white minds 第二部 ―疑念機密―
第六章「疑惑と覚悟が交わりて」9
「これで全員運び終えたのか」
石畳に残る血の跡を見下ろしつつ、滝は首の後ろを掻いた。怪我人を長のところへ安全に運ぶというだけでも一苦労だった。混乱した人々が既に駆け込んでいたからなおさらだ。
詰め寄ってくる人々をかき分けて長に事情を説明し、まず療養室に運ばせてもらう。それだけのことにずいぶんと時間を要してしまった。建物を出た途端どっと疲れを覚える。人の目があるから気が張っていただけなのだろう。
「ええ、こっちは終了ね。あとはよつきたちが基地に運んでくれているはずだし」
そこへ靴音を響かせながらレンカの声が近づいてくる。肩越しに振り返った滝は、静かに首を縦に振った。
怪我人をどうするべきか、即座に指示を出してくれたのはレンカだった。一般人に重傷者がいないことを確認してくれたのも彼女だ。――おそらく、神技隊の面々が庇ったからだろう。それは怪我をした仲間の数が物語っている。
「そうなると残るは」
「梅花たちの方ね」
青い霧のせいで全く様子のわからなくなった梅花たちのことが、気にならないわけではなかった。しかし目の前の怪我人をどうにかするのも必要だった。
レーナの気が現れたので大丈夫だと決めつけていたのだが、どうも事態はそう簡単なものではなかったらしい。それは突然五腹心の気が現れたことや、シリウスが駆けつけたことからも推測できる。
一体何が起こっているのか? 確認のためシンたちに向かってもらったのだが、まだ戻ってきていない。現時点では戦闘の気配がないことから、少なくとも差し迫った危機は脱したことはわかるが。しかし懸念は色濃く滝の胸に落ちたままだった。
「ここにいたのか」
途端、背後で声がした。はっとして振り返った滝の視界に、虚空から現れた青年の姿が映る。青い髪がたおやかに揺れた。
「シリウスさん!」
何度見てもこの転移という技だけは違和感がある。便利だとは思うが、一体どういう理屈の技なのか、皆目見当もつかなかった。しかし今はそんなことよりも状況確認だ。
「何かあったんですか?」
「ミスカーテが滅んだ。五腹心のレシガが何故か様子見に来ていたようだが、すぐに撤退した。それはいいんだが」
「え、……ええ!? ミスカーテが!?」
こともなげに告げられた事実に、滝は耳を疑った。あのミスカーテが滅んだ? 死んだということか? 信じがたいが、シリウスが来てくれたのならばそういったこともあり得るのか。ミスカーテは前回の戦闘で負傷していたはずだ。
「だがあいつがレーナと心中しようとしたせいで、大変なことになっている」
しかし、話はそこでは終わらなかった。思い切り顔をしかめたシリウスは、吐き捨てるように付言した。
一瞬、滝の思考は止まった。心中。その単語が脳裏を巡るばかりで、理解に至らなかった。あいつというのはミスカーテか。ミスカーテがレーナと心中しようとした?
