ウィスタリア
第三章 第五話「女神などいない」
表面上の動きはなくとも、カーパルとフェマーたちの交渉はしばらく続いていたようだった。一体、何について話をしているのか、ゼイツたちの知るところではない。すぐに決着がつかないところをみると、入り組んだ話ではあるのだろう。
ゼイツも状況は気になっているが、探りを入れることができない。フェマーとは数度話をしたが、彼が口を滑らすことはなかった。ラディアスもウルナもその件については何も聞かされていないらしく、時折不安そうな顔をしているくらいだ。
そして何もわからないまま、フェマーは一時帰国することとなった。何故そうなったのかも、無論ゼイツは聞かされていない。その事実を知ったのは、フェマーが去る直前だった。奥の棟にいるゼイツは、帰路に就くフェマーを見送ることもできなかった。
結局ゼイツにとっては、何かが動いているということを感じながらも普段通りの生活をするという、依然と変わらない日々が続くだけだった。一つよいことがあるとすれば、足の調子がすっかりよくなったことくらいか。回復していく体のみが、時の流れを告げている。
その日もゼイツはいつものようにお茶に呼ばれ、ルネテーラの部屋で落ち着かない時間を過ごしていた。何度繰り返してもこれだけは慣れない。いや、慣れるどころか「お前も大概にしておけよ」というラディアスの言葉が、最近はますますしこりのように胸の内にある。何を話していてもいたたまれない気持ちになった。
だから筋力をつける訓練があるからと、ゼイツは少し早めに切り上げることにした。単なる適当な言い訳だ。罪悪感はあるが、それは部屋に残るにしても同じこと。名残惜しそうにするルネテーラに別れを告げると、彼は重厚な扉を開け、廊下へ逃げ込んだ。
「ふぅ」
冷たい空気に彼の吐息が溶け込む。いっそ清々しい。しかし心地よさを覚えたのは一瞬のことで、すぐに寒さが身に凍みた。肩をほぐすように首を回しつつ、彼はゆっくり扉の方を振り返る。厳かな何かを滲ませたその表面には、細かく花の模様が刻み込まれていた。それが聖堂に咲く花と同じであると気づいたのは、いつのことだっただろうか。女神の名ともなっている、この国を象徴するものの一つだ。
「ウィスタリア」
優しく呼びかけるように囁くと、不思議な感覚に陥った。何度もウルナたちが名を唱えている気持ちが、彼にも少しだけわかる気がする。ある種の呪文だ。耳慣れた音というのは、それだけで気持ちを落ち着かせる効果があるものだ。ゼイツは軽く瞳を閉じた。
「ゼイツさん!」
その時突然名を叫ばれ、ゼイツは目を開けた。聞こえたのはクロミオの声だった。ゼイツが廊下の先へ視線を向けると、手を振りながら駆け寄ってくるクロミオの姿が視界に入る。ゼイツは笑顔になると、そちらへと足を踏み出した。
「クロミオ」
「もうお茶は終わっちゃったの? 僕、これから行こうと思ってたのに」
「ああ、そうなんだ。悪いな」
ぱたぱたと走り寄ってきたクロミオは、残念そうに唇を尖らせた。もう勉強が終わる時間だったのか。ゼイツは「悪い」と繰り返すと、クロミオの頭を撫でた。触り心地のよい柔らかな髪をわしゃわしゃ乱すと、クロミオはむくれながらも笑う。だがふと何か思い出したのか、クロミオは自身の服の裾を強く掴んだ。
「ゼイツさんは、どこにも行かない?」
「……え?」
「フェマーさんは帰っちゃった」
ゼイツが手を離すと、クロミオは顔を俯かせた。寂しげな声音に、ゼイツは何と慰めてよいかわからなくなる。あんなに怪しいフェマーであっても、クロミオにとっては大事な知り合いだったのか。ゼイツが口を閉ざしていると、クロミオはゆっくり頭をもたげた。
「フェマーさんは、僕の知らない話をいっぱいしてくれるからさ。楽しかったのに」
「そう、だったのか」
