ファラールの舞曲

第十一話 「甘い香りの向こう側」 (前)

「わかりました。それではギャロッド殿、引き続きよろしくお願いします」
 相槌を打ったギャロッドに、テキアは静かにうなずいてみせた。ちょうど彼の自室の前、見送りついでにと廊下へ出てきたところだ。人気のないそこには今はテキアとギャロッド、バンしかいない。まだ昼間だというのに、掃除の者さえ見あたらなかった。おそらく今朝再び起きた殺しのせいだろう。確実に屋敷内の空気は、不穏なものへと傾き続けている。
「はい、テキア殿」
 ギャロッドは特徴的な額当てに触れると、軽く頭を下げた。そのくすんだ銀髪が明かりを反射して鈍く光る。テキアは切れ長の瞳を細めて、袖の先を軽く掴んだ。次々と護衛が犠牲になる中で、ギャロッドの心痛は大変なものだろう。推し量るまでもなくわかる。
「頼みますぞ、ギャロッド殿」
 すると隣にいたバンが、おもむろにそう続けてきた。彼の妙に怪しい声が廊下に響くと、ギャロッドは一瞬だけ嫌そうに顔をしかめる。しかし結局は何も言わずに、そのまま踵を返した。懸命な判断だ。バンに何を言おうとも効果はないのだから、それなら黙っていた方が心労は減るだろう。今は余計なことに神経を使っている場合ではない。
「しかしまた一人逃げたとなれば、部隊編成も大変ですねえ」
 ギャロッドの姿が見えなくなると、肩をすくめてバンはそう言った。テキアは小さく首を縦に振ると、吐き出したいため息を堪えて窓を見やる。
「ええ、今日だけで何人でしょう。さらに屋敷外護衛を増やさないといけませんね」
 謎の殺しの力は、じわじわと護衛たちを蝕んでいるようだった。一人、また一人と屋敷を抜け出す者が現れる。相手が魔物でなければ許容範囲内なのだが、しかし今回ばかりは相手が悪かった。いくらずば抜けて強い者たちがいるとはいえ、やはり人数は必要なのだ。特に屋敷外はなおのことそうだった。
「まったく、意気地がないのならもとから来なければよいものを」
 歩き出したテキアの後ろを、バンがついてきた。ただその口からは嫌味にも似た愚痴がこぼれて、思わずテキアも苦笑を漏らす。バンの気持ちもわからないわけではない。が、バン並みの精神を他の者に求めるのは酷だろう。そのためには経験も必要なのだ。
「一応破格の金額を設定していますからね。仕方ありません」
 だからテキアはそう言うにとどめた。ファミィール家でなければなしえない報酬額なのだ。しかも護衛は複数となれば、やはり魅力的に映るだろう。魔物相手とはいえ、一人ではないという安心感もそれを手伝っているはずだ。
「テキア叔父様!」
 すると廊下の突き当たりに差し掛かったところで、右手から声が聞こえた。そちらへと背中を向けかけていたテキアは、立ち止まって肩越しに振り返る。だが視界にいたのは、慌てた様子のシィラの姿だけだった。声の主であるはずのゼジッテリカは見あたらない。
「叔父様っ」
 途端腰のあたりに衝撃を受けて、テキアは体勢を崩しかけた。慣れない衝撃だったが、それでも何とか踏みとどまれたのは幸いだろう。テキアはほっと息を漏らすと、腰にしがみついているゼジッテリカを見下ろした。珍しくも犬のようにじゃれついてきた彼女は、満面の笑みを彼へと向けてきている。
「捜したんだよ、叔父様!」
「私なら先ほどまで部屋にいたんだが……」
「でもその前はいなかったでしょう? さっきは大事なお話だったみたいだし」
 離れそうにないゼジッテリカに困惑して、テキアは眉をひそめた。彼女がいつもと違うということはわかるのだが、その理由がさっぱり予想できない。隣のバンはさもおかしそうに笑っているが、今回ばかりはテキアもそれを無視した。
 すると救世主となり得そうなシィラが、すぐに駆けつけてきてくれた。よく見ればその手からは小袋が幾つか、揺れながらぶら下がっている。何かの武器ではなさそうだし、かといって他の何かというのも思いつかなかった。故にテキアが怪訝そうに瞳を瞬かせると、近づいてきたシィラはゼジッテリカの顔を覗き込んだ。その細い手がゼジッテリカの肩を叩く。
「もう駄目ですよ、リカ様。テキア様が困っていらっしゃいますから」
「はーい」
「ほら、離れてくださいね」
 シィラの言葉を、ゼジッテリカは素直に聞いた。ようやく解放されたテキアはとりあえず服を正し、照れ笑いするゼジッテリカを一瞥する。彼女がこんな風に甘えてくるのは久しぶりのことだった。いや、最近の記憶にはなかった。だからこそなお不思議に思ったテキアは、どうしたのかと首を捻る。
