ウィスタリア

第二章 第三話「俺は何をやってるんだ」

 ここを抜け出すべきだ、飛び出すべきだ。一度そう決意してしまえば、実行するのは簡単なことだった。少なくとも今のゼイツにとっては難しいことではなかった。西の棟にさえ行ってしまえば、その先は出入り自由だ。誰が入っていこうが出ていこうが、呼び止めるような者もいない。みなは見知らぬ人間への興味もなく、ただ天井を何度も見上げては祈っている。
 西の棟へは数度、クロミオと一緒に出かけたことがある。それは代わり映えのない扉の一つ、その奥に続く回廊を進んだところにあった。どの扉であるか覚えるのは骨が折れたが、それでも何度か繰り返せばさすがに記憶に残る。しかも、何度目かの時にクロミオが覚えるこつを教えてくれた。今となっては感謝するばかりだ。
 相変わらず奥の棟には誰もいなかった。ここを出入りしているのはウルナたちくらいではないかと、最近ゼイツは考えていた。ルネテーラの部屋へ辿り着くにはここを通らなければならないのだから、そうであってもおかしくはない。
 ゼイツがそんな特別な場所にいられたのは、ウルナの言葉があったからだろう。西の棟へと繋がる扉の前で、彼はそんなことを思う。ウルナが無理を通したのだ。ウルナが何か企んでいることを知りつつ、カーパルは許可したに違いない。何も知らずに彼が記憶喪失の振りをしていた時から、二人の静かな攻防は始まっていたのだ。
 ゼイツは西の棟へと出ると、そのまま家路につく者たちに紛れた。教会を抜け出してしまえば、あとはジブルを目指して来た時とは逆方向へ進むだけだった。
 教会を出ると、しばらくは林の中を細い道が続いている。噂に聞くところでは、教会道と呼ばれているらしい。ニーミナに住む者たちにとっては特別な道で、毎日通う者もいると聞く。何があっても、ここの緑が枯れることはないのだという。
 教会道の道幅が広くなると『町』が現れる。だがそれは彼の知識にある町とは違う。古風な家が十軒ほど密集するようなものが、道の周囲に点在していた。右手にひとかたまり、左手にもうひとかたまりと、まるで寄り添うように建つ様子は、等間隔に建つジブルの家を見慣れている彼には奇異に映る。家がかたまって建つ理由については、ウルナからも聞いていない。
 さらに道なりに進むと『町』は終わり、その先には荒野が広がっていた。それでもしばらくは古びた建物がまばらに建っている。家と呼ぶには大きいものが多いが、それさえ見えなくなるとひたすら物悲しい光景が広がった。薄青の空の下で、枯れたような草が風に揺れているだけだ。ろくに舗装もされていない道の隅にある誰かの植えた花が、かろうじて色を添えているくらいか。
 それはゼイツが知る『国』というものの姿とは異なっていた。だが、ここも数年前まではもう少し豊かだったとウルナは言っていた。この数年の寒波のためにこうなった、と。ニーミナは凍えている。
「それにしても人がいないな」
 歩きながらゼイツは呟いた。ニーミナへと入った時は、もう少し人気があった。疲れた顔の老夫婦や、仕事帰りと思われる少女の姿を見かけた。物乞いをする少年もいた。だが荒野に出てからは誰も見かけていない。早朝とはいえ妙だった。
「何なんだ……」
 不安を覚えて、ゼイツは立ち止まった。そしておもむろに振り返った。穏やかな風が吹き、彼のくすんだ金糸を揺らす。その邪魔な数本を手で払い除けて、彼は瞳を細めた。
 すすけた荒野の向こうには白い教会の姿があった。緑に囲まれているため、教会の全体を見渡すことはできない。むしろ緑の中に白が埋もれていると言った方が正確だ。構造はともかくとしてかなり広い建物ではあるが、高さがないからだろう。緩やかに上る道の先にあるその姿は、とてもではないが一国の中心とは思えない。
「大丈夫だろうか」
 自然と言葉がこぼれた。不安が滲み出た声音だったと、彼は思わず眉根を寄せる。どうも感傷的になっているという自覚はあるが、意識してもなかなか克服できない。
 今頃、皆はどうしているだろうか。ウルナに何も言わずに出てきてしまったが、怪我は大丈夫だろうか。ゼイツがいなくなったことに気づいてクロミオは動揺してないだろうか。ラディアスがどうにかごまかしてくれるだろうか。何よりジブルの使者が訪れたという異常事態に、ニーミナは対応しきれているのだろうか。
