ファラールの舞曲

第七話 「闇の吐息」 (前)

 不気味な程の静寂に包まれた夜だった。寝心地の良さそうなベッドに眠るゼジッテリカを、シィラは横目で見やる。部屋の明かりは既に消されていて、窓から差し込む月明かりだけが光源だった。だからゼジッテリカの顔ははっきりとは見えない。それでも安らかに眠っていることは、聞こえる寝息からもわかった。
「こんな広い部屋で、ずっと一人だったんですね」
 窓際に立っていたシィラは、ベッドの側へと音を立てずに寄った。そこにある小さな椅子に腰掛ければ、もっとよくゼジッテリカの様子がわかるようになる。その細い手の中には人形が抱かれていた。母親がくれたというそれを、ゼジッテリカは何よりも大事にしている。それは思い出の象徴であり、また心の支えのようだった。そして寂しくも唯一の友だちなのだろう。
「よく眠ってますね、よかった」
 沈みそうになる気持ちを振り払い、シィラはゼジッテリカの髪を手で梳いた。こうして穏やかに眠っている様は年相応だ。時折悲しそうに冷たい瞳をする少女と同じだとは、とても思えない。楽しい夢でも見ているのか幸せそうだった。
「こんな偽りの中で生きていたら、一人でいたら潰されてしまいますよね」
 シィラはゼジッテリカの頭を撫でた。まだ十歳にも満たないこの少女の過去を思うと、どんな顔をしていいのかわからなくなる。けれどもやはりシィラには微笑むことしかできなかった。それは彼女が彼女であるための楔なのだ。ゼジッテリカにとって人形が必要なのと同じく、それを手放すことは無理に等しい。
「どうか真実が、リカ様を傷つけませんように」
 瞳を閉じてシィラはそっと囁いた。いつか全てに気づく日が来た時、全てが明らかになった時、その時この少女が受け入れられるようにと。そう傲慢にも近い祈りを込めながら。
 静かな部屋に、その声はゆっくりと溶け込んでいった。



 その現場にたたずんだギャロッドは、何も口にすることができずに息だけを吐き出した。この星の早朝の空気は澄み切っている。それを吸い込み、また吐き出しを繰り返して、彼は冷静になろうと努めた。焦ってはならないし憤ってもならない。彼は現実だけを見なければならなかった。
「ギャロッド殿」
 そこで背後から近づいてきたケレナウスが声をかけてきた。遺体の処理は終わったのだろう。振り返ったギャロッドは相槌を打ち、もう一度ゆっくり息を吐き出す。
 一人の男が殺されているとの報告を受けたのは、ギャロッドが見張り小屋に待機してすぐのことだった。報告してきた若い護衛は狼狽していた。はじめはそれを訝しく思ったものだが、現場に着いてみて理由がわかった。
 殺されていたのはその若い護衛の知り合いで、中年の男だった。しかもかなりむごたらしいやり方だった。致命傷となったのは胸にぽっかりとあいた穴のようだが、それはおそらく技によるものだろう。これだけ大きな穴を人間の体に開けることは、普通の武器では不可能なのだ。
「やはり魔物の仕業なのだろうな」
 血だまりだった地面を見つめながら、ギャロッドはつぶやいた。丁度見張りを配置していた壁のすぐ傍に、血を吸って黒く染まった土は広がっている。男の体はぼろぼろの布きれのようだった。即死であればいいと、苦しまずに死んだのならまだましだと、思わず考えてしまう有様だった。
「昨日の夜の見張りは、確か第二部隊ですよね?」
 すると背後にいたケレナウスが、ギャロッドの横へ並んできた。身長の低い彼と一緒だと、ギャロッドはいつも巨人になったような気になる。
 女性ならば違和感はないのだがと考えれば、おそらく全ては慣れているか否かの違いだろう。ギャロッドが今まで会った技使いは、それなりに骨格がしっかりした男たちばかりだった。だがファミィール家に雇われた護衛には、ケレナウスのように小柄な者も結構いる。
