エッセンシャル技使い

第六話 「ようこそ魔物」

 部屋で待ち続けてどのくらい経っただろうか? 日が差す窓もないため時間の感覚もあやふやだったけれど、ついに魔物が動き出した。威圧感を纏った鮮烈な『気』が、こちらへと向かって進み始める。『気』の察知には疎い僕でも、あれだけは正確に把握することができた。どうやら歩いているようで、ゆっくりとした速度で近づいてきている。
 カイキは扉のすぐ横で待ち構えていた。僕はヤーシャンの眠るベッドの傍で、片膝をついて短剣を握っている。鞘から解き放たれた短剣は、鈍い光を放っていた。見た感じでは普通の剣と違いがわからない。特別な模様が彫り込まれているわけでもなかった。でも精神を込めようと柄を強く握ると、不思議な重さを感じた。自分の中の何かが引きずり出されるような感覚だ。
「ずいぶんと悠長だな」
 扉の横で、カイキが呟く。丸腰なのにカイキの表情には不思議な余裕があった。ある種の覚悟を決めてしまったのかもしれない。僕は何も応えず、ただ魔物の『気』だけを感覚で追った。今はちょうど廊下の辺り……いや、そろそろ前の部屋に辿り着くか? この部屋にやってくるまで、もう数十歩もなさそうだ。
 何だか息苦しい。額や手のひらに滲んだ汗を拭いたくても、その隙すら空恐ろしく思える。せめて短剣を取り落とさないようにと、僕は両手で握った。そもそも、僕が持つにしてはやや大きい。この黒い柄がなかなか手に馴染まない。
 カツリと、扉の向こうで足音が響いた。僕の鼓動も跳ねた。横になっているヤーシャンが息を詰めたのもわかる。カイキは、まだ動かない。魔物の『気』は隣の部屋にあった。いつこの扉が開かれてもおかしくなかった。それでもこちらをうかがっているのか、魔物の気配はまだ動かない。今か今かと待ち構えるこの時間が、永遠のように感じられた。
 来るか? まだか? もう少しか? 飛び出してくるのか? いきなり攻撃を仕掛けてくるつもりか? それとも――。
 もう一度、隣室で靴音がした。同時に、扉が勢いよく開けられた。まず僕の目に飛び込んできたのは二つの青い光だった。まだ人型だ。異様な輝きを帯びた双眸が部屋の中を見回し――カイキを捉える。
「ようこそっ!」
 先に動いたのはカイキだった。前傾に構えた状態で壁に手をつくと、魔物の足下が音を立てながら崩れた。しかし魔物は驚きもしない。体勢を崩しながらも無表情に僕らへと一瞥をくれ、左手を掲げた。
 天井から小雨のような水が降り注いだ。まさか、さっきのように燃えられたら困るからと、先手を打ってきたのか? 僕は重たく張り付いてきた髪を無視して、短剣を握る力を強める。そしていつでも飛び出せるよう低く構えた。カイキは続けて魔物の頭上を狙った。轟音と共に魔物の天井だけが崩れて、視界が悪くなる。雨の次は土煙だ。
 僕は瞳を細めた。しかしこれだけでは魔物の足は止まらない。『気』を感じ取れる以上、互いにとって目くらましにもならなかった。いや、どうしても視覚で補いたくなる僕らの方が不利か? カイキは何を考えてるんだ……。
 薄煙の中、魔物の手の一振りで氷の矢が生まれた。それはカイキ目掛けて放たれた。だが攻撃が来ることを読んでいたようで、カイキの前でそれは霧散する。結界だ。
「わかりやすいんだよっ!」
 カイキの回し蹴りが魔物へと向かう。いや、そう見せかけただけだった。振り上げた足で壁を蹴って、彼は横へと飛ぶ。
 間一髪、どこからともなく取り出された魔物の小瓶は、カイキの体には触れなかった。一方、飛びながらカイキが放った光球は、魔物の左足に直撃した。室内で薄青い光が明滅する。
 今だ――。僕は床を強く蹴った。あの光球は水系だろうかとか、カイキは二つの系統の技が使えるのかだとか、咄嗟に浮かんだ疑問は仕舞い込んでしまう。片膝をついた魔物目掛けて、僕は駆けた。
 魔物の青い瞳が僕を捉えた。鼓動が、また大きく跳ねる。でも魔物の手は僕へとは伸びない。続けて間近から放たれたカイキの技が、それを許さなかった。薄青の小さな球が複数、紫髪の上から落下する。
 技と技がぶつかり合う時特有の、耳障りな音が響いた。カイキの光球は全て魔物の結界で弾かれた。しかしそのおかげで、魔物の意識は僕から逸れた。僕が魔物の目の前に辿り着いた時、その双眸はカイキへと向けられていた。
「死ねよ――!」
 渾身の力を込めて、僕は短剣を魔物の胸へと突き刺した。手応えはあった。深くは突き刺さらなかったが、魔物は大きく体をのけぞらせて眼を見開く。効果ありだ! その青い眼差しが僕へと向けられる前に、今度は力一杯短剣を引き抜いた。熱い血しぶきが顔にかかる。
 でも、まだだ。まだこいつは死なない。直感的に僕は悟った。魔物の右手の瓶が自分の方へ向かってくるのが、何故だか妙にゆっくりとした動きに見えた。僕が体を捻ると、マントが硝子瓶を叩く甲高い音が響く。だが取り落としてはいないだろう。僕は中途半端な体勢のまま、また短剣に力を込める。
「トロンカ!」
 カイキが叫んだ。途端、僕の足下が崩れて沈んだ。平衡感覚がなくなり、思わず左手を床につく。すると頭上を透明な光球が飛んでいくのが目に入った。まさか氷系の技?