「ゼイツさんはわかると思うけど、僕が話できる人って少ないんだ。奥の棟には人がいないし、勉強時間にお喋りしたら怒られるし。それなのに、勉強が終わったらすぐに追い返されちゃう。あそこでは皆、僕のことを腫れ物みたいに扱ってる。たぶんカーパル叔母さんのことがあるから」
とつとつと語るクロミオの声には、悔しさが溢れ出していた。そんな状況だったとは知らず、ゼイツは瞠目する。だがカーパルの知名度を考えたら、それも致し方ないことだろう。しかもクロミオ自身も『力』と相性のよい血筋の一人だ。それを知っている者であれば、他の子と同等の扱いなどできるはずもない。
「だから話ができる人が増えて嬉しかったのに」
「――それは、残念だったな。その代わりに俺が話し相手になるから」
胸の内を全て吐き出すわけにもいかず、ゼイツはそう励ますことしかできなかった。ぱっと顔を上げたクロミオの双眸が輝く。小さな頭が何度も何度も縦に振られた。
「うん! うん! いっぱいお話ししようね! フェマーさんから色々聞いたんだー」
「ああ、俺にも聞かせてくれると嬉しいな」
「あ、でも今日はまた後でね! 先に姫様に会ってくるから」
クロミオは大きな扉を見上げた。ゼイツは頷くと、「じゃあ後でな」と片手を振る。フェマーの情報を少しでも得たいところだが、再度ルネテーラの部屋に入るのは気が引けた。また胃の痛む思いをするのは避けたい。ゼイツはクロミオの横を擦り抜け、廊下を歩いた。背後でクロミオが大きく手を振る気配がする。
そのままゼイツはのんびりと歩いた。気のせいか、靴音が硬い。フェマーの名を聞いたからだろうか。ジブルにはもうゼイツの居場所などないのではないかと、ぼんやり頭の隅で考える。彼はどこへ帰ればいいのか。ジブルには居られない、ニーミナの人間にもなりきれない、煮え切らない存在だ。それでもこの教会は彼の存在を受け入れてくれているが。
「誰も拒絶しない場所だから、か」
ゼイツは独りごちる。ウルナの言葉に偽りはなかった。彼が何者であったとしても、ここの人間は排除しようとはしない。居場所のない人間を追い返すことはない。それがウィスタリア教の本質なのだろうか? 彼は何気なく窓から外を見て、瞳を細めた。分厚い雲が陽光を遮っているため、昼間なのに夕刻のような薄暗さだ。いつ雪が降ってもおかしくない。
そんなことを考えていると、寒さが余計に応える気がした。ゼイツは両腕を抱え込み、背を丸める。ラディアスから借りている灰色の上着がかすかに音を立てた。この調子では部屋も暖かくはないだろう。温かいお茶が欲しい気分だ。ウルナの部屋に寄っていきお茶の葉でももらおうかと、ゼイツは思いつく。
すると不意に、話し声が聞こえてきた。廊下の曲がり角の、さらに向こう側からだ。囁くような響きだが、これはウルナのものだった。ゼイツは足早に歩くと、角からおずおずと顔を出す。
白い廊下の先に立っているのは、ウルナとラディアスだった。ウルナが両手で籠を抱えているところを見ると、これからルネテーラの部屋へ行くつもりだったのかもしれない。そこをラディアスに呼び止められたのか。だが気軽に声を掛けられる雰囲気ではない。ウルナが俯いたのがゼイツの視界に入った。波打つ髪に隠れて、その横顔からは表情がよくわからない。
「痛むのか?」
「いえ、違うの」
かすかに会話が聞こえる。眉根を寄せるラディアスに、ウルナは首を横に振った。ゼイツは二人の傍へ近づくことができず、その場で息を潜める。立ち聞きなど駄目だと良心は告げているのに、足が動かなかった。ひとりでに喉が鳴る。
「そうじゃあなくて。でも変なのよ」
「どうかしたのか?」
「左目がうずくの。でも、輝きはないの」
人気のない回廊でも、二人の声はかろうじて聞き取れる程度だ。ゼイツは跳ねた鼓動を押さえつけるように、胸に手を当てた。彼の脳裏に、薄緑色に光る『左の瞳』が蘇る。
「叔母様のことも、この国のことも、以前よりも恨んでいない気がするの」