 そこまで考えたところで、はたと彼は我にかえった。どうして彼はニーミナを案じているのだろう。その罪を暴くために潜り込んだというのに、まるでニーミナの住民にでもなった気でいる。
「変だな」
 自分自身に困惑しながらも、彼は再び歩き出した。慣れ親しんでしまったせい、としか考えられなかった。きっとよくしてもらったのが災いしたのだろう。未知なる世界に当惑することも多かったが、生活には困らなかった。
 ジブルにいた時より、ある意味ではよっぽどのんびりしていたかもしれない。父の名前、誇り、周囲の視線によってがんじがらめになっていた日々から逃れて、伸び伸びとしていた。だから感傷的になっているとも言える。
「でも俺はその世界に戻るんだ」
 彼は前を見据える。しかし、宣言する声に抑揚はない。力もない。それでも、でこぼこした道を彼はひたすら歩き続けた。引き返そうという気持ちにはならなかった。
 他人の目がない旅路というのはどこまでも退屈だ。一方で、何かに追われている時には考えないようなことまで考えてしまう、厄介な時間でもあった。足だけを動かしているはずなのに気づくと思考している。ジブルのこと、ニーミナのこと、ウルナのこと、クロミオのこと、ラディアスのこと、カーパルのこと。答えのない問いが、脳裏でぐるぐると渦を巻く。
 そうやって歩き続けてどれくらい経っただろうか。道幅は徐々に狭くなり、辺りに生える草の種が変わった。徐々に夕闇が迫り、地面へと濃く焼き付いた彼の影も長く伸びる。虫の音もなく、ただ空を飛んでいく名も知らぬ鳥の鳴き声だけが、彼の鼓膜を震わせた。
 つい足先だけを見つめていたことに気がつき、彼は顔を上げた。夜はすぐそこだ。そろそろ野宿の場所を考えなければならない。ニーミナへ向かっていた時に使っていた布も何もかも、潜入する前に処分してしまっていた。飛び出す時に何も持ってこなかったことを、彼は今さら後悔する。もっとも、準備しようとしても大したも物は揃わなかっただろうが。
「感情的になってるせいだな。ろくに考えもせずに飛び出すなんて」
 どこかに人のいない民家でもないかと、彼は目を凝らした。焼けるような夕日に照らされて、辺りはまるで炎の海と化している。建物は見あたらない。所々に岩と、痩せた木々があるだけだ。あとはひたすら食べられもしない草のみが生えている。
 いや、もう自然と同化しかけて見分けがつかなくなっている『遺産』もあるか。右手を見やると、岩に寄り添うように『宇宙船』の残骸らしき物が埋まっていた。ジブルでも二度か三度、似たような物を見かけたことがある。かなり昔の遺産らしいが、どの時代のものだったかは記憶にはない。
「あれはさすがに使えないよな」
 苦笑して彼はもう一度前方を見つめた。そして、違和感を覚えた。そよ風に揺れる木々はまばらに生えているはずだが、その向こうが黒く塗りつぶされているように見える。それが何であるかわからない程まだ距離はあるが、岩壁のように思えた。
 だがそんなものが、ニーミナにあるはずがない。ニーミナとジブルの国境は、境が怪しい程にひたすら続く荒野だった。領土争いにならないのは、何も取れぬ、生えぬ、不毛の地だからだ。蘇ることのない死んだ土地だからだ。
 かつての世界の滅びの名残とも、戦争の名残とも言われているが、確かなことはわからない。ただ、毒された土地に住むことは、少なくとも今生きている人間には無理だった。それをどうにかするための努力さえ惜しいとも言える。
「ニーミナに来た時は、何もなかったはずだ。……あれは何だ?」
 自然と進む足が速くなる。嫌な汗が、背中を伝って流れ落ちた。何かとんでもないことが起きているのではないだろうか? 彼の知らないうちに事態は大きく動き出していたのではないか? そう考えると、先ほど出会ったジブルの使者――フェマーの顔が浮かび上がってきた。一歩一歩進む度に動悸が強まる。
 ほとんど走るような速度でゼイツは進んだ。乾いた唾を飲み込む度に喉が痛むが、それも無視して歩き続けた。どんどん日は沈み、視界は悪くなる。しかし前方に見える『何か』の姿は次第に鮮明となった。