「ああ、そうだ。殺された男も第二部隊だった」
「アース殿の部隊ですね」
「ケレナウス、何が言いたい?」
 強ばった声を出すケレナウスを、ギャロッドは一瞥した。強調する点としてはおかしかった。思わず額当てに触れたギャロッドを、ケレナウスは見上げてくる。その灰色の瞳には鋭い光が宿っていた。ギャロッドでも思わず息を呑みたくなる形相だ。
「彼を警戒した方がいいと思います」
「本気で言ってるのか? まさか、これを彼がやったと?」
「可能性がないとは言えません。彼の実力ならば可能なはずですから」
 何故ケレナウスがそんな発言をするのか、正直ギャロッドにはよくわからなかった。確かに魔物が護衛一人殺して去っていくのは不自然だ。近くで見張りをしていたはずの若い男が無事だったことを考えても、おかしなことではあると思う。
 その男の話によれば誰かが襲撃してきた気配は全くなかったという。血の臭いについては昨日からずっと続いていたため、あまり気にも留めなかったそうだ。
 だから誰かが殺されていると気づいたのは、日が昇ってからのことだった。犯人が魔物ならばとっくに屋敷へと侵入しているだろう。しかしそんな様子はなく、ゼジッテリカもテキアも無事だとの報告を受けている。
「しかし部隊長が動けば目立ちすぎるだろう?」
「ですが彼ならば誰にも気づかれずに動けるのではないですか?」
 そう考えていけば、ケレナウスが疑う気持ちもわからなくはなかった。魔物でないとしても犯人はかなりの腕の技使いであることは確かだ。そして護衛の配置等を知っていてかつ自由に動ける者と言えば、そう数はいない。もっとも、アースはずっと見張り小屋にいたと他の護衛は言っていたのだが。
「実力があるだけに怪しい、か。考えたくないことだな。昨日は魔物全てを殺していたのだろう?」
 そう、アースは昨日来襲した魔物を全員倒していた。ほとんどアースがやったと言っても過言ではない状況だったらしい。その彼がこんな意味のない殺しをするとは考えたくなかった。理由がないし利点もないのだ。
「もし彼が魔物だとすればそれくらいやってのけるかもしれませんよ」
「ケレナウス、ずいぶんあいつを疑ってるな」
「あまりにも強すぎるんですよ、彼は。あの性格ですし」
 ケレナウスは微苦笑を浮かべるとその細い肩をすくめてみせた。どちらかといえば真面目で義理堅いケレナウスからすれば、アースのあの傍若無人な態度は許せないのだろう。孤高と言えばかっこいいかもしれないが、共に仕事をする者としては迷惑な男だった。
 ただ彼の実力だけは評価せざるを得ない。魔物相手の戦闘を考えれば、その力は大いに頼りになった。けれどもそれが今回の場合は疑念の理由ともなっているのだが。
「だが強すぎる奴なら他にもいるだろう?」
 しかし強すぎる者ならばアースだけではなかった。そう言って軽く瞳を伏せたギャロッドを、ケレナウスは不思議そうに覗き込んでくる。その頭が傾げられると、癖のある黒髪が風に吹かれたように揺れた。
「たとえば誰です?」
「たとえば……そうだな。バン殿やシィラ殿、とかな」
 すぐに思い浮かんだのは直接護衛の名前だった。バンが実力試験で一位の成績だった話はもう既に有名だ。一方シィラは十番だったが、しかし彼女が本気を出していないということは実力者の中では暗黙の了解となっている。
 それに実際に会った感想としても、シィラは色んな意味で強かった。魔物ではないかと疑われて狼狽しないなど、いまだに信じられないくらいだ。
「バン殿がまさかそんな……。ってあれ? 確かシィラというのはゼジッテリカ様の直接護衛ですよね? あの可愛らしい方」
 するとケレナウスは首を横に振ってから、不思議そうに左手の人差し指を頬へと当てた。直接引き合わせたことはなかったが、どうやら彼女と会ったことがあるらしい。もしくは見かけたことがある、か。だがその表現に違和感があり、ギャロッドは眉根を寄せた。