「え、それって相打ちを狙ったってことですか!?」
寸刻の間をおいてから、レンカが驚嘆の声を上げる。シリウスへと詰め寄るその横顔には、切羽詰まった色があった。レンカのそのような様子は初めて見る。
滝は固唾を呑んだ。頭の奥でどくどくと心臓が脈打っているかのようだ。思考がうまく回らない。
「ああ。相打ち覚悟で仕掛けてきた、というのが正解だろう。あいつもかろうじて生きてはいるが、いつ死んでも不思議ではない。いや、普通は暴発か何かしているところだが」
シリウスの説明も、滝には半分程度しか飲み込めなかった。どうにかこうにかわかるのは、レーナが死にかけているらしいという事実のみだ。頭では理解できても、全く実感の湧かない話だった。
「それで、レーナの気が不安定なんですか?」
また一歩、レンカはシリウスへと詰め寄る。彼女にはそんなことまで感じ取れるのか。
シリウスは押し黙り、ついで渋々といった調子で首を縦に振った。苦々しさを隠しきれない彼の気が、事態の深刻さを物語っている。
「あいつは戻ると言ったが、それがいつのことかはわからない。とにかくお前たちはできる限り速やかにあの基地に戻れ。私はアルティードに報告しに行かなければならない」
絞り出すようなシリウスの声に、滝はかろうじて頷いた。聞きたいことは山ほどあるが、それは後の方がよいだろう。それに、今の神技隊にできることは限られている。魔族が去ったのであれば、後始末は宮殿側に任せるより他なかった。
そこまで考えたところで滝ははたと気づく。
「梅花は、大丈夫なんですか?」
ミスカーテが何かを仕掛けたのなら、その場に梅花がいたはずだ。具体的な状況はわからないが、梅花が平気なわけがない。
宮殿との連携が必要となる時、彼女を欠くのは避けたい状況と言えよう。特に今回、イダーの長へと話をつけてくれたのは梅花だ。
「あいつのオリジナルなら倒れたので、先に基地へ戻ってもらっている」
シリウスはわずかに視線を逸らした。困惑気味に返ってきた言葉は、最悪に近い部類のものだった。思わず滝の喉は鳴る。救いを求めるよう一瞥したレンカの横顔も強ばっていた。一体全体何がどうしてこうなったのか。
「いいからとにかくお前たちは戻れ。魔族がこんな往来で暴れたとなると、後処理が厄介だ。先ほどシンから話を聞いたところでは、人間たちに魔族が紛れていた可能性さえある。これはお前たちの手に負える問題ではない。だから、私はアルティードたちに即座の判断を求めるつもりだ」
こちらへ視線を戻したシリウスは、かすかに眉根を寄せた。次々と繰り出される残酷な現実に、ただただ滝は相槌を打つしかない。
どうやらシリウスはシンたちから話を聞いて駆けつけてきてくれたらしい。シリウスにまで自分が司令塔だと認識されているという事実には、今さら何も言えない。
「わかりました。まずはこちらも怪我人の治療がありますし」
様々な思いを吐き出す前に、滝は事実を口にした。
自分たちが何のために基地にいるのか思い出さなければならない。抱えきれないものまで背負おうとして、潰れていては意味がなかった。今まで何度もそう思い知ったはずなのに、また背負い込もうとしていた自分に気づかされる。
レーナが危機的状況にあり、梅花が倒れたのだとしたら、ますます滝がしっかりしなければ。シリウスに期待ばかりもしていられなかった。
人々への説明や対応は、本来は宮殿の役割だ。万が一魔族が暴れた時に対処できるよう備えるのが、今の滝たちにできることだ。
「ああ、ミケルダたちも動いているはずだ。基地で連絡を待て」
そう付け加えたシリウスの姿は、また忽然と消えた。何の予備動作もなかった。瞬きをした滝は深く息を吸い込む。落ち着いて、やるべきことを、ただ淡々と。動じている場合ではない。冷静でいなければと、滝はぐっと唇を噛んだ。
「滝……」
それに、今は一人ではない。不安そうに呼びかけてくるレンカに相槌を打ち、滝はとんと軽く自らの胸を叩いた。このまま仲間たちを冷たい風の中に置き去りにするわけにはいかない。すぐに動きべきだ。
「レンカは長のところにいる仲間たちに、基地に戻るよう伝えてくれ。オレは残っている神技隊がいないかどうか確認しながら、シンたちの方に向かう」