 国境沿いに並んでいたのは、古代兵器のように見えた。どの時代の物かというのは、彼には断言できない。しかし大きな砲身を見る限りは、長距離攻撃用の兵器としか思えなかった。それが幾つも並んでいる様は異様だ。しかも古代兵器はそれだけではない。小型の乗り物のような細長い物が、その周りに並べられている。
「どういうことなんだ」
 砲身はニーミナの方へと向けられている。おそらくはジブルが所有している物だろう。それがどうしてこんなところにあるのか? 問いかけるのも馬鹿らしかった。これで攻撃の意志を疑うなと言われても失笑ものだ。どう控えめに見ても、ジブルがニーミナに戦争を仕掛けるつもりとしか思えない。
「まさか古代兵器まで持ち出すなんて――」
 各国が所有する古代兵器には限りがある。現実はどうであれ、そう言われている。資源も技術も失われかけている世界で、実際に動かすことができる『遺産』というのは数少ない。いくら手入れをしていても、形ある物はいつか失われる。それを皆はどうにか先延ばしにしているだけだった。新たに生み出すことなど不可能なのだ。世界はゆっくりと、死につつある。
 その古代兵器をこれだけの数揃えたというのは、よほどの決意ということだ。それだけジブルはニーミナを危険視しているのか? 証拠がなくとも動き出すほど恐れているのか? ゼイツなどという若者を潜入させるくらいなのだから、そこまで慌ててはいないものだと思い込んでいた。が、何か変化があったのだろうか?
「まさか」
 乾いた声が漏れる。脅しではなく、本当にあれらを使う気なのだろうか? それだけ切羽詰まっていたのか? もう完全に、ゼイツは走っていた。頭がうまく回らない。けれども足は止まらない。徐々に大きくなっていく兵器を見ていると、悪寒ばかりが生じた。
 もう少し進むと、兵器の前方に茶色のテントが張られているのが見えた。それらは岩陰に隠れるようひっそりと設置されていた。夜でなければ、彼らが火を焚いていなければ、ゼイツも気がつかなかったかもしれない。彼は身を潜めながらそちらへと近づいた。今はまだ、見つかってはいけない気がした。
 闇夜が辺りを包み込んでいる。ゼイツが息を潜めてテントへ近づくと、くたびれた青年の声が聞こえてきた。ゼイツよりもまだ若そうな印象だ。岩陰から顔を出したいという欲求を堪えて、ゼイツはその場で片膝をつく。
「やっぱり冷えるな、ここは」
「そりゃあ北へ北へ来てるからな」
「いつまでここにいればいいんだよ」
「長くて三日だって話だろ? 返事の期限だ。それまでの辛抱だって」
「早く帰って温かいスープが飲みたいなあ」
「我慢我慢」
 聞こえてきた愚痴は、ゼイツにも理解できるものだった。しかし聞き捨てならない単語もあった。ゼイツは眉をひそめると記憶を掘り起こそうと必死になる。返事。三日。どういうことだろう。フェマーの訪問が何か関係しているのだろうか? あの時、彼は『私には私の仕事がありますから』としか口にしていなかった。だがカーパルと会っていたようだから無関係ではあるまい。
「しかし本当にあれ、動くのか?」
 ぼやく青年の声が空気を震わせる。冷たい汗が落ちるのを自覚しながら、ゼイツは岩にぴったりと寄り添った。鼓動の音が聞こえてしまうのではないかという錯覚に陥る。どうして隠れているのかもよくわからないまま、彼は耳を澄ませた。
「ここまで持ってきたんだから大丈夫だろう。暴発はしないはずだ」
「本当か? ニーミナに向かって撃ったつもりが、逆方向だったとかそんなことになったら洒落にならないぞ」
「心配性だな。たぶん大丈夫だろう。それにどうせここからなら、ジブルの街には届かない。せいぜい田舎の畑に落ちるくらいさ」
「おいおい、食糧難のご時世にひどい奴だなあ」
 笑い合う声さえも、ゼイツには薄ら寒く聞こえた。彼らの会話から推測すると、どうも返事次第で、この古代兵器を使ってニーミナを撃つつもりらしい。ゼイツはそびえ立つような兵器を見上げた。不気味な沈黙を保つ砲身は、月明かりの下で鈍く光っている。これだけ巨大な物を、ジブルは一体どこに隠していたのだろう?