「あのね叔父様、クッキーを焼いたの!」
 しかしゼジッテリカの言葉だけでは、その理由はわかりそうになかった。仕方なくシィラへと視線で尋ねると、彼女は手にしていた小袋を一つ、目の前に差し出してきた。生成色の小さな紙袋からは、ほんの少しだけ甘い香りが漂っている。
「これ、リカ様と一緒に焼いたんです。昨日のお礼にテキア様にも、と思いまして。それで捜していたんですよ」
 微笑むシィラと小袋を、テキアは交互に見つめた。そして目を丸くした。ゼジッテリカがお菓子を作った覚えは、少なくともテキアにはない。いや、それどころか作りたがっていたという話も聞いたことがなかった。
 突然どうしたのだろうかと視線を下へやれば、期待に満ちたゼジッテリカの瞳が目に入る。その喜びように閉口すると、テキアはシィラへと双眸を向けた。
「甘い物はお嫌いですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが」
「では受け取ってください。ほんの気持ちくらいしかないですけれど。あ、リカ様にはお菓子づくりの才能もありますね」
 するとシィラは花が咲くように笑って、ついでゼジッテリカを一瞥した。なるほど、ゼジッテリカが嬉しそうなのはシィラに褒められたからなのだろう。つまり自信作なのだ。
「そうですか。ではいただきますね」
 テキアは口の端を上げると、素直にその小袋を受け取った。甘い物を好んで食べたことはないが、袋から漂う香りには惹かれるものがある。よく注意してみれば、香ばしさの中に何となく覚えのある匂いが混じっていた。少し甘酸っぱい果物のような香りだ。
「シィラ殿、わたくしにはいただけないのですか? 昨日見張りをしていたのはテキア殿だけではないですぞ」
 しかしそれを、テキアが口に出すことはなかった。今が機会とばかりにバンが口を挟み、テキアの横から顔を出してくる。ちらりと見れば、彼はいかにも楽しそうな様子でにやりと笑っていた。ねだるのも上手い男だ。するとゼジッテリカは一歩下がり、シィラの後ろにひっついた。やはりバンは苦手らしい。
「もちろんバンさんの分もありますよ。昨日はご迷惑をおかけしましたから」
 バンを見てくすりと笑うと、シィラはまた小袋を一つ手に取った。テキアのと同じ生成色の袋が、そのままバンへと差し出される。中身もおそらく同じクッキーなのだろう。同様の香りがした。
「ありがとうございます。ほほう、こうやって男を落としているわけですな、シィラ殿は」
 小袋を受け取ったバンは、言いながらそれをしげしげと見つめた。その何かを探っているような眼差しにつられて、テキアも思わず自分の小袋を見下ろす。けれども特に変わったところがあるようには思えなかった。どこで調達したのかと不思議になる袋ではあるが。
「もう、ひどいですねバンさん。私はそんなつもりはないですよ」
「しかし名前入りは嬉しいでしょう。しかもあなたのような美しい方にいただけるなんて、喜ばない男はいませんよ」
 ついで放たれたバンの言葉に、もう一度テキアは袋を観察した。再度丹念に見れば確かに、袋の角に名前が小さく書かれているのがわかる。ゼジッテリカの字ではないから、おそらくシィラが書いたのだろう。見た目の雰囲気よりも力を感じさせる字だった。それが器用にも隅の方に、控えめに刻まれている。よくバンは気づいたものだ。
 テキアは顔を上げると、バンとシィラを見比べた。彼女はバンにからかわれてか、困ったように微笑んでいる。そして時折ゼジッテリカのことを気にして、そちらへと視線を向けていた。もっともバン自身は全く意に介してないようだったが。
「そんなことありませんから」
「照れなくてもよいではないですか。ほら、テキア殿もまんざらではなさそうですよ」
 そこで話の矛先が、突然テキアへと向けられた。再びテキアは口を閉ざして、どう答えるべきかと頭を捻る。もらい物をしてもちろん悪い気はしないのだが、そう言われると素直に喜びを表現しづらかった。やおら目を細めると、テキアは軽く肩をすくめる。喜べないが、かといって無下な返答もできなかった。
「バン殿」
「おや、失礼」
