ウィスタリア
第四章 第五話「それで十分です」
連合での協議の結果をゼイツが知ったのは、フェマーたちが再びニーミナの教会を訪れた三日後のことだった。やや寒さが緩んだ昼過ぎに、ゼイツの部屋へウルナとラディアスがやってきた。単に昼食の時間のお知らせかと油断していたゼイツは、思っていたよりも早い通達に顔を強ばらせる。
「結論が、出されたって?」
扉の前でたたずんだゼイツは、耳にした言葉を繰り返した。渋い顔をして頷いたラディアスは、隣にいるウルナを横目で見る。その様子から、内容を聞かずとも話の流れは予想できた。ゼイツが息を呑むと、淡い微笑を浮かたウルナが、ラディアスの視線など意に介さず口を開く。
「ええ。大方の予想通り、連合はイルーオの条件を呑むことになったわ」
むしろそうならない方がおかしいとゼイツは思う。これだけの技術力の差を見せつけられ、悪くはない交渉をされてなお、意地になり突っぱねる利点などない。協議の末に決まったことだという形が必要なだけだろう。いや、その間に水面下では各国の微妙な競り合いがあったのかもしれない。今まで保たれていた平衡が崩れる瞬間でもある。力を伸ばす機会にも、失う機会にもなり得た。
「やっぱりそうか」
「当然の流れよね。拒否する理由がないわ」
「宇宙の中で、イルーオが孤立しているってわけでもなければな」
軽く肩をすくめ、ゼイツは右の口の端を上げた。もちろん、そんな事態は考えにくい。もしそのような状況であるならば、あの大きくもない宇宙船が無傷で地球に辿り着くなど不可能だろう。本当にイルーオが中立を保っているかどうかはわからないが、少なくともその動きは他の星からは静観されているようだった。それとも、あの宇宙船が地球へ向かっているとは誰も思わなかったのか。何にせよ、今の段階でわかることではない。
「それは面白い想定ね」
ゼイツの皮肉に、ウルナは興味深そうに頷いて破顔した。一方ラディアスは黙したまま、やや視線を下げて考え込んでいる様子だ。自身の言葉でさらに切り込むきっかけを逃してしまったゼイツは、わずかに眉根を寄せる。一番気に掛かるのはそこではない。彼女のことだ。しかし彼があれこれ思い悩む暇はなかった。ほんの少し間を置いてから、彼女がまた口を開く。
「研究協力の玄関口は、ニーミナが果たすことになったわ。これもセレイラさんの要望通りだけど」
「ニーミナが? ――研究に最適だからか?」
「そういうことになるでしょうね。ここには女神たちの軌跡があるから」
ゆっくりとウルナは周囲を見回した。白い壁、床、天井を目に焼き付けるかのごとく順繰りと見つめ、感傷的に息を吐く。ゼイツは瞳を細めてその様を眺めた。本当に彼女はここを出て行くつもりなのだと、改めて見せつけられたようで痛い。
「この教会も、女神たちの戦いの舞台になったと言われているの。当時のままという部分は少ないでしょうけれど、似せて作られていると。この国にはそんな場所ばかりあるの。きっとセレイラさんは喜ぶでしょうね」
そう説明されて、ゼイツは慌てて辺りへ視線を巡らせた。この殺風景な部屋も、拒絶感露わな廊下も、女神の時代を追い求めるために作られたとは。不便にもほどがあるとは思っていたが、さすがにゼイツもそんな理由があるとは考えていなかった。本当にここは過去に囚われた国なのだ。
「もう十分喜んでいるだろう。ずっとここにいたいとか言っていたしな」
そこでようやく、ラディアスが口を挟んだ。重々しい嘆息とその表情を見る限りでは、ラディアスはセレイラのことが苦手なのだろうか。いや、単にウルナをニーミナから引き離すきっかけとなったから妬ましく思っているのか? どちらもあり得た。
「セレイラさんにとっては、ニーミナは宝箱なんでしょうね」
対してウルナは、どうやらセレイラに好感を持っているらしかった。微苦笑にすらそれが溢れ出していて、ゼイツは何ともいえぬものを胸中に抱く。セレイラは類い希な強さを持つ人間だとは思うが、好ましいかどうかは別だ。圧倒されるばかりでそれどころでないとも言える。
「ここは一番『始まり』に近い場所だから」
さらに言葉を重ねて、ウルナは瞼を伏せた。ゼイツは不意に先日のルネテーラの言葉を思い出し、ますます複雑な気持ちになる。こうやって会話するのも後少しなのかもしれないと思うと寂しいが、それが愛なのかと問われるとうまく答えられない。ルネテーラの言う通り、離れてみたらわかるのだろうか? また黙り込んだラディアスへと一瞥をくれてから、ゼイツは相槌を打った。
「なるほど。それで、セレイラさんはいつイルーオに戻るって?」
