ウィスタリア
番外編 願わずにはいられない
「ラディアス!」
聞き慣れた少女の声を耳にして、慌ててラディアスは振り返った。頭上で一本にまとめた髪が揺れ、視界の端で踊る。殺風景な白い廊下の先には、脳裏に描いた通りの華奢な姿があった。
「ウルナ、どうしてここに?」
走り寄ってくる少女――ウルナを待ち受けつつ、ラディアスは首を傾げた。教会の奥の棟に足を踏み入れる人間がほとんどいないという事実は、ここに来てから嫌と言うほど思い知っている。偶然ということは考えにくい。生成り色のスカートを揺らして近づいてくる彼女を、彼は静かに見つめた。人気のない回廊に軽やかな靴音が響き、やがて途絶える。
「驚いたでしょう? お父様が叔母様に用事があるっていうから、一緒に来たの。もしかしたらラディアスに会えるかなって思って」
「そうだったのか。久しぶりだな」
頷いたラディアスは、ウルナの足から頭の先まで順繰りと見た。純真な輝きを帯びた黒い双眸は相変わらずだ。今にも折れそうな体躯にも変わりはないが、それでもやはり成長しているか。背丈はもちろんだが、少しだけ丸みと柔らかさが増している。栄養不良ではないかと心配していただけに、少しだけ安堵した。彼は瞳をすがめる。
「また少し背が伸びたか?」
「え? そうかしら? 自分ではよくわからないわ」
「ちゃんと食べてるか?」
「もちろんよ。健康でなくては何もできないもの。それを言うなら、ラディアスの方が心配。お仕事してるんでしょう? 忙しいの?」
ウルナの細い眉根が寄る。ラディアスは微苦笑を浮かべると、耳の後ろを掻いた。濃い灰色の上着が衣擦れの音を立てる。最近冷え込みが強いからと羽織ってきたが、洗って縮んだのか、それとも彼の体が大きくなりすぎたのか、ずいぶんと突っ張って動きにくい。
答えに窮し、彼はわずかに視線を逸らした。丸一日眠っていないなどと本当のことを言えば、彼女はさらに顔をしかめることだろう。昨日の『実験』は予想以上にひどかった。まだウィスタリアの教会へ憧れのみしか抱いていない少女は、真実を知れば怒るだろうか、悲しむだろうか。犠牲の上に成り立っている世界をどう思うだろうか?
彼としては、こんな場所に足を運んで欲しくはない。しかし同時に、会えて嬉しいとも思った。冷たく拒絶的なこの廊下の空気でさえ、彼女がいるだけで温かみを取り戻す。
「……まだそれほどじゃあない。何もできないことには変わりないさ」
結局いつも通りはぐらかすことにしたラディアスは、ゆっくり頭を振った。こうして嘘が増えていく。積み重ねられた偽りの重みに胸の奥が軋む。それでも微笑を保っていると、ますますウルナの顔が歪んだ。今にも泣きそうに見える何かを堪えている表情は、彼の鼓動を跳ねさせるだけの十分な力を持っていた。
「いつもラディアスはそうよね。謙虚って、行き過ぎると嫌味よ?」
苦々しげに絞り出されたウルナの声が、ラディアスの耳に強く残る。ここで何が行われているのか、彼女は知らない。しかし全く感づいていないわけでもないのだろう。彼女の両親は研究者だ。いくら大人たちが取り繕おうとも、過敏な子どもは何かを感じ取る。
よく考えてみると、以前はラディアスもそうだった。沈鬱な面持ちを隠そうと努め、重い足取りで教会へと出向く大人の姿を、何度も落ち着かない気持ちで見送ってきた。彼もその教会に住むようになり、単に大人たちの側に回っただけだ。かつての彼と同じ気持ちを、今もウルナは抱いているのだろう。たった三つしか離れていなくとも、今は二人の間に大きな溝がある。
「ウルナも言うようになったな……」
「これでもお勉強してますから」
笑い話にしようとラディアスが肩をすくめると、ウルナは唇を尖らせて胸を張った。言いたくないという彼の気持ちをくみ取ってくれたに違いない。彼女はそういう人間である。一見鈍いが、鋭い。不用意に踏み込もうとはせず、準備が整うのを待っている。わざと彼女が子どもらしい表情を見せる時は、そう装っている証だった。
「そうだ! ラディアスに一ついい知らせがあるのよ!」
すると不意に、ウルナが手を叩いた。煌めきを纏った双眸が、真っ直ぐラディアスを見上げてくる。心当たりのない彼は首を捻った。いい知らせとは何だろう? まさか亡くなった彼の家族が戻ってくるわけでもあるまい。新しい茶葉を見つけたとか、そういう話だろうか?
「いい知らせ?」
「私に弟か妹ができるの!」
「……え?」
ラディアスは言葉を失った。ウルナの口から飛び出してきたのは、思いも寄らぬ報告だった。眼を見開いた彼は、もう一度彼女の体を足先から頭まで見回す。それから彼女の両親の姿を脳裏に描いた。
彼女は確か十五歳になっている。その両親はそれなりの年齢のはずだ。いつまでも仲睦まじいなとは思っていたが、いくら何でも無謀だった。子どもを産むことは今や危険と隣り合わせも同然だ。若くなければなおのことそうである。
「驚いた? この間わかったのよ。無事に生まれたら、ラディアスにも会わせてあげる」
「あ、ああ」
返答する声がうわずる。口元が引き攣りそうになる。生まれてくると信じ切っているウルナの瞳を、ラディアスは直視できなかった。もしその命が途中で奪われたらと思うと寒気がする。大切なものが増えると、失う恐怖が増してしまう。彼と同じ気持ちを、彼女には味わわせたくなかった。
命の誕生を純粋に喜べないなど、愚かしいとは思う。それでも彼女が大切なのだ。彼にとってはたった一人残された家族も同然の存在だ。傷ついて欲しくはない。
「どうかしたの?」
「いや、何でもない。――ウルナは元気そうだな」
「だって姉になるんだもの。しっかりしなきゃ」
「そうだな」
凛とした眼差しを受けて、ラディアスは再び微苦笑を浮かべた。ひたすら世界を見守っているだけだろう女神の名を、彼は胸中で呼ぶ。どうかこの純真なる少女に不幸が訪れませんようにと、ただ彼は祈った。これだけ強く何かを願うことは、初めてだった。