ウルナの抑揚のない囁きが空気を震わせた。ゼイツは思わず息を呑んだ。驚いたのはラディアスも同じだったようで、絶句する気配が伝わってくる。ゼイツは瞳をすがめ、ウルナの表情をどうにかして見ようとした。外が明るければまだましだったかもしれないが、やはり彼女の顔には影が落ちている。
「恨むというよりは、哀れんでいるのかもしれない。何だか、私と同じような気がして」
たおやかにウルナは頭を振った。ラディアスはまだ口を開けないようだった。ゼイツは胸元を押さえたまま、耳を澄ませる。牢の中で聞いた彼女の告白を、ゼイツは思い出していた。彼女はこの国を愛しているし、恨んでいる。カーパルについても同じだろう。もしかしたらウルナは、ゼイツに対しても似たようなものを感じているのかもしれない。ふと彼はそんなことを思った。根拠も何もない、勘だ。
「叔母様はただ、この国を守るためだけに全てを投げ出している。叔母様の人生をも放り投げている。この国はただ、ウィスタリア様のために存在している。ウィスタリア様を思うことで成り立っている」
「じゃあウルナは――」
「私は姫様とクロミオのためだけに生きている。そのことにしか意味を認めていないの」
淡々とウルナは語った。それについてはゼイツも以前耳にしていた。彼女は自身のことはどうでもよく、二人の幸せについてしか考えていない。その危うさに、あの時彼女は気がついていないようだった。しかし今、顔を伏せている彼女からは別の何かが感じ取れる。少なくともゼイツにはそう思える。
「私、叔母様のこと何も知らないのよ。叔母様がどうしてニーミナに固執するのかも聞いたことがないの。誰もそのことについては触れないし。ラディアスは知っている?」
「いや、俺は……」
言いよどむラディアスの声はかすれている。ウルナはゆっくりと顔を上げた。ようやくゼイツにも彼女の表情がわかるようになった。今にも泣きそうな眼差しで、それでも彼女は薄く微笑んでいた。ゼイツは胸の奥を掴まれたような心地になり、眉をひそめる。
「ラディアスは何か知っているのね」
「ウルナ」
「私に言っては駄目と言われているの? 私の心に迷いが生じては困るから?」
切り込んでいくウルナに、ラディアスは閉口していた。ゼイツは息苦しさを覚え、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。だが今姿を見せたら、話を聞いていたことがばれてしまう。かといって引き戻すこともできない。結局彼は、そこに立ち尽くしているしかなかった。
「叔母様は、あえて私に恨まれようとしているの?」
「ウルナ、落ち着け」
「そうとしか思えなくなってきたのよ。本当はね、私も恐れてるの。この石の力を引き出せなくなったらどうしようと思うと、怖くて仕方ない。迷いたくないのよ。力が使えない私なんて意味がない」
ウルナの声がかすかに震える。ラディアスが言葉を紡げずにいるため、痛々しい静寂が廊下に広がった。ゼイツは胸を掻きむしりたかった。腑の底に溜まった重苦しい感情を吐き出してしまいたくて、仕方なく喉へ手をやる。彼女の考える自分の価値というものを想像すると、顔が強ばった。ニーミナへ来たばかりの頃の彼と同じだ。
「意味がないなんてことはないだろう」
「私にとってはそうなのよ。だから私だって恨んでいたいの。なのにどうしてなの……」
再び瞳を伏せたウルナは、強く籠を抱きしめた。伸びかけたラディアスの手が空を掴む様が、ゼイツの視界に入る。どうして現実とは残酷なのか。知れば知るほど苦悩が増すだけで、安寧が得られない。ゼイツは唇を噛んだ。あらゆることに気づいていなかった時の方が、落ち着いていられた。悩まずに済んだ。それは把握できる世界が狭かっただけなのかもしれないが。
「ウルナ、少し安め。体に障るぞ」