 あれが直撃していたら僕は死んでいただろう。これは、まずい。魔物は僕を殺す気なのか? もしかすると、利用するのを諦めたのかもしれない。僕は咄嗟に、自分を包む結界を生み出した。
 続けて鼓膜を震わせたのは、結界が何かを弾く音だった。間近で技が炸裂した時の独特の圧力に、息が詰まる。きっと魔物の技を結界が防いでくれたんだろう。だとしたら魔物自身にも余波が行っているはずだ。
 そうだとしたら今が機会だと、僕はすぐさま結界を解いた。熱を持った空気が、一気に肌へと刺さる。それでもかまわず、屈伸の勢いを利用して僕は短剣を突き出した。
「死ねったら!」
 狙いをつけていたわけじゃあない。しかしこの至近距離だ。短剣の刃先は、再び魔物の体へとめり込んだ。かすかな悲鳴が上がった。僕はそれをまた引き抜くと、ただ勘のみで自分の前面に結界を張る。ばちりと、何かが弾かれる音がした。目がくらんだせいで、何が襲ってきているのかも定かでない。ただ光が明滅しているのがわかるだけだ。でもまだ僕は動けた。腕もやられていない。死んでない。つまり大丈夫。
「トロンカ――!」
 何度目かのカイキの声が響いた。今度は、魔物の体が沈んだ。輝く小瓶の先端はどうやら空振りしたようで、マントの上を滑っていく感触がする。――っていつの間に僕は結界を解いていたんだ? それとも勝手に解けていた? 技の精度が落ちてる?
「このっ!」
 まずい。次は防げないかもしれない。慌ててでたらめに振るった短剣の刃先が、今度は小瓶に触れた。僕の手の甲にも一瞬触れた。一気に体中の力が抜けたようになり、僕は思わずその場に座り込んだ。あともう一撃、いや、二撃? 食らわせることができたらきっと魔物も倒れるというのに。
「こんの!」
 ぼやけた視界の中で、魔物の腕がカイキの光球を弾き返すのが見える。結界がなかったせいか、ジュッと焼けたような音もした。魔物にも余裕がないんだ。胸からの出血も止まっていないし。
 かろうじて取り落としていなかった短剣を、僕は両手で強く握った。あと、もう少しなんだ。ここで底力を見せなきゃ意味がない。死んだら終わる。今までのことが全部、消えてなくなる。
 唇を噛み締めると血の味がした。特に理由もなく張った結界が、またばちりと何かを弾いた。けれどもこれも長くは保たない。もう一度、今度は小瓶が突き出される。結界に触れて震わされた瓶が、異様な甲高い音を奏でた。
 魔物は再び左手を横へと振るった。カイキの放った光球が、先ほどと同様に霧散するのが見えた。ついで、限界を迎えた僕の結界が消える。もう、駄目だ。次はまともな結界を生み出せる気がしない。小瓶に精神を奪われたせい? そうだとしたら本当に終わりだ。今度こそ死ぬ。
 僕が絶望しかけた、その時だった。僕のすぐ傍、頭の左側を、何かが通り過ぎた。それは透明な光の筋に見えた。その正体が何かを確かめる前に、魔物の上げた悲鳴が、部屋の中に響き渡る。大事なものを放棄しかけていた僕の意識も、急速に現実世界へと引き戻された。
「ヤーシャン!?」
 カイキの喫驚する叫びが響く。魔物は顔を覆って痛みを堪え、呻き続けていた。まさか今のはヤーシャンの技? でも僕は振り返りたい欲求に逆らって、力を振り絞って片膝をついた。今しかなかった。これを逃したら、次の一撃は確実に僕の命を奪うだろう。
 体当たりするような気持ちで、僕は短剣を魔物の胸目掛けて突き刺した。力はたぶん足りなかった。それでも体ごと押しつけた効果か、勢いだけはあった。魔物の手から小瓶が落ちる。
「う、あ、あ……」
