ウィスタリア
番外編 それはきっと奥深くに
「迷った……かな?」
足を止めたゼイツは、耳の後ろを掻きながらやおら振り返った。先にあるはずの部屋さえ見えない、ひたすらに長い廊下の途中。通りかかる者はなく、彼の足音が止むと辺りは静寂に包まれる。
「またやっちゃったな」
苦笑混じりに嘆息して、ゼイツは周囲を見回した。この『教会』はとにかく場所がわかりにくい。先ほどから同じような扉が並んでいるばかりで、この中から目的の部屋を見つけ出すのは至難の業だろうと思えた。ここの人々はどうやって判別しているのか、何度聞きたくなったことか。
探索中に誰かに会ったら迷った振りをしようと思っていたのだが、その必要もなかったようだ。いや、どこを捜索したのかさえあやふやなのだから、そういう意味では問題か。胸中で自嘲気味に笑うと、ゼイツは軽く目を伏せた。
彼がここにいるのは秘密を探るためだ。このニーミナが本当に禁断の力へと手を出そうとしているのか、確かめるために潜り込んだ。それなのにこの体たらくぶりはどういうことだろう。何とか住み着くことには成功したものの、その次の手が打てない。
もちろん、この教会の造りがおかしいせいというのはある。細長い建物を無理やり回廊で繋げたようで、構造に一貫性がない。それなのに壁も扉も同じ材質で、これといった区別がつけられない。不親切にも程があった。
今はまだ「記憶喪失のかわいそうな人」で通っているから迷っていてもおかしくは思われないが、それもいつまで続くかわからない。怪しまれないうちに探索を終えなければ。
「それにしてもこの廊下は長すぎる」
長いのに人気がないとは不気味だ。ぼやきながらうなだれたゼイツは、襟足の髪を数本引き抜いていたことに気づき顔をしかめた。指に絡みついた金糸を放り投げると、それは不器用な軌跡を描き白い床へと落ちていく。
このまま進んでもわけがわからなくなるだけだろう。仕方なく彼は踵を返した。この先へと進んで調べたとしても、後々どこを調べたのか覚えていなければ、また繰り返すことになりかねない。それは実に無駄な労力だ。
急に寒気を覚えて、彼は羽織った上着のボタンを留めた。この国は彼のいたジブルよりもやや北に位置するせいか、やはり冷え込みやすい。冬は雪が積もると聞いたから、体調にも気をつけた方がいいだろう。傷はまだ癒えていないのだし、無理は禁物だ。
撃たれた左腕へと一瞥をくれるのと、背後から足音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。耳をそばだてなければ聞こえない程かすかだが、思わずゼイツは立ち止まる。
誰かがここに来る。奥からやってくる。迷ったのは事実なのだからそう伝えればいいのだが、それでも鼓動が速まった。自分の身なりが怪しくないか素早く確認し、彼は呼吸を整える。怪しまれる要素はないはずだ。
待つのはおかしいか。知らない振りして歩き続けるか。いや、どうせなら先に振り返っておこう。助けが来たことに安堵した振りでもしておこう。
意を決して彼が後ろを見やると、視界に映ったのは一人の女性だった。緩くうねる黒い髪を鎖骨辺りで束ね、肩から茶色い大判の布をかけた隻眼の女性。その姿はいつもよく見るものだった。ただし今日は大きな籠を抱えている。
「ウルナ……?」
彼女がこんなところにいるのは何故だろう? 唖然としながらその場で立ち尽くしていると、彼女も彼に気がついたようだった。怪訝そうに首を傾げた後、長いスカートを揺らして小走りで近づいてくる。彼女の左目を覆う黒い布を一瞥してから、彼はかろうじて笑みを浮かべた。
「ウルナ」
「ゼイツ、どうしてこんなところに?」
「ああ、いや、迷っちゃって」
「こんなところへ? この先にあるのは姫様の部屋よ。近寄っては駄目って言わなかったかしら」
ウルナは眉根を寄せながらゼイツの横に並んだ。ゼイツは小さく頷くと『姫様』という単語を胸中で繰り返す。
姫とはこのウィスタリア教において象徴的な存在となっている少女のことだ。まだゼイツは見かけたことがないが、ウルナはその姫のお付き人をしているらしい。「とても可愛らしい方ですよ」というのがウルナの説明だ。
「すまない」
「いえ、これから気をつけてくれればいいの。この教会はわかりにくいものね」
そう言ってウルナは大きな籠を抱え直した。白い布が掛けられていて中身は見えないが、かすかにいい匂いが漂ってきている。すると彼の視線に気がついたのか、彼女は布をほんの少しだけずらしてみせた。
「これは今朝焼いたパン。姫様はもういらないって言うからクロミオにもあげようかと思って。ゼイツも食べる?」
顔を上げて微笑んだウルナに、ゼイツは咄嗟に返事をし損ねた。教会への潜入に成功したものの、怪我を負い逃げ場を失った彼を助けてくれたのが、目の前の彼女だ。記憶喪失だという言葉をすんなりと受けとめ、ここで生活できるよう手配してくれたのもそうだ。
感謝はしているが話があまりにうまくいきすぎていて、密かに警戒はしている。しかしこんな風に親切にされると、申し訳ない気持ちにもなった。
