ファラールの舞曲

第十話 「ほどけない鎖を」 (後)

 誰かが近づく気配に感づいたのは、会話が途絶えてしばらくしてからのことだった。気は二つ。それはテキアにも覚えのあるものだった。その者たちが真っ直ぐこちらへ向かってくるのを感じ取り、彼は眉をひそめる。
 どこかへ行く途中、ということは考えられない。ここから先にあるのはファミィール家専用の浴場のみなのだ。となると彼らはテキアかバンの気を目指してるということだろう。それ以外に目印となりそうなものもない。
「誰か来ましたな」
 その二つの気に、バンも気がついたようだった。静けさに飽き飽きしていたらしい彼の顔には、今はほんの少し笑みが浮かんでいる。しかしその用が十中八九やっかいごとだと確信しているため、テキアは彼のようには喜べなかった。小さく息をこぼすと、テキアは首の後ろに手をやる。
 気からすれば、近づいてきているのはシェルダとアースだった。屋敷内護衛の隊長と屋敷外護衛の副隊長、その二人が揃って来るとなれば歓迎すべき話ではないだろう。また誰かが逃げ出したか、殺されたか、何にしろありがたくはない。
 それにバンが気がついているのか否か、テキアには判断できなかった。バンならばわかっていても喜びそうな気もする。彼の考えは、普通の人間のものとは異なっていた。
「ああ、アース殿にシェルダ殿ではないですか」
 廊下の突き当たりに姿を現した二人、それを見てバンは楽しげな笑みを浮かべた。テキアもとりあえず微笑んで彼らを見る。さすがに顔をしかめたままではまずいだろう。彼ら自身が悪いわけではないのだから。
「テキア様にバンさん。こんなところにいらしたんですか」
 するとシェルダがそう言って、小走りに近づいてきた。金色の髪が空気を含み、風に乗ったようにふわふわと揺れる。また触れ合った簡素な防具が音を立てた。普通なら耳障りだと思うところだが、彼の場合だとそれさえも一種の旋律のように聞こえてくる。テキアは瞳を細めて肩の力を抜いた。
「どうかしたんですか? シェルダ殿」
「その、少しお話ししたいことがありまして」
 傍に寄ってきたシェルダは、立ち止まると後ろを振り返った。急いだシェルダとは違い、アースの方は変わらない速度で近づいてきている。その視線は鋭く、普通の者が見たら縮み上がる程だった。もっともテキアにとっては別段気になるものでもなかったが。
「話、ですか?」
「はい。ですがここでは……」
 再びテキアの方を振り向いたシェルダは、わずかに顔を歪めるとそう言葉を濁した。それはバンがいるからなのか、それとも単に廊下での会話を憚っているのか。どちらにせよ、やはり楽しい話ではないようだった。テキアはうなずく。
「それでは私の自室で待っていてください」
「……え?」
「私はもうしばらく、ここにいますので」
 テキアの返答が予想外だったのだろう、シェルダが間の抜けた声を上げた。その間にすぐ傍までやってきたアースも、シェルダと同じく怪訝そうにしている。意味がわからないといった様子だ。
 途端隣からはバンの笑い声がして、それが嫌味っぽく廊下に響いた。シェルダとアースの視線が一旦バンへと集まる。それを見たバンは袖で口元を隠し、笑顔のままその声を抑えた。シェルダが首を捻る。
「ここで何をしていらっしゃるんですか?」
「今ゼジッテリカ様とシィラ殿が湯を浴びているんですよ。ですので、まあ念のための見張りですね」
 シェルダの疑問に答えたのは、バンの方が早かった。言葉を選ぼうと一瞬躊躇ったテキアよりも、バンの楽しげな声の方が早く放たれた。さらなる問題発言に、シェルダの目が点になる。いや、それはアースもだった。呆気にとられた様子で立ちつくす二人は、普段とは比べものにならない程無防備に見える。素直な人間の反応だ。
「おやおや、若い方には刺激的な話でしたかな」
 バンはそう続けて眼鏡の位置を正した。本当に他人をからかうのが好きな男だと、テキアは再認識する。先ほどまでの沈黙がつまらなかった分、今は生き生きとしていた。その餌食になった二人には悪いが、テキアに火の粉が飛び散らなかったのは幸いだろう。これ以上の面倒ごとはごめんだ。
「い、いえ。ただ驚いているだけです。だってシィラさんは――」
「直接護衛なのに、ですか? 確かに、普通のことではありませんよね。ですがゼジッテリカ様が一緒に入りたいと駄々をこねられたので、テキア殿が許可されたのですよ」
