返し高熱に侵されて弱っていった。そしてその原因を探っていた彼は気づいてしまった、魔法のせいだと」
 私はそっと天井を見上げた。その時の彼の気持ちを考えてみる。きっと絶望したに違いない、自分のせいだと嘆いたに違いない。あの時の私のように後悔したのだろう、だから娘が犠牲になるのだと。
「魔法を無効にする魔法を研究し始めたファリドは、魔法使いたちから迫害されるようになった。彼は家族とともに研究所にこもって、そこで研究を続けた。また魔法使いたちから娘を守るための仕組みを次々と作った」
 魔法は未来を奪ってしまった。子どもたちの未来を奪ってしまった。輝かしい未来が待っているはずだったのに、そのための魔法だったのに、全てはうまくいかなかった。
 分厚い本の一節にある、ファリドの言葉が甦る。
 看病に疲れた妻が亡くなってなお、彼は研究を続けた。過労で死の淵に追いやられてなお、娘のためにとある物を残した。
 魔法使いたちが襲ってきても娘を守ってくれる存在。魔法によって生み出された人工的な生命体。あの黄色の人形を、彼は生み出した。
「あれは魔法使いを排除するように作られている。子どもを守るようにと作られている」
 私は先生の走り書きに目を落とした。あの黄色の人形は数百年たってなお、その命令を守り続けていたのだ。律儀にもずっと守り続けていたのだ。
 そこでふと外から生徒たちの騒ぐ声が聞こえてきた。そうだ、もうすぐ学園祭の時期だ。きっと校庭で大きな看板でも作るのだろう。さぼったとかさぼらないとかわめきながら。
「懐かしいなあ」
 本を閉じて私は思わず微笑んだ。卒業してまだ三年しかたっていないけれど、ずいぶん昔のことのように思える。
「でも私は、まだ大人じゃあないよね」
 ぽつりと、静かなつぶやきがもれた。あの時黄色の人形は私を子どもと判断して、ハスティー先生を大人と判断した。その境はどこにあったのだろうか? あの人形が魔法使いの資格の有無を知っているとは思えない。ローブの違い? いや、暗闇ではよくわからないはずだ。
「今の私なら、どう判断するのかなあ」
 立ち上がった私は窓際へと寄った。校庭で戯れる生徒たちをこっそり見下ろす。無邪気に見えるけれどあの時の私のようにきっと色々考え、色々悩んでいるんだろう。大人に不満を持っているのかもしれない。進路に困っているのかもしれない。
「ファリドの研究は成功しなかったけれど、子どもたちがみんな犠牲になったわけじゃなかった。他の人だって気づいたんだ、魔法の使いすぎはよくないって。それから少しずつ努力して、今はこうやってみんなそれなりに生きてる」
 だから私たちや、ハスティー先生が生まれたんだ。今もこうして生きてるんだ。ファリドの時代から今に至るその間については先生の走り書きにはなかったけれど、きっと先生だって同じように考えていたはずだ。生徒を見ていた先生の笑顔がそれを教えてくれる。
 人は最悪の未来と最高の未来しか思い描かない。その間にたくさんの道があるというのに。まだたくさんの可能性があるというのに。
 それは子ども大人も一緒だ。
「まあ何の心配もしないってのも駄目だけどねえ」
 私は笑いながらくるりと踵を返した。するとそれにあわせるかのように古くさい扉が開き、そこからひょいとセペフルが顔を出す。
「よーナハル」
「ちょっとセペフル、勝手に入ってこないでって言ってるでしょう? シャフリヤール先生とかに見つかったらまた怒られるよ」
「いいじゃん、お前だって先生だろ」
「私は見習い!」
 ずいぶんと背の高くなったセペフルを、真正面から私は見上げた。また伸びたんじゃないだろうか? 浅黒い肌も悪戯っぽい瞳も柔らかい髪も変わらないけど、あの頃よりは大人になったと思う。中身はどうか知らないけれど。
「同じだって。ほら、外でシリーンが待ってるんだ、焼き菓子持ってさ。マーサーさんのアイス買いに行こうぜ。もう暑くてさーそろそろ限界」
 そわそわしながら近づいてきたセペフルの手が、私のローブを引っ張った。確かに、もう夕暮れだというのにちっとも涼しくならない。外の日差しはまだ強くて体が蒸発しそうだ。今日の研究はこれまでにしよう。
「わかったから、引っ張らないでよ。セペフルったらせっかち」
 私は笑ってセペフルの背中を叩いた。彼は何故か残念そうに肩をすくめると、はいはいと気のない返事をする。
「そういや、お前は授業とかしないの?」
「私? うーん、来年からかなあ」
「じゃあナハル先生だ。すげー。ちゃんと未来の魔法使いを育ててくれよな。いつか俺の弟子になる奴らだから」
「ちょっとねー、セペフルこそちゃんと師匠に習ってまっとうで立派な魔法使いになってよね。黒のローブが泣かないように、未来の弟子に笑われないように」
 そんなたわいもないお喋りをしながら研究生専用の教室を出ると、廊下には熱気が籠もっていた。窓から見える空は青くて高い。夏らしい天気に思わず目を細め、私はもう一度伸びをした。
「あのね、セペフル」
「何だ?」
「私、先生みたいになりたいなあ。なれるかな?」
「お前先生だろ」
「そうじゃなくて、ハスティー先生みたいにってこと。肌の色とかちょっと無理だけどね、でもなれたらいいなあって」
 歩きながら窓の方を見やれば、校庭から誰かの怒る声が聞こえてきた。さぼるなーという叫びに口の端が上がる。いつだって皆考えることは同じらしい。
 なれるさ、とセペフルは囁いた。
 私は振り向いて、笑顔で大きくうなずいた。

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