「お前にかかるとそういう評価になるのか。彼女はあのなりだが強いぞ? しかもかなりだ。隙があるのに隙がなさ過ぎる」
「あ、あのギャロッド殿、意味がわかりません」
 ギャロッドが思った通りのことを言うと、ケレナウスは勢いよく首を振った。その瞳は信じられないと訴えていた。どうやら彼の目にかかると、彼女は可愛らしい女性としか映らないらしい。確かに見た目だけなら異論を唱える者はいないだろう。防具なしというところも護衛としては妙で、とても実力者とは見えなかった。だが彼女は強いのだ。
「わからないか? 誘っているように見えるんだ、一見は。しかし踏み込もうとすれば罠にも思えるんだ。何を考えているのか容易には掴めない。侮れない人だよ彼女は」
 彼は説明しながら昨日のことを思い返した。疑えと言わんばかりの態度に、牽制の言葉。ゼジッテリカの信頼を得ている一方で、テキアからも一定の信頼を勝ち取っている。ある意味この護衛の中で最も注意しなければならない者かもしれなかった。彼女が万が一魔物だったら、と考えるだけで背筋が凍りついてしまう。
「あ、あの、それは性的な意味ではないですよね?」
「……は?」
 けれどもケレナウスから返ってきたのは予想外な言葉だった。思わず間の抜けた声を上げたギャロッドは、その問いかけを胸中で繰り返す。意味がわからなかった。何故そんなことを尋ねられるのか理解できなかった。
 訝しげに見つめてみれば、ケレナウスは照れたように視線を逸らし頭を掻いていた。つまり聞き間違いではないということだ。頭を抱えたくなったギャロッドは、盛大なため息をついた。
「ケレナウス……」
「い、いえ、何でもないです」
「お前正気か? 護衛中にそんなことを考えているのか?」
 呆れ混じりにそう言えば、ケレナウスは慌てて手をばたばたとさせて辺りを見回した。そんなことをしたところで誰もいやしない。必要最低限の者しか現場には近寄らせていないのだ。
 そうだ、ここで一人の男が殺されたというのに、この若者は一体何を考えているのだろう。そう考えると憤りにも似た感情がわいてきて、ギャロッドは額当ての端にそっと指で触れた。不謹慎すぎる。だがここで激昂したところで事態を混乱させるだけだ。彼は喉元まで出かかった声をやっとの思いで飲み込んだ。シィラの話を持ち出したのは彼自身なのだし。
「ギャ、ギャロッド殿は真面目ですもんね。でも若い人たちはそれなりに彼女のことを噂してますよ。その、意味ありげな笑顔を向けてくるとかで。べ、別に私がというわけではないのです。いつまでこの屋敷に拘束されるかはわからないでしょう? ですからささやかな癒しを求めるのは当然の流れかと思うのですが」
 黙り込んだギャロッドに対して、ケレナウスはまくし立てるようにそう説明してきた。この殺伐とした状況を考えれば、その気持ちもわからないわけでもない。それに自分の言い方も悪かったとギャロッドは反省もしていた。彼女が誰に対しても笑顔を向けているのは知っているのだ。それを勘違いする者がいたとしても不思議ではない。
「あ、あのギャロッド殿? その――」
「もう怒っていない、だからそんな顔をしないでくれ」
 仕方なくギャロッドはそう言って右手を振った。この話題はもう終わりにするべきだろう。まず考えなければならないのは誰が殺しを行ったかだ。魔物だとすれば何の目的でか。護衛の中に犯人がいるのだとすれば、犠牲者が増える前にできる限り早く捕まえなければならない。
「やはりこの仕事は一筋縄ではいかないな」
 ぼやきのようなつぶやきを発して、ギャロッドは薄曇りの空を見上げた。澄んだ空気の中、土に染みこんだ血の臭いが嫌な気分を助長させた。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