 面倒な説明は、全て口の軽いバンがしてくれた。そのことに内心安堵しながら、テキアはゆったりと相槌を打つ。
 基本的に黙っているアースほどではないが、テキアもあまり話が得意な方ではなかった。必要に迫られてやってはいるが、できるならややこしいやりとりは避けたいところなのだ。その点ではバンがいると楽だった。無論、次々と問題を運んできたりするという欠点もあるが。
「あ、そうだったのですか。……ってあれ? では普段は?」
 そこでその事実に気がついたらしく、シェルダは首を傾げた。シィラはほぼ四六時中ゼジッテリカと一緒なのだ。だが普段彼女がどのように過ごしているのかは、他の護衛たちはほとんど知らない。時折ゼジッテリカと歩いているのを見かけるくらいのはずだった。
「いつもはマラーヤ殿と交代で入っていただいてますよ。だから彼女が屋敷外に引き抜かれて、今どうしようかと考えているところなんです」
 これにはさすがのバンも答えられないだろう。そう思ってテキアが口を開くと、シェルダはなるほどと首を縦に振った。マラーヤという名が飛び出してきたためか、アースの表情にもわずかな変化が見られる。引き抜いたのは彼だから、それは仕方ないことだろう。
 けれども事情が事情なので、テキアも文句を言う気はなかった。誰か他に実力のある女性を一人、選び出すしかない。なかなか難しいことだが、そうも言ってられないだろう。
「直接護衛も大変なんですねえ」
 そんなシェルダの暢気な声が響いた。何か重大な話をしにきたはずなのに、そうとは微塵も感じさせない表情だ。テキアは苦笑して、またちらりとアースの方をうかがう。一瞬だけひそめられた眉はもう元に戻っているが、しかし今度はその眼差しが廊下の奥へと注がれていた。浴場のある方だ。
「さすがのアース殿も、シィラ殿が気になますか?」
 するとそこで、またもや悪戯っぽいバンの声が上がった。彼もアースの目線に気がついたのだろう。本当に色んな意味で抜け目のない男だ。敵には回したくない類の人間、というところか。
「……いや」
 三人分の視線を受けて、アースは眼光を鋭くした。機嫌を損ねたらしい。けれども状況が状況なだけに、その迫力はいつもよりも減じて見えた。そしてバンの笑い声がそれに拍車をかける。
「そんな否定されなくてもよいではないですか。彼女は魅力的ですよ、得体の知れないところを含めて」
 バンの緑の双眸が、怪しく煌めいた。彼の本音はおそらく最後の言葉に含まれているのだろう。その点はテキアも同感だった。いや、むしろ得体が知れないからこそ気にかかるのだ、と。ただ穏やかなだけではなく、ただ強いだけではなく、何かあるはずなのにそれを容易にはさらけ出さないところが、つい好奇心をかき立てられた。
「リカ様っ」
 次の瞬間、そのシィラの困ったような声が響いてきた。それは廊下の奥、扉に隔てられた部屋の中からだった。思わず全ての会話を停止させたテキアたちは、互いの顔を見合って現状を把握しようと努める。何かあったわけではなさそうな声音だった。かといって何の心配もいらない、というわけでもなさそうだ。
「リカ様! ちゃんと髪を乾かさないと駄目ですよ」
「やだーっ!」
 続けて楽しげな声が上がり、扉が部屋の中から開けられた。勢いよく開いたためか、普段はしないような耳障りな音が出る。そこから飛び出してきたのは、両手で頭を抑えたゼジッテリカだった。その背後には困り顔のシィラがいて、その両手には大判のタオルを載せている。どうやらゼジッテリカが言うことを聞かないという、ただそれだけのようだ。
「あれ、テキア叔父様?」
 きゃっきゃと笑いながら駆けてきたゼジッテリカは、そこで外に誰かがいることに気がついたのだろう。彼女は立ち止まって目を丸くして、子どもらしく小首を傾げた。シィラは気でおおよその状態を把握していたようで、苦笑はしているものの驚いた様子はない。テキアはゼジッテリカに近づくと、その頭に軽く手を置いた。
「ゼジッテリカ」
「ど、どうしたの叔父様? それにみんなも……」
 ゼジッテリカは心底不思議そうな顔をしていた。その青い瞳は瞬きを繰り返すだけで、自分の我が侭が引き起こした結果を理解していない様子だ。この辺りはまだやはり子どもなのだ。喜びの感情が一定量を超えると、それ以外の判断ができなくなる。
「いや、ちょっとした立ち話だよ」
 しかしここで落ち込ませるのもどうかと思い、テキアはそう言葉を濁した。すると足音を立てずに近づいてきたシィラが、立ちつくしているゼジッテリカの背後に回り込んでくる。そしてその肩を掴むとその場に片膝をついた。彼女自身の髪もまだ濡れていて、それが少しだけ重たげに揺れる。