 魔物の悲鳴が途切れた。力無く背中から崩れ落ちた魔物と一緒に、僕も倒れ込んだ。衝撃で目眩がする。上体を起こす気力もない僕は、かろうじて左手で魔物の体を押しのけ、顔を上げた。荒い呼吸を繰り返しつつ魔物を見下ろすと、その青い瞳は揺れながら天井を見つめていた。不自然に痙攣した手足からは、徐々に力が失われている。
 そして、瞬く間に、消えた。僕が声を漏らす暇さえ与えず、魔物の体は光の粒になって空気へと溶けてしまった。何の前触れもなかった。僕は瞳を瞬かせて、ほんのわずかな間だけ息を止める。何が起こっているのかわからなかった。それまで魔物がいたはずの空間を凝視して、僕は口を何度も開閉させる。
「あ、れ? あれ……?」
「これが、魔物の最後だ」
 カイキの声が頭上から降り注いだ。僕は息を整えながら、ぎこちない動きで上を見る。真後ろに立っていたカイキは、左腕で額の汗を拭っていた。そして僕にも拭くようにと動きで示してくる。そういえば魔物の血しぶきを浴びたままだった。
 僕はぼんやりしながらマントで顔を拭い、その途中ではっと気づいた。そうだヤーシャン! 僕は急いでヤーシャンの方を振り返った。先ほどの光の筋。カイキの声から判断すると、あれは――。
「ヤーシャン」
「よかった、本当に、勝てて、よかった」
 ヤーシャンはまだベッドの上にいた。上半身だけを起こして、彼女は右手を前方に突き出したまま固まっていた。その口角は不自然に歪みながらも上がっている。青白い肌を伝う大量の汗が、彼女がどれだけ無理をしていたのかを物語っていた。起き上がるのも辛かっただろうに、技を使ったのだ。仕方ない。
「ヤーシャン?」
「精神系が、魔物に効くなんて、私は知らなかったのよ」
「……え?」
「知らなかったの。何も役に立たないと、思っていたの。火をおこせるわけでもない、水を出せるわけでもない。畑も耕せない。日常では何の役にも立たない。戦闘中に使っても効果は今一つだし。どうしようもないと、思っていたの。だからずっと悩んでいたの。それがまさか」
 強ばったヤーシャンの顔が、ますます歪んだ。その目尻から涙がこぼれた。体が震えたせいで、波打つ黒髪も肩の上で踊っている。僕は何をどう返事したらいいのかわからなくて、眉根を寄せた。それじゃあ、あの時僕の傍を通り抜けていった光は、あれは精神系の技だったのか? それで魔物に効果があったのか?
「だから他の技も使えるようになろうって、旅に出たのに。あんな苦労までしたのに。それなのにまさか、こんなところで役に立つなんて。諦めて戻ってきて、こんなことになって、それから気づくなんて」
 そう続けるヤーシャンの声音には、驚きと後悔以外の何かが含まれていた。単に自嘲しているだけじゃあないだろう。巡り合わせを呪っているのか、それとも意地悪な運命に感謝しているのか。
 それでもここで僕らは、本当はお礼を言わなきゃいけないんだろう。僕らの命を助けてくれたのは、紛れもなくヤーシャンの技だ。でも僕だけじゃあなく、カイキも何も口にできないようだった。ただ聞いていることしかできない。
「私に足りなかったのは、力じゃあなかったのね。知識だったのね。本当に馬鹿みたい。馬鹿みたいよ。狭い世界にいたのは、私も同じだった。人のことなんて言えなかった。それなのに気づいてなかった」
 泣き崩れるヤーシャンに、駆け寄る体力も気力も僕にはなかった。「馬鹿なのはみんな同じだろう」と囁いたカイキの声が、やけに耳に残った。

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