少しずつゼイツは核心へと踏み込んでいく。早く確かめたいという衝動と、もう少し先延ばしにしたいという願望が、胸の内でない交ぜになる。心すら定まらない。ゼイツが落ち着かない気持ちで返答を待っていると、ウルナは小さく首を横に振った。緩やかに束ねられた黒髪が、空気を含んで揺れる。
「まだ決まっていないわ。発つ準備ができてからだから、もう少しかかるみたいよ。こちらから何を持ち出すか、叔母様と話し合わないといけないし」
自らの腕を抱いたウルナは、わずかに顔をしかめた。その問題もあったかと、ゼイツは納得する。研究のためとはいえ、遺産を手放すのはニーミナにとっては大事だ。その結論が出されるまで時間がかかると容易に推測できた。セレイラはできる限りの物を持って行きたがるだろうし、交渉は難航しそうであった。
「それで、ウルナは……」
言葉を濁しつつも、ゼイツはようやく踏み込んだ。口にした途端に鼓動が速まり、耳の奥でうるさく騒ぎ出す。ラディアスが眉根を寄せるのが、ゼイツの視界の隅に映った。その姿が既に答えを物語っているも同然だった。ウルナは軽く右目を伏せると、大きく首を縦に振る。
「ええ、叔母様に許可をもらって、クロミオと一緒にイルーオへ行くことになったわ」
「え? クロミオも!?」
「女神様に会った張本人だもの。――というのが表向きの理由。セレイラさん、本当はもっと連れて行きたかったのよ。叔母様やラディアスや、もっとこの国の過去を知る人たちを。でもそうなるとニーミナが機能しなくなってしまうから」
想定していなかった名前まで聞き、ゼイツは狼狽えた。だがクロミオならば宇宙へ飛び出すことにも怖じ気付かないだろう。ウルナと一緒ならなおさらだ。子どもながらの無謀さだけには収まらない行動力が、彼にはある。しかしカーパルまで連れて行こうとしていたとは、ずいぶんセレイラも大胆なことを考える。ニーミナが滅んでしまっては意味がないからと、仕方なく諦めたのだろうか。
まだまだこの星は安定しない。一度均衡が大きく崩れてしまったのだから、今後どうなるかは全くわからなかった。ジブルやナイダートはできる限り自分たちの声が通るようにと画策するだろう。玄関口となったニーミナをどうにか手中に収めようと動き出すに違いない。そんな中でカーパルたちがいなくなると、ニーミナはきっと分裂してしまう。また新たな諍いが生じるのは、イルーオにとっても好ましくはないはずだった。
ゼイツが頭の中を整理していると、ウルナはそっと俯いた。何も決着が付いていなかったことを改めて思い知るようで、彼は密かに奥歯を噛む。一つの問題が解決したら、また別の問題が浮上する。この世はそういう流れになっているのかもしれないが、翻弄されている者としてはたまらなかった。
「それは困るよな」
「ええ。でも私やクロミオは、実質的にはニーミナの中枢には関わっていないから。だから今回は二人だけなのよ。姫様を置いていくのは心苦しいけれど、姫様にはあの部屋を守ってもらわないといけないし。それにこんな時だからこそ、ニーミナには姫様が必要なの」
「ウルナ、大丈夫だ。ルネテーラ姫については何も心配する必要はない。俺やカーパル様がいる」
「わかっているわ。ラディアスありがとう」
硬い表情をしたラディアスが、すぐさま助け船を出した。やはりウルナの懸念はそこなのか。顔を上げた彼女は物憂げな眼差しで、曖昧な笑みを作る。今まで共にいた者たちが離ればなれになる現実をまざまざと突きつけられ、ゼイツは閉口した。まだ波乱は続くのだ。各自が守りたいもののために奔走し、その『領土』を維持するために争うことには変わりがない。本質的なところは同じだった。
「そうだゼイツ。フェマーさんは、あなたに帰ってくるようにって」
そこでふと思い出したように、ウルナが告げた。ついにその話が来たかと、ゼイツはきつく唇を引き結ぶ。ニーミナは変わる。ウルナはいなくなる。ゼイツがニーミナに残る意味はなかった。ジブルもきっとこれから変化に飲み込まれるだろう。ゼイツの新たな戦いの場はジブルだ。そこで父と、フェマーと、多くの者と対峙しなければならない。
「まあ、そうなるだろうな。フェマーも例の件の証人が欲しいところだろうし」
「――何も片づいていないのよね」
ウルナが呟く。その通りだった。解決したような気になっているが、問題は山積みだ。ただ他の星にすぐさま侵略されることがないとわかっただけで、逆に今まで隠れていたものが全て立ち現れてきたと言ってもいい。誰もが見て見ぬ振りできなくなった。こうなってしまうと、ジブルとニーミナの関係がどうなっていくかも定かではない。