重々しい嘆息の後、ラディアスがそう告げる。ウルナは素直に頷き、ゼイツがいる方とは逆方向へと歩き出した。正直ゼイツはほっとする。彼女と顔を合わせるような事態になれば、平静でいられる自信がない。彼は角から頭を引っ込めた。廊下に反響する彼女の靴音が、次第に遠ざかっていく。
「これは、まずいな」
ラディアスが呟く声が聞こえた。そこでゼイツは我に返る。まだ安心できない、ラディアスと鉢合わせになれば、それはそれで問題だ。立ち聞きしていたと知れたら何と言われるか。ゼイツが狼狽えて視線を彷徨わせていると、ラディアスが動き出す気配がした。無愛想な足音はこちらへと近づいてくる。ゼイツの鼓動が跳ねた。
「ゼイツ」
一歩も動くことができずにいると、ラディアスの姿が見える前に名を呼ばれた。ゼイツは固唾を呑む。聞いていたことはとうに知られていたらしい。急に力が抜けた気がして、その場に座り込みたくなった。しかしそんなことをするわけもいかず、ゼイツは「何だ」と端的に尋ねる。彼自身が自覚できるほどには、声に動揺は表れていない。するとラディアスは姿を見せぬまま用件を口にしてきた。
「ジブルの使者が何を企んでいるのか、お前は知っているか?」
「――いや」
「カーパル様が危惧している。もしかしたら、焦れたカーパル様が先に動き出すかもしれない。できる限りウルナを見ていてくれ」
「ラディアス」
掛けられた言葉は思いも寄らぬものだった。責めるわけでもなく、ただ事実を告げるラディアスの声音には、何ら感情が滲んでいない。ゼイツは静かに頷いた。一体、ラディアスはカーパルの何を知っているのか、ゼイツも気にならないわけではなかった。けれども今ここで問いかける勇気はない。
「都合よく助けてくれる女神などいないと、皆わかってはいるんだ」
ぽつりと独りごちたラディアスの声は、切なげに聞こえた。ゼイツが絶句していると、反応を待たずにラディアスは歩き出す。足早に目の前を通り過ぎていく姿を、ゼイツは目で追った。少しは信用されていると思っていいのだろうか? それとも口に出さずにはいられなかったのか? ゼイツは歯噛みする。窮地を救ってくれる女神がいたらいいのにと、子どものような願いを胸に抱いて。
「助けてくれたらいいのにな」
これだけ苦しんでいる人たちがいるのだ。ゼイツは自嘲気味な笑みを浮かべ、呟いた。誰もが救いの手を求めているが、それでいて実のところは信じていないように思える。小さくなっていく靴音を聞きながら、彼は大きなため息を吐いた。
こうして青の男は倒されました。ですが青の男の心は、まだこの世界に残っていたのです。そこで終わりはしなかったのです。
青の男の心は、死にゆく者たちに息吹を与えました。歪んだこの世界に引き留めようとしました。それが何のためだったのかはわかりません。
死にゆく者たちの帰還は、希望と破滅をもたらしました。混乱が満ちた世界で、再び争いが起こりました。いえ、止めることなどできていなかったのでしょう。青の男は元凶であっても、全てではなかったのです。
始まりとは、孤独でした。悲しみでした。寂しさでした。彼らは心を通わせることができず、海に還ることもできず、赤子のように泣いていました。
ただ、彼らは大きすぎたのです。この未熟な世界と比べて、彼らは強大でした。その力は、世界をも揺るがすほどのものでした。
彼らの嘆きは、空気を震わせる。悲しみに、風は共鳴する。叫びは、全てを歪ませる。森も、土も、空も、逃れることはできません。
帰還による混乱、争いは、世界そのものを破滅へと導きかねないものでした。彼らの慟哭に、この世界は堪えられない。止める術などないと、誰もが思いました。
けれども、白の女たちは諦めませんでした。彼女たちはただ、ひたすらに、この世界を愛していました。未熟なまま産み落とされたこの世界を、想っていました。
そして、ついに彼女たちは、一つの賭けに出たのです。
「これ以上悲しみを紡ぐのは止めましょう、子らよ」