ウィスタリア

番外編 幸せの欠片を一つ-1

 奥の棟へ戻ってくると「帰ってきた」という感覚が湧き上がる。そんな自分に気がつき、ゼイツは眉根を寄せた。一体いつからだろう? この殺風景な建物にも、人は慣れ親しんでしまうものなのか? 思わず廊下の真ん中で立ち止まると、あらかたの音が消えた。窓の外で風に煽られた木々が揺れているくらいだ。しかしそんな静寂さえも、先ほどのやりとりを考えると心地よい。
 カーパルとの実のない話し合いが続き、ゼイツは疲れていた。ジブルの使者として彼女と交渉することは、想像していたよりも骨が折れた。そもそも交渉でさえないのかもしれない。彼女には、彼から情報を引き出そうという思いすら感じられない。彼がただ、彼女の思惑を推し量ろうとしているだけだ。そうして無駄に言葉を重ねることは、彼にとっては苦痛にしかならなかった。
 今日も何も得られなかった。必然的に、ゼイツの足取りは重くなる。それなのに時間ばかりが過ぎており、もう夕刻が目の前へと迫っていた。彼は外へと一瞥をくれる。傾いた日差しが窓から差し込み、白い廊下を紅色に染めていた。足先を見下ろし、彼はため息を吐いた。視界の隅で揺れるマントが恨めしい。今すぐ脱ぎ捨てたい衝動に駆られる。
「ゼイツ!」
 その時、つと名を呼ばれた。安堵を呼び起こす低い声だった。ゼイツが振り返ると、そこには脳裏に描いた通りラディアスの姿がある。幾分かくたびれた様子で走り寄ってきたラディアスへと、ゼイツは曖昧な笑みを向けた。こうして奥の棟で顔を合わせるのは久しぶりだった。何かあったのだろうか? どうも忙しいらしく、再会してからはほとんどまともに話をしていない。すれ違った際に軽く挨拶をするくらいだ。近づいてくるラディアスを待ち受けつつ、ゼイツは首をひねった。
「ラディアス、何か用か?」
「ちょうどよいところにいた。少し時間がとれるか? お前の耳に入れておきたい話がある」
 立ち止まったラディアスは、神妙な顔つきでそう告げる。思いがけない言葉に緊張感を覚えながら、ゼイツは首を縦に振った。以前ニーミナにいた時も、ラディアスがそのように言ってくることなどなかった。自然と肩に力が入る。ラディアスの様子を見る限りでは、よい知らせとも思えない。
「よかった。では……そうだな、この部屋でいいか」
 ラディアスは手近な扉を開くと、中へ入った。ゼイツもすぐに続いた。そこは奥の棟に並ぶ部屋としては一般的なものだった。テーブル、椅子、小さな棚とベッドが置かれているだけの、味気ない場所だ。ゼイツが後ろ手に戸を閉めると、硬い音がやけに耳障りに響く。
「話って何だ?」
 部屋の中央でたたずむラディアスへと、ゼイツは問いかける。眉根を寄せたラディアスの横顔には、わずかだが躊躇いが見て取れた。それほど重大な話なのか? それをジブルの使者であるゼイツに伝えようというのか? 緊迫感の増した空気が肩にのしかかってくる。喉が鳴る。
「――ウルナからは何も聞いていないか?」
「ウルナから? いや、特別な話は。ルネテーラやクロミオのことばかりだな」
「そうか」
「ウルナに、何かあったのか?」
 ラディアスがここまで気に掛けるのは、やはりウルナのことらしい。ゼイツは密かに拳を握った。徐々に速まる鼓動を意識すると、息苦しさを覚える。惑星イルーオから帰還した彼女の役割は、今後ますます重要となるだろう。ただの緑石の持ち主でも、血筋の一員でもない。どんなことが課せられてもおかしくはなかった。
「ウルナに婚約の話が持ち上がっている」
「……は?」
 だがラディアスの口から放たれたのは、全く予想外の言葉だった。思わず間の抜けた声を漏らしたゼイツは、まじまじとラディアスを見つめる。嘆息したラディアスの様子を見る限りでは、冗談を言っているようには思えない。心底悩んでいるといった顔つきだ。困惑したゼイツは首の後ろを掻くと、耳にした単語を繰り返した。
「婚約?」
「そうだ」
「それは、また、急にどうして」
「ウルナが戻ってきたからだ」
「いや、聞きたいのはそういうことじゃあなくて」
「すまない、説明が足りなかったな。順を追って話そう」
 ラディアスは壁を睨みつけながら、機械的に相槌を打っていた。混乱しかけたゼイツは、頭の正常な働きを取り戻そうと深呼吸する。婚約。胸中で繰り返すと、苦いものが喉の奥に広がった。何故そんな話がこんな時期に飛び出してくるのか。
「以前から、そのような圧力はあったんだ。ウルナやクロミオ、カーパル様が『力』と相性のよい血筋であるという話を、ゼイツも聞いたことがあるだろう?」
 ゆっくりとした口調で続けるラディアスへと、ゼイツは頷いてみせた。確か、最初にそのことを教えてくれたのはウルナだ。力と相性のよい血筋であるため、緑石を埋め込まれることになったのだと言っていた。血筋ということはクロミオやカーパルもそうだろう。そう考えていくと、ラディアスの言葉が重くゼイツの胸に響いてくる。
「血筋を絶やすなという一派が、この教会にはいる。それが揉め事の原因となったこともある。血筋の一員については、おそらく教会の外にも存在しているだろうと言われているが、そこまで把握はされていない。確かめる術などほとんどないに等しいからな。ならばわかっている範囲でも確保していくべきだという輩が、ここにはいる」
「その、そんなに、血筋は重要なのか?」