「ゼイツも大変ね」
そう続けられて、ゼイツは首を横に振った。状況は皆同じ。いや、見知らぬ星に赴くウルナの方が苦労は多いだろう。いつ故郷へ戻ってこられるかもわからない。全てが前途多難だった。
「いや、今までのつけが回ってきたようなものさ。先延ばしにしていただけだ」
「そう?」
「ウルナが地球に戻ってきた時には、もっと落ち着いているといいんだけどな」
「期待しているわ」
ウルナの笑い声が静かな廊下に溶け込む。ゼイツは一瞬だけラディアスと目を合わせて、肩の力を抜いた。今よりも少しでも何かがよい方へと向かっているといい。そう祈ることくらいはゼイツにも許されるだろうか? どこかにいるのかもしれない女神に対して、彼は胸中で囁いた。願わくばこの世界に、ささやかな平穏が訪れますようにと。
前触れもなく扉が開く音がし、聖堂の空気が揺れた。女神の像の前で両膝を折っていたカーパルは、おもむろに振り返る。開かれた戸の向こう側に立っていたのは、ジンデとセレイラだった。静かに頭を下げたジンデの隣で、セレイラが微笑む。カーパルはそっと立ち上がった。緩やかに揺れた樺色のスカートが、白く輝く細い道の上を撫でる。
「カーパル様、セレイラ殿をお連れしました」
「ジンデ、ありがとう」
顔を歪めているジンデへと、カーパルはわずかに笑みを向けた。聖堂に満ちた甘い香りに目眩を覚えただけだろうと、さしたる心配はしない。その間、セレイラは天井、壁、床と順繰り見回していた。そして最後に、この部屋の中で最も目を惹く紫色の花へと視線を向ける。もうこの星にはないとされる藤の花は、火事の影響も受けずに今も咲き誇っていた。季節にも時刻にも左右されない。この場所だけまるで、時が止まっているかのようだった。
「ここが聖堂なのですね」
「ええ、そうです」
セレイラの囁き声も、カーパルの返答も、瞬く間に花びらが吸い込んでしまう。銀白色の服を正して、セレイラは軽く一礼した。そして静かに聖堂の中へと踏み込む。規則正しい靴音が、部屋の中でかすかに反響した。ジンデはセレイラを見送るばかりで、微動だにしない。
「とても厳かで、綺麗で、でも物悲しい」
「一人取り残された女神を象徴しているのだと、私の兄は言っていましたね。そうかもしれません」
素直に感想を述べるセレイラへと、カーパルは微苦笑を向けた。根拠のない話どころか、単なる解釈の一つだ。答えを知る者はこの世にはいない。そもそも、いたのかどうかもわからない。道を踏みしめるように歩くセレイラは、子どもじみた仕草で頭を傾けた。柔らかくうねる胡桃色の髪が揺れ、肩口で跳ねる。
「女神は取り残された者だと? そんな話がここにはあるのですか?」
「力を持つ者の中でただ一人と、そう言われています。裏付ける記述は少ないですが」
「本当にこの星には多くの情報が残されているんですね」
「この国で起きたことですから」
「ええ、そうですね。実際に起きたことですからね」
深々と相槌を打ったセレイラは、突然くすりと笑い声を漏らした。ついでさらに一歩カーパルの方へ進み出て、辺りを見回す。少し吸い込むだけで世界が変わるような甘い香りが、ここには濃厚に立ちこめている。来訪者も意に介さず咲き誇る花を見つめ、セレイラは口角を上げた。
「失礼。こんなにすんなりと話が通ることが、嬉しいと同時に不思議で」
「すんなりと……?」
「第一期の実在については、私たち研究者でも信じていない者が優勢なんです。数多くの研究者が集まるイルーオでさえそうでした。宇宙にはほとんど、第一期の痕跡が残されていないものですから」
説明しながら、セレイラは感嘆の吐息を漏らす。カーパルは黒い瞳を細めて「そうでしたか」と答えた。地球には女神の力に関与する物が多く残されているが、それでもその大多数がニーミナにある。何かの理由で集められたのか、それとも幾度もの争いの中で単に失われただけなのか、今となっては知る由もなかった。
「女神はあえて痕跡を消したのだとも言われていますね。全て推測でしかありませんが」
だがあまりに不自然な消え方をしていると、そういった説を唱える者もいた。答えが出ることはないだろう。けれども、そこは問題とならない。どう解釈し、それをどう女神の心と結びつけ、各自が思いを馳せるかの方が、ウィスタリア教では大切だと説かれている。正解を決めることができる人間はいない。
「なるほど、一理ありますね」