「わっ、シ、シィラ?」
「はい、捕まえましたからね」
 ゼジッテリカが慌てると、今度はテキアの背後から誰かの足音が聞こえた。この気はバンのものだ。途端嫌な予感がしてきて、ゼジッテリカから手を離すとテキアは振り返る。バンはアースをからかった時と同じく、子どもが悪戯をする時のような微笑を浮かべていた。目の当たりにしたくない表情だ。
「あなた方が出てくるのを待っていたのですよ、テキア殿は」
 案の定、聞かせたくなかったことをさらりとバンは言い放った。シィラはわかっていただろうから苦笑しただけだったが、ゼジッテリカからは驚きの声が漏れる。本当に余計なことをしてくれる男だ。楽しげな様子を隠す気もないバンを、テキアは瞳を細めて見た。誰かを困らせるのが本当に好きなようだ。
「すみません、テキア様」
 申し訳なさそうな声に引きずられて、テキアは再びゼジッテリカたちの方を振り向いた。そして自分を見上げてくる黒い双眸を見つけて、彼は返答に窮した。
 シィラはその言葉の意味も、また効果も理解しているはずなのに。それなのにこういう時は何も知らない少女のように見えるのだから、なおさらたちが悪かった。その点では彼女はバンの仲間だ。テキアは肩をすくめると、頭を傾けてわずかに口角を上げる。
「シィラ殿こそ、濡れた髪のままでは風邪をひきますよ」
 仕方なくそう返すと、彼女は一瞬だけきょとりと目を丸くしてからくすりと笑った。その細い手で拘束されているゼジッテリカは、今になってようやく自分の行いの意味を理解したらしい。その場でおろおろとしていた。
 また背後からは、再度バンの笑いを殺した気配が伝わってきた。シェルダとアースはまだいるようだが、事態についていけないのか反応はない。
「大丈夫ですよ、テキア様。リカ様の髪を乾かしたら、自分のもすぐ乾かしますから」
 シィラはそう答えると、立ち上がって右の手のひらをゼジッテリカの上にかざした。すると同時に技が発動する気配があって、ゼジッテリカの髪が風に吹かれたように揺れる。
「……は?」
 先ほどまで黙りこくっていたシェルダの、気の抜けた声が聞こえてきた。だがテキアには無論何が起こったかわかっていた。炎系と風系の技の応用だ。ただし微妙な調整が必要なため、攻撃用の技よりも実は難しいかもしれないが。
「ね?」
 シィラは微笑むと、その手を自身の頭にも向けた。するとやはり一瞬で乾いた黒髪は、そよ風を含んだようにさらさらと揺れ出す。その足下では混乱したゼジッテリカが自分の髪に触れていた。その光景が見えなかった分、事態が理解できなかったのだろう。
「ずいぶん不思議な技をお使いで」
 バンのつぶやきに、テキアは深々とうなずいた。バンにもできない芸当ではないはずだが、普通そんなことをやろうとは思わない。かなり面倒だからだ。それくらいこういった細かな技は、使いこなすのが難しい。効果の割に集中力を要する。
「ちょっとした応用ですから、大したことはないですよ」
 しかしそうあっさりと答えて、シィラは穏やかに笑った。それは彼女にとっては真実なのだろう。苦になるようなことではなく、おそらく日常のちょっとした工夫の一部なのだ。テキアは軽く相槌を打つと、バンを一瞥してから口を開いた。
「それではシィラ殿、引き続きゼジッテリカをよろしく頼みますね。どうやらシェルダ殿たちが何か話があるようなので、私は自室に戻りますから」
「ええ、わかりました」
 シィラがうなずくのを確認してから、踵を返してテキアは歩き始めた。その後ろをバンがついてくる。笑いをかみ殺しながらだが、その点についてはテキアはもう気にしないことにした。彼の癖なのだ。
「それではシェルダ殿、アース殿、話は私の自室で」
 立ちつくしているシェルダとアースに、そうテキアは声をかけた。その声にはっとしたように目を見開いて、シェルダが我に返る。アースの方は表情を変えなかったが、それでも微動だにしなかった体がようやく時間という感覚を取り戻したかのようだった。首が縦に振られる。
 こういう様を目にすれば、確かに笑いたくなるかもしれない。
 そんなことを頭の片隅で思い、テキアは内心で笑った。少しだけバンの気持ちがわかったような、そんな気がした。

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