 複雑な思いを込めて名を呼ぶと、それが通じたのかバンはそう言って瞳を怪しく光らせた。ゼジッテリカのことを考えると、こういう時反応に困るのだ。それを楽しまれてしまっては、いささか不都合が生じる。この場にいるのは大人たちだけではないのだから、少しはバンにも考えて欲しいところだった。
「得意なんです、愛情のばら売り」
 しかしそこで、予想外にもシィラがそんな言葉を口にしてきた。テキアとバン二人の視線が、微笑む彼女へと注がれる。愛情のばら売りなど聞いたことのない表現だ。いや、よく思い返せば彼女は以前似たようなことを言っていた。ゼジッテリカと初めて会った時のことだ。確かその時は愛情の押し売りだった気がするが、実はばら売りも得意らしい。
「ですよね? リカ様」
「うん! シィラってばみんなに配ってるの。まあ、えっと、私が調子に乗っていっぱい焼いちゃったんだけどね。上手だってシィラが言ってくれるから」
 シィラがゼジッテリカの頭を撫でると、ゼジッテリカは照れ笑いを浮かべてそう説明した。道理で名前が必要になるわけだ。袋の数が少ないところを見ると、もうあらかた配り終えたのだろう。テキアたちは姿が見あたらなかったため、後回しにされたというところか。
 よく考えずとも本来は出歩かない方がいいのだが、それを無視して二人は歩き回っているのだ。だがこうも嬉しそうにされると、それを叱る気にもなれなかった。仕方なくゼジッテリカに微笑みかけて、テキアは静かに相槌を打つ。心配せずとも、シィラがいれば問題は起きないだろう。少なくとも屋敷の中にいる間は大丈夫なはずだ。
「それではまだ残りがありますから、それも配ってきますね。あ、クッキーの感想はちゃんとリカ様に言ってくださいね」
「絶対美味しいよ!」
 シィラの言葉に続けて、ゼジッテリカは力強く叫んだ。そしてこうしている時間が惜しいとばかりに、また彼女は駆けだしていった。その後ろを慌ててシィラが追いかけていく。緩く束ねられた髪が揺れる様を、ぼんやりとテキアは見つめた。まるで嵐が去った後のようだ。再び静寂を取り戻そうとした廊下には、二人の足音がわずかに反響している。
「本当つかみ所のない人ですな」
「……はい」
 バンのつぶやきに、テキアは苦笑しながらもうなずいた。だが生き生きとした顔のゼジッテリカを思い浮かべれば、これはこれでいいかなという気にもなった。やはり子どもは元気な方がいい。
「では私たちも行きましょうか」
 テキアはバンにそう声をかけると、もう一度二人が去った方を一瞥した。そこには騒がしさの欠片だけが少し、漂っていた。



 いつものように椅子に腰掛けていたシィラは、ある気配を感じて立ち上がった。傍のベッドにはゼジッテリカがいて、気持ちよさそうな寝息を立てている。しかしその横にいるシィラの顔は強ばっていた。
「また、ですか」
 今感じたのは確かに彼らの気配。おそらく目的は同じだろう。またどこかで別の護衛が殺されたのだ。気配は一瞬だったが、それを彼女が見落とすことはなかった。常に怪しい気配には注意しているし、何より彼らの気を逃すわけがない。
「そろそろこちらも動かないと、駄目でしょうかね」
 声を無理矢理絞り出すようにして、彼女は小さくため息をついた。そして穏やかに眠るゼジッテリカを、そっと見下ろした。この幼い少女の安全を考えれば、できるなら動かない方がいい。しかしそうも言ってられなくなった。彼が動かないのならば彼女が動くしかないのだ。もう隠れてばかりもいられない。
「すみませんね、リカ様」
 小さく詫びて、シィラはゼジッテリカの髪を撫でた。柔らかい金の髪は月の光に照らされて、どことなく幻想的に目に映る。きっといい夢でも見ているのだろう。その口元には時折笑みが浮かんでいて、それがシィラの気持ちを和ませた。以前は寂しそうな顔で眠っていることが多かったが、最近はこうやって落ち着いて眠ることが増えてきた。よい兆候だと思う。
 けれどもそろそろ動かねばならないのだ。できるだけ慎重に、もっとも危険性の低い方法で、それでも確実に目的を果たさなければならない。そのための方法を考えなければならなかった。
「ごめんなさいね、リカ様」
 彼女はそれを繰り返した。もちろん返る答えはない。それでも彼女は謝ることを止められずに、眠る少女を見下ろしながら髪を梳き続けた。
 月明かりの中、彼女の手の動きだけがぼんやりと壁に映し出されていた。

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