セレイラは大仰に頷き、また周囲へと視線を巡らせた。ちょうど女神の像へと陽光が射し込む時間帯だ。光を浴びた像は輪郭が曖昧ながらも、花に埋め尽くされそうな聖堂の中で、その存在を主張している。像の手元を見つめて、セレイラは口を開いた。
「こんなに心弾むことは滅多にありません。あなたは歴史についてよく知っていらっしゃる。本当は、あなたを連れていけたらよかったのですが……」
「何度も申しました通り、それは無理です。私はこの国を守らなくては」
「ええ、わかっています。この聖堂に入れてくださっただけでも感謝しなくてはいけませんね。またアースに来た時にでもお話を聞かせてください。それまでに、こちらも準備をしておきますから」
セレイラはわずかに眉尻を下げ、口の端を上げた。頭を振ったカーパルは小さく嘆息する。しばし、聖堂に静寂が満ちた。カーパルもセレイラも視線を合わせることなく、ただ黙って女神の像を見上げていた。扉の傍でジンデが身じろぎをする気配があるくらいか。まるで女神が応えてくれるのを待っているがごとく、二人は口を閉ざし立ち尽くす。像へと差し込む光の揺らぎだけが、時の流れを告げていた。
「ウルナさんの瞳、見せていただきました」
先に沈黙を打ち破ったのはセレイラだった。彼女の静かな眼差しが、おもむろにカーパルへと向けられる。カーパルは唇を引き結んだままその視線を受け止めた。今度は互いに目を逸らすことなく、かといって探り合うようなこともなく、ただ見つめ合う。
「驚きました。エメラルド鉱石ですね」
「エメラ……ルド?」
「そう呼ばれている物です。実際のところは鉱石ですらないようです。力を発揮する際に独特の緑の輝きを帯びるがために、そう名付けられたと。第一期の物には間違いありませんが、謎に包まれた物質の一つですね。あまりに希少価値が高すぎて、実は私も直に触れたことさえありません」
セレイラは微笑んだ。カーパルは瞳を瞬かせて、頭を傾ける。何かを言おうと口を開けども、すぐに言葉になっては出てこなかった。セレイラはそっと自らの胸へと手を当てる。カーパルはその白い手の甲へと一瞥をくれ、顔をしかめた。
「直に……。それでもわかるのですね」
「これでも長く関わっている者ですから。――意外でしたか?」
「いえ、そういうわけでは。そういった物事については、あなたの方が詳しそうですね」
「鉱石も合金も、保護しながら調べていかなければなりませんからね。なかなか難しいんです」
セレイラはもう一度女神の像を見上げた。カーパルもつられて顔を上げた。日光に照らされ輝く像は微笑んでいるようにも、哀れんでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。時には怒りを感じると述べる人もいる。それは像の前に立つ者の心を映しているのだとも言われていた。鏡のようなものだと。
「あなたは、女神には会われたのですか?」
女神像から目を離さずに、凛とした声でセレイラが問う。曖昧な笑みを浮かべたカーパルは、ゆっくり頭を振った。それはカーパルにとっては、何度も尋ねられた内容だった。奇跡の人として認知される前から、ずっと前から、人は彼女に尋ねるのだった。『血』を色濃く受け継いだ者として、ある時は縋られるように、ある時は怒りさえ向けられ、答えを求められた。それは女神の実在を証明して欲しいという人々の願い故だ。
「会ってはいません。感じて、見かけて、それだけです。けれども、それで十分です。その方がいいのです」
「そうですか。ええ、そうかもしれませんね」
返答も決まっていた。嘘偽りのない言葉を、今日もカーパルは口にした。セレイラは熱に浮かされたように何度か首を縦に振り、女神の像へと手を伸ばす。白い指先の上に、天井の窓から光が降り注いだ。カーパルは安堵の吐息を漏らして、一度固く瞼を閉じる。
「ウルナたちを、よろしくお願いします」
抑揚の乏しいカーパルの声が、聖堂の空気を揺らした。遠くでジンデが何やら言いたげに咳払いしたが、それは瞬く間に花の中へと飲み込まれる。カーパルもセレイラも振り返りはしなかった。セレイラは相槌を打つと、たおやかに手を下ろす。
「もちろんです」
はっきりと告げたセレイラの言葉も、やはり即座に花びらへと吸い込まれていった。二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。思いは全て、何も応えぬ女神の像へ向けられるのみ。誰もがその場をすぐに立ち去ることができず、濃厚な静寂が聖堂に満ちた。それでも女神像は悠然と、全てを見守っていた。