 何故ウルナに婚約の話が持ち上がってきたのか、ここまで説明されればゼイツにも予測はできた。しかしそこまで焦る理由が解せなかった。女神の力を求める心が強いことはわかっている。しかし血筋の維持を主張する者がいるほどにその『差』は明白なのか? 相性がよいとは、どういうことなのか?
「ああ。個々人によって適性は様々だが、それでも確率が違うんだ。カーパル様は、その中でもずば抜けて適性が高かった」
 ラディアスは依然として壁を睨みつけている。そこでゼイツははたと気がついた。それでは何故カーパルは結婚していないのか? 子がいないのか? カーパルにこそ誰よりも圧力がかかっていてもおかしくはない。国のためならばと言われたら、カーパルも頷きそうなものである。
「しかし、カーパルは……」
「カーパル様はある事件を契機に、結婚することも子をもうけることも頑なに拒否を続けている。地位がそれを可能とした。さすがにこの年齢にもなれば、もう口うるさく言う人間もいないだろうがな」
 ゆるゆると頭を振るラディアスに、ゼイツはどう返答してよいものかと悩んだ。その事件について、今は尋ねるべきではないか。事情を聞けば聞くほど、ウルナが今までいかほどの重圧を受けていたのかと寒気がした。ゼイツが以前ニーミナに潜入した時だって、おそらくそういった圧力はあったのだろう。それともあの頃は『実験』の方が優先されていたから、さほどではなかったのか?
「そうだったのか」
「ああ。そういう前例があったため、ウルナにも無理強いは危険だという流れがあったのだが……。しかしイルーオの件で大きく事情が変わった。時間が経ちすぎた。これ以上待つとウルナも子をなすことが難しくなるのではと危惧する者の声が大きくなった。万が一の事態も考えるべきだと」
 説明するラディアスの声音に苦々しいものが混じる。彼女の人生が他者により蹂躙されるかもしれないという思い故だろうか? ゼイツは歯噛みした。そうなることを、彼女は予期していたのだろうか? 前々からわかっていたのだろうか? 再会した時の彼女の笑顔が脳裏をよぎる。あの時は、こんな話が出ているなど全く予想もしなかった。
「――人間は、物じゃあないんだぞ」
「そうだ。しかし国の存続を重視するのがこの教会の人間だ。この国の立場が不安定であればあるほど、恐怖からその思いは増すばかりとなる」
「くそっ」
 ゼイツは舌打ちした。すると壁を凝視していたラディアスが、ゆっくり彼の方へと向き直った。ほぼ黒に近い焦茶色の双眸の奥に、何か得体の知れない光が見えたような気がして。ゼイツはわずかに顔を強ばらせ、固唾を呑んだ。辺りに満ちた緊迫感がさらに濃度を増す。ラディアスは神妙な口調でさらに続けた。
「だが、婚約とは言っても具体的な名前が挙がっているわけではない。そこまで強制するほどには至っていない。可能な限りウルナの意志が尊重されるからだ。しかし、それでも長くは待てないだろう。焦れた誰かがいずれは動き出す」
 ゼイツは首を縦に振った。何故だかラディアスに責められているような心地だった。射抜くようなラディアスの眼差しをかろうじて受け止めても、気持ちが落ち着かない。握り込んだ拳にじわりと汗が滲む。
「俺は、お前が相手でもかまわないと思っている」
 ついに、ラディアスは切り込んできた。ゼイツの喉をひゅっと乾いた空気のみが通り抜けた。揺さぶられた頭がまたもや機能を放棄しようとしている。まともに思考できない。ラディアスが何を考え何を思いこんなことを言っているのか、把握できなかった。
「もちろん、そうは思わない人間の方が多いだろう。なんといってもお前はジブルの使者だ。ジブルとのこれ以上ない繋がりを生むことになる。また新たな火種となるかもしれない。だから、俺は事実を伝えるだけにとどめる」
 苦しげに吐き出された言葉は、ゼイツの胸に染みた。そうだ、ラディアスとはこういう男だった。彼は今もただウルナの幸せのみを考えているのだろう。どうすれば彼女が一番幸福な人生を送ることができるのか、それだけを思っているのだ。それ以外の意図などない。そこにラディアス自身の思惑は含まれていない。
「そう、か」
「この件には、俺はもう関われない。ウルナの近くにいすぎた。血筋派の者たちは俺のことを見限っている。悪いな」
「いや、伝えてくれただけで十分だ」
 ゼイツは瞼を伏せた。波立った自らの心に何か問いかけてみても、答えは返ってこない。落ち着いて考えるための時間が必要だった。再会に喜んでいたつい先日のことが懐かしい。やはりどこまで進んでも波乱は待ち受けているのだと、まるで女神が告げているかのようだ。
「そう言ってもらえるとありがたいな。では俺はそろそろ行くぞ。カーパル様のところに向かわなくては」
「あ、ああ」
 戸惑うゼイツを横目に見てから、ラディアスは歩き出した。一瞬ため息が聞こえた気がした。すぐ横を通り過ぎて扉へと向かう姿を、ゼイツは黙って見送る。不思議とラディアスの背中は小さく見えた。一本に結われた髪が揺れる様も、どことなく力無い。
「心配事が消えることなど、ないのかもな」
 取っ手を掴むと同時に、ラディアスはぼやくように吐き出す。その呟きに、ゼイツは眼差しのみで同意を示した。乾いた靴音の響きさえ、妙に胸をざわつかせた。

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