「冗談に決まってるだろ」
「そうは聞こえなかったけどな」
 男たちの声が遠い。ゼイツは両腕を抱え込むと、教会があった方へと首を巡らせた。薄闇の中、白い建物の姿はもちろん見えない。地平の遙か彼方だ。だがこの古代兵器ならば、どんなに遠くでも砲撃することが可能かもしれなかった。あの教会に住む人々もろとも、焼き尽くすこともできるかもしれない。それだけの力を持っているのが古代兵器というものだ。
「そりゃあ、お前がそう思ってるからさ」
「おいおい俺のせいにしないでくれよ」
「そうだな、こんな所にまで来ることになった仲間だからな。仲良くしないとな」
 会話が続くのを聞きながら、ゼイツは静かに岩陰を離れた。足音を立てずに、闇に紛れるように身を低くして、元来た道を引き返す。このまま見過ごせないというある種の強迫観念だけが、彼の中で熱を持っていた。何が正しいのか、本当はどうするべきなのかわからない。ただこのままではいられない。誰かが、どこかで、何かを間違っている気がする。
「――証拠を得ていないのに動き出したのか?」
 独りごちる言葉が彼の胸に刺さる。確かにニーミナは禁忌の力に手を出していた。大切な取り決めを破っていた。しかしその確たる証拠を掴むことなく、ジブルは動き出していた。捨て駒を放り投げながらも、古代兵器を持ち出すというある種の禁断行為に及んでいた。
「禁忌の力って、そんなに恐ろしいものなのか? あんな物を引っ張り出すほど恐るべき力なのか?」
 声が震える。足下がぐらつくのを感じる。ゼイツは一度振り返ってテントの方に変わりがないことを確認すると、細い道を早足で進んだ。自分が何をしようとしているのか、それすらもわからなくなっている。ただ居ても立ってもいられなかった。知らない振りができなかった。
「俺は何をやってるんだ」
 口の端から苦笑が漏れる。自分が誰のために何のために動こうとしているのか。ほとんど走るような速度で歩きつつ、彼は必死に考えた。ラディアスに言われた通り、ウルナをこれ以上狂わせないため、彼女たちをこれ以上困らせないために教会を逃げ出した。しかしニーミナが危険に晒されているとわかるや否や、こうして引き戻そうとしている。
「ああ……」
 彼女たちをただ救いたいだけなのだ。そう自覚すると、あらゆるものが腑に落ちた。簡単なことだった。国のため、名誉のためと言いながらも、結局彼は追い詰められた顔をした父親のために、ニーミナへ潜入したのだ。そしてそこで出会った、助けてくれた者たちのために、今は動こうとしている。結局ゼイツは身近にいる人々のことしか考えていない。
「馬鹿だな」
 広く世界を見る目もない。大局から物事を捉える力もない。単なる一つの駒だ。どうしようもないことに抗おうとする、愚かな力無き者だ。それなのに自分は間違っていないと思い込んでいる。
「本当にどうしようもない」
 わかっているのに、止まれない。名を知った者たちを、親しくなった者たちを切り捨てることができない。彼は奥歯を噛みながら駆けた。そんな風に考えながらも自分はこれでいいと思っていることに、薄々気がついていた。

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