「いや、俺はいいよ。クロミオに全部あげてくれ」
「またそうやって遠慮するのね。じゃあお茶でも飲みません? 昨日、クロミオが良い葉を見つけてきてくれたの。今日は冷えるし、お茶でもして暖まりましょう。慌ててもあなたの記憶は戻らないわ」
破顔したウルナは籠の中を確認すると、満足そうに白い布を掛け直した。そして彼の返事を待たずに歩き出す。その後を仕方なくゼイツはついていった。
彼女の誘いを振り切って捜索するのは無謀だろう。迷ってしまったのは事実だし、どうせならこの教会の構造についてももう少し聞いておいた方がいい。そう考えを切り替えて、彼は口を開いた。
「ありがとう」
「気にしないで。男性の話相手ができてクロミオも嬉しそうだもの」
「今、クロミオは?」
「庭で遊んでるはず。今日は天気がいいものね」
ウルナの弟であるクロミオは、まだ八つになったというところだ。遊びたい盛りなのだが、この教会に住む者は無断で外へ出ることを禁止されている。それでもこっそり抜け出しては何か持って帰ってくるクロミオを、ウルナは知らない顔をして見守っていた。
ゼイツも同じように見逃されているだけではないかという気になるのは、それを知ったからだろう。何も明らかではない以上、決めつけてうかつに動くわけにはいかないが。
「他に質問は? 何か聞きたそうな顔をしているけど」
「この教会は、何でこんな複雑な造りをしてるんだ?」
これ幸いにと、常々思っていたことをゼイツは口にした。ひたすら真っ直ぐ続く廊下の床はよく磨かれているが、それはここを通る人の少なさをも物語っている。それなのにこれだけの部屋があるのは不思議だった。
とにかくこの教会は、ニーミナはおかしい。この国を司っていると言っても過言ではないウィスタリア教についても、実のところ他国の者はよく知らなかった。もちろん彼も同じだ。
「それは無理やり大きくしてきたからよ。人が増える度に広げて、周りにある建物を没収して、繋げて、それで大きくしてきたから」
何のことはないと言いたげに、ウルナはよどみなく答える。彼女はこの教会で生まれ育ったわけではないが、ここに来てからそれなりに長いようだ。物心ついた時からここにいたクロミオは、外の世界はほとんど知らないという。
「帰るべき場所を持たない者たちが、ここにいるの。そういう人々は増えるばかりだから、ここはどんどん大きくなる。簡単な理屈でしょう?」
前を向いたままウルナは言葉を続けた。彼女の声音からは、何を思っているのかいつもわからない。それがゼイツにとっては不安だった。
抑揚がないわけではないのに、どこか心ここにあらずといった風に思える透明な声が、彼の奥深くにある疑念を刺激する。だがそれでも彼女を利用するしか今は手立てがない。これ以上失態をしないようにと気をつけるのがせいぜいか。ゼイツは相槌を打つと、壁や天井へと視線をやった。
「でも扉とかはどこも同じに見えるんだが……」
「中央の教会を真似て造った建物ばかりだったのよ。みんな少しでもウィスタリア様に近づきたくてそうしたのね。これはお母様から聞いた話だから、本当かどうかはわからないけど」
ウルナの説明に半ば納得しながらも、また違和感を覚えてゼイツは口をつぐんだ。ウィスタリアという女神を語る時の、この国の人々の思いが理解できない。何故救ってくれると信じているのだろう。どうしてそう盲目的になれるのか。
この世界は緩やかに死につつある。それは国を超えて誰もが実感している現実だと思ってきた。だが、どうもここはそうではないらしい。
「ねえゼイツ」
不意に、ウルナが立ち止まった。つられて足を止めたゼイツは、振り返った彼女を見て瞬きをする。右だけしか見えない彼女の黒い瞳が、ゆっくりと彼を捉えてほんの少し細められた。
「勝手に奥へ奥へと行かないでね。私が探しに行けないような場所には、迷い込まないでね」
「――ウルナ?」
「ウィスタリア様にね、殿方はあまり近寄ってはいけないの。魅入られて連れて行かれてしまうから」
「……は?」
思わず間抜けな声を漏らしてしまってから、失態だと気づきゼイツは固唾を呑んだ。『女神様』を馬鹿にするような者に、ここの人々は容赦しない。それこそ、いきなり追い出されることもあるかもしれない。しかしウルナは楽しげに笑っただけで、また前へと足を踏み出した。
「そういう風に言う人もいるの。ごめんなさい、深く気にしないで。ただここに慣れてない人が奥へ奥へ行くことをよしとしない人たちもいるから、気をつけて欲しいのは確かなのよ。だからお願いね」
籠を抱え直して彼女は進んでいく。もう一度首を縦に振ると、ゼイツも慌てて歩き出した。彼女の言葉が本当ならばその奥とやらに何かあるのだろう。調べるならそこだ。
「ああ、わかってる」
返事をする自分の声がむなしく響いていないことを願いながら、ゼイツは彼女の横にまた並んだ。二人の乾いた足音が長い廊下で反響し、寂しげな旋律でも奏でているかのようだった。