そう伝えながら空を見上げれば、分厚い雲が流れ込んできているのが目に入った。基地の方はもしかしたら雪が降っているかもしれない。
「ええ、わかったわ。滝も早く戻って。皆あなたの声を待っているだろうから」
気遣わしげなレンカの言葉が、重く静かに滝の鼓膜を震わせた。誰か一人でも欠けることがないように。そんなただ単純な祈りでさえ、この場では口にするのも憚られた。
「おかえり、レシガ」
灰色の塔で待ち構えていたイーストは、振り返るなり笑顔で口を開いた。
赤い髪を揺らしながら近づいてきたレシガの気には、あからさまに疲労が滲み出ている。それがどういう理由であるか聞くまでもなくわかるからこそ、あえてイーストは尋ねなかった。
「大変だったわ。またあの直属殺しが現れたし」
大きな布を肩にかけ直し、彼女はぼやく。しかしそれ以上の文句が出ないのは、彼女自身が選んだ出撃だからだろう。首を縦に振りつつ、イーストは瞳をすがめる。
ほぼ同時に、部屋の入り口に別の気配が現れた。これはフェウスだ。今回は完全に見守り役に徹していた彼は、徒労感を隠さずにただただ苦い顔をしていた。
「そうか。君がいたから直属殺しも警戒したんだろうね」
「まあ、そうかもね」
率直なイーストの言葉に、レシガは反論しなかった。普段、レシガは自ら動かない。そんな彼女が単独で地球に降り立つというのは、それだけで十分にあちらを揺さぶる効果がある。
結果はこの通りだ。こちらは予想通りにミスカーテを失い、代わりに危険な申し子の動きを封じた。
「ミスカーテは満足そうだったかい?」
だからこれ以上の深入りは必要ない。それでも、確かめたいことはあった。イーストが問いかければ、彼女はうろんげな眼差しを向けてくる。部下であれば身の縮まるような思いとなる、鋭い金の双眸だ。
「満足そうだったのが本当に腹立たしいわね」
「プレインの部下だ。仕方がないさ」
「自己犠牲も甚だしい」
「それでも後悔するよりはいいよ。彼は誇りをもったまま滅した。幸せなことだ」
不満げな文句に、イーストは淡々と返す。魔族のために最優先すべきことがあれば、自らの命の問題など些末なこと。それがプレイン派の基本的な考えだ。ここに共感できない者は、プレインにはついていけない。
「ただまあ、本当に成功したかどうかはわからないけれどね。あのお嬢さん、あんなことされたのに、意識を保っていたから」
一瞬唇を尖らせたレシガは、ふっと肩の力を抜いた。イーストは思わず眼を見開く。
それはさすがに想定外だ。健常な者に核の情報を注いだ例などほとんどないに等しいが、数少ないそれらの全てが精神の暴発を招いていた。それを防ぐために、ミスカーテは道具を用意していたわけだが。
「もしやミスカーテの道具が効き過ぎたのかい? それとも、二人の気がよほど相性がよかったのか……」
「さあ、どうでしょうね。何にせよ、あのお嬢さんが戻ってくる可能性があるということよ。それに――」
そこでレシガは言葉を途切れさせた。考え込むよう天井を見上げた金の双眸に、一体何が映っているのか。イーストは首を捻る。
「レシガ?」
「あのお嬢さんのオリジナル、私の存在に気がついていたわ」
ぽつりと、独りごちるがごとく漏れたのは、耳を疑う事実だった。レシガが気を隠して移動するのに、感づく者などほとんどいない。それこそ五腹心や直属級の者でなければ無理だ。ただの人間が気づけるはずがない。
「レシガ様、あれは偶然かと」
それまで黙していたフェウスが、慌てたように口を挟む。低く抑えた声が、重たげな空気を揺らした。買いかぶりだと言わんばかりだった。それでもレシガは首を振る。ふわりと揺れた深い赤の髪が、イーストの視界で踊った。
「偶然で片付けて、また繰り返しては意味がないでしょう? あの気、あの技の練度、放っておいてよいものではないわ。中途半端な手出しはあの子の力を育ててしまう」
淡々とレシガはそう断言した。フェウスは怪訝そうに眉根を寄せていたが、こういう時の彼女の予測は軽視できない。半ばは勘。しかし様々な情報を一気に読み取った結果だ。だからイーストはいつも彼女の言葉を無視しなかった。